ライフログノートは1年半経過
2016年4月に、「1冊にまとめるノート術」を始めた。

これは何かというと、奥野宣之さん提案のノート術。
情報編、読書編もあるが、
ここでリンクするとしたら人生編になるだろうか↓
人生は1冊のノートにまとめなさい―体験を自分化する「100円ノート」ライフログ

一言でいえば日々の行動記録ノートなのだが、
日記のように、あとでふりかえって
文章として書き綴るのではなく、
いまやったことを空き時間に
ちょこちょこメモしていくもの。

書くだけではなく、
いろいろ貼っちゃってもいい。

そのためのコツと、
書いたものの活かし方などが
上記の本に書いてある。

とはいえ、私の場合、1年半の間にすっかり我流になって、
もう細かくは書いていないし、索引化もしていないし、
書いたものをほとんど活用できていないので、
奥野さん提案のノート術からは遠くはなれてしまった。

しかし、記していくことそのものに安心感があり、
いまとなっては書かずにはいられない状態。

私にとってこのノートの利点は
なんでも書いていいところにある。
自分を丸ごと受け入れてくれる存在。

たとえば、50代のダイエットを一石三鳥でやるで書いた
体重や摂取カロリーと消費カロリーも、
このノートに書いている。
家計簿もこれ。

懸念はノートの置き場所。
無印良品のA5・100枚・ベージュを
ずっと使っていて、現在12冊め。
過去に3年日記などを書いていたことを思うと
増殖の仕方がはんぱじゃない。

もしずっと続いたらどうなるんだろう・・・

まあでも、続けたいうちは続けてみようと思う。

始めたころの記事をnoteに書いています
ノート術お試し中

 2017.09.10 Sunday 09:58 ノート術 permalink  
「願いごと手帖」、10年めに突入
2008年の9月に始めた「願いごと手帖」が、
9年の月日を経て、ついに10年めに入った。
>カテゴリー:願いごと手帖
最初の記事はこちら→『「願いごと手帖」のつくり方』

同じノートをずっと使っていて、
これまでの願いごとは全部で595個。

願いの数自体は通し番号でわかるのだが、
かなった願いの数を数えたい気持ちがもはやない。
数の問題ではないといまは思う。

何度も書いていることだけれど、
もうほとんど「思い出手帖」。

たまに見返すと、
そのとき自分が何を望んでいたのか、
何が負担だったのかよくわかる。

日記とは別の濃さで
「そのとき」が刻まれているように思う。

そしてこのたび、新しいペンの○が加わった。
それはつまり新しい意味の○ということになる。

これまでは基本的に、
かなった願いに赤系の○、
かなってはいないが少し変化があったものに
青系の○をつけていたのだが
それに太緑の○が加わった。

何かというと、願いそのものは消えていないが、
それを願いごと手帖に書きたいという気持ちが解消したもの。

なお、かなわなかったものや
望みが消えたものは線で消しているのだが、
太緑の場合、私が知らないところで
かなっているとうれしいけれど
それを確かめられなくてもよしとする、
という意味での解消。

書き方がまずかったことに気づいたものなども。

なんのことはない、そのほとんど…というか、
もしかしたらすべてが
強迫神経症的気質の自分の「不安」からくるものだと、
あらためてわかった。

過去には細い緑のペンを別の用途で使っていたこともあり
もはや色がいりみだれて
全体的にはよくわからないことになっているのだが
そういうことも含めて過去の記録になっているように思う。

それはそうとしても、やっぱりこれは、
過去の「思い出」ではなく
未来へ向けた「願いごと手帖」として
続けていきたいなぁとあらためて思う。

 2017.09.08 Friday 09:46 願いごと手帖 permalink  
50代のダイエットを一石三鳥でやる

この夏、これまで見たことのない数値が
体重計に認められる日が続いた。
そしてそれは確実にのびている予感があった。

まずい。

運動不足は認めるものの、
特に食べ過ぎている自覚はない。

で、あれこれ調べたり考えたりした結果、
いちばんの原因は加齢だろうという結論にいたる。
これはなんとかしたほうがいいかもしれない。

過去に何度かダイエットに挑戦したことはあり、
体重を落とすという意味で成功したことはあるのだが、
それらの方法はいまの年齢には適していない気がした。

その結果、とてもオーソドックスなやり方で、
ダイエットを始めることになった。

まず、すぐにはかれる場所に体重計を置き、
朝起きてすぐとお風呂上がりのほか、
思いついたときに体重をはかるようにした。
(洋服がどのくらいの重さになるかは最初にはかっておく)

あとはとても単純な話で、
摂取カロリーと消費カロリーを記録している。
あくまでもざっくりと。
いままでこういうことをやったことがないのだが
けっこう性に合っているらしい。

商品に示してあるカロリーのほか、
料理したものについては、
ネットで調べてだいたいの見当をつけている。

夕食を7割程度にしておくと、
3食はそれぞれ350〜450kcalになることがわかった。

最初は夜に多少の空腹感があったが、
いまではちょうどいい。
これまでが多かったんだろうと思う。

ちなみに、私の基礎代謝量は1200kcalくらいらしい。
ということは、いまの感じで1日3食少なめに食べていれば、
生命は維持できることになる。

しかしもちろん、それだけでは終わっていない。
お菓子やら飲み物やらをけっこう体に入れている。

たとえば、私のいちばんのおやつはミックスナッツで、
一見、健康によさそうだが、1小袋で54kcalなので、
大袋を2日で消費すると、1日に432kcalとることになる。
食事1食分。

それ以外にも、砂糖入りのカフェオレを飲んだり、
チョコレートやらアイスクリームやらを食べたりすると、
どんどんカロリーは増えていき、
結局、1日5食分くらい食べていることになってしまう。

もちろん、必要なカロリーのほうも、
1200kcalですむわけではないのだが、
1日の運動量が少ない私の場合、
1900kcalカロリーもあれば足りそう。

オーバーした分で太ってしまうんだな、きっと。

そうなると、次はどう消費するか、だ。

これについては、『最後のダイエット』で知った
「メッツ」という単位を手がかりにしている。

  本の感想をnoteで書いています↓
  石川善樹『最後のダイエット』を、まずは読む。

「メッツ」というのは、運動の消費カロリーを算出させる単位。
厚生労働省のサイトより↓
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/11/s1109-5g.html

これに時間と体重をかけると消費カロリーが出る↓
http://club.panasonic.jp/diet/exercise/mets/about_mets.html

『最後のダイエット』では、
「掃除機をかける」や「調理や食事の準備」など、
日常的な家事についてもメッツが示してあるのだが、
細かくやるとたいへんなので、
きわめてざっくりと使っている。

たとえば、基本の家事は2.5メッツで扱うことにして、
多少、体力を使うような掃除系は3メッツにしている。

時間は、1/2時間、1/3時間、1時間という感じ。

体重を60kgとすると、基本の家事1時間で
2.5×60×1=150(kcal)消費することになる。
(本来はこれに1.05をかけるらしい)

たった150kcalではあるけれど、
「カフェオレ+ミックスナッツ1つ」とか
「アイスバー1本」くらいのおやつを
ちゃらにしてくれるのだ。

しかも、家事も進む。
いままでもやっていたことではあるが、
消費カロリーを意識すると、ちょっとやる気がふえる。

買物に行って夕食をつくれば−150kcal、
気になるところの掃除は3メッツの30分で−90kcal
という具合に。

すべてにおいて数字がテキトーなので、
積み重ねればけっこうな誤差になってしまうだろうけれど、
とりあえずいまのところその記録が苦痛ではない。

過去には、高いお金を払って
ダイエット食品を買ったこともあったけれど、
もう、そんなことはしない。

かけるのは時間だけ。

お金をかけない(ある意味ほんの少し減る?)
家事の苦痛が減る、
生活習慣の見直しができる。

そんな一石三鳥の50代ダイエットを
ゆるゆると続けている。

さて、結果はいかに。

 2017.09.06 Wednesday 09:12 健康 permalink  
「こんまり流」片づけ、本の段階でさっそく行き詰まったけれど、やろうとしてみてよかった話
近藤麻理恵さんの本を買ったのはだいぶ前なのだが、
(そしてKindleでもう1冊買っちゃったのだが)
こんまり流片づけの実践はしていなかった。

で、この冬の間に本を読み返してみて思うところがあり
実践してみることにした……のだが。

洋服はきわめて順調だったのに、
本の段階ですでにあっさり行き詰まってしまったしだい。

ときめかない本がどうしても捨てられない。

もしかして自分にとって、
本は「思い出品」のカテゴリーに入るのではないか?
と、無理やり解釈してみようともしたが、
そうではない本も結局捨てられない。

捨てられないのならときめいているのでは?
と自問してみても、
やっぱりときめいていないと答えが出る。

図書館で借りられそうな本、
再び入手することが困難でなさそうな本も、
どういうわけか捨てられない。

そういう本ほど逆に手元にあれば、
ちょっと参照することができて
便利そうな気がするのだ。

あのとき手放さなきゃよかった・・・
と後悔しそうな予感がどうしても払拭されない。
実際、それに近い経験をしたこともあるし。

というわけで、
ひとまず本の整理はあきらめることにした。

が、ちょっといいこともあった。
本を全部出して並べ替えたおかけで、
読みたい本がすぐにとれるようになったこと。

わが家は埃とカビ対策のため、
2年半前頃から、本棚をやめて、
ラックコンテナに移行する試みをしている()。

その後、完全に本棚は撤去し、
同じサイズのラックコンテナ12個を、
いくつかの場所に分けて、
上下2段に積み重ねて使っている

本のみならず、いろいろな保管品も入れている。

本棚ではないので、
効率よく本を並べるには工夫が必要になる。

で、ブックラックを新たにいくつか購入し、
資料としてとっておきたい本を背面に並べ、
前面にブックラックを倒した状態で置いたなかに
読み返す可能性の高い本を並べ、
ブックラックの上にも何冊が本を置いておくことにした。

そうすると、ブックラックの中に並べている本も、
ブックラックの上に置いている本も、
無理なくとることができる。

そして、空間ももったいなくない。

さらに、資料としてとっておきたい本だけを、
平積みにして置いておくスペースも作った。

もはや完全にこんまり流片づけからははなれてしまったが、
持っている本を確認できたことと、
少ないながらも何冊か手放すことができたこと、
本の並べ方がよい方向にむかったのはよかったと思う。



という記事を書き始めたのが約1ヶ月前。

その後、本ボックスが視野に入るたび
並べ替えてよかったなぁ…と思う。
だからきっと、意味はあったのだ、うん。
 2017.05.02 Tuesday 11:34 近藤麻理恵 permalink  
予定変更
魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』第八章について書いていましたが、
ぱったり更新がとまってサクっと約2ヶ月。

続きのテキストを書きかけていたものの、
書き上げられず現在にいたります。

ちょっとこれはいったん封をしますです。

ちなみに、少し前に、
『アップデートする仏教』(藤田一照、山下良道)
をKindle版にて購入しました。
 2016.04.24 Sunday 13:53 『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』第八章について(1)/「大乗」の奇妙さ
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

きょうとりあげる第八章はこの本の最終章であり、
「余談」として書かれたものなのだけれど、
「気軽に目を通していただきたい」
と書いてあるにも関わらず、
がっつり取り組むことになった。

というのも、自分のテーマと並行して
考え始めてしまったので。

自分のテーマというのは、
例の「縁起」のこと

といっても、
『仏教思想のゼロポイント』の第八章に
縁起解釈の変遷の話は出てこない。

なので、先日までは、ここをひととおり読んだあと
別の文献で「縁起」について検討するつもりでいた。

しかし、ゴータマ・ブッダ入滅後の
仏教史を考える視点として、
何かヒントが含まれているのではないか…
含まれているといいな…
と思いながら読み始めたら、
「気軽に」読めなくなったしだい。

というわけで、第八章だけで
連続記事を書くことになりました。

◆◆◆

魚川さんは仏教の勉強をはじめた頃、
いわゆる「大乗」の徒が、
なぜ「仏教」を称する必要があるのかが
わからなかったとのこと。

入門書を読み、研究書を読み、
そして直接に大乗経典を読んでみると、
そこに説かれている教えは、
ゴータマ・ブッダの直説を最もよく伝えるとされる、
いわゆる「初期経典」の教えとは少なからず乖離しており、
場合によっては、それと矛盾しているようにすら思えたから。

例としてあげられているのは、
ゴータマ・ブッダの臨終のシーン、
『大パリニッバーナ経』。

比較されている大乗経典は『法華経』。

簡単にいうと、『法華経』においては、
ゴータマ・ブッダの入滅(般涅槃)は
方便に過ぎないとされているらしい。
(つまり、亡くなったのではなく、
 常にこの世に存在していて、
 説法を続けているのだということにされる)

魚川さんは、このような『法華経』の説が
「無価値」であるとか「間違っている」といった
判断を下したいわけではない。

「このようにアクロバティックな解釈を仏滅に施すくらいなら、
 『久遠実成(ルビ:くおんじつじょう)』の神なり教祖なりを
 別に立てる異宗教をはじめたほうがよさそうなのに、
 この人たちはなぜそうしなかったのか」

ということがわからなかった、ということなのだ。

そうなると読み比べたくなるのが
松岡正剛・千夜千冊の1300夜。

 梵漢和対照・現代語訳『法華経』上・下
 http://1000ya.isis.ne.jp/1300.html

先に縁起のことに触れておくと、
千夜千冊に出てくる「縁起」は、
どれもこれも「相互依存」の意味あいを帯びていて、
私はすっかり困ってしまっている。

何しろこれまで千夜千冊にはたびたびお世話になってきたし、
松岡正剛さんの文章も好きだし、信頼しているので。

たとえば上記リンク先ではこんな具合なのだ↓
ブッダが空じた「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのようにうけとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつけなければならなかったからである、と

ブッダの段階から、
「縁起」は「世界との相互関係」
であったかのように読める。

実際、中村元『インド古代史』の段階から
そうなっているのだ。(と私には読める)

しかしそこは松岡正剛さん、何か筋道があるのだろう、
私がわかっていないことがあるのだろうと思いつつ、
他の文献もあわせながら考えているところ。

「縁起」のことをひとまずおいておくと、
千夜千冊の『法華経』の中盤で書いてあることは、
『仏教思想のゼロポイント』の第八章で書いてあることと、
内容として齟齬はない。

しかし、印象は正反対。

ちなみに、もともと正剛さんにも、
こんな疑問はあったようなのだ↓
なぜ悟りきった如来にならないで、あえて菩薩にとどまっているのか。そこにどうして「利他行」(りたぎょう)というものが発生するのか。そこがいまひとつ得心できていなかった。

しかし、そのあとの展開がまったく違う。
(追記:結論がまったく違うとはいえないかもしれないが、
 少なくともテンションは違う)

正剛さんは、法華経の構成の妙に
いたく感嘆されている。

それは、経典を読むときにおいても、
つねに「編集」という視点を携えている、
松岡正剛さんの読み方によるところが大きいのだろうか。

思うに、松岡正剛さんは、
『法華経』のアクロバットを
「面白がれた」のだと思う。

一方、魚川さんにとっては疑問の種になった。

ということは結局どっちにしろ、
『法華経』はなんらかの解釈(の努力)を必要とする、
ということなのではなかろうか。

『仏教思想のゼロポイント』第八章には
“「大乗」の奇妙さ” という項目があるのだが、
その奇妙さとは、簡単に言えばこういうことになる。

現世における苦からの解脱という
自利を追求する阿羅漢ではなく、
一切衆生を広く救済する
自利・利他の完成者としての
ブッダとなることを究極的な目標とし、
自らをその過程にある菩薩として
位置づけることをその本懐としていること。

なぜ「大乗」の徒は、
あくまで「仏教」の枠内において、
自己の立場を確立しようとしたのか。

ということを考えるためには
第七章をおさえておかねばならず、
今回ブログではほとんどとりあげていないので、
どうしたものかと迷っているのだが、
少なくとも魚川さんがいうところの
「物語の世界」という言葉の意味については
わかっておかなくてはならない。

そのうえで、第八章のタイトルにも使われている
「本来性」と「現実性」という言葉について
考えていこうと思う。

(つづく)

※ 引用部分以外は本の言葉を使いながらも私なりにまとめています。
※ 間違いに気づいたときにはそのつど訂正させていただきます。
※ 縁起についての現段階での要確認事項をnoteでまとめております↓

 「縁起」についてのメモ
 2016.02.26 Friday 10:59 『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
「無我」と「自由」について
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆

 「無我」と「自由」

というのは第四章のなかの項目なのだが、
まずは第二章の「無我」から見ていくことにする。

無我(anattan)というのは、

 己の所有物ではなく、
 己自身ではなく、
 己の本体ではない

ということ。

そして「所有物でも本体でもない」
ということに含意されるのは、

 己の支配下にはなく、
 コントロールできない

ということ。

ただ、そうは言っても私たちは、
ふだん自分自身のことを
「自由な行為者」であると
何とはなしに感じていることが多い。

少なくとも自分の行為については
コントロールしているし、
ちゃんと思いどおりに振舞っているはずだ、と。

ここで魚川さんは、カントの
「(実践的)自由」と「傾向性」
の話を出しておられる。

感覚に依存した欲求に
そのまましたがって行為することは、
単に人間の「傾向性」に引きずられているだけの
他律的な状態に過ぎず、
「自由」とは呼べないという話。

例えば「カレーが食べたい」とか
「あの異性とデートをしたい」とか、
そういった欲求・衝動に
「思いどおり」にしたがうことを
私たちは「自由」であると思いなしがちだけれども、
それは「自由」とは呼べない。

心にふと浮かんできた欲望に、
抵抗できずに隷属してしまうことだから。
(※話の順序を変えて我流にまとめています)

仏教においても基本的には同様に考えるわけだけれども、
ここから第四章の“「無我」と「自由」”に移ると、
まず、「自由」というのは、
それを行使する「主体」が存在しなければ
意味を持たない概念ということの確認がなされる。

そして、マッカリ・ゴーサーラという
自由思想家の話が出てくる。
ゴータマ・ブッダの時代の人で、
仏教用語でいう「六師外道」の一人であるらしい。
(アージーヴィカ教の開祖)

マッカリ・ゴーサーラは、
衆生は定まった業の果報が尽きるまで輪廻を続け、
その浄化の過程が終われば苦の終極に至るという
決定論を説いたとされているとのこと。

仏教も「全ては無我であり縁生だ」とするのであれば、
上記の世界観と区別がつけにくくなる。

では、そのような決定論と仏教では何が違うのか、
ということを解釈するにあたり、
魚川さんいわく、
我(主体)の絶対的・実体的な意味での
存在については「無記」であった、
ゴーダマ・ブッダの態度が効いてくると思う、と。

「無記(avyākata)」というのは、
回答されないこと・明記されないこと。

具体的には四種類・十項目あるらしく(十無記)、

「世界は時間的に常在であるか」とか
「世界は空間的に有限であるか」とか
「霊魂と身体は同一であるか」とか
「如来は死後に存在するか」とか
「如来は死後に存在しかつ存在しないか」

といったような「形而上学的な」問いが並んでいる。

こうした問いは、世界(loka)の中で
縁生の現象をどれほど観察したところで
答えの出しようがない。

こういうことを
弟子や異教の徒(外道)から質問された時には、
ゴータマ・ブッダは回答を与えず、
代わりに苦の滅尽と涅槃に導く、
四諦の教えを説くのが常であったそう。

で、「無我」と「自由」の話にもどると、
「この現象の世界(loka)の中のどこを探しても、
実体我だと言えるものは見つかりませんよね」
というのがゴータマ・ブッダの言う
無我(anattan)の意味であり、
その現象の世界を超えたところ(lokuttara)に
我が存在するかどうかについては、
ゴータマ・ブッダは黙して語ることがなかった。

人間が自由であるかどうかという問題についても
「そうだ」と言うことは不可能だが、
「そうでない」と言い切ることも不可能。

つまり、「自由」という問題についても、
他の形而上学的な問題と同様に、
仏教者は「無記」の態度を保つしかない。
(ちなみにこれについての「註」で、
またカントが出てきている)
 マッカリ・ゴーサーラが「決定されている」と言い切った自由と必然の問題については「無記」を堅持し、敢えて悪く言えばそこを曖昧にしたままで、「そんなことより喫緊の課題である苦からの解脱のために精進しなさい」と言って、実践的な自由は実質的に認めてしまうというのが、ゴータマ・ブッダのこの問題に対する態度であった。
(p.105)


(つづく)

※ 間違いに気づいたときにはそのつど訂正させていただきます。
 2016.02.19 Friday 14:25 『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
解脱の達成が瞬間的であることについて
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆
 
縁起についての疑問は膨らむ一方だが、
これについてさらに考えるためには
別の文献にうつったほうがよさそうなので、
ひとまず(メインテーマとしての)縁起はおいておいて
『仏教思想のゼロポイント』から
他のことについてもう少し見ていくことにする。

きょうとりあげるのは第六章、
解脱と涅槃について述べた中心の章のなかから、
ゴータマ・ブッダの仏教における「悟り」は
推論や思考の進行の結果として
徐々に到達される概念的分別知ではないという話。

それは瞬時に起こる決定的な実存のあり方の転換であり、
「直覚知」という言葉で表されている。

その傍証として、2人の仏弟子の伝が示される。

まずはアーナンダ。
詳しいことは省略してその瞬間だけを抜き出すと、
アーナンダが解脱したのは、
とある結集の前夜を過ごした早暁のことだった。

気づきの実践を行ってその一夜を過ごしたものの
解脱には至らなかったアーナンダは、
「横になろう」と身体を傾けたその瞬間、
「頭が枕に達せず、足が地を離れない」あいだに解脱した。

もうひとりはシーハー比丘尼。
出家したものの欲情に悩まされて
心の平静を得ることができず、
昼となく夜となく苦しみ続けたシーハー比丘。

それでも涅槃に至ることができないので
これ以上生きていても仕方がないと感じた彼女は、
縄を手にして林に入り、首を吊って死のうとした。

その覚悟をもって縄を首に投げかけた瞬間に
彼女の心は解脱した。

長年「理性」も「意志」も動員して、
必死で手に入れようとしてきたものが、
その努力を手放した瞬間に得られてしまう。

という話を聞くと、
私はまたまた数学者・岡潔の
『春宵十話』を思い出すのだった。
http://math.artet.net/?eid=1422184

たとえば数学のテスト中に、
答案を書き終ってからも間違ってないかどうか
十分に確かめた上に確かめて、
これでよいと思って出したのに、
出して一歩教室を出たとたんに
「しまった。あそこを間違えた」と気づき、
しおしおと家路につく。

たいていの人はそんな経験がおありでしょうと
岡潔は書いているが、
私にも(テストではないが)そのような経験があるし、
実際、多くの人が経験していることなのではないかと思う。

また、先ほどのアーナンダの話のところでは、
「 このように高度な緊張と絶望を経て、
それが緩んだ瞬間に決定的な経験をするというのは、
例えば禅の実践などを行ったことのある人には、
おなじみのことであると思う」
と魚川さんは書いておられる。

岡潔の表現で言えば、
私たちが純一無雑に努力した結果、
真情によく澄んだ一瞬ができ、
時を同じくしてそこに智力の光が射した、
ということになる。

もちろん、数学上の発見はそのまま「解脱」ではないが、
なにか通じるものがあるのではなかろうか。

実際、岡潔は別のところで、仏教用語を借用するとして
無差別智ということばを出してきている。
(『春宵十話』p.84)

(つづく)

※ 間違いに気づいたときには、そのつど訂正させていただきます。
 2016.02.17 Wednesday 11:34 『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
訂正:時間軸→時間論
先ほど公開した

「何」が輪廻するのか、という問題の立て方 

において、末尾で引用した別の本の記述で一部間違いがありました。
「時間論」とすべきところを「時間軸」としている箇所がありました。
お詫びして、訂正させていただきます。(元記事は訂正済みです)
 2016.02.15 Monday 09:47 『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
「何」が輪廻するのか、という問題の立て方
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆

 「何」が輪廻するのか

という問いは、
第四章のなかのひとつの項目なのだが、
それだけで何かはっとさせられるような、
何かわかってしまいそうになるような、
そんな問いだと私は感じた。

なお、先に書いてしまうと、厳密に言えば、
「何が輪廻しているのか」という問題の立て方は、
仏教の文脈からすれば、
そもそもカテゴリーエラーの問いである、
ということになるらしい。

もしかするとそのエラーによる "ずれ” が、
かえってハッとさせるのかもしれない。

“「何」が輪廻するのか” の前には、
“無我だからこそ輪廻する” という項目があり、
ここがとても面白かった。

明治生まれの仏教学者である木村泰賢の
図式を使った説明が書いてある。

本とまったく同じ表記ではないが、
その意味するところがわかるように再現してみると、
次のようになる。

A ― A’ ― A’’ ー A’’’ ― An … anB ― B’ ― B’’ ― B’’’ ― Bn …
bnC ― C’ ― C’’ ― C’’’ ― Cn … cnD …… dnE …

A、B、C、D、Eは、
木村泰賢の用語でいえば「五蘊所成の模型的生命」、
魚川さんの言葉で言えば、その少し前で解説してある
「認知のまとまり」もしくは「経験我」()に当たるもの。

例えば「太郎」という名前の人がいたとする。
太郎は誕生時から死没時まで常に変化を続けていて、
そこに固定的な実体は存在しないのだが、
いちおうその「変化する認知のまとまり」を、
仮に「太郎」と一貫して名付けておくということ。
(図式のAあるいはBなど)

A ― A’ ― A’’ ― A’’’ ― Anというのは、
Aの時系列にしたがった変化。
(本では、nはAの右肩に小さく示されている)

そのように変化し続けるAは、
ある時点(An)で死を迎える。
そこで起こるのが転生で、
図式の「…」はそれを示している。

anというのは、Aの「経験的積聚」、
即ちAの積み重ねてきた行為(業)の結果。

Aの転生でBという新しい五蘊の仮和合を得たとすると、
Bの形はAと大いに相違しているようではあるけれども、
anが潜勢力としてはたらいている。

そしてそのBという認知のまとまりが、
また刹那ごとの変化を続けていく。

以下同様に、B→C→D→E…と
輪廻転生の過程が続いていく。

木村泰賢は、この飛躍を挟んだ変化の過程を
「蚕の変化」に喩えているらしい。

こういう話になると、私は
郡司ペギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』
を思い出すのだった。
 
「小学生が中学生になる」の誤謬は、しかし、具体的な個体、たとえば「信夫」を持ち出すことで解消される。小学生だった信夫が中学生になる。こう考えれば、何かが消え、何かが現れるといった不連続性は解消される。小学生、中学生は様相となり、これらを被る「信夫」によって同一性は担保される。
(郡司ペギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』p.111)


この本はかなり読みにくくて難しい本なので
とてもオススメとは言えないのだが、
私自身は買ってよかったと思っているし、
いつかこの本が読み込めるようになりたいと思っている。

その面白さの“予感”をお伝えすべく、
(そして、この記事で、この本を紹介したくなった
 その気持ちの理由をお伝えしたく)
最終章の最後の文章を引用したいのだけれど、
なにしろ締めくくりの文章なので、迷った。

この手の本にネタバレというものはないかもしれないが、
(ネタがあるとしたら結末よりそこにいたるプロセスだろうから)
その人なりの読み方というものはあると思うのです

それを邪魔してしまうのはたいへん心苦しいのです。
ので、迷ったのですが・・・

この引用部分を読んだために
読む意味がなくなる本ではまったくないので、
(逆に、ここがすごく面白いと感じられても、
 本全体が面白いという保証も
 まったくされない本です、はい)
末尾で引用することにしました。


ちなみに私は、

 「わたし」には現在しか許されない。

という一文につかまって、この本を買いました。


どんな本かのぞいてみたい方は、
数学教育ブログで78もの関連記事を書いているので、
そちらをどうぞ〜
http://math.artet.net/?cid=60283

ここをのぞいて、面白そう!と思われた方は
末尾の引用部分は読まずに
まずは本を読んでくださいませ!!

「読む必要なし」と即断された方は、
末尾の引用部分をどうぞ。

もうひとつ書いておきますれば、
ここを引用したいと思ったのは、
一法庵の鼎談を聴いたことも影響しています。
http://www.onedhamma.com/?p=5136
関連資料:https://note.mu/neetbuddhist/n/nfa09cfd806ae

(つづく)

※ 間違いに気づいたときにはそのつど訂正させていただきます。

※ 引用はこの先です。

     ↓
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     ↓
     ↓
     ↓
 
 もちろん、時間が「わたし」からもたらされるわけではない。時間の議論を通して、主観的時間を作り出す「わたし」やわたしの意志、自発性は、脱構築され、「わたし」は解体を内在した形でしかもはや認めることはできないからだ。わたしの意志の中に、世界性、外部を経由した公共性が浸潤する。我々は、「わたし」の開設を、時間(=時間論)を通して実感し、主観・客観の相対性と同時に区別の実行性を、時間(=時間論)を通して肉体的に理解することになる。
(郡司ペギオ幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』p.251)
 2016.02.15 Monday 09:33 『仏教思想のゼロポイント』 permalink