で、私はミニマリストになりたいのか?

今年の春、実家の最終片づけにより

自分の家の中のものが増えたことをきっかけに、

ミニマリズムに憧れるようになった。

 

片づけが苦手な私の場合、

いっそミニマリズムくらい極端なほうが

いいかもしれないというような思いで、

本を読んだりネットで情報を収集してきた。

 

そして、いろいろなものを捨ててきたし、

それなりに変化があった。

 

が、私にミニマリストの片鱗はない。

 

片鱗もなにも、そもそも自分は

ミニマリストになりたいのだろうか?

 

もし、人に

「あなたはミニマリストになりたいのですか?」

と聞かれたら、いまなら

「いえ、その希望はないです」

と答えると思う。

 

そのあと

「ただ、ミニマリズムはヒントになるし、

 刺激になります」

とつけくわえると思う。

 

自分はミニマリズムに憧れていても

ミニマリストに憧れているわけではない

ということは当初から思っていた。

 

そして途中からは、

憧れるもなにも自分はミニマリストになれないし

向いていないとも思っていた。

 

片づけはまだ続けるけれど、

もうそろそろ〜イズムや〜イストといった

言葉からははなれてもいいのかな……

という思いもなきにしもあらず。

 

が。

 

それをひきとめたのが、

旅行のパッキングの件

 

ここにきて佐々木典士さんの

“手放すことは「技術」である”

という言葉をしみじみ思い出している。

 

その技術はまだまだ習得できていないので、

いろいろな方向から考え、

そしてまだまだ実践していきたい。

 

外出時の荷物について考えてみた

私は外出するときの荷物が多い。

ひとつには「心配性だから」ということがあると思う。

 

でも、自分にとっては必要なものだし

鞄の中身は把握しているし

まあ、こんなもんかな、と思っていた。

 

なお、財布だけはすでに小さくしていた。

かなり大きいものを使っていたので。

あとは無理して荷物を減らすこともないかなぁ、

なんて思っていたのだが……

 

先日、娘が3泊4日のお出かけをするときの

荷造りの様子を見て、私は大いに反省し、

やはりミニマリストさんたちを

参考にさせてもらおうとあらためて思ったしだい。

 

娘の荷物があれだけの量になり、

あのようなパッキングになってしまうのは

本人の特性もあるけれど

私の影響がかなり大きいと思う。

 

これまでも同じ場面は何度もあったのだけれど、

ミニマリズムへの憧れの影響なのか、

なんとかしたほうがいいとこのたび強く思った。

 

こういうことって、やっぱり

心がけというより技術だという気がする。

 

まずは自分が習得しなくては。

 

というわけで、

とりあえず自分の普段の荷物について考えてみた。

 

近所のスーパーには小さなバッグでいくけれども、

それ以外はわりと大きなバッグでいく。

 

というのも、少し前まで、

バッグはA4サイズが入るものを

基本にしていたので。

 

でも、もうその必要はないし、

少しサイズダウンできるかもしれない。

 

と考えていて気がついた。

 

結局、最近の私は外出すること自体が少なく、

しかも出かける用事といえばほとんど病院なので

(皮膚科とか歯医者さんとか定期的なもの)

保険証やお薬手帳が必要だし、

歯医者さんの場合は歯ブラシも持っていくし、

皮膚科のように薬をもらうことが分かっている場合、

ビニール袋やエコバッグをさげて帰るよりも

バッグの中に入れて帰りたい。

 

というわけで、普段の外出については

やっぱり特に問題がないという結論に達した。

考えるべきは旅行レベルの外出だ。

 

で、ネットであれこれ調べながら

娘の荷造りの様子も思い出しながら考えていたら、

できそうなことを3つ思いついた。

 

1つめは、衣類の着回しについて考えることで、

旅行時の衣類を減らすこと。

洗濯の頻度などについても考えたい。

 

2つめは、パッキング用のケースを使うこと。

これまでもある程度は分類していたが、

キャリーバッグにあわせて

きれいに収まるケースの配置を考えたい。

 

3つめは、時間があるときに

用事や季節にあわせたシミュレーションをすること。

あるいは、旅行の準備をかなり余裕をもって始めること。

 

技術がない私たちの場合、試行錯誤は大事だ。

それで実際の旅をして改善をして

慣れていけばいいわけなので。

 

って、これまで帰省の機会が何度何度もあって、

娘についていえば修学旅行的なものも何度も経験して

「いまごろかい!?」と思うけれども、

これはこれで娘の一人立ちの準備なのかもしれない。


旅と普段とでは状況が違うけれど、

旅行時のことを考えると、

普段についても役に立ちそうな気がしている。

 

短期的にはお金がかかっている私の片づけ

2019年4月から

少しずつモノを捨てているわけだけれど、

その過程でけっこうお金を使っている。

 

まずは、粗大ごみ

8月までの段階で6,400円分、

その後、プリンターと自転車が追加され、

合計で7,600円となった。

 

あとは紙物を手放すにあたり

データ化とその整理にお金がかかっている。

 

自動給紙のスキャナーを買ったし

USBメモリ5本とSSD2つを買ったし。

 

変換アダプタカードリーダー

ある意味で片づけの経費。

 

それをいえば、参考書籍も。

 

すべての合計金額を出してみたら、約34,000円。

 

最初は「ひえ〜〜〜」と思ったのだが、

これは高いのか高くはないのか。

 

というか、ミニマリズムは節約にもなるはずで

お金も貯まるのではなかったのか??

 

佐々木典士さんの

『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』

をもう一度開いてみる。

 

お金のことについて書かれた

p.240の7項目を眺めてみたが……

 

私にはほとんどあてはまらない。

 

家賃をおさえるために引っ越したいけど

いまはそれはかなわないし、

売れるようなモノはないし、

あったとしても売る気力がない。

 

物欲はそんなに強いほうではないが

先のデータ整理のように

別の欲が結局物欲につながっているし、

ストレスもなくなっていない。

 

だめじゃないかこれはー。

 

もっとも、いまは片づけ途上にあるから

短期的にお金がかかっているという面は

あると思う。

 

節約や貯金が目的で

片づけをしているわけではないが、

片づけにお金がかかりすぎるのもどうかと思うので、

今後、新たな経費をかけるのは

できるだけ避けたいなぁと思うのだった。

 

いまこのテーマで何を書きたいか

思えば、Web上に趣味で文章を書くようになって

ずいぶんな年月がたった。

 

書きたいことはもうだいたい書いたと思って

更新も止まっていたのだけれど、

今年度になってまた断続的にブログを書いている。

 

そうなってみてあらためて、ここのURLをかみしめている。

sukkiriという文字。

 

つまりはそういう意識で作ったブログだった。

書くうちにだいぶちがうものになっていったけれど。

 

それが何周かまわっていま、

sukkiriにもどってきたのだなぁと思うと

それなりに感慨深い。

 

いま再びWeb上に文章を書いている理由は、

ひとつには記録という面がある。

 

最近、Web上に残している記録の便利さを

感じるできごとがいくつかあったので。

 

ならば苦手といってないで

クラウドストレージを利用すればいいじゃないか

という話もあるが、

結局、「公開する=不特定の人が読む可能性がある」

という形でまとめたものであれば

Web上にのせることに抵抗がないらしい。

 

しかも、人に読んでいただくことを前提として書くと

結果的に自分のための記録としても使いやすい。

 

さらに、書くことそのもので思考の整理にもなる。

 

ところで、少し前に

 

  田中泰延『読みたいことを、書けばいい。』

 

を読んだ。

 

買ってよかったと思うけれど、いまの私にとっては

タイトルだけで十分な本だったかもしれない。

 

やはり私は、自分が読みたいものがなかなか見つからなくて、

再びブログの記事を書きはじめた面もあるような気がする。

 

根気よく探せば見つかるのかもしれないが、

その根気がもうない。

 

どのような文章が読みたいかというと、

まずは、紙物を手放すのが苦手な人の話が読みたい。

 

そして、紙物以外のものも含めて

なかなかモノを手放せない自分とどう向き合って、

どう折り合いをつけているのか、

その葛藤やプロセスが読みたい。

 

つまり、汎用性の高い答えをもっている方の答えではなく、

自分の答えを探している途上にある人の話を

共感しながら読みたかったのだと思う。

 

おそらくそういうことを書いている人は

きっと世の中にいると思うのだけれど、

根気よくさがすことより自分で書くことのほうを選んだ。

 

いざ書きはじめると、

書くこととメンタルケアでも書いたように、

書くことの意味をしみじみ再確認する。

 

やったことの記録、思考の整理、

自分のなかでふわふわしていることを

ある程度クリアにする作業はやはり楽しいし、

生活の活性化につながる。

 

また、もやもやしていることの場合、

言語化することによって

ああ、そういうことだったのか

と自分で納得できたり、

まだ何か少し違うような気がするな

と確認できたりする。

 

そして一区切りさせることができる。

 

そのときどきのテーマで

書きたいことを書き連ねていく楽しさは

十分に堪能したので、

今回はずっと続けるブログではなく、

ある程度の全体像を決めて区切りをつけて、

全容がつかめるブログにしたいなぁ

といまは思っている。

 

ミニマリズムと価値観の変容

私にとって、ミニマリズムへの興味の入り口は

佐々木典士『ぼくたちに、もうモノは必要ない。増補版』

だった。

 

いまとなっては、自分が求めるものは

この1冊におさまっていると感じるし、

その後仕入れてきた情報は

「最近のミニマリズム事情」だったと思う。

 

といっても、最近のミニマリズム事情に

異を唱えたいわけではない。

 

私がそこから余計な刺激を受けていたことが問題なのだ。

 

その問題は、佐々木さんが本で書いておられたことと

見事に反対の方向で符合する。

 

佐々木さんは、モノを手放して思うこととして、

何かを成し遂げたり、何者かになる必要はない

ということについて書いておられた。

いつもの家事を、毎日の生活をまっとうするだけで、

自分が好きになれ、充分な喜びを感じられる、と。

 

一方、ミニマリストとして発信されている方は

それぞれにキャラクターがあり、

ミニマリストという何者かになっているのみならず

ミニマリストとしての個性を発揮して、

より強力な何者かになっている。

 

ちなみに「ミニマリストとして稼ぐなんてけしからん!」

なんてことは微塵も思っていない。

 

むしろ、上記のようなことを考えずに

発信者になっているケースがあるとしたら、

そちらのほうが不自然だと感じる。

 

なお、ブログに関していえば、私もそうであるように

収益を得ることを目的とせず書いている人は

めずらしくないかもしれない。

 

ただ、そういう人のブログには

よほどの何かがないとたどりつけないと思うのだ。

 

ラクにたどりつけるサイトなり動画なりは

すでに何者かになっている人、

あるいはなろうとしている人の発信の場だと思う。

 

そして、そのような発信を継続的に行うには

何者かであろうとする強いモチベーションが

必要ではないかと想像している。

 

ということは、そのような情報には

何者かであろうとする意志が強く含まれており、

その情報に継続的に触れるということは、

何者かであろうとする強い意志に

継続的に触れるということになる。

しかも、自分のものではない意志に。


これまでネット上で別のジャンルで

「何者か」になっている人たちはたくさん見てきて、

そういう人たちを見ていても

なんのもやもやもなかったのに、

ことミニマリズムに関する情報については、

なぜだか妙な刺激を受けていた。

 

どうしてなのだろう?

 

ひとつ考えられるのは、

こちらの姿勢が違ったということ。

 

情報収集のつもりだったのが

いつのまにかミニマリストさんたちの個性に

触れることになっていた、

という面はあると思う。

 

そこが、最初から

エンターテイメントとして

触れているものとは事情が変わってくる。

 

もうひとつ考えられるのは、

情報の流通はモノの流通と同様、

現在の経済のうえに成り立っていることと

ミニマリズムの関係性のこともあるのかもしれない。

 

それは、むかしシンプルライフに興味を持っていたころ、

「シンプルライフが消費されると、

 他のものが消費されるより話がややこしくなる」

と思っていたのに近い。

 

ただ、時代の流れとミニマリズムと私で書いたように、

まったく同じでもない。

 

いずれにせよ、この半年の私の情報収集のもやもやは、

ネットを受動的に使ってきた結果だと思う。

 

そのような行動をとると

結果的に現在の主流の価値観に触れることになり、

現在の主流の価値観は

ミニマリズムが言うほど変化していないのではないか?

ということを

皮肉なことにミニマリズムから考えさせられた気がする

この半年だった。

 

なぜミニマリストブームに気がつかなかったのか

私がミニマリズムに興味を持ち始めたのは

2019年4月だった。

 

そうなってみてはじめて、2015年頃に

ミニマリストブームがあったらしいことを知った。

 

流行にはとても疎い自分だから

ふつうなら不思議ではないのだけれど、

この方面については

どこかで接触していてもよさそうなものなのに、

流行語大賞にノミネートされたことも知らなかった。

 

2015年頃、私は何をしていたのだろう?

 

特に忙しかった覚えはないし、

ネットからはなれていた記憶もない。

 

ひとつ心あたりがあるのは、

とあるWebサービスに夢中になっていたこと。

 

こちらはこちらで首を傾げていた。

 

なぜなら、自分としてはめずらしく、

比較的新しいWebサービスを利用していたから。

 

普通ならまず気がつかないし、

気がついても興味をもたないか、

興味をもってもしばらく様子をみると思う。

そして、もし利用する気になったとしても、

そのまえにかなり検討すると思う。

 

ということをやった覚えがない。

 

いったいどうしたことだ?と思いつつも、

きっかけはあったので、

それで自分を納得させていた。

 

もしかするとそちらに気持ちをとられて

ミニマリストブームに気がつかなかったのかもしれない。

 

だとすると、なんとなく辻褄があうなぁといまは思う。

 

そのサービスを使い始めたばかりのころ、

けっこうな高揚感があった。

この10年間のうちでいちばんといってもいいくらい、

テンションがあがっていたと思う。

 

が、しばらくするとその高揚感はすぼみ、

かわりにかすかな違和感が生じるようになり、

違和感は少しずつ膨らんでいった。

 

あの違和感はなんだったのか

ふりかえってひとことで名づけるとしたら、

アウェー感だったのだと思う。

 

といっても、敵に囲まれていたわけではなく、

ちょっと大げさだけど、文化のアウェー感のようなもの。

 

そのサービス自体は意義深いと今でも思っている。

ひょっとすると昔より思っているかもしれない。

ただ、自分の使い方が違ったのだ。

 

そして、そこから距離をとるようになってしばらくしたころ、

たぶん佐々木典士さんのことを知った。

 

ミニマリストとしてではなく、

『ぼくたちは習慣で、できている。』

の著者として知ったのだったと思う。

 

本が発行されたばかりのころの紹介ツイートだったとすると、

2018年6月頃ということになる。

 

twitter経由で知ったと推測され、

どの方を経由したのかは覚えていないものの、

可能性があるとしたらあの人だな、という察しはつく。


この方を仮にAさんとする。

 

で、佐々木さんのミニマリズムの本がよかったので

習慣の本も買って読んだら、

Bさんの名前が急に出てきて、

私もBさんのことが好きだから少し驚いた。

Bさんのことを私はAさん経由で知った。

 

さらに、佐々木さん経由で興味をもったCさんを経由して、

ミニマリズムとはまったく関係のないDさんに興味をもち、

Dさんの本を買ったらAさんと対談していた。

 

おまけに、おなじくミニマリズムとは

まったく関係のない分野の方として

twitterでフォローしていたEさんが、

Dさんとつながっていることを知った。

 

全員、知っている人は知っている有名人なので

名前を出せば「ああ、なるほどね」という感じで

特に不思議なことはないかもしれない。

 

が、あえてイニシャルとも関係ない

アルファベットで示してみた。

 

何が言いたいかというと、

「そういうつもりではなかったのに、  

 ミニマリズムを経由して文化のホームにもどってきた」

感じがするのだ。

 

佐々木さんを含め、AさんからEさんまで、

活躍しているジャンルや活動のしかたは違うし、

主張や意見が近いということもないと思う。

 

でも、おそらく深いところの何かが

つながっているのだろう。

 

仕入れる情報をミニマルにできるか?

でまとめたもやもやのもとは、

おそらくここに関わっていたのだと思う。

 

つまり、上記の価値観、私のホームは、

そのまんまイコールミニマリズムではなかったということ。

ミニマリズムはひとつの側面にすぎないということ。

 

もちろん、近いとは思う。

そして、正反対でもなく、無関係でもない。

 

角度でいえば、180度でもなく90度でもなく、

0度から30度くらいの間だろうか。

 

30度は向きとしては遠くない。

しかし、しばらくいくとはなれてしまう。

いまの自分の関心に近いようで、

実はあまり自分とは関係のない話になっていく。

 

そういう角度だから、

逆に距離がとりにくかったのかもしれない。

 

私にとってミニマリズムの核は、

「自分について自分で考えて自分で選択すること」

にある。

 

情報は、それが一般化されればされるほど、

あるいはだれかの個性を強くまとえばまとうほど、

そことどうつきあうかを

それこそ自分で考えていかなくてはならない。

 

最初からエンターテイメントとして観ている情報でもなく

単発的な目的で探した情報でもないもののほうが、

かえって心をもやもやさせるということを

今回知ったのだった。

 

仕入れる情報をミニマルにできるか

ミニマリズムへの憧れのその後はどうかにおいて

一時別のもやもやが加わったと書いた。

 

それはどこからきたのか考えて気がついたのは、

情報の仕入れ方が間違っていたということ。

 

なので、上記タイトルのような記事を書き始めていたのだが、

そんななか、タイムリーなことに次の書籍を知った。

 

  『デジタル・ミニマリスト』

 

やはりそうかと膝を打ったものの、

私はしばらくこの本を買わずにいた。

 

このような題名の本が発行されたことを知っただけで

そのときは十分だったから。

 

で、結局その後この本を買ったわけだけれど、

SNSにはまっているわけでもなく

そもそもスマホも持っていない自分には

必要のない本だったかもしれない。

 

また私は余計な買物をしてしまったのだろうか??

でも、すぐ買わずにあいだをあけても

結局読んでみたかったのだから

読んでみたかったのだろう。

 

本のことはひとまずおいておいて

「一時加わっていた別のもやもや」について

ふりかえりつつまとめておこうと思う。

 

はやい話、ミニマルに憧れるのに、

仕入れる情報が過剰になっていた。

 

もちろん、情報は触れる前にはその内容がわからないから

触れる努力は必要だけれども、

触れるのみならず受け入れてしまって

そこから必要としない刺激を受けてしまっては

本末転倒になってしまう。

 

もっとも、仕入れる情報を選ぶためには

自分が求めることをクリアにしなくてはならず、

自分が求めているものをクリアにするために

ミニマリズムに憧れている面もあり、

そこはなかなか難しい。

 

でも、どれが必要な情報なのかよくわからなくなったときには、

とりあえず情報に触れることそのものをやめてみるか、

減らしてみることが有効だと思った。

 

あるいは「直感」と「能動性」を手がかりにするのも

いいかもしれない。

 

ある情報に触れて、なぜだかはよくわからないけれど

心がそわそわもやもやすると感じたら、

とりあえずそこから少し距離をとってみる。

 

そして、自分が求める情報を能動的にさがしにいく。

 

面白いことに、

今回ふたたびミニマリズムのテーマで記事を書くにあたり、
とある小さな疑問が生じてそのワードで検索をかけたら、
いままでまったく知らなかった
ミニマルライフ系ブログにたどりつくことができた。

 

そこにある情報は、

これまで私が多く触れていた情報とは

かなり趣が異なっていて、面白かった。

 

単純な検索やそこからの派生で触れる情報だけでは

人気があるものや関連サイトがひっかかってくるだけなので、

ときには自分の問題意識で検索をかけて

新しい情報を求めることも大事だということを

久しぶりに感じた。

 

情報は仕入れても物理的にモノが増えるわけではないし、

自宅に居ながら簡単に仕入れることができるので、

選んだり絶ったりするのが難しい。

 

だからこそ、より意識的に

選択していかなければいけないのだろうと思う。

 

ミニマリズムへの憧れのその後はどうか

2019年4月からミニマリズムに憧れ始め、

その経過や感じたことを8月にブログ記事として綴った

 

その後も捨て作業を続けてはいるが、

まだまだ手放していいモノが部屋にあふれている。

 

というわけで、このあたりでもう一度、

なぜ自分がミニマリズムに憧れ始めたのか

あのときの気持ちを見返してみることにした。

 

 

1.自分がやったらどんな感じになるのかやってみたい

2.自分はものの管理が苦手で掃除も下手だから

3.最近、イライラすることが多いから

4.老い支度をしたいから

5.きっと、もともとこういうことが好きなのだ

 

 

1については、いまはまだそれどころじゃないという感じ。

2はあいかわらずの状態で、結局これがいちばんの

モノを減らしたいモチベーションだと言える。

3については、一時別のもやもやが加わっていた。

4は、まあ少し進んだかな、という感じ。

5はビミョーな感じになってきた。

 

というわけで、現在の動機としては

2と3に絞られてきた感がある。

 

それはそうとして、その後感じていたのは

昔の自分の感覚が蘇ることがあるなぁ、ということ。

 

よくもわるくも理念的になる時間が増えた。

たとえば、ミニマリズムについて考え込んでみたり。

 

そういう思考は思考でやっぱり楽しいということを

久しぶりに感じている。

 

とはいえ、この部屋。

 

考えてばかりだと何も変わらないので、

考えることと動くことをどちらもやっていきながら

またこのテーマでブログの記事を投稿していきたい。

 

で、私はミニマリストになれるのか?

55才夏のテーマはミニマリズムへの憧れだった。

 

結局、ミニマリストにはなれそうにないし、

だいぶモノは減ったのに

気持ちは思ったほど軽やかになっていない。

 

まだまだ中途半端なのだと思う。


あんなに捨ててきたのに、

ときには疲れて泣きそうになりながら作業してきたのに、

まだまだモノがあることに自分で驚く。

 

10年前からシンプルライフに興味をもち

必要以上のモノを持たない体質をつくったつもりが、

どうしてこんなにモノは増えるのだろう。

 

家のどこかにモノが湧き出る泉があるのだろうか?

 

そんなものはない。あるならむしろありがたい。

望むものだけ湧き出るのなら。

 

そんな泉はないのであり、

持ち込んだからモノはあるのであり、

入れる数より出す数が上回れば

いつかはかならず適正量になるはずなので、

そこを目指してがんばりたい。

 

もちろん、生活は動くわけだから

自分のまわりのモノも動くだろうけれど、

生活を動かすためにも

もっとモノを減らしたいのだ。

 

作業はまだ続けるけれど、

あまりだらだらやるのもなんなので、

ここらでブログ更新としては

一区切りにしようと思う。

 

一区切りするまえに、

今回、何を思って

ミニマリストに憧れ始めたのか

あらためて振り返ってみる。

 

1.自分がやったらどんな感じになるのかやってみたい

2.自分はものの管理が苦手で掃除も下手だから

3.最近、イライラすることが多いから

4.老い支度をしたいから

5.きっと、もともとこういうことが好きなのだ

 

1についてはまだ何も言えない状況。

2は十分再確認したが確認どまり。

3については別のところに移行した感じ。

4はけっこうできたと思う。

5も再確認したけど、盛り上がりの時期がありそう。

 

ということは、

老い支度という点では意味があったらしい。

確かにいちばん具体的なことではある。

 

メタルラック3棚分という大物を手放しただけでも

よしということにしよう。

 

あと、ScanSnapを買って本当によかった。

 

今年の買ってよかったもの1位になることは

ほぼ確定だと思う。

 

「手放したから、忘れない」の意味

佐々木典士『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』に

「手放したから、忘れない」という項目がある。

 

手放す作業のなかで埋もれていたものを見出し

それがきっかけで忘れなくなる、という話。

(と私は理解している)

 

私も今回、そう思う場面が多かった。

たとえば古いアルバムの写真のスキャン作業などにおいて。

 

しかし、それとは別に思うことがある。

 

手放す作業中に見出したモノのうち

印象が強いものは確かに残っていくかもしれないが、

それはそんなにたくさんのことではなく

大抵のことは少ししたらまた忘れてしまうのではないか、

ということ。

 

人間の記憶って、儚い。

 

まあ、最近そう思うのは

加齢のせいもあるかもしれない。

 

しかし、「忘れる」ということは

生きていくうえで

かなりありがたいことだとも思う。

 

そのくせ何かのはずみで、

時折、ふと、ネガティブな記憶が蘇る。

 

人間の記憶って、こういうことにはタフだ。

 

大昔のことを、

ほんの数秒間の脈絡だけでさらりと思い出し、

ほんのり気持ちがしずむ。

 

でも、ありがたいことにそのネガティブなことも

しばらくするとまた忘れていく。

少なくとも表面上は。

 

なんというのか、記憶というものは、

基本的にコントロールできないのかもしれない。

 

自分がなぜ紙物を増やすばかりで

手放すのが苦手だったかというと、

自分の記憶が信用ならないからだと思う。

 

忘れるだけならまだしも、ときには改竄している。

 

そういうときに役に立つのは「記録」だと思うのだ。

 

ずっと意識的に覚えていることはできないけれど、

どこかに保存しておけば、

必要が生じたときに引き出してこれるのが記録。

 

それは記憶より役に立つというイメージがある。

記憶よりコントロールできる、と。

 

しかし。

 

紙物にしろデータにしろ、

わかりやすく保存しておかないと

結局、記録にはならない。

 

今回、ヤマのような紙物をスキャンしながら思ったことは

記録として保存しておいたというより、

その場の不安解消のためと執着だったんだなぁ、

ということ。

 

そして、記録だとしても実際に利用するのは

ほんの数パーセントかもしれないし、

手放して後悔するものは1つもないかで書いたように、

結局は、なければないですむのかもしれない。

 

大事なことは忘れない……とか、

手放すことで忘れない……とか、

そういうことをそれこそ手放しに

字面通りには思わないけれど、

少なくともモノとして自宅内にあるということと、

本当の意味で自分がそれを持っているということとは

別のことなのだとあらためて思う。