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芦田宏直の「ツイッター微分論」(9)/自分が卒業した大学の現在のシラバスを確認して驚いた
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。



このブログでは第9章だけを読んでいるが、
「学校教育の意味とは何か」
というタイトルがついた第7章については、
数学教育のほうでカテゴリーを作って書いている

そちらのほうの6月2日の記事で書いたように、
この本を読んでいると、
「最近の大学ってどうなってるの??」
と疑問符がとびまくる。

現在、中学1年生の保護者である私は、
娘の高校進学が公立になるか私立になるかで
経済的事情が変わってくるなぁ、
というところまではリアルに考えられても、
その先はまだわからない。

わからないけれど、
娘が大学に行きたいというのならば
それが可能な状況を作りたいし、
もし、行ったほうがいいと思う?ときかれたら、
「うん、行ったほうがいいと思うよ」
と答えると思う。

それは就職を見据えた意見ではなくて、
「本当の勉強ができる場所だから」
という意味において。

あんなに勉強の環境が整った場所は
他にないと思う。ないはず。なかったはず。
何しろ、専門家から直接指導が受けられるのだから。

しかし。

なんだか大学がえらいことになっている。

大綱化については上記リンク先の記事で書いたが、
「なんか不安だなぁ・・・」
と私が感じていたキャリア教育は、
不安どころの話ではないかもしれないと思えてきた。

ちなみに「第8章 キャリア教育の諸問題」については
親子ブログでカテゴリーを作って書き始めています

なんだかんだいっても、小学校の場合は、
「それっぽい教育」ですんでいるところが、
大学や専門学校などの高等教育の場合、
就職というものが目の前にせまっているので、
「それっぽい」ではすまされない。

もしかしてかけ算の順序にかまけている場合じゃない!?
なんてことを思ってしまった。
(ちなみにnoteで学習指導要領の検討をやっています。
 いまのところ、ここから5ページ。)

大学がこうなってしまったら、
人はどうやって勉強すればいいのでしょうか・・・

これまで大学の状況を感知していなかったことを、
大いに反省している。
が、いまがそのときだったのだろう。

なんでも「国」(と、とありあえず書いておく)は、
大学、短大に次ぐ第三番目の高等教育機関を
作ろうと考えているらしい。

これでしょうか?↓
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/
chousa/shougai/015/siryo/08052807/001.pdf


先ほど私がおおまかに「国」と書いた部署は、
芦田さんの解説によると、
厚生労働省、経産省、総務省、文科省あたりであるらしい。
まあ、そういうことになるのでしょうね。

つまり、専門教養主義ではなくて、
キャリア教育に特化する新しい大学を作る、と。

これってあれじゃないですか、私が親子ブログで触れた
「労働力を作るための教育」そのものじゃないですか。
算数ドリルの宿題で、「失うもの」はまったくないのか?

このような教育が目標とするものを、
芦田さんは〈力(りょく)〉能力と称している。
人間力、課題発見・解決能力、社会人基礎力、
コミュニケーション能力といった類のもの。

前回、メリトクラシー(学歴主義)のことを書いたが、
〈力〉能力を目標とするのは、ハイパー・メリトクラシー教育。

これは1990年代初めから始まった
自主性、個性教育、多様性教育というものの延長だ、
と書いておられる。

いまの大学は選択科目がすごく多くて、
「哲学」なんていうもっとも大学らしい科目はなくて、
あっても「人生論」「世界観」だとかの
科目になっているんだとか。

数学も「数と生活」、
英文学も「英語コミュニケーション学部」に
変わっているのだとか。

やっていることはシェイクスピアやエリオットだけど、
英語コミュニケーション学部とつけば
英語のできない者もやってみようかという気になる、と。

ためしに自分が卒業した大学はいまどうなっているのか、
とサイトで確認したところ、
学部のほうのカリキュラムはまあそんなところだろうと思ったが、
教養教育のシラバスをのぞいてびっくりした。

「コミュニケーション」という文字が
ドドドドドドドドドと並んでいるのだ。

一応、哲学とか日本国憲法とか線形代数学もあるけれど、
コミュニケーションの勢いにおされている。

ワードで検索してその数を確認してみたところ、
「哲学」15、「心理学」15、「日本国憲法」12、
「数学」49、「線形代数」32、「微分積分」34、「統計」10、
(ちなみに「幾何学」は0でーす (;_;))

で。

「コミュニケーション」は・・・

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大学はもう、コミュニケーションを学ぶところに
なってしまったのですね……
試験を受けて、お金を払って。

なんかもっと別のことに
お金と時間を使いたいんですけど。
(いや、私はもう入学しませんが)

芦田さんは第8章でこんな痛快なことを書いておられる。

 この種の〈力(ルビ:りょく)〉能力の特性の一つ一つは、学校教育(=若者)に特有な課題ではないということだ。「若年者」を離れれば、大概の大人は「コミュニケーション能力」を身につけているというのか。そんなことはあり得ない。世の中の組織の会議(民間であれ、官庁であれ)で、まともな議事が進行する会議がいくつあるというのか。ほとんどの場合は、「コミュニケーション」不全状態でしかない。大人の自分たちでさえコントロールできない「コミュニケーション」を、なぜ「若年者」に特有な課題(あるいは学校教育に特有な課題)であるようにでっちあげるのか。私にはそのセンスがわからない。その場合にでも、そもそも現場(=社会人の現場)にその種のコミュニケーション能力が不足しているのは、学校教育におけるコミュニケーション能力育成の不在にあるとでも言うのだろうか。

(p.257〜258)

まったくだ。

特に最後の一文は大きな声で読みあげたい。

私はずいぶん前に、ブログではなくて、
いわゆるホームページ(サイト)で
日記を綴っていた時期があり、
そこで「教育はゴミ捨て場じゃない」
というような内容のことを書いたことがある。

社会問題が、
何かというと教育問題に帰着させられるのがイヤだった。

教育は、だれにでも語れる。
何しろ当人が教育を受けてきているし、
親になれば子どもを通して教育と関わる。

だから、社会がおかしいと、
「いまの教育はどうなっとるんだ!」
ということになる。
とりあえず教育のせいにしておく。

だけど、いまの社会を作ってきたのは、
「むかしの教育」を受けてきた
あなたたちではないのか?と言いたい。

2002年指導要領反対運動のときに、
芦田さんのような問題提起があれば、
私ももっと考えたことと思う。

もっとさかのぼって考えなくちゃいけないことに
気づいていたと思う。

数学教育ブログでしつこく書いてきたが、
私はあのとき、「反対していること」そのものに
異議があったのではなく、
「その理由」に驚いていたのだ。

「え、そ、そんな理由で反対するの…??」と。
反対の理由を、そんなふうにしか表現できないの?と。

話をもとにもどすと、
なぜそんなハイパー・メリトクラシー教育が
盛り上がってきているのかというと、
その理由の一つに消費社会がある、
と芦田さんは話を続ける。

消費社会の深化は、
ストック人材をますます不要にしていく、と。

(つづく)
 2014.06.08 Sunday 11:02 『努力する人間になってはいけない』 permalink