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「これから注意しよう」とノートに書くより、「しまった!」を強く感じることのほうがミスが減る(かも)
岩田真理『流れと動きの森田療法』
を読んでいる。



次は、森田療法の「純な心/初一念」について。

最初に書いたように、この「純な心」は、
岩田さんに衝撃をあたえた概念であり、
森田療法の最終到達目標なのではないか、
という説もあるそうで、
岩田さんもそう思うと書いておられる。

私自身は、森田療法の本を読むなかで
この「純な心」に該当する概念には
あまり強い印象をもっていないのだが、
今回、なるほどと思う説明をきいて、
また新たなヒントをもらった気がした。

「純な心」というのは、
「きれいな美しい心」という意味ではない。

価値判断の入らないナマの「感じ」のことであり、
森田生馬は「あるがままの心」「すなおな心」
「心の自然」「初一念」というふうに
言い換えていることもあるそう。

森田療法の考え方は
修養主義的に誤解されることが多いそうだが、
修養主義とはまったく無縁なところにある、
と岩田さんは説明している。

たとえば、「仕事をするのがいやだな…」と思う、
その「感じ」が「純な心」。

これに対して神経症の人は、
「仕事がいやでたまらない自分は怠け者なのだ」
というふうに、自分を認めず、
感情に価値判断を入れてしまう。

つまり、どこかに理想の人間像を描いていて、
それに当てはまらない自分を裁いてしまうのだ。

で、なるほどなぁと思ったのが、次の具体例。

たとえば、仕事で、
今日電話をかけるべきところに連絡を忘れて、
相手の事務所はもう閉まっている、
というような状況のとき。

最初の感じは「しまった!」となるわけだが、
この「しまった!」を強く感じたほうがいい、
と岩田さんは言う。
「連絡ミスをしないように注意しよう」と、そんな標語をノートに書いても、しばらくすればそのノートのことすら思い出さないでしょう。
(p.190)

またまたウケた。

こういうところにいちいちウケては、
耳が痛いなぁと思いつつ膝を打っている。

「しまった、たいへんなことをした」
という体験は強く心に残るので、
それ以後、電話連絡のたびにこのことが甦り、
ミスは少なくなると思う、という話。

確かに、「もう同じ失敗はしない!」
とメモすることで、
そのことを片付けよう、辛さを忘れよう、
としている面があるのかもしれない。

また、教育と関連した次の記述も印象的だった。

森田正馬は今から90年近く前に、
観念的な教育の弊害を説いていたのだそう。

たとえば 「お年寄りには席を譲りましょう」
という標語で育ってきたら、
目の前にお年寄りらしき人がきたときに、
「この人はお年寄りだろうか?」
と観念で判断することになる。

あるいは、
「もしこの人が自分を年寄りと思っていなかったら
 席を譲ると怒られるだろうか」
という心配もしなくてはならない。

こういうふうに観念で判断せずに、
自分の実感で判断するなら、
お年寄りといわず、
障害者、妊婦といわず、
つらそうな人に席を譲ればいい。

相手がどういう状況か実感で感じ取り、
判断して行動する能力、
それを養うことが教育だと思う、
と岩田さんは書いておられる。

それがつまりは「共感能力」というわけだが、
「純な心/初一念」は「平等観の獲得」にも
つながっていくということが、
この一節の後半で書かれてある。

自分の自然な感情を感じ取れるようになってくると、
「かくあるべし」の胡散臭さが感じ取れるようになってきて、
論理にくぐらせてから事実を見るという癖にも
気づくことができるようになる。

そして、理想を尺度に事実を見るということも
少なくなってきて、自分を取り囲む現実が、
「わたし」の観念を離れて把握できるようになり、
直観というものが働きだす。

森田正馬は、治療の最終ゴールは
「直観から行動できるようになること」
と言っているらしい。

そして、直観を養うことは、
なにかの修行が必要だったりする
神秘的なことではなく、
「感じ」とそれにもとづく経験から養われる、と。

という話は、
pha著『ニートの歩き方』にあった
感覚を大切にすることにも
つながるなぁ、と思った。

そういえば、何年か前にきいた
臨床心理士さん(だったかな?)の講座で、
こんな話があった。

子どもが「学校に行くのめんどくさい」
とぼやいたとき、
「そうだねぇ〜めんどくさいね〜
 でも身体は行こうか」
と言って送り出すという話。

先のリンク先の話と
矛盾しているようにきこえるかもしれないが、
要は、「めんどくさい」という気持ちはそのままで
行動を起こせばいい、という例だったのだと思う。

それを、「めんどくさいと思っちゃいけない」
とねじふせると、妙なことになってしまう、
ということなのではなかろうか。

ちなみに先のリンク先では
「休んじゃえばいい」と書いたけれど、
実際にそんなふうにして、
熱や痛みといった症状もないのに
娘を休ませたことがある。

また逆に、
似ている状況で登校を促すこともある。

そのどっちにもっていくかは、
私自身の勝手な判断なのだが、
これまた私の「感じ」に
依存した判断なのかもしれない。

 ただし、娘の学校の
 スクールカウンセラーの先生には、
 「学校を休ませる必要があるかどうか、
  考えたほうがいい」
 という内容のことを言われたこともある。
 いや、そんなに長期間休んだわけでは
 ないのですが、考え方としてね。

(つづく)
 2014.04.24 Thursday 12:30 強迫神経症 permalink