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私自身の強迫神経症的感覚と行動のこと
強迫神経症というものを知ったのがいつだったか、
自分が強迫神経症的気質だと気づいたのがいつだったか、
いまとなっては思い出せないけれど、
たぶん20代以降だったような気がする。
また、症状が典型的になってきたのもその頃だったと思う。

さらに記憶をたどってみると、
高校生の頃も少しその傾向があった。
でも、まだ強迫神経症というほどのことはなく、
不安をなくすための些細な意味のないルールがあった、
というくらいのことだと思う。

年齢がいちばん低い記憶は、小学校5年生のときのこと。
当時、授業が始まる前に、
教室の右前方上に見える窓越しの空と、
左後方上に見える窓越しの空を見ないと落ち着かなかった。
意味はない。きっかけも覚えていない。
ただ、そういうルールがいつのまにかできていて、
実行していただけのこと。

右前方はともかく、左後方は振り向いてから見るので、
ちょうどその位置にいる席の男の子は
私の妙な行動に気づいたようで、しばらくしてから
「○○さんって、授業が始まったときに、
 こっちの方角を見るよね」と言われたことがある。
そのときには、
自分の密かなルールを見破られたというショックはなく、
むしろうれしかった記憶がある。
また、人に気づかれたから、覚えているのかもしれない。
こういうルールを強迫神経症的行動と行っていいのかどうか、
医学的なことはよくわからないが、
私としては、たぶんつながっていると思う。

あとは旅行に行くとき、
お守りの束(10数個)を箱に入れて持っていって、
同行の叔母に見つけられて恥ずかしかった記憶があるので、
やはり基本的に不安の多い子どもだったのだろう。
あれも小学生の中学年か高学年だったのではなかろうか。

しかし、わりと最近になって、
もっと小さいときのことを知った。
母親がどこかの子育て相談を定期的に受けていたらしく、
記録の中に「今週の(子どもの)口ぐせ」を書く欄があり、
「手にムシムシついていない?」と書いてあったのだ。
おそらく、私の強迫神経症の萌芽は、
幼児〜小学校低学年の頃からあったのだと思う。

現在は、あえて分類すれば不完全恐怖と加害恐怖があり、
よく「確認強迫」におそわれる。

外出時のガス栓チェックは基本中の基本なので、
逆に、自分なりの儀式ができてしまい、
それをこなすことでクリアできてしまっている。
これはひょっとするとよくないことなのかもしれない。

あとは、道を歩けば
自転車やバイクや赤いコーンを倒していないか、
しょっちゅう振り返って確認するし、
スーパーで買い物をすれば、
陳列棚のガラスを割っていないかチェック、
本屋や図書館に行けば、
手にした本のページを破っていないかチェック、
子どもが給食着を持って帰った場合は、
洗ったあとアイロン時に針が混入していないか入念にチェック
…という具合。例をあげればキリがない。

また、インターネットで検索することにより、
強迫神経症の人の体験談(その感覚と行動)が読めるが、
ずいぶん昔に見つけたページで、
鍵を閉めたかどうかの確認強迫についての記述の中に、
「自分の頭の中の泥棒は高度なテクニックを持っているらしい」
といったようなことが書いてあるのを読んで、
オオウケしたこともある。その自己観察力と表現力に脱帽。
“我が意を得たり”ならぬ“我が感覚を得たり”だった。
自分でも、確認強迫におそわれながら、
よくそんなこと思いつくよなぁ…!と感じることしばしば。

しかし、上記のようなところまではいかなくても、
たとえば「ガスの元栓チェック」などについては、
しめたがどうかが外出後に気になる人、
というのはそんなに珍しくないと思う。
たとえば、350日の節約生活さん>強迫神経症を読んでも、
それがわかる。
ある意味では、日常生活に必要な感覚と行動なのだ。
しかし、境目もあるのだ。

そういうふうに本やインターネット上で
強迫神経症について調べてみると、
症状にはバリエーションがあるとはいいながら、
強迫神経症の感覚や行動って、なんて普遍性があるのだろう!
と思えてくる。

  私はヘンだ。
  でも、ヘンな人は私だけではない。
  しかも、その“ヘン”の内容がとても似ている。
  なぜだろう?

日常生活はとりあえず送れているとはいえ、
強迫神経症的感覚および行動はとても面倒で、
人にも迷惑をかけがちなので、
治ればそれはそれでとてもうれしいと思っているけれど、
一方で、なぜ私と同じような人が、
こんなにたくさんいるのだろう?という興味もある。
たくさんいるということは、
私だけの事情や私の個性ではないということだ。
そして、たくさんいるということは、
治る道もないわけじゃないかもしれないということだ。
という興味も持ち方がまた、強迫神経症的なのかな…とも思う。
と思うところがまた、強迫神経症的なのかもしれない。
というふうに、エンドレスで“自意識”過剰なのだ(私の場合)。
 2010.07.21 Wednesday 12:10 強迫神経症 permalink