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「外相整えば内相おのずから熟す」―――形から入る
岩田真理『流れと動きの森田療法』
を読んでいる。



森田療法のなかで出てくる用語の1つに、
「ヒポコンドリー性基調」というものがある。

自分の心身を過度に気にする傾向のことで、
普通神経症、不安神経症の人に剥き出しに見られるもの。

ちなみに、症状別ポイントのところ(p.101〜)で、
普通神経症に対しては、
「まず身体的な愁訴に対してお医者さんに行き、
 身体的な病変がないかどうか診てもらうことが大切」
と書いてある。
(この本を手にしている普通神経症の人は、
 言われるまでもなく、
 すでに病院に何件か行ってる気がする)

そして、病変がないとわかったら、
もう医者めぐりをやめることだ、と。

このことに関連して、p.83では、
「外相整えば内相おのずから熟す」
という言葉が出てくる。

つまり、
「形から入る」「形から整える」
ということ。

具合が悪くても、日常生活で
とりあえずできるだけのことはする。
今日は寝ていたいと思っても、
最低限のことはする。

身体を気づかって、
生活を身体の状態に合わせていたのを、
生活の形を整える。

つまり、
「あたかも調子が悪くないような振る舞いをする」

そうすれば、自分のなかにあった自然良能が、
自ずから働き出す、と。

これは、後半で出てくる
「あるがまま」や「純な心/初一念」にも
つながる話だと思う。

たとえば、家庭の手伝いを何もやらない人が
「ああ、たいへんだなぁ…」と思っていても、
何もやらないのであれば、
結局は思いやりのない、自己中心的な人。

ましてや、
「思いやりのある人になるには
どうしたらいいのだろう」
と思っているだけでは、
変化はいつまでも起こらない。

また、こんな例も示してある。
混んだバスで座席に座っていたら、
斜め前にお年寄りの方が立っていた。
席を譲ろうかと思うが、
ふと隣に座っている人が気になる。
自分が席を立つと、
隣の人が気まずい思いをしないだろうか、
あてつけがましくないだろうか。
いろいろな思いが次から次に湧いてくる。

そして自分は立てないまま、
そのお年寄りは降りていってしまう。

どんなに当人のなかでは
善意の観念がぐるぐるめぐっていても、
結局、思いやりがある行為は行っていない。
ということは、
その人は思いやりのある人ではないのだ。

結局、思いやりがあるかどうかって、
観念ではなく行動の問題なんだなぁ、
とあらためて思うことであった。

これは、不安の正体でリンクした
「自動車の運転における強迫神経症の様相と治療」
という論文からの引用部分にも関わる話だと思う。

つまり、強迫神経症の人は、
一見「良心的」と思えるこだわりをみせるが、
実は全然良心的じゃない、という話。
(もう十分わかっているけど、耳が痛いっス〜〜)

さらに、岩田さんの本の別のところで出てきた
「早起きの努力」のエピソードも面白かった。

朝に弱い岩田さんは、
「早起きのできる人」になろうと
努力したことがあるらしい。

しかし、どうしてもできなくて、結局、
「早起きしなければならない状況」
(用事を入れるなどして)をつくり、
実際に早起きをするようにした、という話。

つまり、「早起きができる人」に「なろう」と
するから無理が生じるわけであり、
そうじゃなくて、
「実際に早起きするような工夫をすればいい」
ということなんだと思う。

早起きできる人になるんじゃなくて、
早起きをすればいいのだ。

早起きをする人は、
早起きをする人だから。

なるほどねぇ〜〜

なんだかちょっと話がずれてしまったけど、
とにかく、まず「形から入ってみる」というのは
神経症の人ではなくても、
時と場合によっては有効かもしれない。


 なお、森田療法の適用対象は、
 森田正馬の時代には厳密に定められていたそう。
 現在はもう少し適用範囲が広くなっているようだけど、
 やはり向いている症状と、
 向いていない症状があると思う。


(つづく)
 2014.04.22 Tuesday 15:09 強迫神経症 permalink