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他人の評価を気にする神経質の人は、実は他人のニーズには関心がない。

岩田真理『流れと動きの森田療法』
を読んでいる。



いやはや、とにかく森田療法の話は
耳が痛くて痛快。

 それにしても痛快という言葉、
 「痛くて快い」だなんて、よくできている。

この本の第3部では、
実際の生活のいろいろな場面で
森田療法を活かすための
コツのようなものが示されており、
場面別に「こういうときにどう考える?」
ということがまとめてある。

他人の評価が気になるとき、
自分の完全主義が苦しいとき、
不快な感情を打ち消せないとき、
強迫行為がやめられないとき、
対人恐怖で人のなかに入れないとき。

で、最初の
「他人の評価が気になるとき」において
次のような記述があり、
またまた膝を打ってしまった。

 そしてもうひとつ踏み込んでみると、神経質の人は、「他人が自分をどう見ているか、どう評価しているか」を気にしても、その当の「他人」のニーズには、あまり関心がないと言えるのではないでしょうか。他人の目に映る「わたし」が心配なのであって、「他人」のことを本当に心配したり、親身になったりしていないことがあるのです。つまり、まずは「わたし」が来てしまい、相手の身になるのは二の次なのです。

(p.201〜202)

引用部分が前後してしまうが、
このことを理解するには

他人の評価や視線は自分がコントロールできるものではありません。

(p.200)

ということをおさえておくと、
話がわかりやすくなるように思う。

また、こんなことも書いてある。

 わたしたちは、「変な人と思われるのはいや」とか「優しい人と思われたい」と思って、どれだけ目の前の相手を損なう行動をしてきたことでしょう。
(p.203)

森田療法の重要な用語に
「思想の矛盾」
というものがあるのだが、
この場合でいえば、
善人になろうとすれば悪人になり、
悪人になろうとすれば善人になる
ということになろうかと思う。

自分が善人になろうと思って
人のために尽くしているつもりが
相手にとってはありがた迷惑になることがある。

森田正馬はこれを
「相手がお腹をこわしているのに、
 ご馳走をすすめて親切の押し売りをすること」
とたとえているそう。

相手の健康を思って、無愛想をして
自分が悪人になることはむずかしい、と。

これって本当に、
お中元・お歳暮とか、御礼とか
お返しといった″贈答の文化”に
あてはまる話であるような気がする。

相手がそれを求めているからというより、
そうしないと自分の気がすまないのだと思う。

そして、できるだけ相手に喜んでもらえるものを
選ぶよう努力するけれど、
結局、それは自分の好みや判断だから、
相手がどう思うかは結局わからない。
(直接たずねられる仲ならいいけれども)

ちなみに私自身も、贈り物について反省したことがある。
自分が困ってみて、はじめてそれに気づいた。

「自分が恥ずかしくないように」、
「非常識な人と思われないように」、
「気がきく人だと思われるように」
という気持ちで起こす行動って、
けっこう多いのではないかと思う。
 
それって結局、
他人の目に映る「わたし」を
私が見ているということであり、
他人を気にしているようで、
実は他人は眼中にないという
状況なのかもしれない。
神経質ではない人の場合も。

面白いなぁ…!

いや、面白がっている場合じゃないのだが。

自分の評価に必ずしも結びつかない場合でも、
相手の立場を察して行動していくことは、
とてもむずかしいことだけれど、
そういうことを頭の片隅にでも
常においておくのは大事なことでしょう、
と、岩田さんはこの一節をまとめておられる。

ちなみに、ではどう考えたらいいかというと、
恥ずかしいとき、悔しいとき、
「恥ずかしい」「悔しい」、
ただそれだけでいい。

座りこんだままいろいろ思いをめぐらして
その感情をいじくりまわしていると、
どんどん悪循環にはまってしまう。

そして人のなかにいるときには、
緊張しても、その場の話題や目的に
目を向ける努力をする。

緊張しているなら、緊張したままでいい。

自分のなかに湧き上がってくる感情を、
そのまま認めてあげる。

湧いてくる感情は異常でもなんでもない。
自然なものなのだ。
 
自然のままの人間は、誰でもそれほど「立派」ではなく、そしてそれでいいのです
(p.201)

(つづく)
 2014.04.26 Saturday 16:33 強迫神経症 permalink