ゆっくり話し、ゆっくり動く

できれば30年前、

でなければ20年前、

せめて10年前に出会いたかったなぁ、

と思う本がある↓

 

  小林弘幸『「ゆっくり動く」と人生がすべてうまくいく 』

 

でも、30年前や20年前や10年前に出会っていたとしても、

私はこの本を手にしていなかったかもしれない。

 

読んでいないのに役に立っている本で書いたように、

私は小林弘幸さんの本を3冊持っており、

最初に買ったのがこの1冊だった。

 

紙の本で買い、その後もスキャンすることなく

紙の本として保管している。

 

ということは

自分のなかで重要度が高い扱いをしていることになるが、

中身を何度も読み返したいからそうしているというより

背表紙が見える形で本棚に置いておき

タイトルにはっとさせてもらいたくてそうしている。

 

実際、この本を買ったのは、タイトルにはっとしたからだった。

 

著者いわく、まずは「ゆっくり話す」ことから始めよう、と。

 

私は自分が“おしゃべり”だということは自覚していたが、

よくしゃべるということのみならず

話し方に特徴があることに意外なことで気づいた。

 

強迫性障害である私は、電話で何かを問い合わせたり

会話で何かを確認するとき、自分の声を録音することがある。

携帯電話のボイスレコーダーで。

 

そのデータがかなりたまっていたので

あるとき聞き返してみたら、内容もさることながら

自分のしゃべりかたにびっくりした。

 

早口で無駄が多く、言い淀みや部分的な駆け足があって、

とても聞きづらい。

いままで自分と話してきた人たちに謝りたいくらい。

 

自分で聞いていても、

「この人は何をこんなに焦っているのだろう??」

と首を傾げてしまう。

 

で、ふつうに考えると、

ゆっくり話すために落ち着くことが必要に思えるが、

逆に、ゆっくり話すことで落ち着くということがあるのだと思う。

 

そして、「落ち着こうとする」ことよりも

 「ゆっくり話そうとする」ことのほうが具体的で実行しやすい。

 

動きについても同じことを思う。

 

子どものころは自宅にビデオカメラはなかったから

自分の動く姿を見る機会がなかった。

 

それが大人になり結婚して子どもが産まれて

あたりまえのように自宅にビデオカメラがあり、

子どもの様子を動画におさめる機会が増えた。

 

そうすると、自分の姿や声もそこにおさめられることになり、

日常の自分の姿を客観的に見る機会になる。

 

そうやって見た私の動きにも落ち着きがなく

なんやかんやでうろうろ動いており、無駄が多い。

 

動きと実際にやれていること、

しゃべりと実際に伝えられている情報量が

かなりアンバランスなことになっていると思う。

 

焦って動くからより焦り、

焦ってしゃべるからより焦るという悪循環。

 

なんて人生を送ってきたんだろう、と思う。

 

できれば30年前、

でなければ20年前、

せめて10年前にそのことに気づきたかった。

 

でも、とりあえずいま、気づくことができてよかった。

 

ゆっくり動くことはまだできていないけれど、

ゆっくり話すことは少しできるようになってきたと思う。

 

そんなことを言うと身近な人からは

「えー!?全然かわってないよー、

 あいかわらずまくしたてているよー!」

と言われるかもしれない。

 

でも、電話で何かを問い合わせたり、

だれかに何かを報告したりするときは、

以前よりゆっくり話すことを心がけている。

 

他人から見たらあまり変化はないかもしれないが、

ゆっくり話そうとすると自分の心持ちが少し変わるのがわかる。

 

そして、ゆっくり話すことができなかったとしても、

「あのときおしゃべりモードになっていたな」と

あとから自分でわかるようになり、なぜそうなるのか、

そのとき自分はどういう感じだったのか、

ということも考えるようになった。

 

ボイスレコーダーやビデオカメラがなくても

少し自分を客観的に見られるようになったのだと思う。

 

そして、「なぜそうなるのか」は

自分の深いところと関わっていそうなこともわかってきた。

 

ゆっくり話したりゆっくり動いたりすることで

「人生がすべてうまくいく」かどうかはわからないけれど、

少なくとも「ゆっくり」は悪循環を断ち切り、

良循環をもたらす具体的な方法だと思う。