古いアルバムの写真をスキャンしながら思うこと

2019年春にミニマリズムに気持ちが向かったのをきっかけに、

紙類はできるだけ処分していくことにした。

 

そのまま捨てるのに抵抗があるものは、

スキャンしてから処分することにしたのだが、

そのなかのひとつに写真がある。

 

これまでもアルバム整理は幾度となくやってきたものの、

スキャンしてデータとして残すという選択肢はなかった。

 

しかし、今年の春に実家の荷物の最終整理をして、

そこから持ち帰ったものに昔の自分のアルバム数冊があり、

さすがの重量感に圧倒されて、スキャンという道を選ぶことにした。

 

なにしろ立派なアルバムで、

大きな金属の螺旋リングで閉じられているものもあり、

アルバムそのものに趣があるので、

その趣を味わう人ならばこのままとっておくかもしれない。

 

しかし私の場合、趣を味わうというより溜息が出る。

どうしたものか、と。

 

モノとしての写真の大切さやアルバムの雰囲気よりも

自分にとっての負担の大きさが増すのであれば、

手放したほうがいい。

 

古い写真だということもあり、

手作業で1枚ずつスキャンしている。

 

そうして時間をかけて作業をしていると、

その作業自体に意味があるように思えてくる。

 

何しろ、1枚1枚見ながらの作業になるので、

写真そのものを見返す時間になるわけなのだ。

 

写真に写っている自分よりも、

写している人、アルバムに整理した人を

見ている気分になる。

 

特に母とは晩年いろいろありすぎて気持ちがこじれていたけれど、

小さいころの自分の写真を見るにつけ、

愛されていたこと、大事にされていたことを感じる。

 

そうなると晩年のこじれが少しほどけていく。

 

もしアルバムをそのままとっておいたら、

こんな感覚は味わわなかったかもしれない。

 

スキャンしてデータ化したものを次にいつ見返すのか、

そもそも見返すかどうかもわからないけれど、

いまの作業そのものが私に変遷をもたらすのであれば、

やはり意味のある行為ということになる。

 

こういう「ふりかえり」の作業は、

それが意味をなす年齢というものがあるような気がする。

 

実家を引き払うときにも同じような作業をしており、

同じことを思っのだが、古い写真の整理も、

50代半ばの私には有効だと感じた。

 

これが70過ぎてからだと、

そもそもアルバムを整理する体力がなかったかもしれないし、

ふりかえりの意味がいまとは違うものになる気がする。

まあ、そのときになってみないとわからないけれど。

 

今回も、スキャンした写真そのものより、

その作業の時間に大きな意味があったのかもしれず、

スキャンして処分しようとしていなかったら

この時間は生じていなかったわけなので、

そういう意味でもよかったと思う。