「動物になること」の意味
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の第五章にある、
ハイデッガーの退屈の第二形式をふまえたうえで、
第七章にもどって(進んで)みる。

第二形式は、
「暇ではないが、退屈している」状態だった。
そこには投げやりな態度があるけれども、
第一形式=第三形式
(深い退屈の声を聞かないですむよう、
何かの奴隷になること)に比べると、
余裕があり、自分に向き合う態度があり、
安定と均整がある。

人間であるということは、
概ね第二形式の退屈を生きること、
そしてときたま、第三形式=第一形式に
逃げてまたもどってくることだった。

したがって、人間であることはつらい。
人間であるとは
退屈と向き合って生きることを意味するから。

とはいえ、人類は退屈と向き合って
生きていくための手段を
さまざまに開発してきた。
それをもっと発展させることができるし、
もっと享受することができる。

だが、人間に残された可能性は、
それだけではない。
人間には更にもう一つの可能性がある。
それは、つらい人間性から
“はずれてしまう”可能性。

人間らしい生というのは、
気晴らしと退屈の絡み合ったものだった。
退屈さもあるが、楽しさもそれなりにある。

それが、何かの衝撃によって崩れることがある。

世界をゆるがすニュース、
身近な出来事、芸術作品、新しい考え。
これまで慣れ親しんだ世界に
「不法侵入」()してくるものがあったとき、
人はその対象によって<とりさらわれ>、
その対象について思考することしかできなくなる。

この<とりさらわれ>というのは、
第五章のハイデッガーの議論と、
第六章のユクスキュルの「環世界」についての
考察を経て出てくる言葉なのだが、
ひとまず、「1つの世界にひたることができる」
というようなニュアンスでとらえることにする。
あるいは、ある衝動に駆り立てられている状態。

ちなみに「環世界」という言葉は、
「環境」と「世界」をあわせたような言葉に見えるが、
実は、「環世界」を「環境」と言い換えることも、
「世界」と言い換えることもNGになる。
これらの言葉はむしろ、
環世界という概念を浮かび上がらせるときに
対峙させられるものなので。

一般的に「環境」「世界」という言葉は、
とても大きくて全体的なものを示しており、
そこにあるすべてを包括するようなイメージがあるが、
ユクスキュルがいうところの「環世界」とは、
もっと限定されたもの、
「限られたシグナルでできている世界」のこと。

その動物が生きていくのに必要な
固有のシグナルだけでできている世界。

たとえばダニは、
「酢酸のにおい」「摂氏37度の温度」
「体毛の少ない皮膚組織」
という3つのシグナルを、
順序通りに続けて受け取ることで
吸血行動を行う。

このシグナル以外の情報は受け取らない。
ダニは、上記3つのシグナルでできた世界を
生きている。

(結局、第六章も読んでることになります)

ハイデッガーはユクキュルが、
環世界論を人間にもあてはめることを批判した。

動物に対しては正しいが、
人間にその概念を適用するのは間違っている、と。

ハイデッガーは、1つの環世界で生きる、
すなわち<とらわれ>の状態で生きているのは
動物だけだと考えた。

しかし、國分さんはこの論に異を唱える。

動物も、環世界を移動することができるし、
人間も環世界を生きている。

ただし、環世界間の移動能力の差が、
圧倒的に違う。
人間は、環世界を
かなり自由に移動することができる。
ということは、
人間は相当に不安定な環世界しか持ち得ない
ということも意味する。

おそらくここに、
人間が極度に退屈になやまされる理由がある、と。

人間はひとつの環世界に
“ひたっている”ことができない。

このように考えていくと、
衝動によって<とりさらわれ>て、
ひとつの環世界にひたっている状態を
<動物になること>と称することができる。

したがって人間は、
環世界に「不法侵入」してきたものがあり、
それに<とりさらわれ>、
その対象について思考することしかできなくなったとき
動物になっている。

退屈することを強く運命づけられた人間的な生から
逃れる可能性、それが<動物になること>なのだ、
と話は展開されていく。

(つづく)
 2012.11.01 Thursday 09:33 『暇と退屈の倫理学』 permalink  
人間は、考えたいのか、考えたくないのか、考えてしまうのか (2)

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の第七章の後半、
「習慣」と「考えること」について読んでいるところ。

前回、「人間は考えてばかりでは生きていけない」
ということについてみてきたが、
ここでジル・ドゥルーズが登場する。

ドゥルーズは、
人間がものを考えるのは、
仕方なく、強制されてのことだ、
というようなことを言っているらしい。

つまり、「考えよう!」という気持ちが
高まってものを考えるのではなくて、
むりろ何か“ショックを受けて”考える、と。

ドゥルーズはこのショックのことを、
「不法侵入」とも呼んでいるらしい。

考えなくてすむ生活をしていたところに、
何か新しい要素が加わり、
それまでの習慣が大なり小なり壊され、
私たちはまた考えて対応しなければならなくなる。

実は、この「不法侵入」してくるものは、
身のまわりにあふれている、否、
あらゆるものが「不法侵入」してくる可能性がある。
私たちの周囲では
夥しい量の情報が飛び交っている。

だけど私たちは、
その「不法侵入」に対する盾をもっている。
そうやって思考のきっかけから守られなければ、
生きていけないから。

ここでちょっとだけ小池龍之介を意識しておくと、
小池龍之介が『考えない練習』で言っていることは、
身のまわりにあふれている情報のうち、
「不法侵入」のレベルに達しないものに対して、
こちらから感覚を開き、
受け取ろう、ということだと思う。

盾を壊そうとするものを受け取らされるのではなく、
盾を壊さないものをこちらから受け取りにいく。

ただし、受け取ったものを「考える」ことにつなげない。
より正確にいえば、自我にフィードバックしない、
ということになろうかと思う。

だから、小池氏いうところの「考えない」生活は、
けっこう忙しい。
何しろ身のまわりにあふれている情報を、
キャッチし続けることになるので。
だから、考えているヒマがなくなるともいえる。

『暇と退屈の倫理学』にもどると、
そんなふうに人間は習慣を作り出し、
守られつつ生きているわけだけれども、
しかし習慣を作り出すと、
今度は退屈してしまうのだ。
そして、その退屈を何となくごまかせるような
気晴らしを行う。

人間ってやつはつくづく厄介です・・・

・・・と、
ここまでハイデッガーとユクスキュルの
議論について何も書かないまま
「人間」という言葉を使ってきたが、
実は、『暇と退屈の倫理学』の結論は、
「人は<人間であること>を楽しむことで
<動物になること>を待ち構えることが
できるようになる」ということだったりする。

このことについて、もう少し考えていく。

(つづく)

 2012.10.30 Tuesday 10:25 『暇と退屈の倫理学』 permalink  
人間は、考えたいのか、考えたくないのか、考えてしまうのか (1)
このブログのタイトルの下には、
「考えながらシンプルライフ」という言葉を入れている。

また、カテゴリーの欄にも、
「・・・について考える」という言葉がたくさんある。

そんなこんなで、私は基本的に考えることが好きだ。
何しろ考えることはタダだ。v(^^)

そして、考えるためにブログを書いている。

私の場合、考えるためには
他者が必要であるらしい。

より正確にいえば、
「読んでくれる他者がいる可能性」が
有効であるらしい。>

だからかどうかはわからないけれど、
私は有閑階級でもなんでもないのに、
暇があっても退屈するということがほとんどない。

なお、姉も同じことを言っていた。
姉は私とは違って、
仕事で忙しいときには本当に忙しいので、
だからこそそうなるかもしれないが、
だとしても、姉妹で何か共通しているものが
あるのかもしれない。

不思議だ。
うちは有閑階級でもなんでもないのに。(

実際、「品位あふれる」暇な時間を
すごしているわけではない。
ぼーっとしたり、だらだらしたり、
それこそ考えごとをしているだけなのだけれど。

そうして、本を読んだり、ブログを書いたり、
植木屋さんの縁側タイムを楽しんでいるときが、
至福のとき。

そんな私だから、
小池龍之介の『考えない練習』という書名に、
ピピッと反応してしまったわけだが()、
読んでみたら、なるほどそういうことか、
と納得した。

小池龍之介はひとまずおいといて、
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の
第七章の先を読んでいくと、
「習慣」について論じたあと、
「考えること」について論じてある。

 ユクスキュルの「環世界」について
 何も書かないまま話を進めてしまうが、
 ひとまず「新しい環世界への移行」を、
 「新しい環境への移行」
 という言葉でかえさせてもらうことにする。

新しい環境というのは、疲れる。
変化というものは基本的にストレスフルだ。
入学、入社、引越し。
本には書かれていないが、結婚や出産もそうだろう。

そうやって新しい環境に入るたびに、
私たちは「習慣」の更新を余儀なくさせられる。

習慣を獲得することで、
周囲の環境を一定のシグナルの体系に変換し、
“新しさ”にいちいち反応せずにすむようになる。

新しい環境は、人に考えることを強いる。
そのような、考えて対応するという
繁雑な過程から解放されるために、
人は習慣を創造していく。

世間では(特に教育現場では)、
考えるということの重要性が強調されるが、
人間は、ものを考えないですむ生活を目指して
生きているのだ。

考えてばかりでは生きていけないから。

人間が生きていくなかで
ものを考えなくなっていくのは必然なのだ。
と、『暇と退屈の倫理学』第七章には書いてある。

話はまだ続く。

(つづく)
 2012.10.29 Monday 15:26 『暇と退屈の倫理学』 permalink  
「暇と退屈」の先駆者へのダメ出し(7)/コジェーヴ
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』において、
著者が先駆者にどんなダメ出しをしているのかを
みてきた。いよいよ結論に向けて、第七章。

なお、ハイデッガーについても
批判的検討がなされているのだが、
これは“ダメ出し”よばわりできるレベルではないので、
逆に割愛することにする。

ちなみに第七章も、
その話(ハイデッガーの批判的検討)から始まる。

ハイデッガーの考えには(にも)問題と欠落があり、
それはハイデッガーの人間観に由来するものだった。

彼は、人間は動物とは違うと考えていた。
(ここにユクスキュルの環世界が関わってくる)

そのような人間と動物の区別の問題を
ハイデッガーとはまったく別の視点から考えるために、
アレクサンドル・コジェ−ヴの
「歴史の終わり」という議論がとりあげられる。

コジェーヴにいたっては、ダメ出しというより、
ほとんど糾弾されてる。
結論をコロコロ変えるところが信用できないし、
その議論はすべて壮大な勘違いである、と。

國分さんはわざわざコジェーヴに語りかけ、
「お前は自分がテロリストに憧れる人々の欲望を
煽っていることがわかっているのか? お前の壮大
な勘違いはけっして無垢ではあり得ないのだ。」
とまで言っている。

というわけで、コジェーヴが何を言ったのかを、
ざっとみていくことにする



コジェーヴは、基本的に、
「人類は弁証法的過程を経て、
歴史の目的を達成していく」という
ヘーゲルの考えに同意していた。

したがって、いつか歴史はおわり、
進歩を目指す「本来の人間」は終わる、
と考えていた。

実際、彼は「歴史の終わり」を目撃する。
アメリカ合衆国を旅行したときに。

アメリカ合衆国は「階級なき社会」を実現し、
アメリカ人は我慢することなく生活している。
大量生産・大量消費社会のなかで
望むものがすべて与えられており、
必要以上に与えられており、
したがって幸福を探求する必要がなく、
ただ満足を持続している。

これが、人間の終わりである。
そこには「本来の人間」はいない。
いるのは、動物。

人類はみなアメリカ人になる。動物になる。

これが1958年時点での
コジェーヴの考えだったらしい。

しかし彼は、この見解を撤回することになる。
1959年の日本訪問をきっかけにして。

コジェーヴは、日本人こそ、
歴史以後の人間の姿だと考えるようになる。

鎖国期の約300年、完全な平和のなか、
日本は歴史の終わりを体験した。

そして、歴史の終わりを体験した日本人は
少しも動物的ではなかった。
日本人はスノッブだった。
形式化された価値だけを絶対視する立場が
洗練された形でそこにあった。

ご多分にもれず、
能楽、茶道、華道が例に出される。
そしてハラキリ、「特攻」。

アメリカ人はまだ
「歴史の終わり」の初期を生きているにすぎない。
たとえ歴史が終わっても、人間は消滅しない。
人間はみな日本人になって生き延びる。

コジェーヴは、そう考えるようになった。



果たしてコジェーヴのこの議論を
取り上げる意味があったのだろうか?
という疑問がわかないでもないが、
いまだもってこの議論には影響があるようだし、
『暇と退屈の倫理学』としては
この人の糾弾なしでは
終われなかったのかもしれない。

また、コジェーヴの“勘違い”の意味は、
ハイデッガーの退屈の分析で説明がつくので、
そのためのひとつの例にもなる。

そしてそこにはやっぱり
「本来の人間」というものが出てきている。

なお、國分さんのコジェーヴへの糾弾は、
巻末註でも繰り返される。

コジェーヴのような哲学者は、
自分のような者が人間であり、
その他大衆は動物であると思っている。
彼らは見下したいのだ。
だから、自分が見下せるような
状況分析を行って、見下し、
そのうえでその「状況」をなげいてみせる。
このような分析に見出せるのは、
単なる自己肯定の欲望にすぎない、と。

というわけで、結局ここでも
「欲望」が出てくるわけなのだった。

(つづく)
 2012.10.27 Saturday 09:29 『暇と退屈の倫理学』 permalink  
ハイデッガーとアレント、そして國分功一郎
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』において、
著者が先駆者にどんなダメ出しをしているのかを
前から順に第四章まで読んできた。

続く第五章では、退屈論の最高峰、
マルティン・ハイデッガー『形而上学の根本諸概念』
に取り組むことになり、
これを批判的に検討するため、
第六章でユクスキュルの「環世界」という概念を
みていくことになる。

というわけで、
ハイデッガーの退屈論も
“批判的に”検討されてはいるのだけれど、
さすがにこれを「ダメ出し」と呼ぶわけにはいかない。

いきなり余談になるが、少し前に
松岡正剛の千夜千冊・第九百十六夜
マルティン・ハイデガー『存在と時間』(全3冊)
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/
senya0916.html

を読んだばかりだったので、
前章の最後できっちりダメ出しされている
ハンナ・アレントに対しては、
「ハイデッガーの愛人だったこともある、
絶世の美女」
というイメージを払拭できないでいた。

並行して読んでいる別の本
(エスポジト『近代政治の脱構築』)
にもアレントが出てくるのだけれど、
そのたびにハイデッガーの影がちらついて、
そういう先入観ってどうよ、と
自分で思っていた。

だけど、千夜千冊では、そのことを含めて、
『存在と時間』について論じてある。
(ただし、ハイデッガー側からの話)

たとえば、『暇と退屈の倫理学』のp.201において、
ハイデッガーは「気分」というものを
徹底して重視した哲学者だったことと、
『存在と時間』では「不安」という気分が
分析されていたことの説明のあと、
その2年後に行われた
『形而上学の根本的概念』の講義では
もはやそのような「死に対する不安」は語られない、
何か考えを変えたのだろうか?、
と國分さんは書いているが、
松岡正剛さんは、ハイデッガーが
「存在と死」から、「存在と生」という方向へ進んだ時期に
ハンナ・アレントがかかわった、
という見方をしている。

つまり、『存在と時間』は
アレントと深い関係がある、と。
「互いに濡れながら、互いに哲学したといってよい」
とまで。

『形而上学の根本的概念』は、
その次の段階なのだろうと思う。



さて、アレントの話はこれくらいにして、
次は國分功一郎さんとハイデッガー。

國分功一郎とハイデッガーといえば、
紀伊國屋書店「じんぶんや」第六十八講の
選者エッセイを思い出す↓
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/
bookfair/prpjn68.html

冒頭でハイデッガーが出てきていて、
「感動」の話が書いてある。

『暇と退屈の倫理学』の第五章の冒頭でも、
やはりハイデッガーの哲学と感動の話になっていて、
なぜハイデッガーは
ノヴァーリスの哲学の定義を引用し、
議論の出発点に選んだかというと、
ハイデッガーがノヴァーリスに感動したからだ、
という導入になっている。

なお、このようなハイデッガーの選択は、
恣意的だということは指摘してある。
自分に都合のよい定義だけを
議論の出発点に置いているわけなので。

しかし、そうやって議論の仕方を斥けるのではなくて、
もう少し近寄って見てみよう、というわけで、
先の「感動」の話になるのだ。

國分さん、ハイデッガーに対しては
好意的だなぁ(笑)と思った私。

なお、きのう
「ダメ出しされる分析」の傾向として、
「状況や文献を読み解くときに
自分の欲望を投影している」
ことについて書いたけれど、
この点については、
最後に出てくるドゥルーズの話を含め、
あらためて考えてみたいと思う。

(つづく)
 2012.10.25 Thursday 09:32 『暇と退屈の倫理学』 permalink