<< 他人の評価を気にする神経質の人は、実は他人のニーズには関心がない。 | main | 心配を抱えながらも動き、最低限のことをする >>
着手恐怖という強迫観念(←結局やること遅くなるしたまるし気になるし...)
岩田真理『流れと動きの森田療法』
を読んでいる。



まだまだ痛快な言葉は続く。

いや、今回はほとんど「快」はなくて、
…」だった。

第3部「森田療法を活かすには」のなかの
「自分の完全主義が苦しい」について。

神経質者には完全主義者が多い。
(″ようです”とついてるけど、多いですきっと)

たとえば強迫神経症の場合、
完全に手を清潔にしたいとか、
まったく間違いのないように行動したいとか。

 その行為がまったく完全ではない
 (場合によっては逆)ということは、
 身をもって知っている。

 しかし、そうやって気を遣って遣って、
 ようやくいまのレベルが保てているのかもなぁ、
 と思うこともある。

対人恐怖の人は、
人前で立派にふるまえるようになりたい、
つまり、明るくて話し上手で
誰からも好感をもたれる
自分の理想の完全な人になりたいと思う。

普通神経症の人、不安神経症の人は、
完全な健康を手に入れて安心したいと思う。

みんな不可能なことを求めている。

神経症の思う「完全」は、観念でしかないのだ。

ちなみに自分の経験でいえば、
強迫神経症的気質の場合、
「自分のこだわりがある部分のみ」
完全であろうとするので、
その他の部分については逆に、
かなりおおらかというかいい加減というか、
テキトーな人に見えると思う。

中学生のときだったか、高校生のときだったか、
友人からこんなことを言われた。

その友人は私のことを普段から見ていて、
どうしてこの人はこんなにテキトーなんだろう…
と思っていたらしい。

しかしあるとき、
「テキトーってすごいな」
と思う瞬間があったらしく、
それを私に伝えてくれたのだ。
真面目な顔で。

いや、ありがたい話なんだけど、
そんなにテキトーだったんだ私、
と思いますよねやはり。

これとは逆に、
出会ったばかりのころ「繊細な人」と思われ、
実はそうではないとわかって
そのギャップが逆に強い印象として残る、
という経験もしている。

ちなみに、PTAで接した一部のママ友は、
私のことを「ミリ単位で作業する人」
「細かいことに気づく人」と
思っていると思う。

しかし、ミリにはこだわっても、
キロメートルに無頓着だったりするわけなのだ。

また、東日本大震災で原発が大変なことになったとき、
つきあいの長いママ友から、
「心配症のtataちゃんのことだから、
 九州に帰省してるかと思ってたよ」
と言われたこともある。

で、私は伝えたわけなのだ。
あのね、心配症すぎるから、コトが大きくなると
よくわからなくなるの、と。
だから逆に何もしない、できない。

そんな私に、
この一節がカコーンと与えてくれた一撃は、
次の記述だった。
 また完全主義者は、逆に仕事が遅くなったり、取りかかりが遅くなったりしがちです。きちんと立派なものを作らなくてはならない、立派に仕上げなくてはならないという欲求が大きく、そのために重圧が他の人より大きいからです。
 着手恐怖という強迫観念もあります。自分のやるべきことがあまりにも重く感じられて、いつまでも手が出ないのです。「早くやりたい、いい仕事をしたい」という欲求と、「やるのがこわい」という不安感との葛藤です。これも、苦しい葛藤です。
(p.204〜205)

ああ・・・

どうして森田療法の関係者は、
私のことをこんなによく知っているんだろう。

そう思いながら私は、
部屋の片隅で「寄付されるのを待っている」
娘のランドセルについて、
また、ため息をつくのだった。

娘のランドセルを、
あるところに寄付しようと思っていた。

「思い出だから捨てられない」
という感覚はほとんどなく、
どこかでだれかが使ってくださるのなら
できれば早めに、
カビなど生えないうちに
引渡したいと思っていた。

リサーチするところまで仕事ははやくて、
よし、ここに寄付にしよう、
と決めるところまでもはやかった。

しかし、なかなか行動に移せない。

それはなぜかというと、
まず、人様にあげていいくらいには
きれいにしなくちゃ…という思いがあり
これはとりあえずやった。
(着手するまで数週間かかったけど)

ところがそのあと、典型的な強迫問題が発生。

そこはランドセルの他に、
古着なども受け付けてくれるので、
娘がもう着ないと言っている
ニットワンピースとスカートを同梱しようと思い、
一度洗ったはいいが、そのときに、
「汚物がまぎれこんでしまったのではないか?」
という強迫観念が生じてしまったのだ。

一緒に洗った他のものは気にならないのに
(というか、そもそもあり得ないことなのに)
人様にあげる、寄付するものだから、
気になってしまうわけなのだ。

で、スカートのほうは、
もしかしたら今後も着るかもしれないと判断し、
寄付をやめることにしたのだけれど、
いただきもののニットワンピースは
娘の趣味ではなかったらしく、
どう考えても今後も着そうにない。

見た目もまったく傷んでいないし、
一度寄付しかけたので捨てるにしのびない。

しかし気になるのであれば、
とりあえずランドセルだけ
寄付すればいいじゃないかとも思うのだが、
そこはサイズごとに料金が決まっており、
ランドセルだけでこの料金(2400円)をつかって
寄付するということを、
いろいろ援助もしてもらっている
母子家庭のわが家が
やってもらってもいいものだろうか?
それだけのために集荷してもらってもいいものだろうか?
と気になってしまうわけなのだ。

せめてランドセルのなかにあのワンピースを入れて、
あるいは他の寄付できそうなものを入れて、
では部屋中をさがして寄付できそうなものを見つけてから…

ってな具合で、
ぐるぐるぐるぐるぐるぐる頭のなかを観念がめぐり、
やることリストのなかの
「ランドセル寄付」のメモもむなしく、
毎日のようにとは言わないが数日に一度は思い出して
気が重くなる日々。

きっとそうこうするうち
ランドセルをしまいこんでカビがはえてきて
ワンピースも着ないままで、
「あーあ」と思いながら捨てるのだよ私。

もう、聞くだに、めんどくさいし、妙な話でしょ?

これは一例であり、
その他にも「手つかずのまま気になっている案件」は複数。
自分でも疲れる。

仕事など締切があるようなことは
そうも言っていられないので
比較的はやめに着手するほうなのだが、
やってもやらなくてもいいこと、
やるかどうかを自分で決めてやらなくちゃいけないことは、
往々にしてこういう状態に陥ってしまう。

で、この本を読んで
「そうか、着手恐怖という言葉があるのか」
と知って、へんな話、
少しほっとした部分もあるわけなのだが、
ではどう考えるか…ということについて、
いろいろ書いてあるところを読み進んでいくと、
再びカコーンと一撃をくらった。

「自分を環境や他人にゆだねてみるという経験を繰り返す」
という話のなかで出てくる記述↓
 さて、協力者を得られたというとき、完全主義の人は時として、「まかせすぎてしまう」こともあります。オールオアナッシングの傾向があり、自分が0か1かになりがちなのです。放り投げるか、抱えて離さないかの両極端です。
(p.209)

ああ・・・

特にこれといって、
自分についての具体例を思いつかないのに、
なぜ身につまされるんでしょう。

たぶん、この感覚がわかるからだと思う。

放り投げるか、抱えて離さないか。

 ・・・ね。

  森田療法の本って面白いでしょ?
 (きょうは若干落ち込みぎみなトーンで…)

(つづく)
 2014.04.28 Monday 12:15 強迫神経症 permalink