疲れる数字、疲れない数字

数「値」とすべきところかもしれないが、
ひとまず数「字」で。

わが家のテーブルの上にはいつも紙きれが置いてあって、
その紙きれには意味不明の数字が並んでいる。

なんのことはない、インターバル家事に使う
麻雀ゲームの点数の記録なのだ。
(麻雀ゲームの点数を
 時間や動きの数に変換して、
 家事その他をしている)

というわけで、私は毎日、
数字にまみれて暮らしている。

というか、数字に背中を押してもらって
生活をすすめている。

どうしてこういう数字が
生活を動かしてくれるのだろう?
と自分でもときどき不思議に思うので、
あらためて考えてみた。

そうしたら、身も蓋もない答えが出てきた。

たぶん、意味がないからだ。
区切りがあるということ以外の意味がない。

しかも、たまたま麻雀で取った点数、
あるいは失った点数という偶然性が
心地よいのだと思う。

わが家ではこれらの数字を
「麻雀の神様のお告げ」
とよんでいる。

そうはいっても、生きていくうえで、
いろいろな意味ある数字と関わらざるを得ない、
というか話は逆で、数字のお世話になっているし
数字を利用することができる。

生活に関わる数字を計算することは
基本的に面白いと感じる。
カロリーの計算や栄養素の摂取量の計算もそうだし、
光熱費の計算なども。

もちろん、ため息が出たり不安になることもあるけれど、
自分の暮らしの現状のあれこれが
数値化されるのは基本的に有効だと感じられる。

また、いまの状況でいえば、
ニュースで聞く新型コロナの感染者数が
小さくなっていくとほっとする。

こういうときの数字は、
状況を把握するために重要だと思う。
(もっとも、小さくなるとほっとする数字は、
 大きくなるときの不安とセットだけれど)

一方、数字に関して、
最近、別のあることを自覚した。

昨年から今年にかけて、複数のあることで、
慢性的・断続的にもやもやしていて、
それがどこからくるのか
一応、自己分析はしていたのだけれど、
あ、そうか「数字」だ、と気づいた。

大きいほうがいいとされる数字、
あるいは増減を意識される数字に
意外なところで接触して疲れていたのだ。

なお、大きい数字そのものには疲れを感じない。
たとえば、前澤友作さんが100万円のお年玉を
1000人にあげるらしいという話を聞いても、
HIKAKINさんが1億円寄付したという話を聞いても、
なんならビル・ゲイツさんの資産を聞いても、

それを抜いた人がいるらしいと聞いても、
すごいなー!と思ったり
尊敬の念が湧くことはあっても
疲れはしない。

日本中にマスクを配る経費に
意味がわからないと感じることはあっても
疲れはしない。

(もっとも、数字が大きすぎて
 ピンとこないという話はある)

しかし、「え、いまここで!?」というところで
「大きいほうがいいとされる数字」や
「増減を意識される数字」に出会うと
わりとダメージを受ける。

たとえていうなら、料理番組の途中で
トイレ洗剤のCMを見たような感じ。
排泄は大事だしトイレの掃除も必要だが、
いまじゃない。

家計簿の計算をしているときならいざしらず、
そうではないときに「結局は数字だよね」
という大いなる真実を示されると、
自分でも驚くくらい脱力する、
ということに気づいたのだった。

もっといえば、「結局、数字は大きさだよね」と
他ならぬ自分自身が考えていることを思い出して
それとどう折り合いをつけたものか
途方に暮れてしまうのだと思う。

もしかすると、
トイレ掃除をさぼっていることを忘れたくて
料理番組を見ようとしていたのかもしれない。
(だんだん比喩が限界になってきた)

料理番組を探してテレビをつけたのも
わざわざCMを見たのも私。

なので自分でなんとかできるわけで、
どうしようかなぁ、と思案中。

という文章を、麻雀の神様のお告げにしたがって、
タイマーで時間を区切りながら書いている。

ちなみに、麻雀の神様からのお告げの数字は、
わりとフレキシブルに使われる。