クラウド・アイデンティティー問題と、「魂」の防衛装置
岡田斗司夫『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』
(2011年/ダイヤモンド社)
を読んでいる。

最後に、新版への付録として書かれている
「クラウド・アイデンティティー問題」を
のぞいてみたい。



ここで取り扱われているのは「集合知」。

私たちは物事を考えるとき、
分からないことをネットで調べたり
ブログを書くときにも、リサーチした上で、
じゃあ、自分だったらどう書こうか?
というふうに判断する。

岡田さんは、このような「集合知」は
「クラウド・アイデンティティー」
という問題を生むと考えているそう。

アイデンティティーがクラウド化する、
自我そのものが、ネットのクラウドの中に
溶けていってしまうという問題。

たとえばサークルやクラブを代表して
他のサークルとの例会みたいなものに出席すると、
うまく自分の考えが説明できないことがある。

自分のサークルなり会社の特殊事情が、
普段から顔を合わせて見知っている間柄でない他人には
うまく説明できない。

これはその人のアイデンティティー自体が
サークルなり会社"にも”あるから起こる。

それはネット時代だけの現象ではなく、
昔からどんな人間にもあることだったが、
ネットワークの中に居ることが
当たり前になった時代の私たちには、
「サークルから離れた自分」というのが
持ちにくくなっている、と岡田さんは言う。

先ほどの例でいえば、サークルの事情は事情として、
自分の"本音”というものがあった。

でもネット社会にいる私たちの"本音"というのは
誰の意見が自分に近かったっけ?
とネット内を探すことになってしまっている。

つまり、「自分の考え」を人の発言の中から探す。
自我領域や自我境界そのものがネットと一体化し
ネットに溶け出している状態。

twitterでRTしたり同意したりしてると、
人の考え方や価値観を
どんどん取り入れているだけの自分に気がつく。

で、ここでニコラス・カー著の『ネット・バカ』が
引き合いに出されているのだが、
西洋型の知識人であるニコラス・カーが
「自分の存在証拠=アイデンティティー」は
自分の内面にある、と考えているのに対し、
岡田さんは、
「物事に中心はない、すべては関係性の中のベクトル、
 つまり"力と方向"でしかない」
と考えているそう。

そしてバックミンスター・フラーの
ジオデシック構造の話が出されているのだ。

まさか岡田さんの本のなかで、
バックミンスター・フラーの名が出てくるとは
予想していなかったので、
ちょっとびっくりしたのだけれど、
なるほどそういうことか、と納得もした。
(最近、岡田斗司夫にはまっているのは
 ベースに何か共通点があるらしい、
 という意味において)

(そういえば前半のどこかで、
 宇宙船地球号という単語が出てきていたような…)

物質というのは突き詰めていくと質量、
それも突き詰めていくと方向と引っ張る力くらいしかない。
つまり「モノ」は存在せず、
「関係」しかこの世には存在しない。

この考えを応用すると、
「自己」も同じじゃないのか、
ということになる。

「自分の存在根拠=アイデンティティー」は
自分の内面にある、というのは壮大な勘違いもしれない。

私たちは、ネットで賛同できる意見を探して
それらをコーディネートしていると思い込んで、
なんとか自分の独自性や根拠を得ようとしているが、
「考える」という行為自体、
必ず「学んだ言葉」を使うことが前提で、
学んだ言葉は、誰かが言った言葉。

言葉を模倣し、使いこなすことを
私たちは「考える」と呼んでいるにすぎない。

ネットの出現により、私たちは
思考そのものを外注化することになった。

するといつの間にか私たちは、
クラウドにアイデンティティーを置くようになる。

今の大学生や高校生が携帯を一時も手放せず、
しょっちゅう友達と「繋がり合う」のは、
彼らが、そして私たちが
「クラウド上に自我の半分以上」を置いているから。

果たしてこれは嘆くべきことか?
それとも時代の必然なのか?

それは自分の判断することではないが、
「自我を全部クラウドに溶かしちゃうのは危ないよ」
というのは言えると思う、と岡田さんは語っている。

で、実はこのあと、岡田さんの提唱する
“「スマートノート」のすすめ” 的な
内容になっていくのだけれど、
最後の一文の表現には、なるほどと思った。

 私たちは「ネットという広大な知の海」に対して、薄くてしなやかな皮膜を持たなくてはいけないのだ。

(p.285)

薄くてしなやかな皮膜。なるほど。

岡田さんは、自分の中で譲れない一線、
「クラウドのみんな」に認めてもらえなくても
守りたい一線、
人には打ち明けられない、
自分でもとらえどころのない衝動や
コンプレックスや価値観を、
「ゴーストライン」と呼んでいる。

それはかつて、「魂」と呼ばれたもの。

リアル脳とクラウド脳しかなかったら、
考え方、アイデンティティーは
どんどんクラウド側に「溶けて」いってしまう。

それを防ぐための防衛線として、
スマートノートという
「自分の内部のゴーストライン防衛装置」と、
リアル関係やサロン的ネット社会という
「社会に対する時のゴーストライン防衛装置」が
必要になるだろう、と書いている。

ちなみにリアル関係というのは、家族や友人関係。

サロンというのは、ネット上の小規模団体。
互いを見知っている状態、お互いにどういう人で
どういうニュアンスで言ったのがわかる、そういう場所。
そこでクラウド・アイデンティティーが発生する。

で、ここを呼んで思ったことは、
私は「サロン」を見つけるのが下手だなぁ、
ということ。

15年前にいったん見つけたような気がするのだが
(いわゆるパソコン通信)
そこでいろいろ経験しすぎたせいか、
もはやネット上で「サロン」を
見つけようとはしていないかもしれない。

ともすれば、下手すれば、リアルより、
サロンの外にある広大なネットの海より、
孤独感が浮き上がる、気遣いを要する状況になる、
そんな可能性のある場所のような気がしていて。

ちなみに、9月中旬から、
私もスマートノートを始めてみている。

が、段階的に進むこのノートで、
第3フェーズに入るのがちょっと早すぎた、
と感じているところ。
なんか別物になっているし、
ここ1週間はほとんど白紙だし…



というわけで、
岡田斗司夫『評価経済社会』について書いてきた。

思いのほか、教育ともつながる内容であり、面白かった。
たとえば上記の言葉で「考える」ということは、
「学ぶ」とはどういうことか、
につながる話だと思う。

FREEexというシステムの話も、
印税をとらないこの本の「仕組み」についても
まったく触れずに終わってしまったので、
かわりに関連ページをリンクしておきます。↓

http://blog.freeex.jp/archives/51308443.html
 2014.10.12 Sunday 16:46 岡田斗司夫 permalink  
近代の「自分」から、現代の「自分」へ
岡田斗司夫『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』
(2011年/ダイヤモンド社)
を読んでいる。

第4章の続きを省略して、
「第5章 新世界への勇気」へ進む。



第5章の2番目のセクションタイトルは
「失楽園」となっている。

現在私たちは、変化の中で、
私たちにとって大切だと考えていたはずのモノが、
私たちの中でも崩れつつあるのを感じている。

それは夫婦や家族の絆であったり、
(第4章で、「結婚」の解体、「家族」の解体
 についても述べられている)
安定した職場や会社への忠誠心であったり、
規則正しい生活であったり、
「人並み」「世間並み」という安心感であったり。

たとえば

「勉強して大学へ行って、ちゃんと就職する」

「ただ一人だけの人を好きになって、
 その人と結婚して添い遂げる」

「朝起きたら会社や学校に行って、
 夕方帰ってきて自宅でくつろぐ」

「一つの会社で、定年まで勤め通す」

「結婚したら2、3人子供をつくって貯金して、
 一戸建てを買ってローンを払って、
 子供たちを大きくする」

これらはすでに、失われつつある過去の世界。

今、老年期を迎えようとしている世代の人たちが
アスファルトで埋められる前のこの国の美しさや、
敗戦の日からどんなに頑張ったについて、
時々懐かしげに語るように、私たちも30年後、
ネット上で仲間を見つけては語っているだろう。

「みんながいっせいに起きて働いた時代、
 通勤ラッシュというものがあった」

「万博、ウルトラマンやドラクエという共通の話題で、
 同じ世代同士が飲み屋で盛り上がった」

若者たちは、それをきいても、
不思議そうな顔をするだけ。
彼らにとって、
「みんなが熱中したこと」
「みんなが体験したこと」
なんかは興味がないから。

それよりは、自分や自分の仲間たちだけが
理解できる楽しみを大事にしている。

私たちが懐かしげに話すことは、お互いが
「自分たちの所属しているグループの価値観の差」自体を
アイデンティティーとしている社会ではすでに失われ、
理解できなくなっている風習なのだ、と。

かつて農業革命によって、人間は「自由」を失った。

また産業革命によって、「安定」を失った。

農業時代の人々は、狩猟時代を振り返って、
「いつ飢え死にするかも分からない、野蛮な世界」
と語った。

産業時代の私たちは農業時代を振り返って、
「身分制度に縛られ、貧乏生活を強いられた暗黒の中世」
と恐れた。

来るべき未来の人々は、私たちの時代を振り返って、
「考え方や人間関係の自由がない、画一世界」
と語るだろう。

けれど、私たちは振り返っている暇はない。

私たちは、自分たちが起こしてしまったこの変化を、
これから何十年もかかって社会にフィードバックさせながらも、
最も適した場所に収めなければならない。

岡田さんは、この巨大なパラダイムシフトの波を
「私たちの世代に贈られた、
 大変困難だけどもやりがいのある贈り物」
と考えることにしているのだそう。

明治維新や大戦後の混乱期は伝説となっているが、
私たちは、それ以上の変化の真っただ中にいる。
これ以上おもしろいことなんて、想像がつかない、と。

このパラダイムシフトが終了するまで、
私たちは様々な不協和音や不都合を
体験することになるだろう。

それは、世代間ではもちろんのこと、
立場や職種の差によっても、
また個人の心の中ですら起こってくることと思う。

そういったトラブルに出遭ったとき、
この本のことを思い出して、
これは「評価経済社会」と「貨幣経済社会」の対立だな、
とマクロな視点でとらえ直して
冷静に対処していただければと思う、
と岡田さんはメッセージを出している。

また、私たちはこれから、ノスタルジックで、
少し苦い喪失感を背負って生きていくのだろうが、
私たちの目の前には、全く新しい世界が広がっており、
そんな、まだ見ぬ社会・文化へのワクワクする期待が、
私たちをこれから生涯引っ張ってくれるベクトルとなることを
私は確信している、と。



以上が、『評価経済社会』の本編の、
きわめておおまかなまとめになる。

私は30年後に80歳になっており、
現在の変化の"着地点”を自分の目で確かめられるかどうか、
微妙なところなのだけれど、見てみたいなぁとは思う。

しかし、岡田さんほどポジティブに
この事態を捉えるほどの若さ・元気は、
残っていないな…とも感じている。

そして、「評価経済社会」というのは、
いま起きていること、これから起こることを
説明するための有効な観点だとは思うけれども、
なんでもかんでもこの概念で説明しようとしないほうが
いいのかもしれないな、とも思う。

それはそうとして。

以前、pha著『ニートの歩き方』を読んでいたときに、
こりゃ、ふつーに働いたほうが、 むしろラクかもしれませんよ〜!?
と書いたことがあるが()、
近代的自我の限界とはウラハラに、
新しい時代には別の「自己」が
必要なのではないだろうか、
と考え込んでいる。

岡田さん風に言えば、コーディネートする自分。

だって、もう画一社会ではなく、価値観も多様化し、
みんなといっしょではいられないのだから。
考えようによっては、
より強い「自分」が必要になるのではないだろうか。

卑近な例でいえば、
ニートと生活リズムなどの問題もある。

また、「自分の気持ち」を最優先させる、という言葉にも
「自分の」という、所有格の“の”が入っている。

「わたしとは何であるか」を問いながら、
「みんな」を意識していた時代が終わる。

ひとつの価値観の中の一元的な尺度のなかで、
どこに位置しているかが「自分」であった時代が終わる。
(たとえば偏差値、たとえば年収。)

その変化は近代的な「わたし」の解体であると同時に、
現代的な「わたし」の再構成を意味するものではなかろうか。

そんなことを思う。

岡田さんはこのあと新版への付録として
「クラウド・アイデンティティ問題」
という文章を書いておられるので、
そちらものぞいてみたい。

(つづく)
 2014.10.11 Saturday 11:34 岡田斗司夫 permalink  
複数の価値観をコーディネートする時代(近代的自我の限界)
岡田斗司夫『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』
(2011年/ダイヤモンド社)
を読んでいる。

きょうは「第4章 幸福の新しいかたち」。



岡田さんは、評価経済社会における 「個人のふるまい」には
次の三つの特徴があるとしている。

1.他人を、その価値観で判断するということ。
2.価値観を共有する者同士がグループを形成するということ。
3.個人の中で複数の価値観をコーディネートするということ。

 このなかで特に印象的だったのは、3番め。

 価値観が多様化するというのは、
 世の中が多様化することのみならず、
 個人のなかでも多様化が起こるということなんだな・・・
 と思った。

 鈴木健『なめらかな社会とその敵』でいえば、
 分人民主主義に対応する発想かもしれない。
 >個人(individual)

今の若者たちや子供たちは、
いくつもの価値観を持つ訓練を受けているとして、
母親の話が出てくる。

母親たちは、自分自身の時間を、
家事、育児、パート、自分のカルチャーセンター、
子供の習い事に付き合う時間、
母親同士のおしゃべりの時間、
等々に分断している。

子供たちは小さい頃から、
そういった母親たちによって
様々な環境に連れ回される。

その環境やグループの価値観を素早くキャッチして、
その場に応じた行動をとれる子供が良い子。

また、同時に子供たちは小さい頃から、
ある程度そういった環境やグループに対する
選択権が認められている。

このようにして子供たちは、
いくつもの複数の価値観を併せ持つように、
訓練を積みつつある。

彼らはさらに、自分の時間を自分の気持ちに合わせて、
絶妙のバランスでコーディネートできるようになっていく。

 と、岡田さんは書いておられて、
 それっていまの時代の特徴なんだろうか?
 ひとむかし前はそうじゃなかったのか?
 と考え込んだのだけれど、
 確かに私たちの子供時代よりは今のほうが、
 価値観は多様化していると思うし、
 自分自身、思いあたるふしはおおいにある。

 ウソをついているつもりはなくても、
 完全に別人にはなっていなくても、
 たとえばこのブログのことやtwitterは
 ママ友たちには知らせていないし、
 リアルとネットは切り離している。

 娘は、リアルの私もネットの私も知っており、
 たとえば学校教育へ対する価値観なども
 複数のものにさらされていると思う。

本にもどると、
続く一節のタイトルは「非就職型社会」
となっていて、
ビジネスマンも子供たちと同じく、
「それぞれが独自の価値観を持つ、複数の組織」
に所属せざるを得なくなる、
ということが書いてある。
しかもそれらの組織は営利団体とは限らない。

こういった特殊な価値観のグループは
それぞれが無関係に独立して存在しているわけではなく、
一人一人がいくつも掛け持ちをしている。
つまり、矛盾した価値観を併せ持つということになる。

で、「近代的自我」の呪縛と限界の話へと入っていく。

自分というのは一つの価値観に統一された
判断主体でなければならないという思想、
つまり「近代的自我」が、
情報化革命により立ち行かなくなっている。

近代的自我というのは、
情報や知識の量がある一定程度しか
流通していなかった時代でしか
成立しえない人間像だった。

様々な価値観があふれている中で、
自分の気分や状況、立場、好み等々によって、
いくつかの価値観を選択すること、
そして、同じ価値観のグループに参加すること、
そうすることで、
自分の中に新しい人格を作って楽しむこと、
これこそ評価経済社会の醍醐味。

ただ、統一的な価値観は成立し得ないとしても、
全体を緩やかに整理し、
コーディネートする整理フィルタは必要になり、
それが「キャラ(キャラクター)」だ、と。

 このあともいろいろ書いてあるのだが、
 「多重人格」が現代病になるというのは
 「一人一人の自我が確立している」という
 私たちの社会の大前提に比べると、
 そんなに悪いことのような気がしない、
 という岡田さんの言葉は否定できない。

 がしかし、自分のなかにどうしても
 近代的自我のしばりがあり、
 「わたしってなんだろう」
 「わたしの意見ってなんだろう」
 という発想から抜けられない。

 近代的自我の意味を考えたい「自分」がいるという、
 その矛盾をどうしても解消できない。

(つづく)
 2014.10.10 Friday 15:29 岡田斗司夫 permalink  
評価経済社会での消費活動、「政治の意味」の減少
(2011年/ダイヤモンド社)
の第3章を読んでいる。



岡田さんは(この本を書いた時点で)、
これからの消費活動は、
どんどんサポーター的要素が強くなっていくでしょう、
と書いている。

つまり「モノを買う」「お金を払う」という行為が、
自分の欲しいものを手に入れるためや、
自分の望むサービスを受けるためではなく、
自分が賛同する企業やグループ・個人を
応援するためになされることが多くなる、と。

さらにいえば、そういうお金の使い方が
カッコいいと考えられるようになる、と。

これはお金(貨幣経済)を媒介とした説明になるわけだが、
もう少し評価経済に特化した説明として、
twitterのフォローが例に出されている。

twitterのフォローは、
メーリングリストの加入や、
mixiのマイミク登録といったものに比べて
非常に「軽い」。

この「軽さ」が意味するものは、
フォローが評価の「貨幣」になっているということだ、
と岡田さん。

ブログのアクセスカウンタは
見に来た人の数(「注目」)しかはかれないのに対し、
フォロワーの数はその人に対する注目に加え、
フォローするに値する価値があることを示す、と。

で、話は「望まれる企業像」へと移る。

たとえば、
「売り上げの数パーセントを森林保護団体に寄付する」
という企業があったとしても、
こういうイメージ戦略は功を奏さない、
と岡田さんは指摘する。

たとえ社長が本気で森林保護に関心があって、
日曜日にそのためのボランティア活動をやっていたとしても。

こういう小手先のことではなく、
企業の活動全体が価値観を体現していなくては
サポーターはつかない、と。

例にあげられているのは「生活クラブ」。
詳しくは割愛するが、こういった団体の場合、
組合員と呼ばれる消費者の意識は
完全にサポーター感覚だと書いておられる。
他店と見比べて安ければ買う、
といったことは絶対にしない。

組合は、組合員の(サポート)意識を高めるために
会誌を出したり、各地域で定期的に会議を開いたりする。
組合員もそれに応えて、
スーパーより高かったり不便だったりすることに関して
「農家を育てるため」という形で積極的に肯定する。

だらだらと寄付するのではなく、
何がしたいかをハッキリ打ち出し(価値観の提示)、
何をしてほしいかを明確に伝え(具体的要求)、
そして成果を報告する。

この3つがそろって初めて、評価資本は増大するのであり、
消費者がサポーターになるとはこのようなことなのだ、
と岡田さんは書いておられる。

さらに、この原則は政治や経済という
本来合理的な事柄にも適用される、と話は続く。

橋本徹氏や東国原英夫氏の例が出されたあと、
有名な方が選挙に有利ということではない、
ということも示されている。

「この人が政治家になったら、こんなことをしそうだ」
という強いイメージを持っている人の方が、
もっと選ばれやすい、と。

そして、政治家のタレント化についても触れてある。
政策ではなく、自分の人となりを
いかにプラスイメージとして多くの人に提示できるか。

で、政治家がイメージで左右されると、
世の中が乱れて大変なことになりはしないか、
と心配される方も多いだろうが、
その心配は無用だと岡田さんは言う。

理由はいくつかあるけれど、
いちばん重要なのは、
政治というものの意味・関係全体が薄くなり、
政治がどうなろうと私たちの幸せに
ほとんど影響がなくなる、という点。

たとえば100年前の人々を生きている人が
もし現在にタイムスリップしてきたら、
真っ先に何を聞きたいか。

それは、
「どの国が勝ったか? 世界を制したのか?
 日本の領土はどうなったか?」
ということだろう。
世界とは軍事であり、国境のことだった。

では、50年前の人々ならどうだろうか。
「安保はどうなったか? 東西対立はどうなったか?
 日本の国連参加はどうなったか?」
ということだろう。
世界とは政治だった。

ならば、現在の人が50年後、100年後に
タイプスリップして真っ先に聞くことは何だろうか?
「どの企業が生き残るのか? どんな商売が当たるのか?」
ということだろう。
つまり今、世界とは経済のことなのだ。

そして、いまから20年後の人々が、
もっと未来の人々に聞きたいことは何か。
おそらく「いま日本には人気があるか?」
「中国とアメリカはどっちが評判が良いか?」
ということだと思う、と岡田さん。

そんなふうに、軍事戦争から貨幣経済戦争へ、
そして評価経済戦争へと移行するなかで、
「国家権力」の在り方も変容する。

国民対国民の戦いから、企業間の戦いになり、
国民にとって国とは
「税金を取り立てる、という力を持つもの」
に変わった。

しかし、評価経済社会化が進めば、
日本政府なんてダサいイメージの団体の
サポーターになろうという奇特な人が
そうたくさんいるわけがなく、
税金を滞納したり、
申告をごまかしたりするようになるだろう。

(ここを読んで私は、
 娘が通う公立小中学校で行われている
 税金についての教育を思い出すことであった)

むしろ、自分が気に入っている別の団体に
お金を払うことの方がかっこよくなるだろう。

また、こんな苦境の中でやっと集めた税金も、
大して有効には使えない。
いくらお金を払っても、
優秀な人材も熱心な人材も集めることは不可能で、
そんな人は、もっとおもしろそうな団体へ行ってしまう。

結果的に、国家の力はどんどん小さくなる。

政治が私たちの幸福にはあまり関係なくなるというのは、
そういうことだ、と岡田さん。

で、第3章の最後の項目のタイトルは、
「分断される日本」。

誰が政治家になっても同じ状態に拍車がかかれば、
他の国に侵略されてしまうのではないか、
と心配する人もいるかもしれないが、大丈夫。

ヨーロッパの中世がそうであったように、
モノ不足の時代は、精神的世界に興味がいくため、
どの国同士であっても国単位の大きな戦争は起こりにくい。

だからといって、世界中に平和が訪れるわけでは決してない。
国家という巨大なグループで統合されていた
人間の欲求、暴力や征服欲、支配欲といったものは、
国の力が弱まったためにバラバラになるだけで、
小競り合い、テロや隣地の数は爆発的に増えるだろう、と。

こういう内乱やテロは、国が意図的に抑制できるものではなく、
予防することは全く不可能だし、
起こってからも数が多すぎて対処しきれない。
そういうわけで、どんなに優秀な人が政治家になっても
どうしようもない。

逆にイメージリーダーの「争いはやめよう」の一言で
物事がうまく収まることもあり、
圧倒的に国民から支持される人が政治家になって
世の中を動かす時もあるかもしれないが、
それは政治家が国を動かしているわけではなく、
イメージリーダーが巨大な評価資本を有する
グループを動かしているだけのこと。

そんなこんなで、
日本は他国から侵略されたりはしないが、
内部崩壊して、
いくつかの大きな評価資本を単位とする
グループに分かれるといった危険性は十分にある、
と岡田さんは語っている。

(つづく)
 2014.10.09 Thursday 15:17 岡田斗司夫 permalink  
SONY と Apple とでは、何が違ったか。
岡田斗司夫『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』
(2011年/ダイヤモンド社)
の第3章を読んでいる。



評価経済社会とはどういうものか
だいたいつかめてきたところで、
先を読み進めてみると、
まずは「不要なイメージの在庫」の話が出てくる。

たとえば渥美清の場合、寅さん以外の役のときに、
「あ! 寅さんが○○の役をしている」となる。
過去の実績が新しいことに挑戦する時に足を引っ張る。

中畑清や堀内恒夫が参議院選で落選したときはどうだったか。
もしかしたら、両人には政治家としての
資質・素養はあるのかもしれないが、
野球の監督としての負のイメージの色眼鏡で見られてしまう。

こういう「不要なイメージの在庫」は
有名人に限った話ではなく、
個人でもこれからどんどん起こり得る話になる、
と岡田さんは書いておられる。

イメージ、評価に注目が集まるような状況においては、
一度の失敗やミスで悪いイメージが定着してしまうと、
なかなか挽回しづらいかもしれない。

そうなると対策として
「自分に一つのイメージをあまり固着させない」
「場に合わせて自分を変える」ことになる。

そのつど細かく場とキャラを変えることで、
リスク分散を図る。

また、人々の不安や不満の
ある部分を埋める価値観が大きく受け入れられれば、
別の部分で不安や不満が出てくる。

その上、世代や年齢・性別・生活水準・
職業や立場・性格など、様々な要因によって
求められる価値観や世界観が
同じであるはずもない。

こうして刻々と移り変わる、
様々な不安を解消するためには、
単一の価値観やパラダイムでは不十分となる。

というわけで、
現在、様々な商品が存在するように、
様々な価値観・世界観が
様々な人々の要望に応えて存在する世界。

それが、これからやってくる評価経済社会の
リアルな姿だ、と岡田さんは語る。

 私はこの話をきいて、
 noteを始めたばかりのころ意識した、
 「セグメント化」という言葉を思い出した。

さて、ここまできても評価経済社会について
なんだかピンとこないようだったら、
次の話が有効かもしれない。

それは、評価資本に基づく
「影響力」のある企業の話。

例にあげられているのはディズニーランド。
(いま現在どうなっているのか私にはわからないが)
ここはバイト不足に悩んだことがないそう。

普通の企業にはなくて、
ディズニーランドにあるのは何か。

それは、みんなが持っている、
ディズニーランドという職場に対する
プラスのイメージ。

実際のところ職場としてどうなのかということより
「みんななんとなくそんなイメージを持っている」
ことが大切であり、
こういうプラスイメージが、
現代では(貨幣)経済力よりも
大きな力を持ちつつある、という話。

岡田さんはこのようなプラスイメージを
貨幣経済社会の「資本力」に対して、
評価経済社会における「評価資本に基づく影響力」
と読んでいる。(以下、「影響力」)

就職希望者数だけではなく、
必要ないものを買わせる力も
影響力のバロメーターの表れ。

ミッキーの耳付き帽子も
ディズニーランドの評価資本に基づく
「影響力」のなせるワザ。

そしてこのあと岡田さんは、
お金と評価の従属関係について
「一方がもう一方を生み出すことができるか」
で考えるのが一番手っ取り早いとしている。

これが、編集を担当した
加藤貞顕さんの宣伝フレーズ
「twitterのフォロワーが100万人いるひとなら
 1億円を稼ぐのは難しくない。
 逆に、1億円を持っていても
 twitterのフォロワーを100万人にするのは難しい。」
につながるのだろうと思う。

続くFREEex(フリックス)の話をとばして先に進むと、
SONY と Apple の対比がなされている。

この本の旧版(1995年)の文章が引用されたのち、
2011年現在、SONY と Apple の明暗は
くっきりと分かれた、という話が出てくる。

SONY はかつてのイメージをこの20年で失った。
逆に Apple は今も君臨している。

なぜこのような差が両者に発生したのかということを、
岡田さんは「音楽」と「映画」で解説している。

詳細を割愛してまとめだけを示すと、
SONY は評価資本によって稼いだ金融資本を
さらなる金融資本の獲得に使った。

これに対して Apple は、
評価資本で稼いだ金融資本を、
イメージ・評価に投資した。

すなわち SONY は、
評価で儲けたお金でお金を増やそうとして、
お金も得られず評価も失った。

一方、Appleは、評価で儲けたお金を
さらに評価獲得につぎ込んで、
評価とお金の両方を得た。

「イメージが大事」ということは
いまに始まった話ではないし、
それこそこの本の旧版が出たころに
すでにイメージ戦略はあったと思うが、
評価経済社会というのは、
単なるイメージ戦略とは性質を異にするのだろう。

(つづく)
 2014.09.30 Tuesday 16:50 岡田斗司夫 permalink  
実例としてのネットの世界とコミケ & 田端信太郎さんとの対談のリンク
(2011年/ダイヤモンド社)
の第3章を読んでいる。



というわけで、
評価経済社会とは何かということを見てきたわけだが、
このあと岡田さんは、
「ネットの世界」と「コミックマーケット」
を実例としてあげている。

なお、初版のときにはパソコン通信を
「ネットの世界」の例としてあげていたそう。

 なるほど確かに私がパソコン通信にハマっていたのも、
 1996年〜2001年ころだったと思う。

しかし今では、ホームページやBBS(ネットの掲示板)を経て、
ブログやSNS、そしてtwitterといったツールが百花繚乱状態。

 私もその流れを(ペースは遅いけど)地でいってますー
 ホームページも作ったし、掲示板も参加したし、
 ブログも作ったし、mixi や facebook は
 読むために一時期アカウントを持っていただけだけど、
 長い間抵抗していた twitter も結局始めたし、
 ついにはnoteもはじめたし…

毛色の変わったところとして
Amazonのカスタマーレビューも
文章を主体とした「影響力」の行使ツールと言える、
と書いてある。

ブログを例にとると、特徴として、
検索エンジンにひっかかりやすい、
記事ごとに独立したリンク(パーマネントリンク)がある、
コメント欄がついていることなどがあげられる。

 その特徴のひとつである「コメント欄」を
 私はいまはずして使っているわけなのだが、
 当初は、トラックバックという機能も
 特徴のひとつだったと思う。
 いま、どのくらい活用されているんだろうか?

この特徴が意味するところは、
自分が作成した記事の内容について、
検索して読みにくる人がいて、
読者はコメント欄に感想を残していき、
記事を書いた人はそれに対してコメントを返す、
ということ。

こうして記事を書いた人と読者とが、
記事の内容について対話することができる。

読者どうしの対話も成立するし、
対話を通り越して議論になることもある。

いってみれば井戸端会議なのだが、
この発表+井戸端会議のスゴいところは、
言語の障壁さえ乗り越えれば、
世界中から参加可能なところ。

人気ブログともなれば、
ブログを読む人が日に何十万人、何百万人と訪れ、
何十人、何百人という人がコメント欄に感想や意見を残す。

ちなみに、週刊誌や月刊誌の発行部数は
軒並み数万部から数十万部。

また、ブログによる「影響力」の行為は
言論に限られたものではないとして、
アフィリエイトの説明もしてある。
これは自分の「影響力」を換金できる装置。

つまり、素人でも「影響力」さえあれば
お金を生むことができるということ。
素人の「影響力」に金銭価値が生じているということ。

もうひとつ実例としてあげられているのが
コミックマーケット、いわゆる「コミケ」。

 実は私、たぶん、Twitterを始めるまで、
 この「コミケ」のことを知らなかったような気がする。
 twitterで、コミケ、コミケと出てくるので
 なんだろう?と思った覚えがある

 いわゆるアマチュアの同人誌即売会のことだが、
 その規模がすごいということなんだろう。

特徴は、本さえ作れば誰でも参加して売ることができ、
誰でも買えること。完全に双方向の評価経済競争状態。

コミケ会場においては、
プロは共有側、アマチュアは消費側という図式は
全くあてはまらない。

ここではすでに評価経済社会が成立している。

岡田さんいわく、
近代を「誰もが豊かになるために競争する社会」
と表現するなら、これからは
「誰もが他人に影響を与えることを競争する社会」
だと。

そして近代同様、来るべき評価経済社会も弱肉強食、
新陳代謝することは避けられない必然。

こういうことがイメージしにくいとしたら、
それはある意味当然で、
我々はまだ貨幣経済社会のパラダイムの中にいるからだ、
と書いておられる。



ここでいったん切って、自分の感想を書いておくと、
私自身はなんとなく「評価経済社会」がイメージできる。

というか、この本が書かれてから3年たっているし、
イメージできる人は増えているのではなかろうか。

たとえば思い起こすのは、phaさんのこと。

phaさんがニートとしてやっていけるのは
 (本を出したり、メディアでの露出が高い人を
  ニートとは呼ばないという意見もありましょうが
  とりあえずそのあたりはおいておきます〜)
やはりネットあればこそであり、
「評価」が得られたからではないだろうか。

かつて、このブログの
保険会社を介在させない保険制度、新しい経済活動としての相互扶助
という記事のなかでカンパ募集の話を書いたが、
phaさんは、
個人のキャラクターや告知のうまさにも左右されるので
誰でも簡単にできるものではない、
というようなことを語っていた。

私も「そうだろうなぁ」と思う。
まず勇気がいるし、文才がいるし、誠意がいるし、
表現力が求められる。
魅力的なキャラなくしてはうまくいかないだろう。

『ニートの歩き方』を読んだときに、
なるほどねぇと思ったのは、その読み心地だった。
文章の素直さとおだやかさが、読み手である私の心を開く。
人に強要もせず自分を卑下もしない文体。
そして共感できる内容。

この人が何かに困ったら、力になりたい、と思えてくる。
それは、phaさん自身を援助したいというよりは、
phaさんの考えへの共感の表明、そして応援なのだと思う。

具体的にやったことといったら、
本を買ったこと、その感想をブログに書いたこと、
そしてnoteで100円を投じたことくらいなのだけれど。
https://note.mu/pha/n/nc2641fb885a4

なので、この感覚は、ヨーロッパ中世の
「恵まれないものに与えること」
という感覚とはまったく違う。

そもそも私はそんな状況・立場にはない。

つまり、私はphaさんから影響を受け、評価をした、
ということなのではなかろうか。

岡田斗司夫さんのこの本は
発行されてから3年たっているが、
この時期の3年間というのは
濃くて長い時間だったと思う。

それを思うと、
初版が書かれたのが約20年前というのは
あらためてすごいなぁと思う。

私自身は、岡田さんが「評価経済社会」という言葉を使って、
何を言おうとしているかは比較的イメージしやすいが、
なんだかしっくりこない人にとって、
この対談がある程度の補填になるのではなかろうか。↓

岡田斗司夫×田端信太郎対談「評価経済社会」はどこまで「現実」か?
http://www.youtube.com/watch?v=5SXxgWQsIxA

後半に出てくる田端さんの懸念もよくわかるし、
岡田さんのように
もう少し楽観視できるようになるといいなぁ、
とも思う。

それから、最後のほうで出てくるお医者さんと患者の話は
岡田斗司夫講演「いいひと」戦略セミナーダイジェスト
http://www.youtube.com/watch?v=rJCw6mtL3EQ
を見ると、さらにわかりやすくなる。

岡田さんは、別に、貨幣そのものや
貨幣制度がなくなると言っているわけではない。
いま起こりつつあること、これから起こることは
評価経済社会という見方で説明すると、
すっきり説明できるよ、ということなんだと思う。

そして、評価経済社会というのは、
けして能天気な社会ではない。

能天気な社会ではないけれど、
暗いだけの社会でもない。
楽しさや明るさもある。

そういうことなんだろうと思う。

私も、あと30年もあればそうなるんじゃないかな…
という気がしている。 

ちなみにこの本を読みながら、
鈴木健『なめらかな社会とその敵』
のことも思い出した。
こっちは30年後というわけにはいかないだろうが。

あと、鈴木さんは「こうしたい」「これはどうか」と
具体的なシステムを提案しているのに対し、
岡田さんは「こうなるだろう」と予言している点が、
違うといえば違う。

自分も30年後の社会を見てみたいなと思うのと同時に、
いま起ころうとしている変化を
なんとかポジティブにとらえられないかな、
自分としてポジティブな方向にもっていけないか・・・
なんてことをふと思いつつ、
評価経済社会について考えている。

(つづく)
 2014.09.27 Saturday 10:52 岡田斗司夫 permalink  
技術は権力者の特権を市民に開放する/「影響」の開放
岡田斗司夫『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』
(2011年/ダイヤモンド社)
の第3章を読んでいる。



この本の旧版は、1995年に『ぼくたちの洗脳社会』
というタイトルで出版されたものであるらしい。

私は「洗脳」という言葉にピンとこなかったのだけれど、
第3章のここまで読んでくると、その意味がわかってくる。

つまり、いま論じられようとしている社会の変化は、
「自由洗脳競争社会」である、と。

この「洗脳」という言葉を、岡田さんは、
怪しげで罰当たりな言葉としては使っていない。

今までずっと、洗脳行為は常に権力者に独占されていた。

たとえば、中世ヨーロッパのキリスト教聖職者たち。

あるいは、近代の科学主義的価値観を導入した革命家、
それを継ぐ資本家は、洗脳活動にマスメディアを活用した。
(新聞→ラジオ→テレビ)

また、マスコミは民主主義というシステム上、
必要不可欠なものであるが
政治家にとっては大変便利な洗脳機関でもある。

国民はマスコミを通じてあっという間に
科学主義、自由経済主義、民主主義
といった考え方を吸収した。

国民はマスコミによって、
経済成長を実感した。

こうしてマスコミの力は増大し、
政治家や科学者にも統制がとれなくなってしまう。

(今ではマスメディア自体が
 マスコミ自体の必要性を訴える
 洗脳装置となっている。)

しかし、マスメディアが洗脳行為を独占すると、
マスコミ内部での矛盾が目立ち始める。

同じ事件に対する、
メディアごとの取り組み方の差が
気になり始め、
どのテレビ局も同じことを言う時は、
かえってウサン臭さを覚える。
ウラで何かあるのではなかろうか、
と勘ぐってしまう。

こうした疑惑は洗脳装置としては致命的。

そうしてみんなマスコミを信じ切れずに
ある意味で途方に暮れている。

 ここでいったん自分の認識をはさんでおくと、
 もはや途方に暮れる段階は過ぎて、
 マスコミのやることは
 ネタ扱いになっているのではないかと思う。

という状況で必要とされる装置は、
もはや単一の価値観を提供するもの
つまり「洗脳装置」であることは不可能。

情報革命によって
マスコミ独占洗脳体制からの
解放が引き起こされ、
それを具体的に支えているのが
「電子ネット」という双方向影響装置。

電子ネットは、
これまでマスメディアの特権であった
影響/評価システムを一般市民に開放した。

農業が、
部族長の特権だった食事の保証を解放したように、
産業革命が、
貴族の特権であった「芸術」「生活」を
市民に解放したように。

技術は、権力者の特権を市民に解放する。

人々のニーズをつかみ、
最も効率よくそれを生産して販売することによって、
多くの富を得られるのが、貨幣経済競争社会。

それに対し、人々の不安や不満をつかみ、
最も効率よくそれを解消する方法を提案することによって、
多くの人に影響を与え、尊敬と賞賛を得られるのが、
評価経済社会。

得られる利益は貨幣的利潤ではなく、
評価利潤、つまりイメージ。

岡田さんは「評価経済社会」を
こんなふうに定義している。

(つづく)
 2014.09.25 Thursday 10:53 岡田斗司夫 permalink  
「評価」と「影響」をお互い交換しあう社会
岡田斗司夫『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』
(2011年/ダイヤモンド社)
を読んでいる。

きょうから「第3章 評価経済社会」に入る。



まず最初のページの次の部分を抜き出しておく。
 私たちは今の世界のパラダイム、つまり社会共通の価値観や世界観をどうやって獲得してきたのでしょうか。案外私たちは、今の自分たちの価値観を意識していません。社会から刷り込まれた価値観を「当然のこと」どころか、「人間として自明の理」などと考えて、全く疑っていない場合が多いのです。
(p.150)

この文言自体をきいて、
「新しい視点をもらった!」と思う人は
もうそんなにいないかもしれない。

しかし、実際にこう言われたときに
「そうだよね」と納得したり、
「何をいまさら」と思ったりしても、
意識しておかないと
ついつい忘れてしまうことなのではなかろうか。

私たちの考えは、
時代や常識に強くバイアスをかけられている。
私たちが自由意志と呼んでいるものは、
いつも誰かや何かの「影響」を受けた結果。

そのことを、私自身、ずっと考えてきたように思う。

岡田さんはこの「影響」の話を、
「溶けて崩れていく氷山」の映像を見たとき、
人は何を思い浮かべるか、という例で語っている。

この本自体は2011年2月出版なので、
2012年に出版されていたら、
もっと違った内容になっていたことだろう。

そうして話は「メディアの影響力」へと進む。

現在の我々は、メディアなしには意見を決められない。
進学、就職、結婚、娯楽……、これらの判断基準を
すべてメディアに頼ってくらしている。

「私たちはメディアから情報を受けているだけであって、
 影響なんかされていない」という反論もあるかもしれないが、
「価値判断抜き」の情報などをマスメディアは流しているだろうか、
と岡田さんは問う。

マスメディアに載ることが、
暗黙のうちに価値を認められたということであり、
載らないような情報は価値がない。
私たちはいつの間にかそんなふうに感じている。

つまり、メディアに載った情報は、
「メディアに載った」という、そのことだけで価値があり、
そのことを疑うことすらできなくなっている、と。

しかも現在、マスメディアだけではなく、
双方向性メディアであるネットと二つそろって、
その影響力は過去に例がないほど絶大になった。

それらの情報は、価値判断込みのもの。

つまり、情報化社会の本質とは
「世界中の小さな事件の客観情報まで入ってくる社会」
ではなく、
「大きな事件の解釈や感想が無限にあふれ出す社会」
なのだ。

そして現在の社会ほど、
自分という情報に対する解釈、すなわち
「自分は人にどう思われているか」という
「評価」が重要な社会はない。

で、このあと戦争の話に入っていく。

第一次世界大戦の勝利国は、
多大な国土や多額な賠償金を獲得して、
それだけだった。

ところが、第二次世界大戦の勝利国は
国土や賠償金も獲得したが、
「正義の国アメリカ」という
巨大な「プラス評価」を手に入れた。

逆に敗戦国のドイツや日本は
「ファシズムの国」という
「マイナス評価」を押しつけられた。
これによって日本やドイツは、
いまだに膨大な負債(マイナス評価)を背負っている。

そして、メディアの本質は「意味の伝達」ではなく
「意味の強制」だととらえるべきだという話になり、
一番シンプルで原始的なメディアとして
「言葉」がとりあげられている。

親が子供に「危ないよ!」と声をかけるとき、
「危ない」ことを伝えたいのではなく
「行っちゃダメ」と止めたい。

子供が「どうして?」ときくのも
探究心からくるのではなく
「行ってもいいことにしろ」ということ。

それを受けて親は「落っこちて大ケガするわよ」
とさらに声を荒げる。

それぞれ、意味の伝達ではなく、意図の強制。
つまり言葉の本質とは「影響」なのだ、と。

言葉のない動物の場合は、
「意図」だけが明確に存在するとして、
いくつかの例が出されている。

まとめると、コミュニケーションとは
影響行為でしかあり得ない、ということになる。

たとえノンフィクションでも
ニュース番組や新聞の報道でも、
「事実を客観的に報道する」ことは不可能。

もともと報道というジャンル自体が
「隣の家の夫婦ゲンカよりも、
 遠い国の戦争の方が大切なことだ」
といった報道主義的価値観を強要してくる。

ジャーナリズムは意味を伝達するのではなく、
「こんな大変なことが起こった=
 この事件は、みんなにとって大事なことだと思え」
という、意図の強制を行っている。

その結果、私たちにとって、
新聞を読み、ニュースを見るのが
常識になってしまった。

つまり、「ジャーナリズムの必要性」を洗脳された、と。

ほんでもってこのあと「映画」の話になっていくのだけれど、
そこを割愛して先に進むと、
今までマスメディアからの影響を
一方的に受け入れるだけの存在だった一般人が、
初めて自分から不特定多数の人に向けての
自分の意見を述べるシステムを手に入れた、
という話になっていく。

誰もが影響を「与える側」になり得るし、
同時に誰もが「受ける側」でもある。

みんながそれぞれ、
人に影響を与えるために情報を発信し、
情報を受け取った側は
「情報」だけでなく「価値観」も同時に受け取って、
影響を受ける。

その結果、「受けた側」は「与えた側」を評価する。

「評価」と「影響」をお互い交換しあう社会。

つまり、岡田さんが「評価経済社会」と名付けたのは、
そういう社会のことであるらしい。

(つづく)
 2014.09.24 Wednesday 10:52 岡田斗司夫 permalink  
「モノ不足・ネットによる情報余り」の時代の様相
岡田斗司夫『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』
(2011年/ダイヤモンド社)
の第2章を読んでいる。



というわけで、中世と似ている現代ではあるが、
もっとも違う点は、
「コンピューターネットワークによる情報余り」
という点。

資源をほとんど使わない「電子情報」は、
今後もどんどん増え続ける。

「たくさんあるものをパーッと使う美意識」は
「情報をたくさん使うこと」をカッコイイと感じさせることになる。
しかも「モノ不足」の時代なので、関心は抽象的な方向に向かう。

ということは、これらの情報は
科学的な分野や経済的な分野が中心ではなく、
「世界情勢や株価の動きが瞬時に、
 しかも正確に把握できること」
が情報革命の本質ではない。

もっとも抽象的でお金にならない分野において、
その情報は使われるはず。

その前兆として、マンガやアニメの作品、
CGI、3D映画、ディズニーランドの
「情報量の多さ」が示されている。

また、この章の最後で、情報の目的・使用法は、
これまで考えられていた″ビジネス”ではなく、
人間関係が中心となる″コミュニケーション”だ、
ということも書いてある。

中世との違いの2つめは、
「自分」というものに対する考え方。

中世においては神様の思し召しとして
生まれてきた存在であった「自分」が、
現代においては「唯一無二の自分」になっている。

自分が何ものにも代え難い大切な存在であると同時に、
他人にとっては大勢の中の一人であることも知っている。

だからこそ、「自分らしさ」を大切にし、
「自分の気持ちを大切にする」ことを重要だと考える。

このような考え方には、近代の特徴である
「自我の確立」や「人間はみな、平等である」
といった考え方を大きく反映している。

自分自身で生き方を決めなくちゃいけないことは
「近代的自我の呪い」も生んだ。

そして「モノ不足」の現代にきて精神世界へと移行され、
プレッシャーから解放される方向へ向かう。

「人間はみんな同じである」という客観的な考え方は、
「自分は他の人にとって大勢の中の一人にすぎない。でもいいや」
という主観的な認識に転換される。

つまり、あきらめた。別の言い方をすれば、逃げた。

この「あきらめた」「逃げた」を
否定的な側面のみでとらえないように、
と岡田さんは書いている。

もともとの「近代的自我」に無理があった、と。

「唯一無二の自分」を大切にするという点で、
最先端の若者たちはアマチュア活動のような
「非営利活動」に対して熱心。

それはボランティア活動だけとは限らず、
twitterや携帯メール、SNSなど
ネットにおいてのコミュニティ作りが、
若者がやっている「非営利活動」の
大部分を占めている。

しかし、コミュニティのような
「ネットのみの場」だけではない。
マンガを描いて同人誌を作ったり、
知り合いとカフェを始めたり、
落語の勉強会に参加したり、
着付けを習ったり……
と内容は千差万別。

これらアマチュア活動には共通点がある。

まず、お金儲けを度外視していること。

相手にとってもなんの腹の足しにもならないこと。
(前世代のボランティア活動との違い)

そして、活動の一番の動機は
自分の「好き」とか「おもしろい」という
気持ちを大切にしたいから、という点。

お金を儲けるためでも、有名になるためでもなく、
自分の好きという気持ちを再確認するため、
その気持ちに同調してくれる人の存在を確認するために
売買という形をとる。

  ここを読んで、noteのことを思い浮かべた私。

そして3つめの違いは、「教育」。

古代にも中世にも、
教育というシステムも考え方もなかった。
それが近代になってから
工業社会を支えるために
義務教育システムが作られた。

それが「モノ不足」の現代、
大きく変質し始めている。

労働や生産という活動の
重要性や必要性がどんどん小さくなってくる。

ブルーカラーになりたい人が激減し、
ネット社会が発展するにつれて
ホワイトカラーの仕事にありつける人の数が
激減してきている。

しかし教育は近代のままであり、
当然、齟齬が生じ始める。

ちゃんと学校に行っても
あとで何もいいことがないことを
みんな知っている。

今、学校へ行っている人の動機は
「みんなが行っているから」しかあり得ない。

また、学校で教えてくれるのは産業主義。
科学的思考や合理的な考え方。
教え方すらも
「効果的カリキュラム、成果を調査する試験」
といった、科学丸出しのやり方。

こういうふうに教育が的外れになると、
高校や大学を卒業してから
芸術系の専門学校に入り直す人が
大勢出てくる。

みんな、「勉強したい」という。

実生活で役に立つことではなく、
「メシのタネにならない」分野の人気が急増。

働かないやつらの暇つぶしというわけではない。

彼らは「就職しても勉強は続けたい」と真剣に考えている。
「役に立たないカルチャースクール」のお客はほとんど社会人。

彼らの目的は、「自分を豊かにする」こと。

「唯一無二の自分」と「一生、お勉強」が合体して、
アマチュア活動やカルチャースクール活動は
どんどん盛んになる。

お金をもらって売るか、
お金を払って学ぶかというだけで、
目的は大変似通っている。

「モノ不足」の現代、
お金の意味はどんどん曖昧になっていく。

こういった「生涯学習活動」「非営利組織の運営」は、
現在の企業活動以上の重要性を持っている。



以上が、第2章のざっくりとしたまとめ。

ううむ、とうならされること数回。

自分は前時代をひきずっているな…と思うところもあれば、
現代に生きているな…と思うところもある。

特に、教育の話には考えさせられた。
少し前にキャリア教育に関わる本を読んだときには、
生涯学習と消費社会との関わりについて意識したが()、
今回、別の視点を与えられて、もう一度、
生涯学習について再考したくなった。

「学ぶ主体」も、「近代的自我」につながるものだと思うが
とにもかくにも「近代」ってすごかったんだな、と
あらためて思うことであった。

(つづく)
 2014.09.23 Tuesday 09:50 岡田斗司夫 permalink  
現代は中世に似ているが、中世とは決定的に違う点がある。
岡田斗司夫『評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている』
(2011年/ダイヤモンド社)
を読んでいる。

きょうから第2章。



第2章には
「パラダイムシフトの時代」という
タイトルがついていて、
過去のパラダイムシフトの流れが示されている。

そのなかで、堺屋太一『知価革命』のなかから、
「人間のやさしい情知」という概念が出されている。

これは、人間には
「豊富なものをたくさん使うことを格好よいと感じる美意識と、
 不足なものを節約することは正しいことだと信じる倫理観」
が存在するという法則で、
堺屋太一いわく、あらゆる文明に共通の法則だ、と。
そういう心が原動力となってパラダイムを変化させる、と。

歴史上、最も大きなパラダイムシフトは
農業革命と産業革命なので、
これらの前後で何が変わったかをまず見ていく。

農業革命以前は、
「モノ不足、時間余り」→「モノ否定・精神性優位」
の時代だった。

始代人たちは宗教をつくり、
美術は写実主義ではなく抽象的で、
モノそのものより、
主観を大切にした表現方法をとった。

農業革命が起こると、
人々は土地に縛られた代償として、
飢える心配がなくなり、
爆発的に人口が増える。

国家と法が誕生し、
管理社会と身分制度が生まれ、
封建制度が誕生する。

アニミズムの「カミ」は廃れて、
王や貴族、身分制を肯定する「宗教」を押しつけられるが、
もう今日の食べ物を心配しなくてもいい。

モノの豊かな時代の特徴は「写実主義」と「科学する心」。
ギリシャ・ローマの写実美術、
インドやギリシャの医学・農学・数学・論理科学。

しかし、やがて飽和状態に達する。
帝国が極大化し、フロンティアは失われる。
領土が増えなくなるというのは、
農地には限界があるという意味。
そしてエネルギー不足。
森林資源の枯渇。

モノの豊かな古代は終わりを告げ、
モノ不足の中世へと入っていく。

中世は、極端な「モノ不足・時間余り」の時代。
人々が尊敬し、あこがれたのは「清貧な思索家」。

有り余った時間をいっぱい使って
宗教的研究に没頭する。
科学や実験といった現実と関連するものではなく、
抽象的・心象的なもの。

そして18世紀、社会は大きく変化する。
15世紀の新大陸発見による、
有限感・閉塞感の払拭。
世界航路発見による新たな通商航路。

産業革命により、
「モノ余り・時間不足」
の時代がやってきた。

新たな「市場」と「資源」を得て、
応用技術の発達によって
高度経済成長がハイスピードで進行する。

そもそもは、キリスト教から独立した
科学の発展によってすべてが始まった。

西欧科学自体は、実はキリスト教から生まれた。
「神様がこの世界をお造りになったのだから、
この世界は素晴らしい秩序で満ちているに違いない。
その秩序を見つけて、神様の御わざを讃えよう」
というのが、科学の原初の姿だった。

メンデルの遺伝の法則、万有引力、ケプラーの法則。

ところが、このような科学の成果によって、
人々の暮らしは徐々に変わり始めた。
「科学や、発明の力で人々は幸せになれる」
みんな、そう思い始めた。
その結果、キリスト教は昔のように
絶対の権威を保てなくなってしまった。

そうして科学は、あっという間に、
"神様に代わるヒーロー”になる。

科学は、科学技術の発達や合理的思考を生み、
そこから派生して、民主主義や貨幣経済も生み出した。

一人一票で自分たちの利益の代表を選ぶ。
この発想は自我の確立を前提としている。
その後も、自分の利益を守る方向で
政治をしてくれるかを判断し、
次の選挙に生かさなくてはならない。

世の中の出来事が神様の思し召しではなく、
「どの政治家が何をやったらからこうなった」
という″因果関係”から成り立っていると
みんな認識している。

貨幣金融経済もまた、
定量化という科学的発想から成っている。
「モノ」をお金の単位に換算する。
「モノ」は食べもの、服といったものだけではなく、
労働力やサービス、権利といったものまで
考えられるあらゆるものが含まれる。

システム化した身分制度は崩壊し、
常に平等のチャンスを要求する「市民」が誕生する。

つまり、産業革命以降は、
「モノ余り・時間不足」を基準に
パラダイムがつくられた。

モノをもっとたくさん作り出し、
もっとたくさん消費することをカッコイイと感じ、
時間や人手を節約し効率を上げることを
正しいことだと感じる。

工業中心という発想は、
教育システムまで大きく変えてしまう。
流れ作業員用養成用特別システム。

また、「自分」というものに対する考え方も、
大きく変わる。

自分がどんな自分であるかは
自分自身で考えて決めるというのが
当たり前の考え方。

自分が貧乏な理由、
物事がうまくいかない理由、
人から尊敬してもらえない理由まで、
全部自分のせいになる。

しかし、この近代にもかげりが見え始める。
きっかけはオイルショック。
世界の経済成長は頭打ちになる。

資源というのは使えばいつかなくなるものだと
人々が認識し始める。
また、モノを使えば環境を破壊することにつながるのだと
考え始める。

この有限感は、近代社会の
「モノ余り・時間不足」
のパラダイムと本質的に対立する。

近代工業化社会のパラダイムは
「モノ不足・情報余り」の思想を基本に
シフトしていく。
これはいわば、「ネット中世」。

ここでいうモノ不足は、
「資源・土地・環境に対する有限感」
から成り立っている。

働きすぎることは資源を浪費し、
環境を破壊する悪徳であり、
仕事のために、最も希少である
「自分の時間」を使う行為。

いまや日曜も祝日もなく働く人とは
「働き者」ではなく、
「こき使われている弱者」となる。

だから若者たちは、
アーティストや芸人や研究者、
専業主婦といった
「労働っぽくない」職業に就きたがる。

そんな彼らを、お父さんたちは
「いつまでも大人になれない」と怒る。

しかし、ひょっとしたら彼らは
「別の形の大人」になろうとしているだけ、
とは言えないか。

少しくらい貧乏でもいい。
将来の保証がなくても構わない。
最低限食べるだけのお金があればよしとして、
たくさんお金をもらうために
意に沿わない仕事に就くことを潔しとしない。

こうして「モノ不足」の社会では
必然的に「時間余り」現象が生まれる。
その時間をいかにうまく使うかが、
重要な課題になる。

学生が自分を豊かにすることに時間を使いたいと言うのは、
自分を見つめ、自分を清めるために祈った
中世の人たちと大変に似ている思想。

しかし、中世と現代とでは、決定的に違う点が3つある。

まず最初に「ネットによる情報余り」。
次に「自分」のとらえ方。
最後に「教育」。

(つづく)
 2014.09.22 Monday 10:47 岡田斗司夫 permalink