きょう、しあわせであること

できるだけやりたいことをやって  

やりたくないことをやらない人生を送ってきたとはいえ、

長く生きていればやはりそれなりにストレスフルな時期はある。

 

そんなとき、

「ああ、これが終わったらどんなにほっとするだろう」

「ああ、この状況がなくなったらどんなにしあわせだろう」

と思ってきた。

 

でも、それが終わっても、その状況がなくなっても、

意外とさしてほっとしないし、しあわせでもない、

ということに気づいてからもそれなりに時間がたった。

 

なぜさしてほっとしないかというと、

次のストレスが待っているということもあるし、

待っていないとしても意外と平常運転にすぐもどるから。

 

よく「しあわせは来ない」という話を聞く。

“しあわせA”が得られたら次は“しあわせB”、

“しあわせB”が得られたら次は“しあわせC”

というふうに、常に上方修正されて、

キリがないという意味での「来ない」。

 

すごく卑近な例でいえば、片づけ途中の私の場合、

「これが手放せたらすっきりするだろうなぁ!」

と思っていたメタルラックを手放しても

すっきり感はほとんど瞬間的にすぎていった。

 

そして今度は、次の手放したいものが

手放せていないイライラがやってくる。

 

それを繰り返している。

 

ということに加えて、このトシになってくると

「いい経験になった」「これを糧にして」

という発想もできなくなっていく。

 

そうなるとどうなるかというと、

「結局、きょうしあわせじゃないと、

 しあわせってないんだよなぁ」

ということになってくる。

 

だから、一日のなかで、どこかの段階で

「ああ、きょうはきょうでそれなりにしあわせかも」

と感じられればしあわせなのだと思うようになった。

 

夜、寝るときにそう思うのもわるくないけど、

むしろ一日のはやい段階で

「何かいいことがあった日にしよう」

と考えるといいかもしれない。

 

「いいこと」はごくごく些細なことでいい。

窓掃除を1枚分やったとか、写真の整理を少し進めたとか、

気になっている案件について少し考えたとか、

きのうの不安が少しやわらいだとか。

 

とはいえ、ときどき頭のなかで、

現状とは違う理想の生活を思い描くことはある。

 

それは非現実的なことではないけれど、

自分の努力だけでどうにかできることではないし、

もしかしたら一生実現できないかもしれない。

 

思い描くのはそれはそれで楽しいが、

少なくとも今は実現できない。

 

実現できたとしても、

意外にどうということもないかもしれない。

 

だから「そうなればいまよりもっとしあわせ」と思うより、

きょう一日をささやかに楽しんだほうが確実だ。

 

そして、思い描く理想の生活の何が理想なのか、

なぜそれはいま実現できないのか根っこのところを考えていくと、

いまの生活のヒントになる。

 

ただし「きょうをしあわせにならなくちゃ!」

と力んでしまうとそれはそれで苦しいし

無理をすると反転して絶望感に包まれそうなので

しんどい日は「きょうはしんどかったなぁ」でいいのだと思う。

 

この文章はだいぶ前に書き始めたのだが、

ちょうどきのうがそんな日だったので、

日記に「辛かった」と書いておいた。

 

きょうは、この文章を仕上げている午前中の段階では、

さっき窓の光が気持ちよかったのと、

日々是好日という言葉を思い出したことが

しあわせだった。

 

むずかしく考えない

考えることは大事だし

人生いろいろむずかしいことはあるけれど、

むずかしく考えなくていいことまで

あれこれこねくりまわしてしまうことがある。

 

「〇〇だったらどうしよう」「〇〇しなければ」

というフレーズがぐるぐる頭をめぐり、

心の中でひとりディベートが始まる。

 

そういうときには

「むずかしく考えない」

という言葉を自分に1滴差して

行動の潤滑油にしている。

 

また、強迫観念につかまりそうなときは、

「信じる・あきらめる・観察する」

という言葉を使う。

 

やるべきことをやったこと、

やってはいけないことをやっていないことを、

信じる。

 

もしやっていなくても、 やっていたとしても、

あきらめる。

 

もう一度やることも、安心することも

あきらめる。

 

そして、それで何か不都合なことが起こるのか、

観察する。

 

実際は観察するところまでいかず、大抵、忘れてしまう。

ということは不都合なことは起こっていないのだ。

 

3つめの「観察する」は「様子をみる」でもいいのだけれど、

「観察する」くらい積極的なほうが、逆に、

「えー、だいじょうぶだよー」と、

もうひとりの自分が言ってくれる感触がある。

 

とにもかくにも、こういう短い言葉は

いざというときの呪文みたいになって

自分を助けてくれる気がする。

 

書くこととはまた違う、 言葉の力。

 

着手恐怖と、あとまわしの効能

強迫観念のひとつとして、着手恐怖というものがある。

自分にもバリバリにある。

 

着手恐怖という言葉自体は

 

  岩田真理『流れと動きの森田療法』

 

で知った。


自分のやるべきことがあまりにも重く感じられて、

いつまでも手が出ないのだ。

 

「早くやりたい、いい仕事をしたい」という欲求と、

「やるのがこわい」という不安感との葛藤。

 

私の場合、いい仕事をしたいというより

ミスがないようにしたいという気持ちがあり、

予期不安のようなものも手伝って

なかなか着手できない。

 

とはいえ、期限に遅れるのもいやなので、

期限を守れないということもほとんどない。

 

その結果、いつでもいいんだけれど

できれば早くやってしまいたいことが

いつまでも片づかずに残ってしまうのだ。

 

しかし。

 

最近、思うことは。

 

あとまわしにすることもわるいことばかりじゃないということ。

 

なぜなら、

「それを妨げている強迫観念が薄れる」

という経験ができるから。

 

あるいは、

着手できないその行動自体が

強迫行為の延長ということもよくある。

 

この場合は着手恐怖なのではなく、

強迫をやりすごしたということだと思う。

 

結局、しんどいのは

「はやくやってしまいたい」「はやくやらなくちゃ」

「どうして私はやらないんだろう、やれないんだろう」

と悶々と考え続けてしまうことなのだ。

 

また、期限があるものの場合、

なかなか手が出せないまま

「あれをやらなきゃなぁ……」

とずっと心のすみに抱え続けていて、

抱えている時間が長くなってしまう。


強迫の人は不安を抱えていることができなくて

強迫行為をやめられないのに、不思議な話だ。

 

なので最近は、保留にしていいもの、

つまり期限などがない

自分だけのやりたいことについては、

とりあえず保留にしてもいいことにしている。

 

強迫行為で何かを確認したくなったときも、

それが「あとでもできる確認」ならば

とりあえず保留にする練習をしている。

 

しかし「保留にしなきゃ!」とがんばると

また強迫チックになっていくので、

ちょっと自分の背中をおしてみてやれそうなら

やってしまえばいいと思っている。

 

強迫の場合でも、

2〜3分で終わるような確認なら、

もうやってしまえ、という感じで

やってもいいことにしている。

 

始めてしまうと2〜3分で終わらないのが強迫行為だから

これはあまりよいことではないのだろうが、

「強迫行為をやらないように」に陥るとまた大変なので。

 

とにかく、保留にしろやるにしろ、

「やらなきゃ」と思う気持ちを手放せれば、

強迫の時間につかまらずにすむように思う。

 

書くこととメンタルケア

久しぶりにブログの記事を書いていて

やっぱり自分は書くことが好きなのだなぁ、

としみじみ感じている。

 

ただし、以前とは違って

どこにも更新案内をしていないし、

現時点で読んでいるのは

たぶん私だけなのではないかと思う。

 

たまに何かのきっかけで

数名いらしてくださっているのかもしれないが。

 

今年の春まではライフログノートという形で

リアルノートに自分だけのためにあれこれ書いていた。

それはそれで楽しかった。

 

しかし、自分以外のどなたかが

読んでくださるかもしれない可能性を想定して

Web上で文章を書くというのは、

やっぱりそれなりの楽しさがあり、

自分の生活の活性化につながる。

 

「書くこととメンタルケア」

という言い方をすると、

個人的には認知療法的なものをイメージする。

 

実際、認知行動療法の専門家が書いた

ノート術的な本もKindleで持っているのだが、

あまり有効活用できなかった。

 

強迫や不安を書き出すことはあっても、

メンタルをケアすることを

直接の目的として書くことは

自分の場合、

意外とメンタルケアにならないのかもしれない。

 

それよりも、日常のあれやこれやを言葉にするほうが

結果的にケアになっているように思う。

 

やったこと、起こったこと、

感じたこと、考えたことを形にするのは、

記録としての意味もあるし、

外に出すことそのものに意味がある。

 

ブログのほかにもあれこれ書き出しており、

その際、お世話になっているのが表計算ソフト。

 

といっても計算機能を使うのはカロリー計算くらいだから

表作成ソフトというべきか。

 

毎日やることファイルに

いろいろなことを書き出しているし、

カロリー計算もこのなかにあるし、

ビタミン類をチェックするときにも使った。

 

その他、対応したいことのリストを作ったり、

そのときに考えたいことのシートを作ったり。

 

なお、ネガティブな気持ちを吐露する場所も作っている。

 

一方、九枠日記のほうは、いまはほとんど白紙で、

家計簿の残金チェックのほか、

日常的な記録を少し書いているくらい。

 

そしてもうひとつ、毎日ではなく

折に触れ書き出すことの有効性を感じるのは、

願いごと手帖エンディングノート

 

こちらは紙のノートとして保存。

 

前者は多くても年に数回、

後者はもう滅多に書き込みはしないけれども、

どちらも必要があるときに

気持ちの整理や確認に役に立つ。

 

こうやってながめていると、私はやっぱりしみじみ

「書く」ということのお世話になっているなぁ、

とあらためて思う。

 

森田療法以外の強迫性障害の本

森田療法についてはすでに書いたので、

それ以外の本の中から

今回は次の3冊(実質2冊)を選んでみた。

 

まずは、経験者である田村浩二さんの本。

 

  実体験に基づく強迫性障害克服の鉄則35

  実体験に基づく強迫性障害克服の鉄則 増補改訂

 

どちらかを買うなら

普通は増補改訂版のほうがよいように思えるが、

この本の場合、あえて古い前者を選ぶのもアリだと思う。

 

大事なことがコンパクトにまとめてあり、

ご本人がねらったとおり、

マニュアルとして仕上がっているので。

 

増補改訂版のほうは、症例も示されていて

内容はやはりこちらのほうが充実している。

 

ただ、1冊めとは若干雰囲気が違っていて、

強迫観念に対抗する表現が少し強く、

そこをどう感じるかは読み手しだいかもしれない。

 

もちろん、読み手に対して強いのではなく、

「強迫観念の思い通りになるな!」

という意味での強さ。

 

古いほうは常体、

新しいほうは敬体で書かれてあるのに

不思議なものだ。

 

もう1冊は、行動療法の本。

 

  図解やさしくわかる強迫性障害

 

森田療法が好きな自分が

ERP(エクスポージャーと儀式妨害)についての

本を選ぶというのも矛盾しているようだが、

症例やイラストも多く、読みやすくて、

かつ、内容も充実しているので、

強迫性障害で困っている人にはおすすめだと思う。

 

暴露反応妨害法については

だいぶ前に別の本を買った記憶があるけれど、

イマイチだったので手放してしまった。

自分には向いていないとも思った。

 

現在も行動療法は自分に向いていないと思うけれども、

読んでいて「なるほど」と思うところはあるので

参考にさせてもらっている。

 

なお、ERPを本格的にやる予定はいまのところない。

 

それにしても、こうやって強迫の本を読んで思うことは、

いろいろな症状があるのだなぁ、ということ。

 

自分自身が強迫歴が長く

その辛さをよくわかっているはずなのに、

「なんでそうなるの!?」

とびっくりする。

 

あるいは「それは思いつかなかった〜」

と思ってみたり。

 

自分のことを完全にわきにおいて

「そんなこと気にしなくてだいじょうぶなのに、  

 疲れるでしょうよ〜〜」

などと思ってしまう。

ほんと、どの口でそれを言う?という感じ。

 

実際、そういうふうに

強迫性障害の症状を客観的に眺める時間をもつと、

自分の行動も少し客観的に眺めることができて、

それだけでも一時的に、症状軽減に役立つ気がしている。

 

田村浩二さんが古いほうの本の「はじめに」で、

こんなことを書いておられる。

 

 薬などは確かに、精神科医でないと処方できませんが、強迫性障害を治す手助けは、なにも医者でないとできないわけではないと常々考えております。むしろ、その分野に明るくない精神科医に掛かるくらいなら、体験者の体験談を聞いた方が余程効果的だと考えます。

 

私もそう思う。

 

もちろん、日常生活に支障が大きく出ている人、

あるいは強迫性障害だけではなさそうな人は、

病院に行ったほうがいいと思います。

 

「あきらめる」健康法

小林弘幸さんの本を、もう1冊取り上げたい。

 

   自律神経を整える 「あきらめる」健康法

 

「ゆっくり」のほうと同様、

タイトルだけで「あ!」と思った人は、

タイトルだけで十分な本かもしれない。

 

私もタイトルだけで「あ!」と思ったのだけれど

そのココロを知りたくてKindle版を購入した。

 

この本で出てくる「あきらめる」を

他の言葉に言い換えるとしたら、

「切り替える」「変えられないことに執着しない」

「現状を受け入れる」「人のせいにしない」

というふうになるかと思う。

 

でも、「あきらめる」という一見ネガティブっぽい言葉のほうが

むしろ潔くて効果があるような気がしている。


ただし、森田療法の「ありのまま」と同様、

捉え方を間違えると反対の意味になってしまうかもしれない。

 

ここでいう「あきらめる」とは、もちろん、

投げやりになるとか、夢も希望もすてるとか、

そういう意味での「あきらめる」ではない。

 

また、「がんばってあきらめよう」とか、

「あきらめなくちゃ!」と思うこととも

少し違うと思う。

 

先ほど言い換えの言葉には含めなかったけれど、

たぶん、「次に行こう」がいちばん近い。


と、なんだか「あきらめる」という

言葉だけに注目してしまっているけれど、

実際、何か望まないことが起きて

その事態が変えられそうにないとき、

「あきらめる」という言葉を思い起こすと、

ほんの少しすっと心がラクになるのがわかる。

 

と同時に、もっと大事なことに目を向けようという気持ちになる。

あるいは、それは手段のひとつにすぎなかったことを思い出す。

 

結局「あきらめる」というのは、

状況をよく見ること、自分をよく知ることなんだと思う。

 

ちなみに著者は物事を明らかにするという意味で

「明らめる」と書いているところもあるのだが、

なるほど確かに「明らめる」かもしれない。

 

さらに、本の後半では、

「まだ起こっていないこと」について

くよくよ悩むことを「あきらめる」ことに

役立ちそうな方法も書いてある。

 

たとえば、朝に何か問題が発生して、

夕方まで状況がわからないとき、

その後に起こりそうなことと、

その対応策をすべて紙 に書き出す。

 

そうすれば、

「今の段階では、ここから先はもう考えても仕方がないな」

ということが見えてきて、

「あきらめる」ことができ、頭も切り替わる。

 

最悪の事態よりもましな結果だったら

「なんだこの程度か」ですむし、

最悪の事態だったとしても対応策を考えているので

バタバタすることがない、という話。

 

そういう話を聞くと、

昔、ネット上の相談掲示板か何かで見た

次の会話を思い出す。

 

とある心配ごとで検索をかけていたら、

私と同じように心配している人が相談していて、

その回答に、次のような意見があったのだ。

 

 「○○だったらどうしよう……」と考えるから不安になる。

 「○○だ」と考えて、その先どうするかを考えればいい、と。

 

ディテイルは忘れてしまったがおおよそ上のような内容で、

なるほどなぁと思ったのを覚えている。

 

「○○じゃない」「○○にはならない」

と思うための根拠を求めて

あれこれ調べたり考えたりすると

ますます不安になる。

 

それよりも、「○○だ」「○○になる」

と仮定して考えたほうが逆に心は穏やかになり、

しかも現実的に役立つ対策が立てられる。

 

現実に起こったことをあきらめるときには

それそのものをあきらめればいいわけだが、

まだ起こっていないことの場合は、

「よいことが起こる」「わるいことが起こらない」

ことそのものをあきらめるのではなく、

それについて悩み続けることを「あきらめる」。

 

「ゆっくり」のほうの本に、

焦ったときや緊張したときは「手を開く」

ということが書かれてあったけれど、

少し意味は違うとはいえ、

なんとなく相通じるものがあると感じている。

悩みや不安やもやもやを

しっかり握りしめてはなさないのではなく、

ふっとほどいて放ってあげる。

 

それが「あきらめる」、なのかもしれない。

 

そうすれば、あいた手のひらで

次のものをつかむ準備ができる。

 

ゆっくり話し、ゆっくり動く

できれば30年前、

でなければ20年前、

せめて10年前に出会いたかったなぁ、

と思う本がある↓

 

  小林弘幸『「ゆっくり動く」と人生がすべてうまくいく 』

 

でも、30年前や20年前や10年前に出会っていたとしても、

私はこの本を手にしていなかったかもしれない。

 

読んでいないのに役に立っている本で書いたように、

私は小林弘幸さんの本を3冊持っており、

最初に買ったのがこの1冊だった。

 

紙の本で買い、その後もスキャンすることなく

紙の本として保管している。

 

ということは

自分のなかで重要度が高い扱いをしていることになるが、

中身を何度も読み返したいからそうしているというより

背表紙が見える形で本棚に置いておき

タイトルにはっとさせてもらいたくてそうしている。

 

実際、この本を買ったのは、タイトルにはっとしたからだった。

 

著者いわく、まずは「ゆっくり話す」ことから始めよう、と。

 

私は自分が“おしゃべり”だということは自覚していたが、

よくしゃべるということのみならず

話し方に特徴があることに意外なことで気づいた。

 

強迫性障害である私は、電話で何かを問い合わせたり

会話で何かを確認するとき、自分の声を録音することがある。

携帯電話のボイスレコーダーで。

 

そのデータがかなりたまっていたので

あるとき聞き返してみたら、内容もさることながら

自分のしゃべりかたにびっくりした。

 

早口で無駄が多く、言い淀みや部分的な駆け足があって、

とても聞きづらい。

いままで自分と話してきた人たちに謝りたいくらい。

 

自分で聞いていても、

「この人は何をこんなに焦っているのだろう??」

と首を傾げてしまう。

 

で、ふつうに考えると、

ゆっくり話すために落ち着くことが必要に思えるが、

逆に、ゆっくり話すことで落ち着くということがあるのだと思う。

 

そして、「落ち着こうとする」ことよりも

 「ゆっくり話そうとする」ことのほうが具体的で実行しやすい。

 

動きについても同じことを思う。

 

子どものころは自宅にビデオカメラはなかったから

自分の動く姿を見る機会がなかった。

 

それが大人になり結婚して子どもが産まれて

あたりまえのように自宅にビデオカメラがあり、

子どもの様子を動画におさめる機会が増えた。

 

そうすると、自分の姿や声もそこにおさめられることになり、

日常の自分の姿を客観的に見る機会になる。

 

そうやって見た私の動きにも落ち着きがなく

なんやかんやでうろうろ動いており、無駄が多い。

 

動きと実際にやれていること、

しゃべりと実際に伝えられている情報量が

かなりアンバランスなことになっていると思う。

 

焦って動くからより焦り、

焦ってしゃべるからより焦るという悪循環。

 

なんて人生を送ってきたんだろう、と思う。

 

できれば30年前、

でなければ20年前、

せめて10年前にそのことに気づきたかった。

 

でも、とりあえずいま、気づくことができてよかった。

 

ゆっくり動くことはまだできていないけれど、

ゆっくり話すことは少しできるようになってきたと思う。

 

そんなことを言うと身近な人からは

「えー!?全然かわってないよー、

 あいかわらずまくしたてているよー!」

と言われるかもしれない。

 

でも、電話で何かを問い合わせたり、

だれかに何かを報告したりするときは、

以前よりゆっくり話すことを心がけている。

 

他人から見たらあまり変化はないかもしれないが、

ゆっくり話そうとすると自分の心持ちが少し変わるのがわかる。

 

そして、ゆっくり話すことができなかったとしても、

「あのときおしゃべりモードになっていたな」と

あとから自分でわかるようになり、なぜそうなるのか、

そのとき自分はどういう感じだったのか、

ということも考えるようになった。

 

ボイスレコーダーやビデオカメラがなくても

少し自分を客観的に見られるようになったのだと思う。

 

そして、「なぜそうなるのか」は

自分の深いところと関わっていそうなこともわかってきた。

 

ゆっくり話したりゆっくり動いたりすることで

「人生がすべてうまくいく」かどうかはわからないけれど、

少なくとも「ゆっくり」は悪循環を断ち切り、

良循環をもたらす具体的な方法だと思う。

 

森田療法のこと

強迫性障害のための治療法として

森田療法というものがある。

 

個人名がついた方法論には

抵抗を感じてしまいがちな自分だけれど、

何かのきっかけで関連した本を読むようになり、

すっかりはまってしまった。

 

ちなみにこの療法をつくった森田正馬自身は

森田療法とは言っていなかったらしい。

自然療法と言っていたらしい。

 

森田療法については「あるがまま」という

有名な言葉がある。

 

端的にまとめるにはよい言葉だけれど、

文字通りにとると誤解してしまいかねない

言葉でもあると思う。

 

現在、うちにある強迫性障害の本は14冊。

そのうち森田療法の本は9冊。

すべて紙の本として保管してある。

 

そんなに読んでも治らんのかい⁉

という話もあるが、

なんというのかもうすでに読み物として

コレクションしている感じになっている。

 

強迫性障害に関わる本を読むと、

「そうそうそうそう、そうなのよ!」

と自分のことをわかってもらった気がして

うれしかったり、

「へえ、そんな症状もあるのかぁ」

と驚いたりするのだけれど、

それとは別に、森田正馬の考えに触れると、

ある種の痛快さを感じる。

 

「結局、強迫神経症(強迫性障害)の人って、  

 自意識過剰で自己中心的なんだよね」

と言われているような気がして、

いっそすがすがしいのだ。

 

言い方をかえると、

強迫性障害に対する憐憫の目を感じない。

 

その正直さとピュアさ、

同じ地に立ったうえでの厳しさが小気味よく、

降参して、ふっと笑みがもれるような心持ちになる。

 

といっても、もし、森田療法を知らない人が

最初の1冊を選ぶとしたら、 そういう小気味よさよりも、

わかりやすさ、 やさしさを感じられる本のほうが

いいかもしれない。

 

その場合、私が読んだなかでいえば、

次の2冊のうちのどちらかがいいのではないかと思う。

 

 岩井寛『森田療法』 (講談社現代新書)

 明念倫子『強迫神経症の世界を生きて―私がつかんだ森田療法』

 

前者は精神科医が書いた本で、

それなりに有名な本なのではないかと思う。

森田療法の芯がくっきりすっきり示されたうえで

岩井寛独自の考え方・生き方も示されている。

 

後者は強迫性障害の体験者であり、

自助グループ「生活の発見会」などで

活動されている方の書いた本。

読みやすくて、全体的にやさしい雰囲気。

 

森田療法そのものに興味がある人は前者、

弱めの強迫性障害でいま現在疲れている人は

後者がいいかもしれない。

(強めの強迫性障害で悩んでいる方は

 病院へ行ったほうがいいと思います)

 

なお、森田療法にこだわらなければ

他にもいくつかよい本があるので

それについてはまたあらためて言及したい。

強迫性障害のこと

私は強迫性障害をもっている。

 

強迫性障害というのは、

外出するときに家の鍵をかけたのに

鍵をかけた気がしてしなくて何度も確かめたり、

手を洗ったのにきれいになった気がしなくて

洗い続けたりするような症状のある障害。

 

といってもこれらは典型的なもので、

症状は多岐にわたる。

 

一応、分類はあるが、内容は人それぞれだと思う。

 

私の場合、加害恐怖、不正恐怖、不完全恐怖があり、

日常生活に大きく支障はないから重度ではないけれど、

軽度ともいえないと思う。中度の軽めくらいだろうか。

 

重さはともかく、強迫歴は長い。

おそらく幼児のころからその萌芽はあったと思う。

たぶん、私の母も、祖母(母の母)も、

軽めの強迫性障害だったと思う。

こだわりの中身は違っているけれど。

 

専門家に相談したことも何度かあるし、

抗不安薬も処方されたことがあるが、

薬は効いた感じがほとんどなかった。

 

そんなこんなで、調子がわるくなったときに

相談できるお医者さんのメドは立っているが、

いま現在、通院はしていない。

 

通院しなくても生活できるくらいの状態を

一応は保てている。

 

それはそうとして、最近よく思うのは、

神様が私に強迫を与えたのかもしれないなぁ

ということ。

 

といっても試練とかそういう意味ではない。

 

「強迫あたえとかないとこの人アブナイ」

 

と思えるくらい、私は強迫以外のところの

危機意識そのほかいろいろな意識が低いので。

わかりやすく言えば、呑気で無頓着。

 

なので、ある程度の強迫を与えておかないと

すべてにおいてテキトーになってしまう。

かもしれない。

 

あとは、強迫で身を守っている部分も

あるような気がする。

 

メンタル面の脆さを強迫性障害が

全部、担っているというか。

 

逆説的な言い方になるが、

生活を進めていくため生きていくために

強迫性障害があるのかもしれない、

と思うことがある。

 

なので、強迫性障害を治すよりも、

強迫なしでやっていけるようになったら

おのずと症状は消えるんじゃなかろうか、

なんてことも思う。

 

消えていないということは、

まだ強迫なしでやっていけないのだろう。

 

もしかしたら一生かもしれないが、

まあ、それもしかたない。

 

さらに思うことは、私にとっては、

もうすでに強迫が

自分のアイデンティティになってしまって、

私自身ががっちりつかんで

手放そうとしないのではないか、ということ。

 

治りたいと思っている一方で、

私自身が強迫をつかんではなさないのではないか。

 

そんな感じもしている。

 

ただ、やっぱり強迫があるとつらいので、

もう少しだけ症状を軽くしたいなぁ、

と思って日々をすごしているのだった。

 

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