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情報をいったん遮断することの意味
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んでいる。



私がもともと米田さんを知ったのは、
ノマドという言葉への興味がもとで
検索をしていたときに、
次の座談会を知ったのがきっかけだった。

佐々木俊尚×独自の生き方を開拓する5人
(安藤美冬・大石哲之・玉置沙由里・米田智彦・pha)
http://www.ustream.tv/recorded/19198532

全体的に面白い座談会だったのだが、
特に印象に残っている部分がいくつかあって、
そのうちの1つが、開始1時間3分〜6分30秒くらいのところ。

安藤美冬さんが、
「いま本が売れないのはなぜなのか」
ときかれたときにどう答えたか、という話のなかで
グルーヴ感という言葉を出されていて、
その流れを受けて米田さんが、
本は、ブログのように可変なものではなく、
いったん流れをとめて、ひとつの結論を出して、
えいやっと出さなくてはならないものであり、
それは大事なことなんだけれど、
新鮮度が保たれつつリリースされるか、
というのが難しいという、
そういう内容の話をされた。

この、「ひとつ流れをとめてえいやっと出す」という言葉が
とても印象深かったのだ。

  なお、この話題の最後のほうで、
  これから先は、
  「情熱大陸」といったドキュメンタリーは
  厳しくなるんじゃないか、
  という話も出てくるのだけれど、
  確かこの座談会の数ヵ月後くらいに
  安藤美冬さんが「情熱大陸」に
  出演されたのですよね?(^m^)
  面白いなぁ…

で、私は昨年末、
次のようなツイートをしたことがあった。


  おそらくこの前後で、
  米田さんのお名前を出したからだろう、
  そのことに対するリアクションの意味も兼ねてだったのか、
  米田さんがこのツイートを見つけてくださって
  「お気に入り」に登録してくださって、
  うれしくてニマッとしてしまったのだった。

思うに、発信するためには、
受信を一度完結させなくてはいけないのではなかろうか。
段階的に。
受信したものが、自分のなかで有機的につながるには、
やはり時間が必要なのではないだろうか。

私はTwitterを始めてもうすぐ9ヶ月になるが、
ブログとツイートを並行して書いていて思うことは、
これだけ“可変”のブログでも、ツイートに比べると、
やっぱりどこかいったんとめて、
「えいやっ」と書いているな、ということ。
どこかをいったん閉じている。

もちろん、ブログを書く間にも、
調べたいことやリンクしたいものを検索したり、
必要な情報をとりにいったりするので、
そういう意味ではネットにつなぐことも多いのだが、
「まだ形になっていないものを形にするための接続」
なので、「自分モード」になっている。

それと比べてTwitterは、
「きょうそういうことを考える予定ではなかった」
ということを考えさせられることが多く、
「先に刺激ありき」という感じがする。
これはこれでとても面白いことだ。

しかし、毎日毎日これを続けていると、
刺激に「反応」してばかりで、
刺激がないと考えられなくなるのではないか、
と思うことがある。

また、私の場合140字でおさまらずに
「→」でつないで連続して書くことも多いので、
そういう意味では確かにミニブログになっているかもしれないが、
(そして実際、ブログ化する道もあるのだろうが)
ツイートは過去ログが見つけにくく、
自分の発言の流れもつかみにくいので、
やはり基本的には「残す」ものじゃないな、
という感じがする。したがって、
「書き捨て」というイメージが否めない。

〔2014年4月10日追記:その後Twilogを設定して、
 過去の発言が検索しやすくなりました。〕

実際、Twitterというものはそういうものかもしれない。

だから、そういう意味では「今」の連なりが
Twitterのはずだけれど、
それは果たして「今」を見ている、
生きているということなのか?
と、自分自身で首を傾げてしまうことがある。

また、中身は移り変わっていくけれど、
パターンは同じ、という印象を受けることもある。

あの座談会で米田さんと佐々木さんが話していたように、
私も社会の構造が知りたい。

  いや、個人にも興味がある。
  個人から興味が始まる。
  だけど、私が選ぶ個人は、
  みんな同じことを言っているような気がする。
  それぞれのアプローチで。
  それが時代性、社会の構造ということかもしれない。

だから、Twitterのアカウントをとるまでの私は、
なぜ、こういうものがはやるのか、
なぜ、こういうものが受け入れられるのか、
それを知りたくて検索をしていた。
だけど、解説してくれているページを見つけられなかった。

佐々木さんは、米田さんが出された、
「新鮮度を保ちつつリリースする難しさ」という話を受けて、
時代の変化がいまものすごく早い、
テクノロジーがこれほどドライブしている時代は
あまりないのでついていくのが難しい、
というふうに答えておられるのだが、
結局、ドライブしているのはテクノロジーなんだよな、
と思う。

そして、テクノロジーをドライブさせているのは、
SNSの多くのユーザーではないだろう。

なんだかこの感覚、
「老い」について考えてたときと似ている。

どんなに食習慣や医療や文化が変わっても、
生物としての人間の耐性にそれほど変化はなく、
私たちは身体にかなりの負担をかけて、
老いを生きるのではないか、ということを
考えたときのあの感覚()。

人間って、そんなに急には変われない。

時間をかけて出版される「本」という形での
情報発信が古いものとなるほど、
人間の情報処理能力、情報発信能力、
判断能力、そして考えるスピードは、
進化していないのではないだろうか。

考えるには時間がいる。
まとめるのも時間がいる。
受けとめるのも時間がいる。

人間がついていけないものを、
人間が作り出せてしまう不思議。

私たちは知らず知らずのうちに、
「ゆっくり考える時間」を
失っているのではないだろうか…

テクノロジーの進歩は時間のロスを短縮してくれるはずなのに、
私たちはむしろ「時間」を失っているのではないか。

20世紀は、まだ終わっていないのかもしれない。

(つづく)
 2014.02.28 Friday 11:19 『デジタルデトックスのすすめ』 permalink