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解脱の達成が瞬間的であることについて
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆
 
縁起についての疑問は膨らむ一方だが、
これについてさらに考えるためには
別の文献にうつったほうがよさそうなので、
ひとまず(メインテーマとしての)縁起はおいておいて
『仏教思想のゼロポイント』から
他のことについてもう少し見ていくことにする。

きょうとりあげるのは第六章、
解脱と涅槃について述べた中心の章のなかから、
ゴータマ・ブッダの仏教における「悟り」は
推論や思考の進行の結果として
徐々に到達される概念的分別知ではないという話。

それは瞬時に起こる決定的な実存のあり方の転換であり、
「直覚知」という言葉で表されている。

その傍証として、2人の仏弟子の伝が示される。

まずはアーナンダ。
詳しいことは省略してその瞬間だけを抜き出すと、
アーナンダが解脱したのは、
とある結集の前夜を過ごした早暁のことだった。

気づきの実践を行ってその一夜を過ごしたものの
解脱には至らなかったアーナンダは、
「横になろう」と身体を傾けたその瞬間、
「頭が枕に達せず、足が地を離れない」あいだに解脱した。

もうひとりはシーハー比丘尼。
出家したものの欲情に悩まされて
心の平静を得ることができず、
昼となく夜となく苦しみ続けたシーハー比丘。

それでも涅槃に至ることができないので
これ以上生きていても仕方がないと感じた彼女は、
縄を手にして林に入り、首を吊って死のうとした。

その覚悟をもって縄を首に投げかけた瞬間に
彼女の心は解脱した。

長年「理性」も「意志」も動員して、
必死で手に入れようとしてきたものが、
その努力を手放した瞬間に得られてしまう。

という話を聞くと、
私はまたまた数学者・岡潔の
『春宵十話』を思い出すのだった。
http://math.artet.net/?eid=1422184

たとえば数学のテスト中に、
答案を書き終ってからも間違ってないかどうか
十分に確かめた上に確かめて、
これでよいと思って出したのに、
出して一歩教室を出たとたんに
「しまった。あそこを間違えた」と気づき、
しおしおと家路につく。

たいていの人はそんな経験がおありでしょうと
岡潔は書いているが、
私にも(テストではないが)そのような経験があるし、
実際、多くの人が経験していることなのではないかと思う。

また、先ほどのアーナンダの話のところでは、
「 このように高度な緊張と絶望を経て、
それが緩んだ瞬間に決定的な経験をするというのは、
例えば禅の実践などを行ったことのある人には、
おなじみのことであると思う」
と魚川さんは書いておられる。

岡潔の表現で言えば、
私たちが純一無雑に努力した結果、
真情によく澄んだ一瞬ができ、
時を同じくしてそこに智力の光が射した、
ということになる。

もちろん、数学上の発見はそのまま「解脱」ではないが、
なにか通じるものがあるのではなかろうか。

実際、岡潔は別のところで、仏教用語を借用するとして
無差別智ということばを出してきている。
(『春宵十話』p.84)

(つづく)

※ 間違いに気づいたときには、そのつど訂正させていただきます。
 2016.02.17 Wednesday 11:34 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 permalink