小池龍之介『考えない練習』の過去記事について
ひょんなこと(後述)から気になり始めたので、
いまさら感はあるけれども、
以下の記事について言及しておくことにした。
6年前に書いたもの。

『考えない練習』から、「聞く」ことについて

現在、小池龍之介さん関連の記事はほとんど非公開にしているのが、
補足を書くにあたり、上記の記事と、
「見る」についての記事()のみ公開状態にしてある。

あのとき、「見る」についてを先に書き、
あえて同じ型で「聞く」について書いた。
その“あえて”が適切だったかどうかが
気になってしまったのだ。

そもそも「聞く」の話は、瞑想法に関連して、
普段は集中していないのに、
嫌な音が聞こえてきた時だけ急に集中して防ごうとしても、
うまくいかない、というところから始まっている。

また、「見る」の場合は、
「できるだけ、大きな刺激のあるものを好きこのんで
 視界に入れるのは避けたほうが良いでしょう」
と書いてあるけれど、
「聞く」ではニュアンスが違っている。
と、いまになって感じる。

「聞く」の場合、上記に対応する部分で言えば、
刺激のある音を「聞かされないようにする」
「聞かせないようにする」
ということなるのではなかろうか…
と久しぶりにページをめくってみて思った。
 暴力的な音はもちろんですが、常に怒鳴り散らしているような人の側にいても、悪い影響を受けがちです。そういう人の側にいないですむのなら、いないほうが良いでしょう。自分がどんな場に身を置くかについても考えてみたほうが良いのです。
 特に小さな子どもがいる場合、怒鳴り声や罵声はもちろん、終始大きな音がしているような環境で育てると、子どもの情緒に悪影響を与えて性格に歪みが生じるという話もありますから、やはり子どもの前で夫婦喧嘩をすることや、大きな音を立てるのは控えたほうが良いでしょう。
(p.70〜71/ルビ省略)

あえて対応する部分を抜きだすならそうなるわけであり、
大事なことは「聞かない」ことではなく、
むしろ「聞くこと」なのだと思う。
世界に耳を澄ますこと。

「諸行無常を聞く練習」で意識を鋭敏化させ、
音や声の強い刺激に頼らなくて良いよう心がけること。

今回、この補足記事を書くにあたり、
「見る」ことと「聞く」ことについて
あらためて考える機会を得たのだが、
もしかすると、「聞く」ことは「見る」ことよりも
コントロールが難しいのかもしれない。

また、それはときとして必要なことなのかもしれない。

まず、「聞く」は「見る」と違って、基本、全方位だ。
また、瞼を閉じることはできても、
手も何も使わずに耳を塞ぐことはできない。
そう考えると、「聞く」という行為は、
「見る」という行為よりも
受動性が高いといえるのではなかろうか。

ただ、そういうことを意識しはじめてからさらに思ったことは、
ネット生活をしていると、場合によっては、
「見る」が「聞く」に少し近づくのかもしれないということ。

Twitterのタイムラインを眺めているときに、
これは見ている(読んでいる)のではなく
聞いているのではなかろうか…
と思うことがある。
つぶやきとはよく言ったものだと思う。

こうやって書いてしまえば
補足するほどの内容でもないように思えてくるのだが、
なんだか気になったので、書いてみた。



だいぶ前から少しずつ、ブログの記事の整理をしている。
動機ときっかけは複数あるのだが、
そのうちのひとつに本の整理との連動がある。

いろんな本についてブログで書いてきたけれど、
それらの本をそろそろ整理しようと思っていて、
ブログに感想を書いたものについては
その内容を確かめてから手放そうという考えのもと
作業を始めたのだが、
結局、手放せないまま現在に至る。

本が惜しいというより、
ブログに書いたことに齟齬はなかったのか
何かのはずみで確認したくなったときに、
手元にないのが不安だという、
これもまたおそらく半分は
強迫的な症状なのかもしれない。

図書館から借りてきた本のことも書いているのに、
不思議な話だ。

そもそも、本をどう読むかは読み手にゆだねられているし、
あの記事を読んでくださった方が
全員、この記事を読んでくださる可能性は
ゼロといってもいいだろうに。
しかも、いまの“読み”だって的をはずしているかもしれないのに。
結局、自分のために書いているということなのだろう。

最近は、何かに迷ったり不安になったりしたときに
ひとまず時間をおくことにしているのだが、
それでも消えないひっかかりだったので、
補足記事を書いてみたしだい。
 2017.12.08 Friday 11:48 小池龍之介 permalink  
『考えない練習』から、「聞く」ことについて

小池龍之介『考えない練習』第2章を、
“受信機能”という観点から
あえて構成の順序をかえて読んでいる。

前回は「見る」だったので、今回は「聞く」の巻。

なお、本の組み立てとしては
「見る」より前に「聞く」が置かれており、
書き方も少し違うのだけれど、
すでに「見る練習」を読んでいるので、
あえて同じ型でまとめてみると、
「刺激の強いものをできるだけ聞かないようにして、
ニュートラルな音を能動的に聞く。
聞いた音から余計な思考を広げない。
自分が音を立てているということに自覚的であるようにする
→できるだけ音をたてずに動作する練習をする。」
というのが「聞く練習」になるかと思う。

しかし、「聞く」については
「見る」とは少し違うことも書いてある。

まず、繰り返し聞かされることの危険性について。

刺激の強いテレビの音声を無自覚に浴び続けたり、
好ましくない同じ言葉を繰り返し聞かされると、
よくない影響を受け、その残響がたまっていって、
いつのまにか定着してしまうので、
そんなふうに音に「洗脳」されないよう、
つねに自覚的であるとよい、という話。

また、ニュートラルな音を能動的に聞くことについては、
諸行無常という言葉を使って説明してある。
これはもちろん「見る練習」にもつながると思う。

つまり、なんでもない、つまらないと思えるものに
能動的に感覚をはたらかせると、
なんでもないと思っていた音=情報が
猛烈な速度で変化していることに気づき、
意識が鋭敏になっていく、ということのよう。

また、この「聞く」の項目の中では
「縁起」が出てきていて面白かったのだが、
これについてはひとまず保留としておく。

なお、「聞く」の最後では「嗅ぐ」についての
コラムが載せられており、
嫌なにおいに過剰反応しないこと、
自分が出す匂いにも意識を向けることなどについて
書かれてある。

(つづく)

〔2017年12月8日:補足記事を書きました〕
小池龍之介『考えない練習』の過去記事について

 2011.10.07 Friday 15:09 小池龍之介 permalink  
小池龍之介『考えない練習』から、「見る」ことについて
小池龍之介『考えない練習』の表紙では、
タイトルの下に次のような言葉が書いてある。

  頭で考えずに、
  もっと五感を使おう。
  すると、イライラや
  不安が消えていく―

つまり、頭で考えずに
視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚といった
感覚機能をもっと能動的に使おう、
ということだと思う。

それは、外界からの受信感度をあげる(
と言い換えることもできると思う。

章立ては、

  第1章 思考という病
  第2章 身体と心の操り方
  第3章 対談 池谷裕二×小池龍之介

となっており、このうちの第2章は、
次の8つの項目にわかれている。

  1 話す
  2 聞く
  3 見る
  4 書く/読む
  5 食べる
  6 捨てる
  7 触れる
  8 育てる

(なお、「嗅ぐ」は「2 聞く」の最後に
コラムとしてつけられている。)

なので、上記の8つの項目のうち、
受信機能という点に注目して、まず、

  2 聞く
  3 見る
  4 (「書く/読む」のうちの)読む
  5 食べる
  7 触れる
   
の5つの項目についてみていきたいと思う。



まず、「見る」について。

簡単にまとめると、刺激の強いものを見ない、
ニュートラルなものをしっかりと見る、
というのが「見る練習」になる。

刺激のつよいものというのは、
怒りを喚起させるようなもの、
心を混乱させるようなものであり、
たとえばテレビや刺激の強い映像、
ホラー映画はもちろん、
異常な事件やネガティブな事柄ばかり取り上げるニュース、
人を叩いたり、ひどいことを言って笑うといった
攻撃的なシーンのあるバラエティ番組やお笑い番組も
あてはまるらしい。

また、見ることによって自我が強く刺激されるようなもの、
携帯電話のメール、アドレス帳、給与明細や通帳なども、
見るのは必要最低限にとどめたほうがよいとのこと。

では、ニュートラルなものはなにかというと、
道を歩いているときの周囲の景色の移り変わりなどが
該当するらしい。
自分の視界が自身の移動とともに
細かく変わっていく様に注目し、
それらを「見えている」景色から、
「見ている」景色に変える。

また、対人で話をしているときには、
相手の表情、目の動きや顔の筋肉、
身体の動きなどをしっかり観察して、
相手の苦のサインを見る。
このとき、あくまでも客観視をして、
観察の結果を自我に還元させないのがミソらしい。

自分の話がどう評価されているかと思うのではなく、
冷静に相手の苦を認識するだけにとどめ、
相手に苦痛が増えたから、
それを取り除こうという心持ちに持っていくよう
心がけておく、ということになる。

さらには、自分も見られているということに対して
自覚的であるようにする。

ざっとこんな具合。

早い話、
見せようとしているものは見ないようにして、
見せようとしていないものを見るということだなぁ、
と思った。

(つづく)
 2011.10.05 Wednesday 10:44 小池龍之介 permalink