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「願いごと手帖」をはじめて3年9ヶ月めに思うこと

願いごと手帖」をはじめて約3年9ヶ月。
自分でも忘れていたのだけれど、
わざわざブログにカテゴリーを作っていたんですね私。

どうやら定期的に---1年に1〜2回くらいの割合で---
「願いごと手帖」をやめようかな、と思う時期がくるらしい。
2週間くらいまえにまたその時期がきたのだけれど、
結局また続けている。

そんな状態なので、
自分でも面白いというかめんどくさい話なのだが、
メタな願いごとも書かれるようになった。
書かれるようになったっちゅーか、
自分で書いているのだが。

たとえばこんなふうに↓

・「願いごと手帖」やっぱり続けてよかった!
 と思えるようになる。

・「願いごと手帖」を発展的解消しようかと思った意味が
 自分で腑に落ちる。

めんどくさいでしょ?(^^;

どんなときに、
「願いごと手帖」を発展的解消しようかと思うかというと、
たとえばこんなとき>「願いごと手帖」をとらえなおす

つまり、何か「願いごと」がかなったあとで、
不都合なことが起こったときなのだ。

「願いそびれていたことが、かなわなかったとき、
それがかなわなくて、
願い忘れていたことを自覚したとき」
と言い換えることもできる。

いや、そもそもそれは願ってもいないのだから、
かなわなかった、ということでもないのだ。

ついでに言えば、約2年前に、
こんな願いごとも書いている。

・願い事がかなったあとで嫌なことが起こらない。

つくづくめんどくさいでしょ?(^^;

あとから思い返すと、それも1つの勉強になって、
そこから何かを得ているのだけれど、
起こった瞬間には、それが起こったことのみならず、
自分がそこに思いいたらなかったことに対して
二重に落ち込むのだ。

それはいつもいつも些細なこと、
小さなことなのだけれど、
願いにあんまり焦点をあてすぎて
具体的にそれを描きすぎると、
その少しまわりの視野がぼやけてしまい、
そのぼやけた視野のなかで起こったことが、
逆に浮き彫りになってしまうというような、
そういう感覚。

なんでこういうことになるんだろうと考えてみたとき、
おそらく、不安解消のために「願いごと手帖」を使ったときに
そういうことが起こるのではないかという気がしている。

この手帖は、もっと、
「棚からぼたもち」で書かなきゃ意味がないと、
自分でもわかってはいるんだけれど。

さて、そんななか。

ちょっと面白いことが起きた。

ある土曜日の朝、
きょうは可燃ゴミの収集車がはやいなぁ、
と思っていたら、
ゴミ収集車の音ではなかったらしく、
なにやらマンションまわりで大掛かりな作業が始まった。

マンションまわりの木の枝を、
かなり大胆に、ばっさばっさと切っているのだ。

その結果、夕方にはベランダの向こう側が
すっかすかになった。
ワイヤーの塀越しにむこうの通りが見える。

そして、べランダに少しだけ陽がさすようになり、
ほんの少し部屋が明るくなった。

そのとき私は、「願いごと手帖」に書いた
ある願いごことを思い出したのだ。
2010年6月14日、つまりほぼ2年前に、
私はこんな願いごとを書いている。

・部屋が明るくなる。

さらには、もう1つ別の願いごとも思い出した。
それは2011年1月12日に書いた

・いつかきれいなキッチンのある部屋に住めるようになる。

という願いごと。
これは、

・キッチンがきれいになる

とは書かなかったわけで、
逆にいうと、前者の願いごとは

・いつか明るい部屋に住めるようになる。

とも書かなかったわけだ。

この微妙な違いが、自分でもなんだかおかしい。

おそらく、このマンションのこの部屋にいる間は、
キッチンが新しくなるということはないのだろう、と
私はそれをのぞんでいないのだろう、と、
そんなことも思った。

ふと気になって「叶」の漢字を調べてみたら、
「協」の異体字と知って、ちょっとびっくり。
「十」は「あわせる」という意味らしい。
そうなんだぁ・・・

 2012.06.17 Sunday 14:50 願いごと手帖 permalink