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「無我」と「自由」について
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆

 「無我」と「自由」

というのは第四章のなかの項目なのだが、
まずは第二章の「無我」から見ていくことにする。

無我(anattan)というのは、

 己の所有物ではなく、
 己自身ではなく、
 己の本体ではない

ということ。

そして「所有物でも本体でもない」
ということに含意されるのは、

 己の支配下にはなく、
 コントロールできない

ということ。

ただ、そうは言っても私たちは、
ふだん自分自身のことを
「自由な行為者」であると
何とはなしに感じていることが多い。

少なくとも自分の行為については
コントロールしているし、
ちゃんと思いどおりに振舞っているはずだ、と。

ここで魚川さんは、カントの
「(実践的)自由」と「傾向性」
の話を出しておられる。

感覚に依存した欲求に
そのまましたがって行為することは、
単に人間の「傾向性」に引きずられているだけの
他律的な状態に過ぎず、
「自由」とは呼べないという話。

例えば「カレーが食べたい」とか
「あの異性とデートをしたい」とか、
そういった欲求・衝動に
「思いどおり」にしたがうことを
私たちは「自由」であると思いなしがちだけれども、
それは「自由」とは呼べない。

心にふと浮かんできた欲望に、
抵抗できずに隷属してしまうことだから。
(※話の順序を変えて我流にまとめています)

仏教においても基本的には同様に考えるわけだけれども、
ここから第四章の“「無我」と「自由」”に移ると、
まず、「自由」というのは、
それを行使する「主体」が存在しなければ
意味を持たない概念ということの確認がなされる。

そして、マッカリ・ゴーサーラという
自由思想家の話が出てくる。
ゴータマ・ブッダの時代の人で、
仏教用語でいう「六師外道」の一人であるらしい。
(アージーヴィカ教の開祖)

マッカリ・ゴーサーラは、
衆生は定まった業の果報が尽きるまで輪廻を続け、
その浄化の過程が終われば苦の終極に至るという
決定論を説いたとされているとのこと。

仏教も「全ては無我であり縁生だ」とするのであれば、
上記の世界観と区別がつけにくくなる。

では、そのような決定論と仏教では何が違うのか、
ということを解釈するにあたり、
魚川さんいわく、
我(主体)の絶対的・実体的な意味での
存在については「無記」であった、
ゴーダマ・ブッダの態度が効いてくると思う、と。

「無記(avyākata)」というのは、
回答されないこと・明記されないこと。

具体的には四種類・十項目あるらしく(十無記)、

「世界は時間的に常在であるか」とか
「世界は空間的に有限であるか」とか
「霊魂と身体は同一であるか」とか
「如来は死後に存在するか」とか
「如来は死後に存在しかつ存在しないか」

といったような「形而上学的な」問いが並んでいる。

こうした問いは、世界(loka)の中で
縁生の現象をどれほど観察したところで
答えの出しようがない。

こういうことを
弟子や異教の徒(外道)から質問された時には、
ゴータマ・ブッダは回答を与えず、
代わりに苦の滅尽と涅槃に導く、
四諦の教えを説くのが常であったそう。

で、「無我」と「自由」の話にもどると、
「この現象の世界(loka)の中のどこを探しても、
実体我だと言えるものは見つかりませんよね」
というのがゴータマ・ブッダの言う
無我(anattan)の意味であり、
その現象の世界を超えたところ(lokuttara)に
我が存在するかどうかについては、
ゴータマ・ブッダは黙して語ることがなかった。

人間が自由であるかどうかという問題についても
「そうだ」と言うことは不可能だが、
「そうでない」と言い切ることも不可能。

つまり、「自由」という問題についても、
他の形而上学的な問題と同様に、
仏教者は「無記」の態度を保つしかない。
(ちなみにこれについての「註」で、
またカントが出てきている)
 マッカリ・ゴーサーラが「決定されている」と言い切った自由と必然の問題については「無記」を堅持し、敢えて悪く言えばそこを曖昧にしたままで、「そんなことより喫緊の課題である苦からの解脱のために精進しなさい」と言って、実践的な自由は実質的に認めてしまうというのが、ゴータマ・ブッダのこの問題に対する態度であった。
(p.105)


(つづく)

※ 間違いに気づいたときにはそのつど訂正させていただきます。
 2016.02.19 Friday 14:25 『仏教思想のゼロポイント』 permalink