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勘違いした「縁起」も「無我」につながり、さらに非常にややこしいことになってきた
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆

前回、自分は縁起を勘違いしていたかもしれない、
あるいは何もわかっていなかったかもしれない、
ということについて書いた。

一方、だいぶ前に、
ブッダは「自己」の存在を否定してはいないらしい
という記事を書いている。

当時は縁起につなげてはいないが、
縁起を勘違いしたままでも、
あの話は納得できるものだといまでも思う。

それどころか、
『仏教思想のゼロポイント』の終盤で書いてあることでさえ、
縁起を勘違いしたまま解釈できる、
下手すればそちらのほうが都合がいいとさえ
感じられてくるので、
ますます「えらいこっちゃ」状態。

まずは『仏教思想のゼロポイント』にしたがって、
無我の話と、ブッダが「自己」を否定していない話が
縁起とどうつながるのかをみていくことにする。

(きわめておおまかに我流でまとめていきます。
 今後読み込むうちに誤読に気づいたり、
 考えが変わったりしたら、
 そのつど訂正させていただきます)

ゴータマ・ブッダの仏教において目指されていることは、
衆生を迷いの生存状態にある現象の世界から、
迷いから脱した風光へと移行させることであり、
その手段は、
縁起の法則によって形成された苦なる現状について、
その原因や条件を徹見し、
それを消滅させること。(p.48〜49より)

その「苦」の意味するところは何かというと、「不満足」。
より根源的には「不満足に終わりがないこと」。

縁起によって形成された諸現象は無常であり、
そうした現象に依存した欲望の追求は、
常に不満足に終わるしかない。(p.52より)

(ここに輪廻転生の世界観が関わってきますが、
 いまは触れずにおきます)

不満足というのは、言い換えれば
「思いどおりにはならない」ということであり、
そのように己の支配下になく、コントロールできず、
思いどおりにならないものは、
私の本体でも所有物でもない。(p.53より)

全ての現象は原因・条件によって生じた一時的なものであり、
そこに実体は存在しない。
だからこそ、それらは「無我」である。
ゆえに、「無我」というのも、無常や苦と同じく
縁起という現象の根源的な性質の、
別の表現の一つに過ぎない。(p.55より)

(このあと「業」の話に入っていきますが、
 いまは脇においておきます)

(「四諦」もいまは省略します。
 渇愛の滅尽の話が出てきます)

というのが第二章の続きであり、
続く第三章(仏教における善と悪について述べた章)をとばして、
第四章に入る。

第四章は「無我」と輪廻の話なのだが、
「無我」に的をしぼって読んでいく。

「無我」というときに、
否定されているのは「常一主宰」の「実体我」。

常住であり、単一であり、
主としてコントロールする権能を有する(主宰する)もの。
(p.81より)

(断見・常見、無記についても省略します。
 「無記」というのはつくづく大事なことだと
 あらためて思いました。)

そのような常一主宰の実体我は否定されるが、
ブッダは経験我については必ずしも否定していない。

その否定していない経験我、
「自己を頼れ」という場合の「自己」とは
いったいどのようなものなのか。

それは縁起の法則にしたがって生成消滅を繰り返す諸要素の
一時的な(仮の)和合によって形成され、
そこで感官からの情報が認知されることによって
経験が成立する、ある流動し続ける場のこと。
 
 仏教に対するよくある誤解の一つとして、「悟り」とは「無我」に目覚めることなのだから、それを達成した人には「私」がなくなって、世界と一つになってしまうのだ、というものがある。だが、実際にはそんなことは起こらない。
(p.90)


ここまで読んでみて思うことは、
やっぱり勘違いしたままの「縁起」でも、
以上の話は成立するし、
十分理解できてしまうなぁ、ということ。

前回、自分の縁起の誤解がどこからきたのかたどったとき、
そのもとはつかめなかったけれど、
検索するうちにインタービーイングという言葉を
意識するようになった。

たとえばこんなページがある↓
http://interbe.info/

ティク・ナット・ハンさんの文献そのものを読んでいないので
いつか直接確認しなければと思っているが、
少なくとも松岡正剛さんは、インタービーイングを
「古典的な仏教用語でいうところの縁起」
と同義に考えておられると私には読めた。

ティク・ナット・ハン『禅への鍵』
http://1000ya.isis.ne.jp/0275.html

実際、ティク・ナット・ハンさんの
「一枚の紙に雲を見る」の言葉を、

 すべてはつながりあっている、
 あれがあるからこれがある、
 これがあるからそれがある、
 その連鎖のなかに私たちはいる、
 私たちはともにいる

と解釈すれば、
とても「縁起」っぽくなりはしないだろうか。

それぞれが「縁りて起こること」だから。

そして、ここでいうところの「つながり」は、
つい先日まで私が誤解していた(かもしれない)ように、
肯定しても不思議はないものであり、
受容したくなるものであり、
“何かいいもの"とまではいかなくても、
世界はそうなっている、その世界に私はいる、
というイメージにつながるものだと思う。

で、前回、気を遣って書名を出すことを控えたが、
どちらが正しいとか正しくないとかいう話ではないので、
やはり書名を出して引用しておくことにすると、
1冊だけ私の誤解につながりやすい記述を見つけたというのは、
小池龍之介『考えない練習』第2章の次の部分だった。
 
 誰かとの会話の声にしろ、会議の声にしろ、鳥や風の音にしろ、「聞くこと」がその場面だけで独立し、完結していると考えることは賢明ではありません。仏道では、物ごとはすべて因縁によって時間の流れを通じて結び合っており、影響し合っているからこそ、寄り合って起こるのだと考えています。それが「縁起」というものです。
 ですから、恋人としっかりとコミュニケーションがとりたいのであれば、職場の方々の話にもしっかりと耳を傾けること。
(小池龍之介『考えない練習』p.76)

実は『仏教思想のゼロポイント』の前半を読みながら、
私がいちばん思い出したのはこの本だった。

小池龍之介さんは初期仏教の人という印象があったし、
生活のなかでの実践を語った本なので、
それもおかしくない話だと思っていた。

なのに、縁起が違う。
(前後を省いてここだけで判断するわけにもいかないが)

さらに記憶をたどるにつけ、
柳澤桂子『生きて死ぬ智慧』を読んだとき、
私はこんな記事を数学教育ブログに書いている。↓

ものを一元的にみるということ

また、鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読んだとき、
そのラスト近くで
「本書が目指すところは,仏教哲学のひとつの実装形態と
いっても過言ではないのかもしれない」
と書いてあるのを読んでしっくりきたこともある。↓

鈴木健『なめらかな社会とその敵』を
教育関係者に読んでほしいと思う理由

ここに縁起の話は出てこないが、
私が誤解していた縁起のもとに理解することはできる。

このように縁起を"何かいいもの”と考えても、
「無我」の発想につながるし、
実体我を否定して経験我は必ずしも否定しない、
という考えにつなげられると思うのだ。

それどころか、さらに困った事態が待っていた。

『仏教思想のゼロポイント』のメインテーマである
解脱・涅槃とは何かについての第六章のあと、
ゴータマ・ブッダは「悟った」後、
なぜ死ななかったか、それがなぜ問題なのか、
というところから始まる第七章に入っていく。

そして、意味の判断も無意味の判断も失効したところから、
衆生への利他のはたらきかけを行おうとする人々の
心象はいかなるものであるのか、
について述べたところがある。

それを簡潔に表現するならば、
「遊び」と言うのが適切であると思う、と。

ここで「公共物」という言葉が出てくるのだ。
 無為の涅槃の覚知によって、渇愛から離れた眼で現象を眺めた時に、誰が教えるということもなく、ただ明瞭に自知されることが一つある。それは、いま・ここに存在している、「私」と呼ばれるこのまとまりが、他の全ての現象と同様に、一つの「公共物」であるということだ。
「公共物」という言い方が、正しいかどうかわからない。「私」と呼ばれる、継起する現象のまとまりは、「私のもの」ではないけれども、他の誰かのものでもないし、ましてや「みんなのもの」でもない。花が花のようにあるように、山が山のようにあるように、石が石のようにあるように、「私」はただそのように(tathā)ある。そこには意味も無意味もない。
(p.173/太字は傍点付き)

私は最初 tathā を tanhā と見間違えて
びっくりしてしまった。
「t」が「n」になるとタンハーつまり渇愛となり、
「どゆこと???」となってしまうからだ。

で、上記の「公共物」としての「私」、つまり、
いま・ここに存在している「私」と呼ばれるまとまりは、
先ほどの「経験我」といったい何がちがうのだろう??
という素朴な疑問がわいてしまうのだ。

もっといえば、この「公共物である私」を、
相互共存としての「縁起」で考えると、
とてもしっくりきてしまわないだろうか・・・
という大きな懸念が生じてしまう。

わたしはわたしだけで独立して存在してはおらず、
すべてはつながっている、
そんなわたしもあなたもすべては公共物、
という文脈で。


いったいここをどう考えればいいのだろう・・・


というわけで、ひきつづき大いに困っている。
困っているけど苦痛ではない。
むしろ久しぶりに楽しい、面白い。
(日常生活は苦の連続なのに!)

なお、「ただそのように」で私が思い出したのは、
岡潔『春宵十話』の「はしがき」だった。
私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。

(つづけざるを得ない)

※ もろもろ間違いに気づいたときにはそのつど訂正させていただきます。
 2016.02.11 Thursday 15:29 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 permalink