部屋とモノのニュアンスとバランス

ネット上で、すっきりとしたお部屋の
すっきりとしたお洒落なアイテムを見ると、
あらぁ、素敵ねぇと思う。

が。

それらと同じものを1つ2つ買ったとしても、
私の生活はたぶん変わらない。

そのアイテムはその部屋だから似合うわけであり、
わが家ではきっと浮いてしまうか埋もれてしまう。

もっとも、一点突破の道の可能性はあると思う。
とても素敵なアクセサリーをひとつ買ったことで
洋服にも気をつけるようになり、
ついでに体形も気にするようになって
全体が変わっていくというように。
(経験談ではなくイメージ)

ということの、部屋バージョンが
起こらないとも限らない。

だから、それを手に入れたい気持ちが強ければ、
買ってみるのも一手だと思う。

が。

その場合、「全取っ替え」という事態に
ならないとも限らない。

となると、お金か時間をかける必要が出てくる。

そんなことを考えていたら、
自分を動かすための言葉が
またひとつ浮上してきた。


「その前にすることがあるよね」
「その前にできることがあるよ」


まだ捨てきれていない不要なものを捨て、
掃除をして、できる範囲内できれいな空間をつくり、
きれいな空間の状態を維持する。

その「素敵なもの」や類似品の購入の検討は
それらをやってからでも遅くはない。

そしてたぶん、そうこうするうち
「まあ、なくてもいいか」
となっていく可能性は
かなり高いと思うのだった。

ところで
実際にこういう経験がそんなにあったっけ?
とあらためて思い返してみるものの
皆無でもないけれど、さして思い出せもしない。

ただなんとなく、
こういうことを考えたくなる
段階なのではないかと思う。

最近の文章の傾向が、そう語っている。
 

何を優先させるか

現在、わが家のお風呂場では、
ボディーソープもシャンプー、コンディショナーも
袋のままセットできる半透明の容器に入っている。

サイズが大きく中のパッケージの柄が見えるので、
見た目にこだわる人にとっては
許しがたい光景かもしれない。

いや、私もできればシンプルにしたいのだ。
実際、過去には無印良品のボトルを
使った記憶もある。

しかし、容器に移し替える方式だと
容器を洗うひと手間ができてしまい、
たまにやればいいことだとはいえ
地味にめんどくさい。

それから、基本は置き場所で判断するとはいえ
パッケージが見えると
容器ごとにマークをつける必要がなく、
紛らわしくない。
いまどの商品を使っているかもわかる。

結果、メリットがデメリットをうわまわって
この方式に落ち着いた。

同じようなことがほかにもある。

たとえばタオル。
わが家は私と娘でタオルを別々にしていて
しかも私がよくタオルを使うほうなので、
いろんな色・柄のものを使っている。
同じ色で統一するほうがすっきりするのだろうが、
そうしてしまうとわかりにくいのだ。

歯ブラシの場合は
色を分けるとわかりやすいということのほか、
けっこうな消耗品ゆえ
機能を満たしつつも安価なものを求めたい。

というようないろいろな場面での
優先順位を考えた結果の選択の結集が
いまの暮らしの風景になっている。

そんなふうに
「とことんすっきりさせたい」
を最優先にしない場合、
どんなにがんばっても
「まあ、そこそこすっきりといえばすっきり」
が関の山になる。

その関の山さえいまは遠いけれども、
とにかく自分にとっての着地点
いわば落としどころを見つけることは、
逆にストレス軽減につながるように思う。

(ちなみに「関の山」の語源を調べたら
 山はマウンテンではなく山車のことらしい)
 

面倒くさがりやとミニマリスト

一般的には、面倒くさがりやな人こそ
ミニマリストに向いているのだろうと思う。

モノが少ないと管理するものもラクだし、
掃除もしやすくなるし。

一方で、ミニマリストゆえに求められる
マメさというものがあるのではないかと
感じることがある。

モノが少ないので洗濯物をためられないし、
食器もためられない。
買物もこまめに行く必要がある。

少ないモノでまわしていくのだから、
それぞれのモノを停滞させていては
生活がまわっていかない。

しかし、それらの作業のほとんどは
毎日やることなのだから、
習慣化してしまえば、マメというより
歯磨きなどのように
意識せずにできる行為になるのかもしれない。

佐々木典士さんがミニマリスト本のあとで
習慣づけの本を出しておられるのは
つくづくなるほどと思える。

たとえば、
能力が5なのに6や7のものを持ったら、
能力が4や3になってしまうということが
あるのではなかろうか?

逆に、能力が5であっても、
5や4のものを持ったら、
能力が6や7になったりしないだろうか?

ただし、
無理して3や2のものですませようとすると
それはそれで能力ダウンしそうなので
適正量というものがあると思う。

まずは自分の能力を見極めることが
大事になってくるのだろう。
というか、モノを減らしていくことで
適正量が見えてくるのかもしれない。
 

ミニマリストとモノへのこだわり

佐々木典士
『ぼくたちに、もうモノは必要ない。[増補版]』に、
哲学者ディオゲネスの話が出てくる。

布1枚を身にまとい、
水を飲む椀だけを持っていたと言われているそう。
ある日、子どもが手で水をすくって飲むのを見て、
そのたった1つ持っていた椀すら叩き割ったのだとか。

佐々木さんがディオゲネスの名を出したのは、
チャンピオンはすでに決まっているのだから
「モノが少ない対決」には意味がない、
というような話をするため。

なるほど確かに。

一方、ディオゲネス方向の
究極のミニマリストでない場合、
逆に、いいものを少なく持とうとするので、
結果的にモノにこだわる姿勢が
強くなるように思う。

少ないモノで生活するために、
どんなモノを持てばいいのか。

より厳選して、何を選ぶのか。

考えてみれば、
モノにこだわるのはマキシマリストではなく
ミニマリストのほうではなかろうか。

マキシマリストは
モノを手放せないという意味の執着はあっても、
それはひとつひとつのモノへの
こだわりとはいえない。

なので、ミニマリズムに憧れていると、
「結局はモノの選択なんだな」と思えてくる。

私の場合、憧れているだけで実行はできず、
ScanSnapをはじめとして
紙物を減らすためのモノが増えているだけの
現状ではある。

が、その現状のなかで上記のようなことを考え、
ミニマリズムを(ある方向に)きわめると
結局は「モノへのこだわり」に行きつくというのが
逆説的でちょっとおもしろいなと思ったしだい。

そういう意味で、ミニマリズムであっても
いや、ミニマリズムであればこそなおさら
お金をかけようと思えば
実はいくらでもかけられるのではないかと感じる
きょうこのごろなのだった。

ちなみにその場合、
比較対象はマキシマリストではなく
普通の人。

何者かであることと自分

なぜミニマリストブームに気がつかなかったのか
において、

 私にとってミニマリズムの核は、
 「自分について自分で考えて自分で選択すること」
 にある。

と書いた。

その思いはいまも変わっていないけれど、
上記のように書くと「自分」にまみれていて
それはそれでなんだか違うと思えてくる。

我執にまみれたいわけではなく、
むしろ我執から離れたいのに。

そのことが
「何者かであろうとしなくていい」
ということとつながるはずなのに。

というわけで、あらためて、
自分でいることと何者かであることは
どう違うのかを考えてみた。

まず、「何者かである」ということについて、
自分はどんなイメージを抱いているのか考えてみると、
他の人と違う何かをやっている、
個性がある、個性を活かしている、
意味のあることをしている、……
といった言葉が浮かぶ。

つまり、他者に対して
なんらかの意味をなすということが、
「何者かである」ということだという
イメージを抱いているらしい。

一方、自分について自分で考えて
自分で選択するときは、
自分にとっての価値が主軸になる。

さらに、我執という言葉の
仏教的意味はひとまずおいておくとしても、
ここでいう「我」はやはり
他者を前提としているように思える。
我を張る、という意味で。

逆説的な言い方になるけれど、
たぶん、自分を極めると、
自分から解き放たれるのではないか、
という気がしている。

考えてみれば、
他者を意識することと自分を意識することは
同じ意識の表裏であり、
ふたつでひとつなのかもしれない。

その状態は何かにつけしんどい。

もし、モノを減らすことで
他者や自分を強く意識することが少なくなれば、
だいぶラクになるになるのではなかろうか。

とにかく、ミニマリズムに憧れ始めてしばらくの間、
何者かであらねばないのではなかろうか
という微かな焦りや劣等感のようなものを
感じていたように思う。

それはひとえに、情報の仕入れ方が
途中からズレてしまっていた、
惰性になっていたということに尽きる。
 

ミニマリズムはどうなるか

4月中旬に次の記事を見つけた。

PRESIDENT Online
アフターコロナの世界は「ミニマリスト」から「備蓄」の時代になる

たしか「アフターコロナ」で検索して
見つけたのだったと思う。

佐々木俊尚さんのことは
twitterでフォローしているのだが
タイムラインではキャッチできなかった。
(ツイートされていたかどうかは不明)

私はミニマリズムに憧れているだけで
ミニマリストでもなんでもないので
どうこう言える立場ではないけれど、
世の中の価値観や傾向が
変わるということはあるだろうな、と思う。

その一方で、自分のミニマリズムに対する憧れは、
あまり変わらないだろうな、とも思う。

もちろん、一度こういう思いをすると
自分の話でいえば、
トイレットペーパーをはじめとして
生活必需品のストックは
余裕をもって持つようになると思う。

しかし、私がなかなか手放せないものたちは、
非常時にも使えそうにない。

いずれにせよ日本においては、
シェルターを作ったり農場を持ったりするのは
あまり現実的ではないと思う。

畑を持つことや、
ある程度、自給自足に近い生活をするのは
その気になれば可能かもしれないが。
どれくらいの人ができるかはおいておいて。

しかし、そこまでいかないとしても、
「ある程度の準備をしておく」人が増えれば
いざというときの買いだめがなくなって
モノ不足に陥らなくてすむ可能性が
原理的には高くなると考えることもできるので、
それはいいことだと思う……

……と、考えたいのだが、そうなるだろうか?

自宅にそれなりの量の
マスクやトイレットペーパーがあっても、
今回のように先行きが見えない時期がある場合、
どれくらいが「十分」なのかわからず、
結局、やっぱり、不安になって、
つい買い足してしまう、
ということが起こらないだろうか?

だとしたらやっぱりプレッパ―くらい
きっちりとした備蓄が必要になるのかもしれない。

とにもかくにも、日本のミニマリスト界隈の事情は
通常の意味での波はあっても、
基本はあまり変わらない気がする。

モノの管理に苦労することや
片づけたい人の気持ちは
不変なんじゃないかな、と思うから。

それはひとまずおいといて、
ミニマリズムのこと。

佐々木俊尚さんのミニマリストの説明は
なるほど確かにそうだと思う。
それがミニマリストってものだろう。

ということは結局、
私はミニマリズムに憧れているというより
部屋をもうちょっと片づけたい、
ただそれだけのことなのかもしれない。

重ねて少し気になったのは、
この記事のいちばん大きな見出しのタイトルが
”「ミニマリスト」から「備蓄」の時代になる”
であることについて。

プレッパ―という言葉が使われていないのは
わかりにくいからだろうか?

ミニマリズムという言葉でないのも
わかりにくいからだろうか?
わかりにくいというよりも、
そもそも流行したのはミニマリズムではなく
ミニマリストだったから?

備蓄は行動だけれど、
ミニマリストは「人」(の属性)。

結局、現在のミニマリズム事情に対する
私の違和感、息苦しさのようなものは、
このあたりに根があった気がする。

さすがにもうそろそろ、
そこからは解き放たれたい。

で、私はミニマリストになりたいのか?

今年の春、実家の最終片づけにより

自分の家の中のものが増えたことをきっかけに、

ミニマリズムに憧れるようになった。

 

片づけが苦手な私の場合、

いっそミニマリズムくらい極端なほうが

いいかもしれないというような思いで、

本を読んだりネットで情報を収集してきた。

 

そして、いろいろなものを捨ててきたし、

それなりに変化があった。

 

が、私にミニマリストの片鱗はない。

 

片鱗もなにも、そもそも自分は

ミニマリストになりたいのだろうか?

 

もし、人に

「あなたはミニマリストになりたいのですか?」

と聞かれたら、いまなら

「いえ、その希望はないです」

と答えると思う。

 

そのあと

「ただ、ミニマリズムはヒントになるし、

 刺激になります」

とつけくわえると思う。

 

自分はミニマリズムに憧れていても

ミニマリストに憧れているわけではない

ということは当初から思っていた。

 

そして途中からは、

憧れるもなにも自分はミニマリストになれないし

向いていないとも思っていた。

 

片づけはまだ続けるけれど、

もうそろそろ〜イズムや〜イストといった

言葉からははなれてもいいのかな……

という思いもなきにしもあらず。

 

が。

 

それをひきとめたのが、

旅行のパッキングの件

 

ここにきて佐々木典士さんの

“手放すことは「技術」である”

という言葉をしみじみ思い出している。

 

その技術はまだまだ習得できていないので、

いろいろな方向から考え、

そしてまだまだ実践していきたい。

 

外出時の荷物について考えてみた

私は外出するときの荷物が多い。

ひとつには「心配性だから」ということがあると思う。

 

でも、自分にとっては必要なものだし

鞄の中身は把握しているし

まあ、こんなもんかな、と思っていた。

 

なお、財布だけはすでに小さくしていた。

かなり大きいものを使っていたので。

あとは無理して荷物を減らすこともないかなぁ、

なんて思っていたのだが……

 

先日、娘が3泊4日のお出かけをするときの

荷造りの様子を見て、私は大いに反省し、

やはりミニマリストさんたちを

参考にさせてもらおうとあらためて思ったしだい。

 

娘の荷物があれだけの量になり、

あのようなパッキングになってしまうのは

本人の特性もあるけれど

私の影響がかなり大きいと思う。

 

これまでも同じ場面は何度もあったのだけれど、

ミニマリズムへの憧れの影響なのか、

なんとかしたほうがいいとこのたび強く思った。

 

こういうことって、やっぱり

心がけというより技術だという気がする。

 

まずは自分が習得しなくては。

 

というわけで、

とりあえず自分の普段の荷物について考えてみた。

 

近所のスーパーには小さなバッグでいくけれども、

それ以外はわりと大きなバッグでいく。

 

というのも、少し前まで、

バッグはA4サイズが入るものを

基本にしていたので。

 

でも、もうその必要はないし、

少しサイズダウンできるかもしれない。

 

と考えていて気がついた。

 

結局、最近の私は外出すること自体が少なく、

しかも出かける用事といえばほとんど病院なので

(皮膚科とか歯医者さんとか定期的なもの)

保険証やお薬手帳が必要だし、

歯医者さんの場合は歯ブラシも持っていくし、

皮膚科のように薬をもらうことが分かっている場合、

ビニール袋やエコバッグをさげて帰るよりも

バッグの中に入れて帰りたい。

 

というわけで、普段の外出については

やっぱり特に問題がないという結論に達した。

考えるべきは旅行レベルの外出だ。

 

で、ネットであれこれ調べながら

娘の荷造りの様子も思い出しながら考えていたら、

できそうなことを3つ思いついた。

 

1つめは、衣類の着回しについて考えることで、

旅行時の衣類を減らすこと。

洗濯の頻度などについても考えたい。

 

2つめは、パッキング用のケースを使うこと。

これまでもある程度は分類していたが、

キャリーバッグにあわせて

きれいに収まるケースの配置を考えたい。

 

3つめは、時間があるときに

用事や季節にあわせたシミュレーションをすること。

あるいは、旅行の準備をかなり余裕をもって始めること。

 

技術がない私たちの場合、試行錯誤は大事だ。

それで実際の旅をして改善をして

慣れていけばいいわけなので。

 

って、これまで帰省の機会が何度何度もあって、

娘についていえば修学旅行的なものも何度も経験して

「いまごろかい!?」と思うけれども、

これはこれで娘の一人立ちの準備なのかもしれない。


旅と普段とでは状況が違うけれど、

旅行時のことを考えると、

普段についても役に立ちそうな気がしている。

 

短期的にはお金がかかっている私の片づけ

2019年4月から

少しずつモノを捨てているわけだけれど、

その過程でけっこうお金を使っている。

 

まずは、粗大ごみ

8月までの段階で6,400円分、

その後、プリンターと自転車が追加され、

合計で7,600円となった。

 

あとは紙物を手放すにあたり

データ化とその整理にお金がかかっている。

 

自動給紙のスキャナーを買ったし

USBメモリ5本とSSD2つを買ったし。

 

変換アダプタカードリーダー

ある意味で片づけの経費。

 

それをいえば、参考書籍も。

 

すべての合計金額を出してみたら、約34,000円。

 

最初は「ひえ〜〜〜」と思ったのだが、

これは高いのか高くはないのか。

 

というか、ミニマリズムは節約にもなるはずで

お金も貯まるのではなかったのか??

 

佐々木典士さんの

『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』

をもう一度開いてみる。

 

お金のことについて書かれた

p.240の7項目を眺めてみたが……

 

私にはほとんどあてはまらない。

 

家賃をおさえるために引っ越したいけど

いまはそれはかなわないし、

売れるようなモノはないし、

あったとしても売る気力がない。

 

物欲はそんなに強いほうではないが

先のデータ整理のように

別の欲が結局物欲につながっているし、

ストレスもなくなっていない。

 

だめじゃないかこれはー。

 

もっとも、いまは片づけ途上にあるから

短期的にお金がかかっているという面は

あると思う。

 

節約や貯金が目的で

片づけをしているわけではないが、

片づけにお金がかかりすぎるのもどうかと思うので、

今後、新たな経費をかけるのは

できるだけ避けたいなぁと思うのだった。

 

いまこのテーマで何を書きたいか

思えば、Web上に趣味で文章を書くようになって

ずいぶんな年月がたった。

 

書きたいことはもうだいたい書いたと思って

更新も止まっていたのだけれど、

今年度になってまた断続的にブログを書いている。

 

そうなってみてあらためて、ここのURLをかみしめている。

sukkiriという文字。

 

つまりはそういう意識で作ったブログだった。

書くうちにだいぶちがうものになっていったけれど。

 

それが何周かまわっていま、

sukkiriにもどってきたのだなぁと思うと

それなりに感慨深い。

 

いま再びWeb上に文章を書いている理由は、

ひとつには記録という面がある。

 

最近、Web上に残している記録の便利さを

感じるできごとがいくつかあったので。

 

ならば苦手といってないで

クラウドストレージを利用すればいいじゃないか

という話もあるが、

結局、「公開する=不特定の人が読む可能性がある」

という形でまとめたものであれば

Web上にのせることに抵抗がないらしい。

 

しかも、人に読んでいただくことを前提として書くと

結果的に自分のための記録としても使いやすい。

 

さらに、書くことそのもので思考の整理にもなる。

 

ところで、少し前に

 

  田中泰延『読みたいことを、書けばいい。』

 

を読んだ。

 

買ってよかったと思うけれど、いまの私にとっては

タイトルだけで十分な本だったかもしれない。

 

やはり私は、自分が読みたいものがなかなか見つからなくて、

再びブログの記事を書きはじめた面もあるような気がする。

 

根気よく探せば見つかるのかもしれないが、

その根気がもうない。

 

どのような文章が読みたいかというと、

まずは、紙物を手放すのが苦手な人の話が読みたい。

 

そして、紙物以外のものも含めて

なかなかモノを手放せない自分とどう向き合って、

どう折り合いをつけているのか、

その葛藤やプロセスが読みたい。

 

つまり、汎用性の高い答えをもっている方の答えではなく、

自分の答えを探している途上にある人の話を

共感しながら読みたかったのだと思う。

 

おそらくそういうことを書いている人は

きっと世の中にいると思うのだけれど、

根気よくさがすことより自分で書くことのほうを選んだ。

 

いざ書きはじめると、

書くこととメンタルケアでも書いたように、

書くことの意味をしみじみ再確認する。

 

やったことの記録、思考の整理、

自分のなかでふわふわしていることを

ある程度クリアにする作業はやはり楽しいし、

生活の活性化につながる。

 

また、もやもやしていることの場合、

言語化することによって

ああ、そういうことだったのか

と自分で納得できたり、

まだ何か少し違うような気がするな

と確認できたりする。

 

そして一区切りさせることができる。

 

そのときどきのテーマで

書きたいことを書き連ねていく楽しさは

十分に堪能したので、

今回はずっと続けるブログではなく、

ある程度の全体像を決めて区切りをつけて、

全容がつかめるブログにしたいなぁ

といまは思っている。