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「じわじわしみ出るパブリック」
坂口恭平『独立国家のつくりかた』を読んでいる。



きょうは、前回の記事で書いた庭師について。

坂口恭平さんを知ったばかりのころ、サイトに、
「4D GARDEN」というページがあるのを見つけた。
http://www.0yenhouse.com/4d_garden/

「面白いなぁ、探すの楽しかっただろうなぁ」
と思いながらそれぞれの写真を見たのだが、
坂口さんは基本的に、街を歩くのが
楽しくてしかたないんじゃなかろうか。

ふつうの人の何倍もの情報を、
「どっか、その辺」から仕入れているので。

坂口さんにとっての情報はネット上にあるのではなく
都市に、街に、界隈にある。
そうして受信機はPCでもスマホでもなく、
自分の感覚器だ。

「4D GARDEN」の庭たちは、
坂口さんが雑誌『エココロ』の連載で、
東京の庭についてフィールドワークをしていたとき
採集していたものらしいのだが
その中で特に気になったという庭の写真が
『独立国家のつくりかた』p.77に掲載されている。

車のまわりにいっぱい植木鉢のようなものが置いてある写真。
ボンネットや屋根の上にも。
まるで植物群に包囲され、侵食されたかのよう。

しかし、花壇がわりに車を使っているには、
どうも車が綺麗だ、おかしいな、
と思った坂口さんが庭師にたずねると、
明日の朝、もう一度来いという。

そして行ってみたときの写真が、
次のページに掲載されていて、
車のまわりに置かれていた鉢たちが、
すっかりなくっている。

庭師は毎朝、鉢植えを丁寧にどかして、
車を走らせているという。
しかも息子さんを駅に送るだけの500m。
車は動かさないと壊れてしまうので、
わざわざやっているらしい。

そして、駅まで送ってきてすぐに帰ってきては、
移動していた植木鉢をまた車の上にセットする。

大変そうに思えるが、庭師はニコニコやっていたそう。

しかも、植物を買ったことがなく、
つまりは0円ガーデンということになる。
道ばたで気になる植物があるとつまんできて、
小さなポットで育てる。
するとすぐに根っこが生えてきて、成長し始める。
ポットで育つと、車のボンネットの上に飾られる。

そのポットは、
庭師の家の向かいにあるアパートの壁沿いに
ずらっと並んでいたそう。
庭づくりのうまい庭師を見たアパートの大家さんが
「うちのスペースを使ってもいいよ、
その代わりちょっと管理もやってね」という
契約を結んだらしいのだ。

さらによく見ると、すべての鉢植えに
植物の名前が書かれた名札が差さっている。

たくさんの人がこの庭の前で立ち止まって眺め、
必ず植物の名前を聞かれるので、そうしているらしい。
 
「近くに公立の公園があるけど、地面はジャリだし、木なんかポツンポツンとしか立っていないから、やっぱりくつろげないもんね。公園ってのはうちみたいに緑で溢れて楽しくないと」
 僕はつい涙ぐんでしまった。庭だと思っていたものは、実はDIYでつくられた庭師による公立公園だったわけだ。庭のような、その土地を所有しているものが楽しむための私的な空間ではなかった。それは明らかにパブリックだった。庭師によるDIYなパブリック。
(p.79〜80)

坂口さんは、この庭のような方法論で生まれた公共を
「プライベートパブリック」と名付けた。
これこそが公共だ、と。

たとえば、いわゆる「公共施設」は、
いつも、いつの間にか出来上がっている。

必要ないとは言わないが、
別になくてもそんなに困らないものばかり。

そして、そこではゴロ寝ができなかったりする。
それならただの草原の公園のほうがまだ良い。

夜になると入れない、
中でお弁当を食べることができない公共施設なんて、
市民のための空間であるとはいえない。

そんなふうにして、
現在の公共施設は枠だけをつくっている。
箱モノだけをつくっている。
そこに膨大な税金が投入され、
必要あろうがなかろうが、
自治体の首長の指示だけで
いつの間にか完成してしまっている。

そして建築は増えるものの、
自分たちが自由に遊べる空間は実は減っていっている。
建築家も設計料は建築費の数%なので、
必然的にギリギリまで大きなものをつくろうとする。
 つまり、これらの公共施設ははじめから矛盾しているのだ。
 それに比べ、この庭師がつくり上げた公共の公園はどうだろうか。彼はまるで彼の体から香りが漂い、広がっていくように庭を、公園をつくっている。人間の体を起点にして少しずつじんわりと広がっていく公共の概念だ。
 僕はこれが公共だと叫びたい。プライベートパブリックこそが公共なのだ。人々が必要と感じ、お金を使って産業として公共施設をつくるのではなく、工夫をこらしてアイデア満載の公共を自らの空間を贈与してでもつくり上げる。
 これこそが人間の公共精神の姿だと思う。
 これを僕も見習いたい。
(p.81〜82)

坂口さんは、人間の体を起点にして、
「公」を考えている。
ここにも、pha的ニート道の核心との共通点があると思う。
しかも、phaさんはすでに、「なめらかな社会」を局所から実践している。
私は、この「プライベートパブリック」という言葉をきいて、
またまた鈴木健さんのことを思い出した。
別ブログでこんな記事を書いていたから。↓
鈴木健『なめらかな社会とその敵』を 教育関係者に読んでほしいと思う理由

やはり、みな同じ「いま」という時代のなかで
考えられていることだと再確認。

しかし、一方で。

そんなつもりはなかったのだが、
鈴木健『なめらかな社会とその敵』の
最大の論理的矛盾がわかってきたような気がしている。

いや、何度も書いてきたように、
私は鈴木健さんの提案に大きな拍手を送りたいと思うし、
その基本精神には共感している。

しかしおそらく、方法論が矛盾しているのだ。

「なめらかな社会」は、局所から始めないと実現できない。
いや、局所から始められることが、
「なめらかな社会」の意味のひとつの具現化ではなかろうか。

PICSYや分人民主主義も、
「枠」のない局所から始めることは可能だろうか?

(つづく)
 2013.10.07 Monday 15:01 坂口恭平 permalink