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日常的な「書き言葉=読み言葉」が生じさせるもの

米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んでいる。



1つ前の記事で、自分にとっての
「ネットを使うメリット・デメリット」
を書き出したが、そのうちのひとつである
「2.気が滅入ったり不愉快になる言葉を読む機会が
   圧倒的に増える。」
について、もう少し考えてみる。

実はこれ、本のなかの第4章に関わる話なのだが、
そちらの内容は私が考えているよりも
もう少し幅が広くて深いので、
またあとで読んでいこうと思う。

さて、前回書いたように、ネットがなかったころ、
私たちが触れる不特定多数に向けた「書き言葉」は
「書き言葉のプロ」が書いたものだった。

それは、ひとつの作品、ひとつの主張として
それなりの時間をかけて整理され、まとめられ、
編集等の他者の目も通った上で発表されたもの。

しかし、ネットで個人間が簡単につながるようになったいま、
そういう「書き言葉」のプロ、あるいはそれに近い人、
小説家やライターなどではなく専門領域は別にあるが、
書籍やネット上で不特定多数に向けての文章も書くような人の
日常的な言語活動を垣間見ることができるようになった。

で、そういう人たちのTwitterをのぞくようになって、
そっか、普段はこういう言葉遣いをするんだ〜
と残念に思ったことが数回ある。

なんだか著作物って、整っているぶん、
著者が人格者に見えてしまうんですよね。
いや、けしてネットで垣間見える姿が
非人格者というわけではないのだが、
「イメージと違う」と思ってしまうことがある。

こういう感覚って、著者本人が肉声に近い形で
直接メッセージを読み手に発信することが
容易ではなかった時代には、
読者は味わわなかったものだと思う。

そんなこんなで、若干残念な思いはしたが、
すぐにフォローをはずすということはしなかった。
(例外をのぞいて)

 

そうすると、読んでいくうちに
「人となり」のようなものが見えてきて、
「意外」が「納得」に変わっていくのだ。

というか、早い話、慣れていくんですな。

最初はちょっと残念だったけれど、
確実に有意義な情報をくれるし、
そのツイートのテイストが、だんだんと面白くなってくる。
その人らしいと思えるようになるというか。

逆にいえば、このくらいのクセというか、
何か突出したものがないと、
社会にメッセージを出す人にはならないかもしれない。

同じことが、職業や立場などがわからない人
(不特定多数を相手に仕事をしている著名人ではなさそうな人)

で、たまたまご縁があってフォローしている人にも言える。

まだ100名前後で、めったにツイートしない人も多いので、
常駐している人たちは限られており、
1つ1つの発言というよりは、その全体的な雰囲気、
そして何をRTしてくるかというので、
その人の「人となり」が感じられるようになってくる。

「人となり」というか、
その人が何を大事にして、何に怒っているのか、
ということが。

だから、最初はときどき違和感があっても、
だんだんと知り合いみたいな気分になってきて、
多少のことは気にならなくなっていき、
その人らしいな、と思えてくる。

しかし、その「人となり」の幅は
自分が日常生活(リアルの生活)で接する範囲より
圧倒的に広い。

さらに、web上ならではの言語感覚もあるだろうし、
どうしてもチクッとする言葉、
眉をひそめてしまう言葉に出会う頻度が、
ネットがない時代よりも増した、
というか激増したと思う。
自分に向けての言葉ではないのにも関わらず。

だから、その「チクッ」に脊髄反射しそうになることがある。
余計な刺激を受けそうになる。
で、それはあまりよくないということで、
読み流すようにすると、
「チクッ」はすぐに薄れていくのだが、
それは完全に消えるのではなく、
ほんのわずかな澱のようなものと化して、
自分のなかに少しずつ
蓄積されていっているのではなかろうか、
と最近思う。

この澱を侮ってはいけないのではなかろうか、とも。

自分のなかにたまるものは、自分を作っていくから。

「慣れ」と「ある程度の努力」で
不快なものを漉してできた上澄み、
すなわち「がっかり感を解消したい自分」
「いろいろな意見を受け入れようとする自分」
「いろいろな人を理解しようとする自分」
「しんどい思いを続けたくない自分」の影…
のようなものなのかもしれない。

また、一般の人にからまれている著名人の
非公式RTが流れてきたりすると、
「世間には、こういうとらえ方をして、
 こういう言葉遣いでからんでくる人が、
 こんなにいるんだなぁ」
と驚いてしまう。

もちろん、比率はどうかわからない。
そういう人たちが目立つだけかもしれない。

だけど、予想以上に多いと感じませんか?

世の中、けっこうキツイ人が多いんだなぁ、と思う。
というか、キツイ言葉、汚い言葉を使う人が多いんだなぁ、と。
ネットのない時代には、
こんなコトバにこんな頻度で触れることはなかった。
日常生活ではそういう人たちとのつきあいはないから。
(もちろん、ネットでキツイ言葉を使う人も、
 リアルではおだやかな言葉を使っているのかもしれないが…)

これもまた、「可視化」のひとつなのだろうか。

世の中には善意があふれているが、
それに負けず劣らず、
他人を否定したい気持ちが渦巻いている。

それは、ネットのない時代からすでにあったもので、
よりよく見えるようになった、というだけのことなのだろうか。

可視化されるものは、
可視化される前から存在しているから、
可視化という言葉があてはまるのか。

ネットで簡単に発言できるようになったから生まれた、
あるいは増殖・強化された、
ということもあるのではなかろうか。

書いてみて、自分がそう思っていることに気づく。
あるいは、そう思っていることになる。
承認されて強化され、否定されてまた強化される。

ということもあるのではなかろうか。

(もちろん、ヒトゴトではない。自分もだ。)

人によっては、インターネットが
「他人を否定・攻撃することで自分を確かめる比較的安全な場所」
になっているのかもしれない。

しかし、おそらく安全ではないのだ。
対外的にはもちろん、自分にとっても。

  勝間和代さんとちきりんさんの以下の対談で、
  開始24分50秒くらいから、
  匿名性の話になっていくのだが、
  26分45秒〜29分20秒くらいの勝間さんのエピソードと
  ちきりんさんとの会話がなかなか興味深い。
  http://www.youtube.com/watch?v=ZVmT2VVAwXs

そんなこんなで、
インターネットは便利だし楽しいのだけれど
一方で、ネット生活というものは
整えられていない・練られていない、
ネガティブなものも相当に含む
裸の「書き言葉」に日常的に接することでもあり
「話し言葉=聞き言葉」&「洋服を着た書き言葉」
だけの生活の頃にはなかった、
なんらかの悪影響を受けているのではないか、
と感じている。

しかも、気がつかないうちに、じわじわと。

そのあたりについては、本の第4章を読むときに、
もう一度考えてみたい。

(つづく)

 2014.02.15 Saturday 09:55 『デジタルデトックスのすすめ』 permalink