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どの時点での私の意思が、私の意思なのか。

たとえば延命治療拒否願いを
しっかりと書面でつくっておいたけれども、
いざそのときになったら、
やっぱり延命治療をしてほしいと思うことって、
ないだろうか。

その逆も。

しかし、事前に意思表示をしたのは
その段階で十分な意思表示ができない可能性が
高いからであり、
意思表示ができない段になって意思を変えても、
その変更を人に伝えることはできないということになる。

そう考えると、(受け取る側から見た)私の意思は、
すでに表示しているもの、
現在にもっとも近い過去の私の意思ということに
なるのだろうか。

延命治療拒否というような深刻な問題ではなくても、
日常的にこういうことってよくあるような気がする。

「あのときは気が動転していたので、判断力が落ちていた」
とふりかえってみたり、
「いざそのときになって、ようやく自分の本心がわかったよ」
と思ってみたり。

本当の自分の気持ちってなんだろう?



たとえば、いったん安楽死に賛成の意見を出した人が、
しばらくして反対の意見に変えた場合、
どちらがその人の意見になるのだろうか?
いまは反対ならば、それがその人の意見だろう。
では、その人がまた賛成に転じたら?

あんまり短期間に頻繁に2転、3転させると、
その人はもう信用してもらえないかもしれない。
いまはこう言っているけれど、
またすぐ意見が変わるにちがいない、というふうに。

では、意見を変えない人は、
変えないということだけで信用されうるか?

変わらないものだけが、本物であるか?

もし、変わらない意見だけが信用されるとしたら、
意見の交換や話し合い、
議論の意味はなくなってしまうと思う。

人が意見を変えるのは、
新しいことを知ったり、経験したり、
これまでよりも深く納得できる筋道に
出会ったりしたときだと思うけれども、
それを知らなかったり、経験していない自分は、
まだ本当の自分ではないのか?

意見を変えるということは、
自分の考えすべてが変わるということではなく、
自分の中にある確固たる“変わらない”大事なものに、
より近づく作業であるか?

安楽死に賛成でも反対でも、
その大事なものは変わっていないのか?

本当の自分の意見ってなんだろう?



そんなふうに考えていくと、
本当の自分って、
ないのかもしれないと思えてくる。

 2011.09.17 Saturday 07:12 生と死について考える permalink