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米田智彦さんが語る、「二重扉化」の話が面白かった。
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んでいる。



きょうは「終章 ネットに頼らない幸せ」を
読んでみたいと思う。

これ、けして「ネットを“使わない”幸せ」ではない。

ネットはやっぱり便利なのだ。便利で楽しい。

だから、ネットのない時代にもどろうとか、
そんなことを考えたいわけじゃない。

そういうことではなくて、
ネットが登場してもうけっこう時間がたつので、
そろそろネットを
「使いこなす」時期にきているのではないか、
ということではないかと思う。

それは、ネットでできることをネットでやりつつ、
ネットではできないことを再確認する、自覚する、
ことが始まりになるのだと思う。

そのための、デジタルデトックスだ、と。

そうすることで、ネットをますます活用できる、と。

終章には、「二重扉化」の話が書いてあって、
面白かった。

米田さんはここ数年、自分たちを取り囲む世界が
「二重扉化」しているように感じている、という。

ネットやSNSによって、誰もが、いつでも、
世界中の情報が集まる巨大な情報空間へ
アクセスできるという最初の扉は開いた。

そこでは、誰もが無料で公平に情報を享受できる。
膨大な情報を共有することで、
豊かで便利な生活を手に入れた反面、
「否応なく他人と比べられる」世界が広がった。

 なお、この「他人と比べられる」世界については
 この少し前で触れてある。

しかし、実はその奥には
もうひとつの閉ざされた個室のような世界がある。

その扉を開けるパスワードや鍵は、
お金で買えるものでもなく、
ネット検索で探しあてることもできない、と。

米田さんが言うところのこの「個室」のイメージは、
コトが起きている「現場」や現実のコミュニティのこと。

ネットで見聞きすることはできても、
その先に当然リアルな、
そこに行って五感で感じなければ
価値がわからない場所やモノ、人のこと。
 その扉を開ける鍵は、自ら行動を起こして探さなければならない。
 ネットに「使われてしまう」状況にあると、僕らはふたつ目の扉があることに気づけません。
(p.164)

この「ふたつ目の扉」という比喩が面白かったのだが、
「個室」としてしまうと閉じたイメージがあるので、
私としては、「個の扉」としたほうが、
しっくりくるな、と思った。

自分が1995年末に初めてパソコンを買って、
インターネットを楽しむようになったころ、
「どんな時間帯でも家にいながらにして外出できて、
 散歩ができて、楽しいなぁ!」
と思ったことがある。

でも、結局やっぱり、家の中にいるのだ。
それはほんとの「外」じゃない。

そして、そういう物理的距離をものともせず
いつでもだれでもつながれる世界は、
実はけっこう「閉じているのではないか」と、
最近思う。

米田さんが「個室」という言葉を使ったのは、
自分自身が見出して、自らの行動によって開ける扉、
という意味での「個」だと思うので、
そういう意味では確かに「個室」かもしれない。

ネットという世界の奥にある、「個室=個の扉」。

まず、ネットにつながる扉を閉めることで、
自分という個室で「つながらない状態で」
落ち着いてものを考えることができる。

こちらは文字通り「個室」。

そして、ネットつながる扉を開けることで、
外のリアルな世界につながる「個の扉」を
見つけることができる。
その先にあるのは、個の世界ではないだろう。
 発想やアイデアのネタも、上質なエンターテイメントも、リアルな現場にこそあり、行ってみてそこで感じてみなければ本当のことはわからない、というのが僕が編集者として感じてきたことでもあります。
(p.164)

それは何も特別な場所、
特別なことでなくてもいいと思うのだ。

ネットを通してものを考えたことで、
あるいは新しい何かを知ったことで、
日常の風景が違って見えてくる。

リアルが違って見えてくる。

それだって、「個の扉」を開けた、
ということなんだと思う。

米田さんは終章の終わりのほうで、
 愛されたい、認められたい、そんな欲望がネットやSNSに渦巻いている時代にあって、自分が自分らしく主体的に生きていくこと。僕は、デジタルデトックスの真の目的はそこにあると感じています。
(p.167)

と書いておられる。

これは、私の「シンプルライフ」に対する興味に
とても近い視点だ。

いまはモノではなく、情報と、
情報を受信・発信させるツールが
消費社会を成立させているんだと思う。

情報と、「つながりたい気持ち」が
消費されているんだと思う。

ちょっと話はずれるけど、
最近買ったお徳用サイズのマスクの箱に
「使いきりタイプ」と書いてあったのが、
妙に印象的だった。

「使い捨てタイプ」とは書かないんだな、と。

たとえばTwitterの場合、
すぐにお手軽に反応できるから、
TLにはリアルタイムの情報が
どんどん流れてくる。
また、そうでないとTwitterの意味がないとも思う。

それはときにニュースの役割も果たしてくれて、
情報に疎い私にとってはありがたいのだが、
その一方で、
「かつて自分は、こんなに言葉を読み流し、読み飛ばし、
そして脊髄反射したことがあっただろうか…」
と思うことがある。

情報を、人の言葉を、人の気持ちを、
提示された問題を、読み捨てている。
あるいは、読みもせずに、捨てている。
けして読み切ってはいない。

何か調べ物があるとき、考えたいことがあるときに、
自分で検索した情報ではなく、
たまたまご縁があってフォローしている方の
そのときどきの考えたことや思いの言葉、
あるいはRTが流れているのだから、
そのひとつひとつにコミットしていては
身がもたないといえばもたないのだが、
結局、いまの自分の考えの文脈とは関係のない
「自分を最も刺激してくれるコトバ」を
待つともなく待っているような気がするのだ。
受身の姿勢で。

もちろん、自分の文脈を脱するというのは、
ときとしてとても大事だと思う。

だけど、Twitterをだらだらと読んでいるときに、
なんというのか、いまはまだうまく表現できないのだが、
「縁起」を人為的に崩してはいないだろうか…
というような、かすかな不安を感じることがある。


  ついでといってはなんですが(そして突然ですが)、
  松岡正剛・千夜千冊から2つほどリンクしておきます。↓

  ティク・ナット・ハン『禅への鍵』
  http://1000ya.isis.ne.jp/0275.html
  ※マインドフルネス出てきます。

  立川武蔵『空の思想史』
  http://1000ya.isis.ne.jp/0846.html


引用部分が前後するが、米田さんはこうも書いている。
 そんな時代にあって、都市生活の利便性や情報社会から降りなくとも、上手く泳いでわたっていくことを身体で覚えていくことはできるはずです。
(p.166)

私も、もう少し「個の扉」を開ける努力をして、
情報社会の上手な泳ぎ方を、
身体で覚えていきたいな、と思う。

(つづく)

〔おまけ〕
ちょっと関連した話だと思うので、
親子談義ブログからリンク↓
http://kodomo.artet.net/?eid=1229002

 2014.02.25 Tuesday 17:44 『デジタルデトックスのすすめ』 permalink