<< 岩田真理『流れと動きの森田療法』(白揚社/2012年) | main | 「あるがまま」のパラドクス >>
「なにをしても無理です」という言葉に救われる不思議
岩田真理『流れと動きの森田療法』
を読んでいる。



森田療法の本にこんなにハマル前は、
森田という個人名のついた「方法論」に対して
ちょっと距離を置いていたように思う。

しかし、面白くなってくると、
そういうことはどうでもよくなってくる。

ちなみに森田正馬自身は、
自分の治療法を「森田療法」とは
称していないのだそう。

これは後世の人のネーミングで、
本人は「自然療法」と呼んでいたらしい。
(p.29〜30)

なにゆえ「自然療法」かというと、
心身同一論つまり一元論にもとづく
自然治癒力を生かした治療法、
という意味でとらえればよさそう。

 森田正馬本人は
 「自然に服従」という言葉を使っているそうだが、
 現代の語感では、これはなにかとても受動的で
 卑屈なニュアンスをともない、
 時代的な「ずれ」をもつ言葉かもしれない、
 と岩田さんは書いておられる。

森田療法の発想の根底には、
「人間は自然をコントロールできない」
ということがある。

しかもその人間自身が自然の一部なのだがら、
人間は自分でコントロールできないものを
自分のなかに抱えていることになる。

それをなんとかしようとするから
困ったことになるのであり、
そうじゃなくて、
自分の自由にならないところまで
責任を負うことをせずそれを認めていくこと、
というのが「自然に服従」の意味なのだろう。

ちなみに、先日読んだ、
枡野俊明『心配ごとの9割は起こらない』
のなかにも、

 「あるがまま」でいる
   ◆「どうにもならないこと」に心を注がない

という項目があり、
「たとえば、心臓の鼓動を自分で止められますか?」
と書いてあったりする。

岩田さんも心臓の例はあげている。

一方、枡野さんの本と岩田さんの本の間に読んだ、
玄侑宗久『禅的生活』では、
最初の一節で
「体も心もある程度コントロールできる」
ということについて書いてあって、面白い。
(これらは矛盾しないと思っているが、
 詳細はいずれまた)

ほんでもって、かつて森田療法に関連して
私の内側に私はダイレクトに手を出せない
という記事を書いたことがあるが、
今回私が岩田さんの本から得た会心の一撃は、
次の一文だった。
なにをしても無理です。
(p.103)

ウケた。

ちなみに、森田療法で症状を乗り越えるための
症状別ポイントの
「強迫神経症」のところで出てくる言葉であり、
「頭のなかの不快なイメージは自分では消すことができない」
の直後に添えられているもの。

森田療法の本を読んでいると、
こういう「痛快さ」を味わうことが多く、
よくひとりでウケているのだが、
この一言にもカコーンとやられてしまった感じ。

以前も書いたことだけれど、
なぜ森田療法が痛快かというと()、
強迫神経症に対する憐れみのようなものが
感じられないからだと思う。

もちろん、辛さはよくわかってくれている。
だれよりもよくわかってくれたうえで、
「結局、あなたって、
 自意識が高くて自己中心的で、
 欲望強いんだよね」
とさらっと指摘されてしまうわけであり、
普通ならばムッとしそうなことを、
爽やかに受け止められるというか、
それこそ「降参」できる感覚があるのだ。

そして今回、岩田さんの本で
他の本よりも強く感じたことは、
森田療法は症状を消すことが目的ではなく、
神経症の人がもっている欲望を
活かせるようになる、ということ。

欲望があるから不安がある。

欲望があるから葛藤がある。

ですよね〜〜

(つづく)
 2014.04.21 Monday 13:01 強迫神経症 permalink