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「環境やシステムは何一つ変化させなくてよい」/私がとらえた"坂口恭平哲学"の核心
そろそろ『独立国家のつくりかた』に移りたいので、
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
から私が得た最大のメッセージについてまとめたいと思う。

この本は、路上生活者の暮らしぶりを綴ったものだが、
客観的な調査報告の体ではなく、
実際に自分自身が無職、無一文で
都会のまんなかに突っ立っている状態から、
「都市型狩猟採集生活」のノウハウを
少しずつ身に着けていく組み立てになっている。

なので、実際のマニュアルとしても使えそうな雰囲気だし、
「人間、どんな状態になっても、ぜったいに生きていけるよ」
ということを教えてくれる本に仕上がっているのだが、
私がいちばんドキっとしたのは、
「おわりに」の最後近くにある次の2行だった。
 環境やシステムは何一つ変化させなくてよい。必要なのは、きみ自身の思考の解像度を上げ、無数の視点を獲得し、創造的に生きる方法を見つけることだ。
(p.180)

このメッセージは、路上生活の範囲を超えて、
適用範囲の広い、汎用性のある哲学、方法論だと思った。

以下、本に書いてあったことはなく、
私が勝手にこの本から受け取ったメッセージをもとに、
考えたことを書いてみる。

『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』では、
路上生活者の暮らしぶりを見るという形で、
<都市の幸>について考えてきたが、
そこにある世界は、
いままで私たちが生きてきた世界と、
同じ世界なのだ。

なのに、見方によって見え方が変わり、
見えるものが変わる。

否、私たちはふだん、見えるものしか見ていない。
見ようとするものしか見えていない。

世界の、社会の、ある一部分、
たくさん重なった層の1枚ないし数枚しか見えていない。
あるいは渾然一体となって大きな地層となったものを、
ぼんやりとしか見ていない。

それは、具体的な「物」や「風景」についてもいえるし、
思考についても言えると思う。

そうして、何か困った状況があるとき、苦しいとき、
しっくりこないときに、
一部しか見えていない環境やシステムに問題があると考える。
わかりやすく言えば、社会に問題がある、と。

だから、環境が変われば、システムが変われば、
社会が変われば、問題がとりのぞかれ、
苦しさがなくなると考える。

逆にいえば、環境が変わらないかぎり、
システムが変わらないかぎり、社会が変わらないかぎり、
その苦しみはとりのぞかれないと考えてしまう。

「環境・システム・社会」のところに、
「他人」を入れてみるとさらにわかりやすくなるかもしれない。
いま、実際に何かに苦しんでいるとしたら、
それをもたらしている(と自分が思っている)具体的な相手を。

その相手を変えることが、どれだけ大変か。
あるいは、そもそも、変えることなど可能なのかどうか。
相手が(勝手に)変わることはあっても、
私が変えることなどありうるのだろうか。

もちろん、環境やシステムや社会を変えようとすること、
そのために働きかけることは大事だと思う。

しかし、坂口恭平さんのメッセージを受けて、
私は次の2つのことを考えたし、考えさせられたのだ。

まず、「鍵は自分の手の内にある」ということ。

自分の生きる世界を変えるための
もっとも有効かつ手っ取り早い方法は、
自分の見方・考え方を変えるということ、
坂口恭平さんの言葉でいえば、
「解像度」をあげるということ。

ものは考えようとか、見方を変えようということは、
これまでたくさんの人が言ってきたと思うのだが、
路上生活者の具体的な暮らしのディテイルに触れることで
その可能性があらためてせまってきたのだ。

ある意味それは、したたかな生き方とも言える。

 「したたか」は漢字に変換すると「強か」となるが、
 今回検索してみて「健か」とも書くらしいことを知り、
 ちょっと驚いた。

見方を変えようとしているようで、
考え方を変えようとしているようで、
意外と同じ層のなかでもがいている、
ということがあるのかもしれない。
しかもその層は、
自分が選んだ場所じゃないかもしれないのだ。

あるいは、迎合する、妥協する、現状に甘んじる、
あきらめる、うそをつく、ごまかす、
ということにもなってしまうものかもしれない。

そうではなくて、自分の知覚の層自体を転位させること。
そのときに、新しい地平(世界)が開かれる。

実は、自分なりにこのメッセージを受けとってから、
「いじめ問題」のことを考えていたのだが、
それに関する坂口さんのツイートをまとめたページに出会い、
やっぱりという思いを強くした。
このことについては、後日、
子育てブログに書こうと思っている。

そしてもうひとつ思ったことは、
環境、システム、社会を変えようとすることは、実は、

 「他人もそう思っているはず」
 「私と同じことを望んでいる人が多数派のはず」
 「社会のためにはそれがいいはず」
 「私が思っていることは正しいはず」

ということを前提にしているか、あるいは

 「他人はどうだかわからないけれど、
  私はそれを望んでいる、そちらのほうが都合がいい」

という気持ちを前提としているのではないか、ということ。

これはちょっと、考え込んでしまう気づきだ。

場合によっては、
「私はそれでは都合がわるいが、社会のためにはそっちがいい」
という考え方だってあるかもしれない。

もちろん、坂口恭平さんはそんなことは一切書いていない。
自分で勝手に考えたことなのだが。

さらに、ここから先はちょっと込み入った話になってしまうのだが、
鈴木健『なめらかな社会とその敵』に対する辛口批評について
のなかで書いた森田真生さんの書評の次の引用部分について、
あらためて考え込んでしまうのだ。
複雑な世界とつき合うために、膜は世界の複雑さを縮減する。一方で、世界の複雑さをそのまま環境の方に押し付けてしまう、という手がある。認知的な負荷を環境に散らすために、自分でしなくて済む計算を、環境の方に押し付ける。自分で計算をする代わりに、環境がうまく計算をしてくれるように、環境を作り替えてしまう。これこそ、複雑さとつき合うために生命が編出した「第二の手段」であり、筆者はこれを、広い意味での「建築」と呼んでいる。
途中の下線部分には、
『数覚とは何か?』(スタニスラス ドゥアンヌ著)
がリンクしてあり、
「環境を作り替える」の意味を
短絡的に考えることはできないのだが、
(これについては別ブログで後日ゆっくり考えたい)
あえて単純に考えるのであれば、
私が坂口恭平さんの
「環境やシステムは何一つ変化させなくてよい」
という言葉にドキッとしたことは、
順列組み合わせとしての人間、
個と全体の生物学(pha的ニート道の核心)

の後半で書いた、
PICSYや分人民主主義を「実装」するよりも、
pha的ニート道をまったりじわじわ広めていくほうが、
話がはやいのではないか、という気がしてきている。
ということと
つながっているような気がするのだ。
(そして、鈴木健さんと坂口恭平さんの双方に興味を
 もったことも矛盾していないのかもしれない)

だから、phaさんの本を通して坂口恭平さんに出会ったことは、
私のなかでとても辻褄があっている。

で、坂口恭平をもう1冊、と思い、
『独立国家のつくりかた』を手にしたわけなのだった。

というわけで、次は『独立国家のつくりかた』に
進んでみたいと思う。
 2013.09.09 Monday 12:00 坂口恭平 permalink