気になりごとをそのままにしてみる練習

以前、
着手恐怖と、あとまわしの効能
という文章を書いた。

書いたはいいのだけれど、読み返すたびに
なんだか少し違うなぁと感じていた。

というわけで、
もう少しクリアにできるよう
再度チャレンジしてみることにする。

私が強迫性障害をもっていることは
何度も書いてきたし、
母と祖母にもその傾向があったことも書いたが、
基本、わが家の母の家系は強迫気質なのだと思う。

私や母や祖母は、わりとわかりやすい形で
強迫性障害として症状が出ていたけれど、
それ以外の親戚、身内で
別の形で気質が表れている場合があるな、
と感じることがある。

その場合は、きれい好きで働きもので、
フットワークが軽いという形で
ポジティブにあらわれる。

そういう気質と強迫性障害の共通点は、
「気になりごとを抱えていられない」
ということではないかと思う。

強迫性障害の場合は、
「不安を抱えていられないので、
 なんとかなくしたい」
という形で症状が出る。

ポジティブな形で出る場合は
「用事があるならはやくすませたい」
「気になることをそのままにしておきたくない」
という形になる。

その結果、きれい好きで働きもので
フットワークが軽くなるのではないか?

と勝手に分析している。

私の場合、残念ながらというかなんというか、
強迫気質がきれい好きや働きものや
フットワークが軽いという形では出なかった。

部屋は汚いし、怠け者だし、腰が重いし。

「抱えていられない」という気質を
強迫観念、強迫症状が一手に担っている。

書いていてわれながら悲しくなってくるが、
何が言いたくてこの話を書いているかというと、
「あとまわしにする」ということは、
「気になりごとを抱えてそのままにする」
練習になるのではないか、ということ。

「着手恐怖」の場合は、手をつけることが恐怖。
だからついついそのままにしてしまう。

「強迫行為」の場合は、手をつけないことが恐怖。
だからついつい動いてしまう。

そういう恐怖をそのままにして
やるべきことをやる。

そういう恐怖をそのままにして
やらなくていいことをやらない。

考えてみれば、これも結局、
森田療法の発想なのかもしれない。

やるべきことをやるより、
やらなくていいことをやらないという意味の
「あとまわしの効能」を
あのとき書きたかったのだ、きっと。

呑気なわりにせっかちで
自分でも困ったもんだと思うけれど、
もしかすると、
呑気をやめたらせっかちがなくなり、
せっかちをやめたら呑気もなくなるかもしれないと、
逆説的なことを思ったりしている。