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「何」が輪廻するのか、という問題の立て方
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆

 「何」が輪廻するのか

という問いは、
第四章のなかのひとつの項目なのだが、
それだけで何かはっとさせられるような、
何かわかってしまいそうになるような、
そんな問いだと私は感じた。

なお、先に書いてしまうと、厳密に言えば、
「何が輪廻しているのか」という問題の立て方は、
仏教の文脈からすれば、
そもそもカテゴリーエラーの問いである、
ということになるらしい。

もしかするとそのエラーによる "ずれ” が、
かえってハッとさせるのかもしれない。

“「何」が輪廻するのか” の前には、
“無我だからこそ輪廻する” という項目があり、
ここがとても面白かった。

明治生まれの仏教学者である木村泰賢の
図式を使った説明が書いてある。

本とまったく同じ表記ではないが、
その意味するところがわかるように再現してみると、
次のようになる。

A ― A’ ― A’’ ー A’’’ ― An … anB ― B’ ― B’’ ― B’’’ ― Bn …
bnC ― C’ ― C’’ ― C’’’ ― Cn … cnD …… dnE …

A、B、C、D、Eは、
木村泰賢の用語でいえば「五蘊所成の模型的生命」、
魚川さんの言葉で言えば、その少し前で解説してある
「認知のまとまり」もしくは「経験我」()に当たるもの。

例えば「太郎」という名前の人がいたとする。
太郎は誕生時から死没時まで常に変化を続けていて、
そこに固定的な実体は存在しないのだが、
いちおうその「変化する認知のまとまり」を、
仮に「太郎」と一貫して名付けておくということ。
(図式のAあるいはBなど)

A ― A’ ― A’’ ― A’’’ ― Anというのは、
Aの時系列にしたがった変化。
(本では、nはAの右肩に小さく示されている)

そのように変化し続けるAは、
ある時点(An)で死を迎える。
そこで起こるのが転生で、
図式の「…」はそれを示している。

anというのは、Aの「経験的積聚」、
即ちAの積み重ねてきた行為(業)の結果。

Aの転生でBという新しい五蘊の仮和合を得たとすると、
Bの形はAと大いに相違しているようではあるけれども、
anが潜勢力としてはたらいている。

そしてそのBという認知のまとまりが、
また刹那ごとの変化を続けていく。

以下同様に、B→C→D→E…と
輪廻転生の過程が続いていく。

木村泰賢は、この飛躍を挟んだ変化の過程を
「蚕の変化」に喩えているらしい。

こういう話になると、私は
郡司ペギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』
を思い出すのだった。
 
「小学生が中学生になる」の誤謬は、しかし、具体的な個体、たとえば「信夫」を持ち出すことで解消される。小学生だった信夫が中学生になる。こう考えれば、何かが消え、何かが現れるといった不連続性は解消される。小学生、中学生は様相となり、これらを被る「信夫」によって同一性は担保される。
(郡司ペギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』p.111)


この本はかなり読みにくくて難しい本なので
とてもオススメとは言えないのだが、
私自身は買ってよかったと思っているし、
いつかこの本が読み込めるようになりたいと思っている。

その面白さの“予感”をお伝えすべく、
(そして、この記事で、この本を紹介したくなった
 その気持ちの理由をお伝えしたく)
最終章の最後の文章を引用したいのだけれど、
なにしろ締めくくりの文章なので、迷った。

この手の本にネタバレというものはないかもしれないが、
(ネタがあるとしたら結末よりそこにいたるプロセスだろうから)
その人なりの読み方というものはあると思うのです

それを邪魔してしまうのはたいへん心苦しいのです。
ので、迷ったのですが・・・

この引用部分を読んだために
読む意味がなくなる本ではまったくないので、
(逆に、ここがすごく面白いと感じられても、
 本全体が面白いという保証も
 まったくされない本です、はい)
末尾で引用することにしました。


ちなみに私は、

 「わたし」には現在しか許されない。

という一文につかまって、この本を買いました。


どんな本かのぞいてみたい方は、
数学教育ブログで78もの関連記事を書いているので、
そちらをどうぞ〜
http://math.artet.net/?cid=60283

ここをのぞいて、面白そう!と思われた方は
末尾の引用部分は読まずに
まずは本を読んでくださいませ!!

「読む必要なし」と即断された方は、
末尾の引用部分をどうぞ。

もうひとつ書いておきますれば、
ここを引用したいと思ったのは、
一法庵の鼎談を聴いたことも影響しています。
http://www.onedhamma.com/?p=5136
関連資料:https://note.mu/neetbuddhist/n/nfa09cfd806ae

(つづく)

※ 間違いに気づいたときにはそのつど訂正させていただきます。

※ 引用はこの先です。

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 もちろん、時間が「わたし」からもたらされるわけではない。時間の議論を通して、主観的時間を作り出す「わたし」やわたしの意志、自発性は、脱構築され、「わたし」は解体を内在した形でしかもはや認めることはできないからだ。わたしの意志の中に、世界性、外部を経由した公共性が浸潤する。我々は、「わたし」の開設を、時間(=時間論)を通して実感し、主観・客観の相対性と同時に区別の実行性を、時間(=時間論)を通して肉体的に理解することになる。
(郡司ペギオ幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』p.251)
 2016.02.15 Monday 09:33 『仏教思想のゼロポイント』 permalink