きょう、しあわせであること

できるだけやりたいことをやって  

やりたくないことをやらない人生を送ってきたとはいえ、

長く生きていればやはりそれなりにストレスフルな時期はある。

 

そんなとき、

「ああ、これが終わったらどんなにほっとするだろう」

「ああ、この状況がなくなったらどんなにしあわせだろう」

と思ってきた。

 

でも、それが終わっても、その状況がなくなっても、

意外とさしてほっとしないし、しあわせでもない、

ということに気づいてからもそれなりに時間がたった。

 

なぜさしてほっとしないかというと、

次のストレスが待っているということもあるし、

待っていないとしても意外と平常運転にすぐもどるから。

 

よく「しあわせは来ない」という話を聞く。

“しあわせA”が得られたら次は“しあわせB”、

“しあわせB”が得られたら次は“しあわせC”

というふうに、常に上方修正されて、

キリがないという意味での「来ない」。

 

すごく卑近な例でいえば、片づけ途中の私の場合、

「これが手放せたらすっきりするだろうなぁ!」

と思っていたメタルラックを手放しても

すっきり感はほとんど瞬間的にすぎていった。

 

そして今度は、次の手放したいものが

手放せていないイライラがやってくる。

 

それを繰り返している。

 

ということに加えて、このトシになってくると

「いい経験になった」「これを糧にして」

という発想もできなくなっていく。

 

そうなるとどうなるかというと、

「結局、きょうしあわせじゃないと、

 しあわせってないんだよなぁ」

ということになってくる。

 

だから、一日のなかで、どこかの段階で

「ああ、きょうはきょうでそれなりにしあわせかも」

と感じられればしあわせなのだと思うようになった。

 

夜、寝るときにそう思うのもわるくないけど、

むしろ一日のはやい段階で

「何かいいことがあった日にしよう」

と考えるといいかもしれない。

 

「いいこと」はごくごく些細なことでいい。

窓掃除を1枚分やったとか、写真の整理を少し進めたとか、

気になっている案件について少し考えたとか、

きのうの不安が少しやわらいだとか。

 

とはいえ、ときどき頭のなかで、

現状とは違う理想の生活を思い描くことはある。

 

それは非現実的なことではないけれど、

自分の努力だけでどうにかできることではないし、

もしかしたら一生実現できないかもしれない。

 

思い描くのはそれはそれで楽しいが、

少なくとも今は実現できない。

 

実現できたとしても、

意外にどうということもないかもしれない。

 

だから「そうなればいまよりもっとしあわせ」と思うより、

きょう一日をささやかに楽しんだほうが確実だ。

 

そして、思い描く理想の生活の何が理想なのか、

なぜそれはいま実現できないのか根っこのところを考えていくと、

いまの生活のヒントになる。

 

ただし「きょうをしあわせにならなくちゃ!」

と力んでしまうとそれはそれで苦しいし

無理をすると反転して絶望感に包まれそうなので

しんどい日は「きょうはしんどかったなぁ」でいいのだと思う。

 

この文章はだいぶ前に書き始めたのだが、

ちょうどきのうがそんな日だったので、

日記に「辛かった」と書いておいた。

 

きょうは、この文章を仕上げている午前中の段階では、

さっき窓の光が気持ちよかったのと、

日々是好日という言葉を思い出したことが

しあわせだった。