何者かであることと自分

なぜミニマリストブームに気がつかなかったのか
において、

 私にとってミニマリズムの核は、
 「自分について自分で考えて自分で選択すること」
 にある。

と書いた。

その思いはいまも変わっていないけれど、
上記のように書くと「自分」にまみれていて
それはそれでなんだか違うと思えてくる。

我執にまみれたいわけではなく、
むしろ我執から離れたいのに。

そのことが
「何者かであろうとしなくていい」
ということとつながるはずなのに。

というわけで、あらためて、
自分でいることと何者かであることは
どう違うのかを考えてみた。

まず、「何者かである」ということについて、
自分はどんなイメージを抱いているのか考えてみると、
他の人と違う何かをやっている、
個性がある、個性を活かしている、
意味のあることをしている、……
といった言葉が浮かぶ。

つまり、他者に対して
なんらかの意味をなすということが、
「何者かである」ということだという
イメージを抱いているらしい。

一方、自分について自分で考えて
自分で選択するときは、
自分にとっての価値が主軸になる。

さらに、我執という言葉の
仏教的意味はひとまずおいておくとしても、
ここでいう「我」はやはり
他者を前提としているように思える。
我を張る、という意味で。

逆説的な言い方になるけれど、
たぶん、自分を極めると、
自分から解き放たれるのではないか、
という気がしている。

考えてみれば、
他者を意識することと自分を意識することは
同じ意識の表裏であり、
ふたつでひとつなのかもしれない。

その状態は何かにつけしんどい。

もし、モノを減らすことで
他者や自分を強く意識することが少なくなれば、
だいぶラクになるになるのではなかろうか。

とにかく、ミニマリズムに憧れ始めてしばらくの間、
何者かであらねばないのではなかろうか
という微かな焦りや劣等感のようなものを
感じていたように思う。

それはひとえに、情報の仕入れ方が
途中からズレてしまっていた、
惰性になっていたということに尽きる。