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魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』第八章について(1)/「大乗」の奇妙さ
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

きょうとりあげる第八章はこの本の最終章であり、
「余談」として書かれたものなのだけれど、
「気軽に目を通していただきたい」
と書いてあるにも関わらず、
がっつり取り組むことになった。

というのも、自分のテーマと並行して
考え始めてしまったので。

自分のテーマというのは、
例の「縁起」のこと

といっても、
『仏教思想のゼロポイント』の第八章に
縁起解釈の変遷の話は出てこない。

なので、先日までは、ここをひととおり読んだあと
別の文献で「縁起」について検討するつもりでいた。

しかし、ゴータマ・ブッダ入滅後の
仏教史を考える視点として、
何かヒントが含まれているのではないか…
含まれているといいな…
と思いながら読み始めたら、
「気軽に」読めなくなったしだい。

というわけで、第八章だけで
連続記事を書くことになりました。

◆◆◆

魚川さんは仏教の勉強をはじめた頃、
いわゆる「大乗」の徒が、
なぜ「仏教」を称する必要があるのかが
わからなかったとのこと。

入門書を読み、研究書を読み、
そして直接に大乗経典を読んでみると、
そこに説かれている教えは、
ゴータマ・ブッダの直説を最もよく伝えるとされる、
いわゆる「初期経典」の教えとは少なからず乖離しており、
場合によっては、それと矛盾しているようにすら思えたから。

例としてあげられているのは、
ゴータマ・ブッダの臨終のシーン、
『大パリニッバーナ経』。

比較されている大乗経典は『法華経』。

簡単にいうと、『法華経』においては、
ゴータマ・ブッダの入滅(般涅槃)は
方便に過ぎないとされているらしい。
(つまり、亡くなったのではなく、
 常にこの世に存在していて、
 説法を続けているのだということにされる)

魚川さんは、このような『法華経』の説が
「無価値」であるとか「間違っている」といった
判断を下したいわけではない。

「このようにアクロバティックな解釈を仏滅に施すくらいなら、
 『久遠実成(ルビ:くおんじつじょう)』の神なり教祖なりを
 別に立てる異宗教をはじめたほうがよさそうなのに、
 この人たちはなぜそうしなかったのか」

ということがわからなかった、ということなのだ。

そうなると読み比べたくなるのが
松岡正剛・千夜千冊の1300夜。

 梵漢和対照・現代語訳『法華経』上・下
 http://1000ya.isis.ne.jp/1300.html

先に縁起のことに触れておくと、
千夜千冊に出てくる「縁起」は、
どれもこれも「相互依存」の意味あいを帯びていて、
私はすっかり困ってしまっている。

何しろこれまで千夜千冊にはたびたびお世話になってきたし、
松岡正剛さんの文章も好きだし、信頼しているので。

たとえば上記リンク先ではこんな具合なのだ↓
ブッダが空じた「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのようにうけとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつけなければならなかったからである、と

ブッダの段階から、
「縁起」は「世界との相互関係」
であったかのように読める。

実際、中村元『インド古代史』の段階から
そうなっているのだ。(と私には読める)

しかしそこは松岡正剛さん、何か筋道があるのだろう、
私がわかっていないことがあるのだろうと思いつつ、
他の文献もあわせながら考えているところ。

「縁起」のことをひとまずおいておくと、
千夜千冊の『法華経』の中盤で書いてあることは、
『仏教思想のゼロポイント』の第八章で書いてあることと、
内容として齟齬はない。

しかし、印象は正反対。

ちなみに、もともと正剛さんにも、
こんな疑問はあったようなのだ↓
なぜ悟りきった如来にならないで、あえて菩薩にとどまっているのか。そこにどうして「利他行」(りたぎょう)というものが発生するのか。そこがいまひとつ得心できていなかった。

しかし、そのあとの展開がまったく違う。
(追記:結論がまったく違うとはいえないかもしれないが、
 少なくともテンションは違う)

正剛さんは、法華経の構成の妙に
いたく感嘆されている。

それは、経典を読むときにおいても、
つねに「編集」という視点を携えている、
松岡正剛さんの読み方によるところが大きいのだろうか。

思うに、松岡正剛さんは、
『法華経』のアクロバットを
「面白がれた」のだと思う。

一方、魚川さんにとっては疑問の種になった。

ということは結局どっちにしろ、
『法華経』はなんらかの解釈(の努力)を必要とする、
ということなのではなかろうか。

『仏教思想のゼロポイント』第八章には
“「大乗」の奇妙さ” という項目があるのだが、
その奇妙さとは、簡単に言えばこういうことになる。

現世における苦からの解脱という
自利を追求する阿羅漢ではなく、
一切衆生を広く救済する
自利・利他の完成者としての
ブッダとなることを究極的な目標とし、
自らをその過程にある菩薩として
位置づけることをその本懐としていること。

なぜ「大乗」の徒は、
あくまで「仏教」の枠内において、
自己の立場を確立しようとしたのか。

ということを考えるためには
第七章をおさえておかねばならず、
今回ブログではほとんどとりあげていないので、
どうしたものかと迷っているのだが、
少なくとも魚川さんがいうところの
「物語の世界」という言葉の意味については
わかっておかなくてはならない。

そのうえで、第八章のタイトルにも使われている
「本来性」と「現実性」という言葉について
考えていこうと思う。

(つづく)

※ 引用部分以外は本の言葉を使いながらも私なりにまとめています。
※ 間違いに気づいたときにはそのつど訂正させていただきます。
※ 縁起についての現段階での要確認事項をnoteでまとめております↓

 「縁起」についてのメモ
 2016.02.26 Friday 10:59 『仏教思想のゼロポイント』 permalink