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心配を抱えながらも動き、最低限のことをする

岩田真理『流れと動きの森田療法』
読んでいる。



引き続き
第3部「森田療法を活かすには」のなかから、
「不快な感情を打ち消せない」のところを
読んでみたいと思う。

不快な感情をもよおすということは、
別に神経症の人に限ったことではなく
だれにでも起こることだが、
神経症の人はその感情を
いじくりまわしてしまうわけなのだ。

つまり、不快な感情を消そうとする。
そうしてそれにとらわれて、
そのとらわれが緩んできても、
快感情よりも不快感情のほうを
敏感に感じとってしまう。

心配になったり不安になったりするのは
「感情の事実」であり、自然現象なのだから、
意志で消すことはできないのに、
反復していじりまわして考え抜くうちに、
感情は刺激され不快感は増していく…
というのが森田療法が考えるところの
神経症の仕組みなのだと思う。

で、岩田さんは続ける。

「そのときにたぶん、身体は動いていません」

ふむ。

「座りこんで頭の中で
 ぐるぐる考えていることでしょう」

・・・ふむ。

そしてこう続ける。

心配を抱えながらも、動くことです。やるべきことは目の前に山積みになっているはず。のろのろと手を出し、いやいやながら、ひとつひとつ片づけていくのです(気分本位からものごと本位へ)。
 落ちこんでいるからと、ゆっくりと気分にひたるために家事を簡略化したり、会社を休んだりしていると、またそのことで周囲と不調和をきたし、ますます落ちこんでいきます。能率が悪くても最低限のことをしてみましょう。

(p.211)

この、のろのろでいいから、
いやいやでいいから最低限のことをする、
という言葉には「なるほど」と思った。

つまり、やる気満々じゃなくていいから、
テキパキじゃなくていいから、
とにかく手を出すってことですよね?
(って、ここでやる気満々とか
 テキパキとかっていう発想が
 出てきちゃうわけなのよね…)

これは、
不快感情にとらわれているときではなくても、
日常的に有効な発想だという気がする。

1こでも2こでも、
とにかく片づけていこうと思えば、
かたまった身体も動くかもしれない。

ただし、このあと
「もう少し深く考えてみると」
という項目のところで、
以下のようなことも書いてあった。

神経質の人は、自分のことで憂うつな気分になっても、
食欲が落ちたり、今まで興味のあったことが
面白くなくなったりすることはあまりないようだけど、
時として憂うつな気分が長く変化なく続いたり、
身体が異様に疲れたり、食欲が落ちたり、
興味があったこともやる気がなくなったりすることがある。

これは抑うつ状態のサインなので、
そんなときは我慢せずに
すぐに医師の診察を受けてください、と。

あるいは、少し休みをとって充分寝ることもいいし、
こういう人は、ふだんからできるだけ
規則正しい生活をするといいようです、
とも書いてある。

さらに「別のタイプの方」についての
アドバイスも書いてあり、
そこを割愛して先に進むと、
今度は「強迫行為がやめられない」
という項目に入る。

これも基本は同じで、
強迫観念や強迫行為そのものは
放っておく、
ということになろうかと思う。

また、強迫神経症の人は「観念」で生きているから、
実は身体感覚や感じをどこかに置き忘れている、
ということも書いてある。

というわけで、強迫行為をしながらも、
なるべく身体感覚を感じようとしてみることだ、と。

寒い夜に洗面所でずっと手を洗い続けて、
身体は寒くないのか? 疲れていないのか?
もっと自分に楽をさせてあげてもいいのではないか?

要は、「動く」こと、
そして「感じる」ことなのですね。

確かに神経症の人たちは、
頭のなかで生きているのかもしれない。

いま夢想していることは、夢想であって、けっして現実ではありません。

(p.211)

(つづく)

 2014.04.30 Wednesday 15:18 強迫神経症 permalink