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芦田宏直の「ツイッター微分論」(8)/近代の自由と主体性、そして教育の問題
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。



私はこのブログや数学教育ブログで
何を考え続けているのかというと、
ひとことでいえば、
「私はいて、私はいなくて、私はいる」
ということを考え続けているのだと思う。

それを考えるときの重要な手がかりが
「近代から現代へのつながり」
にあると自覚して久しい。

つまり私は、
「近代を乗り越えられなかった現代を
 いかにして乗り越えるか」
ということを考えたいのだと思う。

私が考えたい近代とは
「個人」と「自由」の時代。
あるいは「主体性」の時代といっても
いいのかもしれない。

歴史の時代区分としての近代については、
数学教育ブログ内で書いています。↓
http://math.artet.net/?eid=1421882

芦田さんは第9章の第2節、
「5 近代の問題」で、
近代的な自由の最大の限界(敵対物)は
自分が自分の意志や選択なしに生まれたことの
有限性(=出自)だと書いておられる。

何しろ、自分は主体的に生まれてきたのではなく、
親という先行者によって生まれたのだから。

すなわち、親は近代的に言ったらノイズ。

そういう意味で、
家族の存在と近代的自由とは対立する。

できれば家庭なしですませいというのが、
近代的な自由。

しかし、親から自由になるというのはあり得ない。

あり得ないが、そういう家族というものから
自由になるための最大の武器は、
近代で言うと学歴主義(メリトクラシー)だ、
と芦田さんは語る。

この学歴主義に対立する概念は、
階級主義、家族主義。

「学歴主義」という言葉は
特に日本では評判がわるいけれども、
歴史的には、人間を出自(所属する身分・階級)で
判断しないという考え方が基本になっている。

だから、たとえば東京大学さえ出れば、
家が貧乏人であろうと、犯罪者の息子であろうと、
社会的な差別からはとりあえず抜け出せる。

一方、自分たちの家柄だとか身分だとか、
それなりに同じ雰囲気(メンバーシップ)を
持っている人しかうちの学校には入れません、
というのが家族主義。

というわけで、学歴主義にフィットする
最適の選抜方法はマークシート試験ということになる。

ここに親の痕跡はついていない。

そういう意味で言えば、
〈人間性〉(パーソナリティ)というものを
選抜の対象にするということは、
すごく差別主義的だといえる。

その人の身なりだとかしゃべり方とか、
″総合的な”選抜基準は、家族や地域や環境、
そして生い立ちに縛られた
パーソナリティの評価になってしまう。

日本の学歴社会がすごく優れているのは
たった1日の受験(点数主義、○×ペーパー試験)で
決まるから。

それまでどんなにマイナスの過去をもっていようとも、
全部チャラにできる。

アメリカの大学の場合、大学に入るには、
高校のときにボランティア活動をどのくらいしたかとか、
親の推薦状がどのくらいかけているかとか、
高校の先生はどう評価しているのか、といった
″人間的”なことを聞かれる。

試験点数以外の家族主義的な履歴、
あるいは長い時間の評価を聞く。

それに比べて、
1日で逆転満塁ホームランが打てる
日本のマークシート方式こそ
ウルトラ近代主義だといってよい。

1日という短い時間だからこそ
逆転満塁ホームランが打てる。

で、ここからツイッターの話に入っていく。

 
芦田さんは、
ブログやミクシィをやり始めた頃に比べて、
ツイッターには遥かに衝撃を受けたという。

とんでもないものが出てきた、と。

人間主義的な差別は何で起こるのかと言うと、
その人間の観察を長いスパンで見ることによって起こる。

その意味でも、受験制度における
「たった1日」という短い時間は、
「自由と平等」に関わっていると言える。

差別には″長い時間”が関与している。

ツイッターはこの「たった1日」を、
140文字にまで縮めた。

「1日」ではなくて、
「いまどうしてる?」というように。

これが、短い時間で切り取れば、人間誰しもみな同じ
という話につながっていくのだと思う。

もしかすると、現在のツイッターは
芦田さんがツイッターを始めた頃とは
だいぶ雰囲気が変わってきているかもしれない。

しかし、「著名人もだいたいこんなもんなんだ〜」
ということはツイッター歴1年の私もけっこう味わってきた。

で、このあと検索主義の解消の話に入っていくわけだが、
すでに書いたように、
ツイッターはデータベース主義(ストック主義)を
やめようというというメディアであり、
したがってそれは〈専門性〉も解体することになる。

だから、著名人と一般人が対等に話をすることができる。

そして芦田さんはこのあと、
「ハイパーリンクの課題
 ------強力な学びの主体がないと機能しない」
ということについて語る。(6項の後半)

テッド・ネルソンが1960年代に示した
ハイパーリンクという概念は、
現在のインターネット利用の
思想的な源になっているとして、
次のように説明している。
 それは学ぶ順番(学び方)というのは自分が興味を感じる、自分がわかるということを基にして辿っていくことが、その人にとって一番いい学び方であって、学校教育体系のように小学校はまずやさしくて、中学校は中級で、高校・大学で難しいことを学んでいくというような学ぶ順序を他者に強制される筋合いはないというものです。頂上(目標)は同じであったにしても、学ぶ道筋は100人いれば100あるはずです。
(p.315)

これはまさに私が理想としてきた学習のあり方で、
そのことを数学教育ブログでずっと書いてきた。

しかし芦田さんは言う。

学ぶ順序を自ら切り開いていくというのは、
一所懸命学ぶぞというかなりの意欲が
前提にされないとやっていられない、と。

そういう意味で、e−ラーニングは
「いつでもどこでも」の上に
さらに「どんなふうにでも」
「自分の基礎能力と進度に応じて」
が付け加わっていて、
″自由な”分、強い学習意欲、
禁欲的なまでの学ぶ意欲を要求する、と。

しかし、〈学校〉は校門と塀と教室に囲まれていて、
学べる〈形式〉を整えている。
なんとなく学ぶ気にさせる仕掛けが存在している。
みんなが学ぶから学ぶというように、
〈学校〉の″不自由”はそれなりに意味を持っているのだ、と。
〈学校〉の″不自由”は、〈学ぶ主体〉なしでも学べることと引き替えの不自由でもあるわけです。
(p.316)

この芦田さんの意見は
大変ありがたいものであると同時に
(私がわかっていなかったことをわからせてもらった)
消化することを拒みたい意見でもある。

たぶん芦田さんは、
(そのあとに続く部分で書いておられるように)
「人は、普通は勉強などしたくないのだから」
ということを前提に考えておられるのだと思う。

でも私は、子どもというものは基本的に
「知りたい生き物」だと思っている。

特に幼児〜小学校中学年くらい。
もしかすると、この年代の子どもたちは、
どの年代の人間よりも、
〈わたし〉にではなく
〈対象〉に向かっているのではなかろうか。

〈主体〉がなくても、
〈学びたい〉と思っている。
たぶん、本人もよくわからないままに。

それがいつのまにか、
「知りたい前に教え込まれる″未成熟な人間”」
にされていっているのではなかろうか、
と感じることがある。

もしかすると芦田さんは、
子どもを「白紙」ととらえていて、
私は「一度、学校教育によってフォーマットされる」
ととらえているのかもしれない。

また、e−ラーニングの
「自由」の話はよくわかるとしても、
たとえば小・中学生の場合、
e−ラーニングで何を学び得るのだろうか?
ということを、
実際に提供されているコンテンツを含めて
考えたいという気持ちがある。

たとえばこのサンプルページ↓を見ると、

http://www.oemnavi.com/etrek.php
システムは新しいかもしれないが、
やっていることは学校の内容となんら変わらない、
という印象がある。少なくとも算数に関しては。
(三角形の「上底0」は珍しいけど…)

e−ラーニングの問題と、「学ぶ順序」の問題は、
分けて考えたいのだ。

芦田さんは、校門と塀で囲まれている学校では、
みんなが学ぶから学ぶというように、
なんとなく学ぶ気にさせる仕掛けが存在している、
と書いておられるが、
身体が校門と塀のなかにあれば、
〈心〉もそこにあるのだろうか?

そう考えるとあれですよね、
キャラクターの絵が入った文具を
学校に持っていってはいけない、
というような決まりがあるのもよくわかりますね。
そこから〈心〉がどっかに行っちゃいますから。


思えば
「勉強に関係ないものは持ってきてはいけません」
というのも当然のルールだ。

だけど勉強に使う消しゴムで、
″消しピン”できちゃうんだよな。

芦田さんはこう語る。
″関心”や″意欲”を超えていやいや勉強するからこそ、知見が広まり、世界も広がるのです。学校の〈先生〉というのはやる気のない者をその気にさせるから〈先生〉。やる気のある者になら、誰でも教えることができます。
(p.317)

確かに、たとえ「知りたい生き物」であっても、
知りたいことは偏っているだろうし、
そうそう根気も続かない。

″関心”″意欲”だけで開ける世界はしれている。
だから、〈先生〉は絶対必要だと私も思う。


というわけで、「じゃあどうやって″その気にさせる”のか…」
というところが結局いちばん難しいのだと思う。

いくら校門と塀で囲まれていても、
それだけで子どもたちは勉強はしない。

校門と塀で囲まれていても、教室にいても、これもんですから…↓
実話かどうかは知らないが)
(これ以上リンクはしませんが、関連度の高いQ&Aが下の欄にたくさん出てきます。)

そして芦田さんは6項をこう締める。
 ツイッターは、その意味で、検索=学ぶ主体の意欲と選択なしでネットを活用できる初めてのメディアだったとひとまず言えます。
(p.317)

(つづく)
 2014.06.07 Saturday 18:06 『努力する人間になってはいけない』 permalink