クリアにしたい

あれは確か
「部屋編」の3ターンめに入る
少し前のことだったと思う。

ごろんと横になって
「押し入れ、どうしよっかなぁ」
とぼんやり考えていたら、
「あ……クリアにしたいんだ」
という思いが浮かんだ。
押し入れのことに限らず。

自分がいま何をしたいのか
大事なことはなんなのか、
くっきりさせたい。

部屋をきれいにすることで
そうさせたい。
そうできるんじゃないか。
と思った。

すっかりすっきりはしない
と同じことで、
生活しているとクリアにならないことはたくさんあるし、
クリアにしなくてもいいこともたくさんある。

だからこそ安心して
できる範囲内でクリアにしていけばいいのではなかろうか。

「クリア」も「すっきり」同様、
相対的なものかもしれない。
しかし、少なくともいまよりすっきりさせれば、
いまよりはクリアになる。

原因と結果でも書いたように、最近、
最終的にはいろんなことを加齢のせいにしがちだ。
実際、そういう面は多々あるとは思う。

そうであればなおさら、
部屋と自分を澄ませていかなくてはいけないと思った。

それが、時間を大切にすることだ、と。
 

疲れる数字、疲れない数字

数「値」とすべきところかもしれないが、
ひとまず数「字」で。

わが家のテーブルの上にはいつも紙きれが置いてあって、
その紙きれには意味不明の数字が並んでいる。

なんのことはない、インターバル家事に使う
麻雀ゲームの点数の記録なのだ。
(麻雀ゲームの点数を
 時間や動きの数に変換して、
 家事その他をしている)

というわけで、私は毎日、
数字にまみれて暮らしている。

というか、数字に背中を押してもらって
生活をすすめている。

どうしてこういう数字が
生活を動かしてくれるのだろう?
と自分でもときどき不思議に思うので、
あらためて考えてみた。

そうしたら、身も蓋もない答えが出てきた。

たぶん、意味がないからだ。
区切りがあるということ以外の意味がない。

しかも、たまたま麻雀で取った点数、
あるいは失った点数という偶然性が
心地よいのだと思う。

わが家ではこれらの数字を
「麻雀の神様のお告げ」
とよんでいる。

そうはいっても、生きていくうえで、
いろいろな意味ある数字と関わらざるを得ない、
というか話は逆で、数字のお世話になっているし
数字を利用することができる。

生活に関わる数字を計算することは
基本的に面白いと感じる。
カロリーの計算や栄養素の摂取量の計算もそうだし、
光熱費の計算なども。

もちろん、ため息が出たり不安になることもあるけれど、
自分の暮らしの現状のあれこれが
数値化されるのは基本的に有効だと感じられる。

また、いまの状況でいえば、
ニュースで聞く新型コロナの感染者数が
小さくなっていくとほっとする。

こういうときの数字は、
状況を把握するために重要だと思う。
(もっとも、小さくなるとほっとする数字は、
 大きくなるときの不安とセットだけれど)

一方、数字に関して、
最近、別のあることを自覚した。

昨年から今年にかけて、複数のあることで、
慢性的・断続的にもやもやしていて、
それがどこからくるのか
一応、自己分析はしていたのだけれど、
あ、そうか「数字」だ、と気づいた。

大きいほうがいいとされる数字、
あるいは増減を意識される数字に
意外なところで接触して疲れていたのだ。

なお、大きい数字そのものには疲れを感じない。
たとえば、前澤友作さんが100万円のお年玉を
1000人にあげるらしいという話を聞いても、
HIKAKINさんが1億円寄付したという話を聞いても、
なんならビル・ゲイツさんの資産を聞いても、

それを抜いた人がいるらしいと聞いても、
すごいなー!と思ったり
尊敬の念が湧くことはあっても
疲れはしない。

日本中にマスクを配る経費に
意味がわからないと感じることはあっても
疲れはしない。

(もっとも、数字が大きすぎて
 ピンとこないという話はある)

しかし、「え、いまここで!?」というところで
「大きいほうがいいとされる数字」や
「増減を意識される数字」に出会うと
わりとダメージを受ける。

たとえていうなら、料理番組の途中で
トイレ洗剤のCMを見たような感じ。
排泄は大事だしトイレの掃除も必要だが、
いまじゃない。

家計簿の計算をしているときならいざしらず、
そうではないときに「結局は数字だよね」
という大いなる真実を示されると、
自分でも驚くくらい脱力する、
ということに気づいたのだった。

もっといえば、「結局、数字は大きさだよね」と
他ならぬ自分自身が考えていることを思い出して
それとどう折り合いをつけたものか
途方に暮れてしまうのだと思う。

もしかすると、
トイレ掃除をさぼっていることを忘れたくて
料理番組を見ようとしていたのかもしれない。
(だんだん比喩が限界になってきた)

料理番組を探してテレビをつけたのも
わざわざCMを見たのも私。

なので自分でなんとかできるわけで、
どうしようかなぁ、と思案中。

という文章を、麻雀の神様のお告げにしたがって、
タイマーで時間を区切りながら書いている。

ちなみに、麻雀の神様からのお告げの数字は、
わりとフレキシブルに使われる。
 

原因と結果

からだにまつわるあれこれのことを考えていると、
「原因と結果」「対策と結果」
で動こうとしている自分に気がつく。

何か不具合があったとき、原因をつきとめて、
その原因を排除することにより
不具合をなくしたいと願う。

何かよいことを起こそうとするとき、
それをもたらしてくれる事柄を探してきて、
とりあえず試してみる。

もっともこれは、自分だけの問題ではなく、
一般的なことだろうとは思う。

そういう「原因と結果」「対策と結果」
について考えていると、
次の4つのことにいきつく。


1.因果関係を見つけるのは意外と難しい
2.複合作用があるのではないか
3.私ならではの問題があるのではないか
4.結局わからないことはわからない


何かの状況をよくしたいとき、
それによいと思われることを
複数実行することが多い。

それで願いが叶うならばそれでいいのだけれど、
いっしょにやるとどれが有効だったのかわからない。

1つのことの効果を知りたければ
他の条件をそろえる必要があるけれど、
日常生活では難しい。

早起き対策については
自分で推測してみたけれど、
実際に何がよかったのかはわからない。

また、原因にしろ対策にしろ、
複合作用があるのではないか、
ということも思う。

あとは「相性」というものもあると思うのだ。

人間のからだと機能は共通しているから
あの人によかったことは
自分にもよい可能性が高いはずなのだが、
「わたしには向いていた」
「わたしにはあっていなかった」
ということは往々にしてあるものだと思う。

で、つきつめていくと、
結局、わからないことはわからない、
というところにいきつく。

ある程度の推測ができるときもあるけれど、
ほんとうにそうだったかどうかはわからないし、
推測もできないときがある。

推測できる場合はもう一度同じことをして
確かめる道もあるけれど、
白髪染めトリートメントの一件のようなことは
わざわざ確かめたくはない。

また、その他の小さいことであれば、
もう一度やっても再現できなかったりして、
「じゃあ、違ったのね」ということになる。

こういうことを繰り返しつつ
日常生活を送っている。

上記の話はたぶん、
科学的であることはどういうことか、
という話につながることだと思うけれど、
4については日常生活ならではかもしれない。

だから、科学の恩恵にあずかりつつ、
「対策と結果」を楽しみつつ、
あとは「わからなさ」とつきあったり
受け入れたりするしかないんだろうな、
と思う。

ちなみに私の場合、最近はいろいろなことを
「加齢」のせいにしている。

そして、娘が何か(病院に行かないレベルの)
不具合を訴えてきたときには
「季節」のせいにすることが多い。

気になりごとをそのままにしてみる練習

以前、
着手恐怖と、あとまわしの効能
という文章を書いた。

書いたはいいのだけれど、読み返すたびに
なんだか少し違うなぁと感じていた。

というわけで、
もう少しクリアにできるよう
再度チャレンジしてみることにする。

私が強迫性障害をもっていることは
何度も書いてきたし、
母と祖母にもその傾向があったことも書いたが、
基本、わが家の母の家系は強迫気質なのだと思う。

私や母や祖母は、わりとわかりやすい形で
強迫性障害として症状が出ていたけれど、
それ以外の親戚、身内で
別の形で気質が表れている場合があるな、
と感じることがある。

その場合は、きれい好きで働きもので、
フットワークが軽いという形で
ポジティブにあらわれる。

そういう気質と強迫性障害の共通点は、
「気になりごとを抱えていられない」
ということではないかと思う。

強迫性障害の場合は、
「不安を抱えていられないので、
 なんとかなくしたい」
という形で症状が出る。

ポジティブな形で出る場合は
「用事があるならはやくすませたい」
「気になることをそのままにしておきたくない」
という形になる。

その結果、きれい好きで働きもので
フットワークが軽くなるのではないか?

と勝手に分析している。

私の場合、残念ながらというかなんというか、
強迫気質がきれい好きや働きものや
フットワークが軽いという形では出なかった。

部屋は汚いし、怠け者だし、腰が重いし。

「抱えていられない」という気質を
強迫観念、強迫症状が一手に担っている。

書いていてわれながら悲しくなってくるが、
何が言いたくてこの話を書いているかというと、
「あとまわしにする」ということは、
「気になりごとを抱えてそのままにする」
練習になるのではないか、ということ。

「着手恐怖」の場合は、手をつけることが恐怖。
だからついついそのままにしてしまう。

「強迫行為」の場合は、手をつけないことが恐怖。
だからついつい動いてしまう。

そういう恐怖をそのままにして
やるべきことをやる。

そういう恐怖をそのままにして
やらなくていいことをやらない。

考えてみれば、これも結局、
森田療法の発想なのかもしれない。

やるべきことをやるより、
やらなくていいことをやらないという意味の
「あとまわしの効能」を
あのとき書きたかったのだ、きっと。

呑気なわりにせっかちで
自分でも困ったもんだと思うけれど、
もしかすると、
呑気をやめたらせっかちがなくなり、
せっかちをやめたら呑気もなくなるかもしれないと、
逆説的なことを思ったりしている。
 

「人間万事塞翁が馬」

「人間万事塞翁が馬」という言葉がある。

禍が転じて福となったり、
福が転じて禍となったりして、
人生の幸不幸は予測がつかない
という意味だと理解している。

昔からよく思い浮かぶ言葉ではあったが、
ミーニング・ノートを始めて3週間くらいの頃、
ノートを見返しているときに
いつもより強くこの言葉が頭に浮かんだ。

というわけで、この言葉について
少し調べることにしたのだが、
それがきっかけとなって
kindle版の本を3冊を買うことになり、
どれも正解で、
久しぶりの考えごともできて面白かった。

このことだけでも
ミーニング・ノートを始めた意味が
あるような気がする。

その後はまだ大きな発見はないけれど、
1年に数回でもこういうことがあれば
やる意味はあるのかな、と思っている。

ところで。

「人間万事塞翁が馬」
という言葉を意識するようになったのは、
娘が小学生のときに
この言葉を気にしていたからだったと思う。

どうしてこの言葉が気になったのか
最近、あらためて聞いてみたところ、
「夢があるのかないのかわからない
 微妙な言葉だと思ったから」
という返事がかえってきた。

なるほど確かに。

「塞翁が馬」とは少し違うけれど、
「人生、いいこともあればわるいこともあるよ、
 そのどちらもずっとは続かないよ」
という考え方もあるかと思う。

ゲンキンなもので、
よくない状態のときにはこの言葉を信じたくなり、
よい状態のときにはこの言葉を忘れたいと思う。
というか。たぶん忘れてる。

「塞翁が馬」の場合は、
いいこともわることもあるというより、
“転じる”ところがミソのような気もする。

直接関係のないことで
いいことやわるいことがあるのは
あたりまえだと思えても、
禍と思えたことが福となったり、
福と思えたことが福となったりというのが
「塞翁が馬」のもとの話なのではなかろうか。

ちなみに『ミーニング・ノート』では、
チャンスが3種類に分類してあり、
そのなかにスパイシー・チャンスというものがある。

普通はチャンスに思えないような
心がネガティブに傾く出来事を
チャンスとして捉えて次に活かそうというもの。

これもある意味、転じさせる作業かもしれない。

ただし、「塞翁が馬」の場合は
転じさせるというふうに
働きかけるものでもないと思う。

しかも、逆に転じる場合もあるわけだし。

とにかく、 ミーニング・ノートをやるようになって、
自分に起こる出来事を
以前より俯瞰するようになった気がする。

福は素直に福として喜び、
禍は素直に禍として受け入れるとしても、
「塞翁が馬」のような視点があると、
何かとジタバタしがちな自分も
少しは冷静になれるかなぁと期待している。
 

強迫性障害と非常時

私は強迫性障害をもっている。
おもな症状は、加害恐怖、不正恐怖、不完全恐怖。
不潔恐怖や縁起恐怖などもそれなりにある。

そんな人間にとって、疫病流行のこの状況は
ふつうに考えたらものすごいことだと思う。
日常生活が破綻してもおかしくないはずだ、と。

が、そうはなっていない。

強迫症状はなくなっていないが
特にひどくもなっておらず、
わが強迫の道を淡々といっている感じ。

どこで目にしたのか耳にしたのか
忘れてしまったけれど、
戦時下などの大変な状況では
強迫神経症の患者が減るという話を
聞いたことがある。

あるいは、災害時などのときに
症状が一時おさまる、と。

本当かどうかはわからないけれど、
そうかもなぁ、そうだろうなぁ、
と自分の感覚としては納得できる。

なお、現在のように
家にいる時間が長い場合は
強迫が悪化する要因にはなると思う。

なぜなら、確認する時間が十分にあるから。

その点については今回はおいといて
自分の感覚について書いておこうと思う。

もちろん、この状況だから不安だし、
人並みには気をつけているし、
それなりにナーバスになることはある。

しかし、このことで「強迫的」になることは少ない。

むしろこの状況下では、強迫性障害ではない人、
あるいは、強迫的なところがもともとあるけど
強い症状が出ていなかった人のほうが
強迫的になる場合が多いのかもしれない
と想像している。

結局、強迫性障害の私がおそれているのは
「自分の頭の中の世界」なのだと思う。

わかっちゃいるけどやめられないのが強迫の特徴。
自分が心配していることは現実ではないとわかっている。
しかし、どうしても頭の中の世界に負けてしまう。

だから、現実がすごく大変なときには
頭の中の世界が少し遠慮するのかもしれない。
現実の世界と頭の世界がリンクするわけではないらしい。

手洗いにしても、
頻繁に念入りに洗うことが推奨される状況なので、
やっていいわけなのだ。

つまり、「やってはいけない、やってはいけない」
と思うから、強迫に陥ってしまうのではなかろうか。

ということを、あらためて感じている。

ただし、不潔恐怖や疾病恐怖が強い人の場合、
強迫が強まるのかどうか、
どういう感じになるのかはわからない。

なので、あくまでも私の感覚ということで。

過去の不安がぜいたくに思えてくる

私は、年末年始やお盆など
病院が長めのお休み期間に入る前に
不安になるのが常だった。

病院が休みの間に
体調がわるくなったらどうしよう、と。

特に持病をもっているわけでもなく
いざとなれば休日診療もあるのに。

それを言えば2019年のゴールデンウィーク。
いつにもましてお休みの期間が長かったので
だいぶ前からうっすら緊張していたのを覚えている。

また、私はのどがひりつきやすく、
ひりつきがおさまらないときや
大事な用事が控えているときなどは、
たいした痛みではなくても病院に行っていた。

いまとなっては
なんてぜいたくな日々だったんだろう、
と思う。

行こうと思えばいつでも病院に行けたあの頃。

またあの日々はもどってくるのだろうか?
それはいつになるのだろうか?

きっともどってくると思うけれど、
自分の心持ちは変わる気がする。

というか、変えたいと思う。

行こうと思えばいつでも病院に行けることの
ありがたさをかみしめつつ、
必要以上に不安を感じないようになりたい。

 

何かにつけて、あたりまえのように思っていたことが

ありがたかったのだとわかるきょうこのごろ。

 

もとにもどると忘れてしまいそうなので、

記録のためにも書いておくことにした。
 

情報への触れ方

以前、ミニマリズムに関して
仕入れる情報をミニマルにできるか
という記事を書いた。

その後、別の意味で情報収集について
考えざるを得ない状況になっている。

内容は異なれど、テーマは同じ。
「いかにして有効な情報を入手し、
 余計な刺激を受けないようにするか」

現在私は、新型コロナウィルスについての情報を、
NHKのネットニュースとtwitterから入手している。

ネットニュースでは
日本や世界の全体的な動きを知ることができるし、
twitterからは世の中の雰囲気を知ることができる。

もちろん、twitterのタイムラインには
私が選んだ限られた人たちの
つぶやきが並んでいるだけなので、
それを世間一般とみなしては
いけないのだろうとは思う。

だとしても、それはそれで世間の動きであり、
ニュースではわからない世間の空気だといえる。

この状況なので、タイムラインから
受けなくてもいい刺激を受ける可能性も高いが、
それらを完全にシャットアウトするのも
なんだか違う気がしている。

ただし、触れすぎるのはよくないので、
時間は短く、回数は少なく。

そのような偶然の接触もよしとしつつ
能動性を忘れずにいたいと思う。
 

非常時は地震だけではなかったこと

「非常時は地震だけではないこと」
というタイトルの文章を書こうとしていたのは
2019年7月下旬だった。

ファイルだけ作っていて中身はないが、
おそらく台風のことを
書こうとしていたのだろうと思う。

想定される災害によって
準備は変わってくると思ったから。

あれから9ヶ月たったいま、
あのときには想像もしていなかった「非常時」を
経験している。

もちろん、歴史をふりかえれば
可能性はあったのだろうが、
自分事として考えたことがなかった。

最初は2009年の新型インフルエンザのことを
思い出していた。

あのときいろいろ心配して
籠る生活のための食べ物の用意などをしたけれど、
思ったほど大変なことにはならずにほっとした。

今回もそうなのかな……と、
少し思っていた時期があった。

しかし、そうではなかった。

そんな状況のなか、
「すっきりさせたい」
をテーマにしたブログの記事を
書いている場合ではないのかもしれないが、
私にとってはやはり書くことが
日々の安定と充実につながるので、
更新しようと思う。

ちなみにこのブログは、ある程度、
続けられそうなメドが立ってから
更新するつもりでいたので、
記事の候補は少しずつ書き溜めてあった。

しかし、こういう状況になると
どの記事から始めるのも抵抗があるので、
再開用に記事をひとつ書いてみたしだい。

きょう、しあわせであること

できるだけやりたいことをやって  

やりたくないことをやらない人生を送ってきたとはいえ、

長く生きていればやはりそれなりにストレスフルな時期はある。

 

そんなとき、

「ああ、これが終わったらどんなにほっとするだろう」

「ああ、この状況がなくなったらどんなにしあわせだろう」

と思ってきた。

 

でも、それが終わっても、その状況がなくなっても、

意外とさしてほっとしないし、しあわせでもない、

ということに気づいてからもそれなりに時間がたった。

 

なぜさしてほっとしないかというと、

次のストレスが待っているということもあるし、

待っていないとしても意外と平常運転にすぐもどるから。

 

よく「しあわせは来ない」という話を聞く。

“しあわせA”が得られたら次は“しあわせB”、

“しあわせB”が得られたら次は“しあわせC”

というふうに、常に上方修正されて、

キリがないという意味での「来ない」。

 

すごく卑近な例でいえば、片づけ途中の私の場合、

「これが手放せたらすっきりするだろうなぁ!」

と思っていたメタルラックを手放しても

すっきり感はほとんど瞬間的にすぎていった。

 

そして今度は、次の手放したいものが

手放せていないイライラがやってくる。

 

それを繰り返している。

 

ということに加えて、このトシになってくると

「いい経験になった」「これを糧にして」

という発想もできなくなっていく。

 

そうなるとどうなるかというと、

「結局、きょうしあわせじゃないと、

 しあわせってないんだよなぁ」

ということになってくる。

 

だから、一日のなかで、どこかの段階で

「ああ、きょうはきょうでそれなりにしあわせかも」

と感じられればしあわせなのだと思うようになった。

 

夜、寝るときにそう思うのもわるくないけど、

むしろ一日のはやい段階で

「何かいいことがあった日にしよう」

と考えるといいかもしれない。

 

「いいこと」はごくごく些細なことでいい。

窓掃除を1枚分やったとか、写真の整理を少し進めたとか、

気になっている案件について少し考えたとか、

きのうの不安が少しやわらいだとか。

 

とはいえ、ときどき頭のなかで、

現状とは違う理想の生活を思い描くことはある。

 

それは非現実的なことではないけれど、

自分の努力だけでどうにかできることではないし、

もしかしたら一生実現できないかもしれない。

 

思い描くのはそれはそれで楽しいが、

少なくとも今は実現できない。

 

実現できたとしても、

意外にどうということもないかもしれない。

 

だから「そうなればいまよりもっとしあわせ」と思うより、

きょう一日をささやかに楽しんだほうが確実だ。

 

そして、思い描く理想の生活の何が理想なのか、

なぜそれはいま実現できないのか根っこのところを考えていくと、

いまの生活のヒントになる。

 

ただし「きょうをしあわせにならなくちゃ!」

と力んでしまうとそれはそれで苦しいし

無理をすると反転して絶望感に包まれそうなので

しんどい日は「きょうはしんどかったなぁ」でいいのだと思う。

 

この文章はだいぶ前に書き始めたのだが、

ちょうどきのうがそんな日だったので、

日記に「辛かった」と書いておいた。

 

きょうは、この文章を仕上げている午前中の段階では、

さっき窓の光が気持ちよかったのと、

日々是好日という言葉を思い出したことが

しあわせだった。