「全メディアアーカイブ構想」をもとにしたアイデアに、やや首を傾げるの巻
(岡田斗司夫、福井健策/阪急コミュニケーションズ/2011年)
の「chapter-05 ネットの中に国家をつくりあげる」 を読んでいる。

今回で一区切りです。



福井さんの「全メディアアーカイブ構想」は、
このあとポイント制、地域通貨の話になっていき、
税金の話もちょっと絡んだあと、進行役の方から、
ポイントを発行しているコンテンツ配信サービスはすでにあり、
そのようなサービスと
全メディアアーカイブはどういう点が異なるのか、
という内容の質問がなされる。

これに対して福井さんは、
ポイント制のことは岡田さんに委ねて別の話をするとして、
既存のサービスには
「権利管理データベース」
に当たるものが何もない、
と説明する。

だから、コンテンツの違法アップロードがあると、
そのコンテンツを削除するという方向でしか
対処ができない、と。

権利管理データベースが一体化していると、
過渡期の時代を支えられる程度には便利な仕組みになり、
二次創作の仕組みを持ち込むことだってできる。

もちろん、そういう管理の仕組みが権力化するのを
どう防ぐかという別の問題は出てくるけれども。

で、岡田さんは、
仮にポイント制を導入して
全メディアアーカイブ構想がものすごくうまくいった場合、
それでも権利者のクビを絞めることにならないか、
という懸念を示す。

ユーザーにとって最大の利益を得る手段とは、
コンテンツをアップしてそれを無料で公開し、
ポイントを稼ぐことになっていくのではないか、と。

どうしてこういう話になるかというと、
その前の段階で、
著作権の不明なコンテンツや
昔の雑誌記事をスキャンしてアップする時、
アップした人にお金を払うのは問題があるので、
全メディアアーカイブの中だけで
通用する通貨を作っておき、
コンテンツをアップした人は
そのポイントがもらえるようにする、
という話が出ているからだと思う。たぶん。

福井さんが考えているのは
権利者がアップしたときの場合であり、
コンテンツをアップロードした人に対するポイントは
岡田案として出てきているので、
それをふまえての懸念なのではないかと思うが、
よくわからなかった。

で、話をもとにもどすと、その場合、
無料コンテンツがどんどん増えていって、
有料も含めたコンテンツ全体の面白さは
平均化されていく可能性があり、
有料コンテンツは無料コンテンツの
「元ネタ」化していく、と岡田さんは言う。

過渡期を越えた後のことを
わざわざ心配しているだけかもしれませんけど、
とも付け加えている。

これに対して福井さんは、
「だとしたら、全メディアアーカイブは
ネット化・デジタル化の中で、
マネタイズの仕組みを守ろうという
最後の試みになる可能性がありますね。」
と答える。

で、ここで岡田さんが、
次のようなことをひらめいたらしい。

……いや、ちょっと待ってください! 全メディアアーカイブの中に、ファンクラブの要素を盛り込んだら……。そうだ、この全メディアアーカイブはコンテンツだけでなく、生活資材も含めてあらゆるモノを販売する通販サイトにすればいいんですよ!

(p.177)

生活資材を買う時には、
その支払ポイントのうち何%かが
クリエイターに対して自動的に払われるようになっていて、
誰に対してポイントが払われるのかはユーザーが選んで、
好きなクリエイターのタニマチになれるようにすればいい、と。

で、これに対して福井さんが

岡田さんって最終的に国を作ろうとしてますよね(笑)。

(p.178)

とコメントしているのだった。

生活資材の売り上げから何%かを
クリエイターに寄付する決まりにすれば、
最終的にはクリエイターもユーザーも
幸せになれるんじゃないか、と岡田さん。

で、福井さんいわく、
他の売り上げからクリエイターに支払うというのは
文化支援的だけど、普通の寄付と違うのは、
誰に寄付が流れているのか明確になることですね、と。

さらに岡田さんいわく、
援助したいクリエイターの収入もわかり、
あのクリエイター、今月は大変そうだから
新刊を買ってあげようとか、
来週洗剤を買う時に1%ポイントを回してあげようとか
柔軟に選べる意義は大きい、と。

  なんだかだんだんめんどくさいシステムに
  思えてくるのは私だけでしょうか(^^;

なお、福井さんがこの構想を提案したのは
米国のコンテンツ戦略に対抗するという意味もあるそうで、
このあとその話になっていくのだが、
残念ながらまたまた時間切れとなってしまいました。

その少しあとの
「マネタイズを諦めれば、奴隷から解放される」
も読みたかったのですが・・・残念。

次にまた借りるかどうかわかりませんが
(どうしてもこの本は買わずにすませたいらしい)
とにもかくにも、この本と出会えてよかったです。

というわけで、ここで一区切りして、
次の本に進みたいと思います。
 2014.09.04 Thursday 09:05 『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』 permalink  
noteはまるで、福井健策さんの「全メディアアーカイブ構想」の超縮小版
(岡田斗司夫、福井健策/阪急コミュニケーションズ/2011年)
を読んでいる。

「chapter-05 ネットの中に国家をつくりあげる」
に進んでみたい。



chapter-05はまず、福井健策さんの
「全メディアアーカイブ構想」の話から始まる。

 検索して見つけたページ↓
 http://www.kottolaw.com/column_110530_2.html

テキスト、映像、動画、音声などの
あらゆるコンテンツの有料課金の仕組みの思考実験。

コンテンツが無料か有料か、
そして価格も著作権者が決められる。

 ・・・って、まさにnoteじゃないですかっ

これに対して進行役の方が、
「コンテンツのマネタイズは難しいのでは?」
と質問されている。

福井さんは、苦戦している事業者は多いが・・・としたうえで、
うまくいっている分野としてiTunesストアをあげる。

成功している要因はいくつかあるが、
課金の仕組みが簡単で、
ユーザーが購入しやすくなっている点は
大きな理由だろう、と。

買い物をする際にいちいち名前や住所を入れるとなると面倒ですが、ワンクリックで買えるとなったら100円や200円払うことに抵抗を感じない人は多いと思います。

(p.163)

 ・・・って、まさにnoteじゃないですかっ

自販機イノベーション宣言に
違和感を感じた件はどうなるんだ?(
と自分で自分に突っ込みたい気分も少しわくけれど、
とはいえ、「それは言えてる」と思うわけなのだ。

さらに福井さんは、
課金システムだけ整っていてもダメで、
そこに何百万、何千万というコンテンツが
揃っていることが前提となる、
と付け加えておられる。

そうすると今度は進行役の方が
「そんなに多くのコンテンツを集められるものなのでしょうか?」
と質問する。

これに対して福井さんは、
多ジャンルで古いもの新しいものを含めて
何千万というコンテンツを集めるなら、
何か特別な仕組みが必要になるとして
「オプトアウト」という言葉を出してくる。

以下、進行役の方の質問に促されながら、
より具体的な説明がなされていく。

コンテンツ販売の多くは、
権利者の許可が得られたものだけを
配信するようになっていて、
これが「オプトイン」。
現行法でこれは当然。

一方、オプトアウトでは、
権利者が止めない限り、
配信することになる。

なので、コンテンツをアップロードするのは
第三者が行ってもよい。

収集したり第三者がアップしたコンテンツのうち
クリエイティブ・コモンズ・ライセンスがついたものや
著作権保護期間が過ぎたものについては
自動的に配信されるようにする。

市販されていない膨大なコンテンツも
法律を改正して一定の周知期間後に配信できるようにする。

この場合、権利者が配信停止を指示しない限り、
配信されることになる。

視聴料はデフォルトの金額になり、
権利者が現れるまでプールされる。

市販コンテンツについては勝手に配信できず、
保管所に溜めておいて、タイトルだけを表示。
権利者が許可すれば配信されるというイメージ。

ここでは、他人の作った曲や
アマチュアが演奏している曲を
アップしてもいい。

むしろ、本格的な商業コンテンツは
これからも独自ルートで販売されるはずだし、
販売すべき。

この構想は、
それ以外の大多数のインディーズ作品や
過去の作品のための場。

市販作品かそうでないかをチェックするためには
いくつかの方法を組みあわせることになる。

すでに稼動されている
違法にアップロードされた動画を
自動的に検出する仕組みを利用したり、
権利者自身が登録するために
データベースを併設したり。
いわば「メガJASRAC」。

作品を勝手に配信されたくないクリエイターは
これはNG、これはOKと指示を出す。
指示しない限りはデフォルト通り。

この構想を実現させるためには
オプトアウトでコンテンツを収集するのがミソであり、
収益還元と容易な削除のしくみをともなう、
オプトアウトの制度が法的に導入されることが前提。

時折見られるような、無断で作品を利用して、「クレームを受けたら止めます」と言うのは現行法では違法ですし、権利者も到底納得しないでしょう。そもそもバラバラな事業者からそんな一方的なことを言われても、労力的に対応できない。

(p.168)

なお、次のセクションで、
全メディアアーカイブは通販サイトでもあるし、
ブログサービスでもある、
という会話が出てくるのだけれど、
これってまさにnoteじゃないですか!?

ただし、オプトアウトではないというところが
大きな違いであるといえば大きな違い。

話はまだつづく。

(つづく)
 2014.09.03 Wednesday 11:34 『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』 permalink  
「救うべきは貧乏なクリエイターではない」
『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』
(岡田斗司夫、福井健策/阪急コミュニケーションズ/2011年)
の「chapter-04 クリエイターという職業」を読んでいる。



前回読んだ部分続きは
「人はデジタルというパンドラの箱を開けてしまった」
という一節になっており、
福井さんの考えが読めて興味深いのだけれど、
岡田さんの考えの流れをわかりやすくするために今回は割愛して、
「コミケに地域通貨を導入する」も割愛して、
「救うべきは貧乏なクリエイターではない」
に入ってみたいと思う。

岡田さん自身、物書きとして
今いちばん切実に問題として感じているのは、
海賊版や違法コピーではなく、
無料の作り手がこんなにいるという事実そのものだ、
と語っておられる。

無料で小説を書く人、
無料で映像を作る人、
無料で音楽を作る人が
こんなにも世界にはいる。

そんな世界において、
コンテンツで金を取ろうなんてことは
無理に決まっている、と。

福井さんは、
文化の多様性のために
さまざまなクリエイターに
創作活動に打ち込んでほしいし、
そのためにも彼らが食べていける、
少なくとも作品が評価されたら
食べていける制度が望ましいと
思っておられるそう。

一方、岡田さんは、
無料で作品を提供しているクリエイターも含めて
多様性が確保できればいいと考えていることになる。

クリエイターを救うというと、コンテンツをどうやってマネタイズして、貧乏なクリエイターが食べられるようにするかと考えてしまいがちです。
 けれど僕らが救うべきは、食うや食わずで創作を行っている貧乏なプロクリエイターではなく、無料で作品を作っているプチクリエイターなんですよ。こうした無料のクリエイターこそが、文化の多様性を生み出す最大多数です。だから、制度設計は彼らのことを最優先に考えるべきであり、マネタイズする人の最大利益を考えるのは間違っています。

(p.157)

今年の春からnoteにハマっている私は、
この文言を読んで、ちょっと考え込んでしまった。

その内容は、noteのほうで書いてみた。
noteにまつわる自分の矛盾

私がnoteに興味をもったのは、
小さな意味での「創造活動のマネタイズ」に賛同した、
ということでもあると思うのだが、
それは、クリエイターが食っていける云々の話ではなく、
あまりにも無料に慣れてしまった私たちの、
お金の使い方を問い直す作業でもあると思っている。

つまり、食っていく側よりも、
お金を出す側、受け取る側の感覚の変化を、
noteに期待しているのかもしれない。

実際、自分自身、変化していると思う。

特に有名というわけではない人であっても、
お金を払ってでも読みたいと思ったものであれば、
100円、200円のことならば、
それほど迷うことなく出せる。

以前だったら、
考えられなかったことではなかろうか。

そう思うと、1500円くらいで買えてしまう単行本って、
ほんとに安いと思うのだが、
本をよく買うようになった、ということはない。
それもこれも、図書館で借りられるから。

noteはまだまだこれからだと思うし、
このプラットフォームに期待するところは
とても大きいのだけれど、
考えてみれば「文化の多様性」という観点で
私はnoteや著作権について考えてきたわけではないなぁと、
この本を読んであらためて思った。

その「文化の多様性」を考えるときの視点、立ち位置は、
いったいどこにあるのだろう?
 2014.09.02 Tuesday 10:08 『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』 permalink  
著作権とベーシック・インカム
少し前に、chapter-02 についてだけ書いた
『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』
(岡田斗司夫、福井健策/阪急コミュニケーションズ/2011年)
が、また一時的に手もとにやってきたので、
もう少し感想を書きます。



今回は chapter-04 をのぞいてみたい。
章タイトルは「クリエイターという職業」。

オープニングは「野球でメシは食えない」話、
そして次に「プロとして食えるのは日本で1000人」
という話になっており、
「創作で食えなくてもいい」
という話につながっていく。

岡田さんは、作品が売れない彫刻家も、
その彫刻家のことを格好いいと思う女の子が
おにぎりを差し入れてくれて、
結果的にそれで食えてればいい、と言う。

野球がうまい奴は、いろんな会社から
「ウチの会社に入れよ」と誘われて、
営業ができないからと断っても、
そんなことはいいから、キミは野球やっててよ、
と言って飯を食わせてくれる。

つまり、直接、お金を稼ぐ才能がないとしても、
「才能を含む総合的な人格」で評価されればいい、と。

 彫刻家の話はいいが、
 野球の話に関してはちょっとズレているんじゃないかな?
 と思った私。
 野球の場合、総合的な人格ではなく、
 野球ができる才能で飯を食わせてもらっているんですよね?

福井さんはこれに対して、
コンテンツ創造で食える人間が1000人というのは
少なすぎて危ないのではないか、
コンテンツが重要なのは多様性ではないか、
という問いを投げかける。

で、数が調整されるのだが、
食えるクリエイターが1万人だとすると、
その周辺には10倍の10万人くらいの
コンテンツ収益だけでは食えない
クリエイターが存在するはず、
という話になる。

それはつまりセミプロということになるわけだが、
岡田さんは、コンテンツだけで食うことを
大多数のクリエイターが諦める方が
よほど単純でわかりやすいと考えてしまう、
ということを語っている。

何がどうわかりやすいかというと、
どこかのクリエイターが作ったコンテンツが
巡り巡って誰かに使われている、
それに対して逐一課金するなりお金が発生するようにして、
元のクリエイターが収入を得られるようにする、
そのシステムが複雑怪奇だ、という話。

そういうシステムを維持するよりも、
大多数のクリエイターが
コンテンツだけで食うことを諦めたほうが
単純でわかりやすい、と。

で、ここで進行役の方が、
岡田さんはベーシック・インカムも支持されていますよね、
と話を振る。

岡田さんが著作権という仕組み自体を
諦めた方がよいと主張するのは、
ベーシック・インカムの場合とよく似ているそう。

今の法律だと、所得税やら還付金、
生活保護に子供手当と
制度が複雑になりすぎていて、
この複雑な制度を維持するために
大変なコストがかかっている。

だったら、
ベーシック・インカム賛成派の人たちがいうように、
すべての社会保障をやめて、
ベーシック・インカムに一本化した方が
国としたら運営コストが下がっていいんじゃないか、と。

コンテンツについても、
著作権自体を諦めてしまった方が、
あらゆる面でのコストを
劇的に減らせるんじゃないかというのが
岡田さんの考え。

で、福井さんがこれに対して、
仮にベーシック・インカムのような形で
日々の生活が保障されるのであれば、
「著作権なんていらないよ」
というクリエイターは多そうだ、
とコメントしておられる。

なにせ、大半のクリエイターが
自分の作品で飯が食えるほどには
稼げていないのは古今東西の現実だから、と。

で、このあと
「僕たちが欲しいのはコンテンツではない」
という話になっていくのだが、
これについてはnoteで書いた。
「お金を払っている相手は、コンテンツなのかクリエイターなのか。」の補足

そして、
人はライブの体験にお金を払うこと、
出版業界と音楽業界の落ち込みの話を経て、
「タニマチ」がクリエイターを救う話に入っていく。

「タニマチ」というのは、
いわゆる″ひいき客”のことだと思うが、
ブロードウェイのプレミアムシートの話から、
岡田さんの FREEex システムの話
http://blog.freeex.jp/archives/51308443.html
につながり、
「つまらないけど豊か、貧乏だけど楽しい、どちらを選ぶ?」
「あらゆる産業がシュリンクする」
という話に入っていく。

いろいろ書いてあるが、岡田斗司夫さんは、
市場や業界が縮小することを
ポジティブに考えておられるのだと思う。

という感覚に対して、
進行役の人たちは、一同ため息をつき、
それは恐ろしい未来図だ、
はるかに競争が過酷になり、
タニマチ、パトロンになってくれるファンを集められる
ごく一部のクリエイター以外は生き残れなくなるのでは?
という問いかけをしている。

これについて岡田さんは、
「そう思うのはマネタイズを考えるからでしょう?」
と切り替えしている。

つまり、早い話、
創作以外に食べていけるための仕事を見つけろ、
ということ。

人生のうち1回くらいは大きな花火を打ち上げて、
また地面に落ちてくる、
それでもやりたいのが創作というもの。

食っていく手段がコンテンツ以外にもあれば、
地面にぶつかっても死なない、
そうしたら死ぬまで創作できることになる、と。

著作権から解放されて、
みんなが貧乏だけど快適な国だったら、
生涯かけて創作に打ち込めるし、
いつか一発当てる夢を死ぬまで見続けることもできる、と。

そう言えば私がこの本を手にしたのは
そもそも著作権への興味からだったと思うが、
そもそも著作権って、
クリエイターの利益を守るためのものだった、
ということを久しぶりに思い出した。
なんか忘れてた。

だけど、著作権から解放されたら
「貧乏だけど楽しいクリエイトライフ」
をみんなが送れるのかというと、
そういうことでもない気がしている。

いずれにせよ、興味が、
著作権から別のところに移ってきた感じ。

(つづく)
 2014.09.01 Monday 12:35 『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』 permalink  
引用するときに許諾を求める「癖」をつけてはいけない・・・か?
『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』
(岡田斗司夫、福井健策/阪急コミュニケーションズ/2011年)
を読もうとしていましたが、
図書館返却までに全部の感想を書くのは無理そうなので、
今回は chapter2 のみということにします〜〜




前回の「法律で遊ぶのは大人の務め」の続き。

福井さんは、
ご自身の『著作権の世紀』などの図版は
すべて無許諾で引用して、
筆者の選択と責任の下で掲載しているそう。

編集者にしてみれば、
普通はいちいち許諾を取って掲載するケースが多いから、
内心心配だったかもしれないけれど、
自由にさせて下さった、と。

引用は著作権法の例外として
法的に認められている行為なのに、
みんな許可を取って引用する。

そんな馬鹿な話はない、それでは、
他人の著作を批評することもできなくなってしまう、
と福井さん。

これをうけて岡田さんは、
引用する時に許諾を求める
「癖」を付けちゃいけませんね、
と答える。

岡田さんも、
『遺言』では図版も大量に収録しているけれど、
許諾は一切取らなかったとのこと。
もちろん、引用の要件を
満たしているという判断のもと。

福井さんや岡田さんが
こういう取り組みを試してみることで
出版社に対する教育にもなるし、
通例を作ることにもなる、と岡田さん。

これに対して福井さんは、
出版社が許諾を取りたがるというのもわかる、
ということも書いておられる。
具体的なケースをあげて。

そのケースでもおそらく法的に根拠はないのだけれど、
法律がこうなっているからといって
普段から許可を取らずに画像を利用していると、
いざという時に取材に協力してもらえないかもしれない、
ほかの引用についても同じことが言えて、
どうしても出版社は及び腰になりがち、
と福井さんは説明しておられる。

ここで進行役の方の質問が入る。

デジタル技術が発達すると、引用の位置づけも
大きく変化することになるのではないか、と。

書籍の一部をブログやツイッターに
引用することは問題ないが、
技術が発達していたら
ネット上の引用を収集して
1冊の本に戻せてしまうかもしれない、と。

これを受けて福井さんは、
デジタルとネット化の中で、
できることの範囲はどんどん広がっているので、
そういうことも問題になるが、
やはりこうした問題は
「著作権法は何のためにあるの?」
という視点から考えるべきだと思う、
と答えておられる。

詳しいことは割愛して簡単にまとめると、
違法か適法かではなく、
「それはクリエイターやユーザーにとって
良いことなんだろうか」
という評価をすべきだ、と。

で、このあと進行役の方が
「引用するたびにクリエイターに
小銭を送れる仕組みがあるといいのかもしれませんね」
という話をされて、
福井さんが「面白いと思います」と同意しておられる。

引用する側もたいていは、
1円たりとも払いたくないと思っているわけではなく、
たんに面倒な処理とか、制約が困るだけなんだ、と。
だから権利処理をいかに簡素化していくかというのは
これからのキーワードになるでしょう、と福井さん。

(以上が chapter2 の後半のおおよその内容です)



許諾の癖をつけないという話が出てきたのは
少し意外だった。

が、言われてみると確かにそうかもしれない。

こういう話になると、
例の出版社の「今後の都合」のほか、
「マナー」「礼儀」という言葉も
絡んできそうな気がする。

あと、許諾を得ようとして
ダメだった場合どう考えればいいのか、
という疑問もあるし、
許諾を得ようとすることが
かえって先方の負担になる、
ということもない話じゃなさそう。

だけど、許諾を得ることで、
本の出版を知らせることもできるんだよなぁ、
とも思う。

実は大昔、私のホームページの記事の一部が
あるライターさんの雑誌の記事で引用されたことがあり、
そのときに、本来は連絡の必要はないのだけれど
お知らせさせていただきました、
という内容のメールが事前に届いた。

そのこと自体がとてもうれしかったし、
お忙しいだろうに、
丁寧なメールの内容にも感動した。

そういうことの意味というか面白さというか
人の気持ちというのもあると思うのだ。

もし連絡をいただかなかったら
私はその記事に一生気づかなかったかもしれないし、
掲載されていることを人づてにきいたら
「一報くれてもいいのに…」
と思ったかもしれない。

でも、好意的な内容だったので、
いずれにせようれしかっただろう。

これが批判的な内容だと、
また気持ちは違うだろうと思う。

実際、私のブログというかスタンスに対して、
どちらかというと批判的な記事を見つけたこともある。

そもそも引用ではなく、
許諾がどうのこうのという問題でもなかったが、
こういうときに言及しましたよという連絡をもらうのは
逆に面倒な気がする。

好意的な内容のときだけ連絡して、
そうでないときには連絡しないというのは
どんなもんなんだろうか…?

私はアリという気がしないでもないのだが、
ケースバイケースかもしれないな。

ということは、どこで何を言われているかは、
基本的に自分でチェックするか、
われ関せずでいるか、読者の判断にまかせる、
ということになるだろうか。

なるのでしょう。
ここで示したような例もあることですし…>

以前だったらこんなこと、
いわゆるプロのクリエイターというか、
著名人だけが気にすればよかったことだと思うのだが、
現在のように一般人もネットで発信できるようになると、
ヒトゴトじゃなくなるし、
発信していなくてもヒトゴトではなくなる。
(いつどこでだれに何を言われているかわからない。
 それがまた″表現”となり″批評”の対象となるわけだが)

そんなこんなで、岡田さんと福井さんのこの意見に
いますぐ諸手をあげて賛同はできないのだけれど、
「癖をつけない」という言葉にはドキっとした。

たぶん、許諾をとりたいのは
法的にクリアであることの確証がほしかったり、
自分自身が安心したいから、
という気持ちがあるんだろうな。

あるいは、先ほども書いたように、
マナー、礼儀をつくしたい、
自分の記事を知ってもらいたいという
こちらがわの都合なのかもしれない。

福井さんや岡田さんが許諾ナシで図版を載せるのは、
引用の条件を満たしていることを
自分でしっかりと判断できていて、
そしてそれに責任を負っていて、
あえてやっている、ということだと思う。

ちなみに、
「引用するたびに小銭を送れる仕組み」
については、なるほどねぇと思い、
私もnoteでこんなテキストを書いている。↓
引用やリンクに少額の課金が生じると、面白くなるかもしれないという妄想発生中



chapter2 については
だいたいこんなところです。

まだまだ話はこれからであり、
読み始めるまえに
一区切りになってしまって残念ですが、
続きはまた今度ということで・・・!
 2014.07.30 Wednesday 13:00 『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』 permalink  
「作品で食っていけるクリエイターなどいなかった」
『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』
(岡田斗司夫、福井健策/阪急コミュニケーションズ/2011年)
chapter2を読んでいる。



著作権という考え方は、
実はけっこう新しいものらしい。

検索してみたら、ウィキペディアに
著作権の歴史という項目があった。

印刷技術と関わりが深いもよう。
なるほどねぇ〜

福井さんによると、
イギリスで著作権が認められるようになったのは
18世紀に入ってからで、
シェイクスピア(1564〜1616年)の時代には
まだ著作権法がなかったとのこと。
(という例はよく引き合いに出されるらしい)

この頃は、基本的に
他人が書いた本の内容をパクるのも自由だったし、
少なくとも作家には、
いわゆる海賊版を止める権限もなかった。

そういう状況のなか
クリエイターが創作を行う手段は
大きく分けてふたつしかなく、
ひとつはパトロネージ(パトロンからの援助に頼る)、
もうひとつは、他に職業を持っている人が
余技として創作活動をするケース。

実際には、極貧の中、作品を作り続けて、
若死にするという第3のケースも
少なからずあったわけですが…
と福井さんは付け加えておられる。

作った作品が大ヒットしたとしても
すぐに海賊版が出回ってしまっては、
収入を確保することができない。

そこで、せめてしばらくは独占的に
クリエイターが作品の権利をコントロールして
収入を確保するチャンスを与えよう、
海賊版を一定期間排除できるようにしてやろう、
という観点から著作権を理解・正当化する見方があり、
前回の大陸法、英米法でいえば、
これは英米法に近い考え方になるとのこと。

つまり、著作物が情報材として
著者の人格から独立して流通するのはかまわなくて、
著作権法は収入確保のための手段として存在しており、
それで良いという立場。

しかし、そんなふうにして英米法的な立場から
クリエイターは収入さえ得られればよいと考えると、
ではどういう使われ方をしてもいいのか、
という問題が出てくる。

岡田さんはここで、

  原発推進CMで、
  RCサクセションの
  「サマータイム・ブルース」を
  バックに流してもいいのか?

という例を出しておられる。
(興味のある方は検索してみてくださいね)

こういう場合は、「著作者人格権」に
関わってくる可能性が十分にある、と福井さん。

著作者人格権は大陸法的な発想。

これがなかったら
著作権の扱いは楽になるのかといえば、
自分の意図とはまるで反対の
使い方をされることもあって、
それはそれで大変なんですね、と岡田さん。

福井さんいわく、
著作権は確かに厄介な存在だけど、
100年以上の期間をかけて構築された
血と汗の結晶でもあり、
生半可なことで突き崩せるような
ヤワな相手ではない。

それがデジタル化の中で
機能不全を起こしかけているから
厄介なのだ、と。

しかし、私たちは、
制度がどうあるべきかという問いから
逃げてはいけない、と話は続けられる。

法律が間違っているから守らなくていい、
ということではなく、
今のルールがおかしいと思ったら、
その制度を変えていく努力をする。

で、このあと、
誰かがリスクをひきうけて、
合法の範囲内で「遊び」を仕掛ける、
その遊びにわずかのグレーさが混じっていたとしても、
やってみるという発想がないと何も変わらない、
という話になっていく。

さらに次の段落で
許諾を求める「癖」の話が出てきて、
うーむ、と考えさせられたのだった。

(つづく)
 2014.07.27 Sunday 11:45 『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』 permalink  
著作物に対する、大陸法的な考え方と英米法的な考え方の違い
『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』
(岡田斗司夫、福井健策/阪急コミュニケーションズ/2011年)
を読んでいる。



chapter2ではこのあと岡田さんが、
プラトンとアリストテレスの
寓話の話を出してくる。

人の意見を文字として残そうとするプラトンに、
アリストテレスが反対するという話。

プラトンは、意見は文字にして
紙なり粘土板なりに記すことで
客観性をもった実在になり、
それが情報として流通できるようになる。
これこそが意見であり、
それを戦わせるのが議論であるべきだ、と言う。

一方、アリストテレスは、
そんな風にしてしまうと、
最初に意見を述べた人の人格や重み、
言葉のニュアンスといった要素が
すべて消え失せてしまうと反対する。

実際にそういう論争があったかどうかではなく、
あくまでも寓話だそう。
(欄外補足で「イデア」や「普遍論争」について
 簡単に説明がなされている。)

で、岡田さんはこのあと、
実際にご自身が経験した
「自分の意見が一人歩きする」
状況について語っておられる。

前後の文脈抜きに部分的に抜き出されて、
意味が変わってしまうというアレです。

部分的とはいえ抜き出しているのだから、
そういうことを書いているのは確かであり、
引用した人がウソをついているわけじゃない。
しかし、前後の文脈を無視しているので、
著者の意図とは別の捉え方がされてしまう。

このエピソードを受けて福井さんは、
意見を表明した人が
使い方までコントロールしたいという欲求は
まさに著作権の基本的思考に関わってくる、
と述べられている。

現在の著作権は、
独占コントロール権を軸として構築されている。

先ほどの寓話でいえば、アリストテレス的な
「人格の発露としての情報」という意識が
より強いということになる。

で、こちらが大陸法的な著作権の考え方になるらしい。

大陸法とは西ヨーロッパで発展した法体系で、
日本でも明治維新の際に採用されているもの。
ローマ法の伝統を受け継いでおり、
成文法を中心としている、とのこと。

つまり、大陸法的な考え方では、
著作物はクリエイターの人格を体現したものであり、
儲かるとか儲からないとかではなく、
著作物はその人の分身だということになる。
だから、他人が勝手に使うことはできない。

これに対して、
先ほどの寓話のプラトンの視点で言えば、
表に出ている情報は、
ある程度著作者からは独立した存在になっていて、
世に出てしまった作品は
もはや情報として独立しており、
クリエイターとは別個の存在である、
ということになる。

そうなった情報はできるだけ自由に
流通するようにしてやろう。
そういう発想になると、
英米法的な考え方になるのだそう。

欄外補足で、英米法は大陸法と比較すると、
判例を中心とした慣例法である点が大きく異なる、
と説明が加えられている。

これを岡田さんは

つまり、アリストテレス的な大陸法はクリエイターの人格を中心にした考え方、一方の英米法は著作物をこの社会においていかに有効に使うかに重きを置いているということでしょうか?

(p.58)

と質問していて、
福井さんが「そうともいえますね」と答えている。



ところで。

いったん本から離れると、
いま私がやっていることは「要約」で、
たまに自分の所感を入れたり、
上記のように直接引用をしたりしているのだけれど、
こういう行為って著作権的にどうなんでしょうね?

だからというわけではないが、
ちょっと自分の体験談も書いてみようと思います。

先ほど、アリストテレス的発想の大陸法は
成文法だということの話が出てきたが、
これってすごく面白い構図じゃないですか?(^_^)

だってこの法は、文字によって表記されるんですよ〜!

私はむかし演劇をやっていて、
グループに所属していたときもあれば
劇団を作ったこともあれば
一人芝居をしていた時期もあるのだが、
一人芝居だと言葉を交わす・重ねることができないので、
言葉をバラす、組み替えるということをやってみたことがある。

で、はるか22年前に、
過去の公演の観客のアンケートから
言葉を抜き出して組み合わせ、
それで台詞を構成して作品化するという
公演をやったことがある。

確か、過去に公演に来てくださった方だけに
DMを送り、どの言葉を使ったかも
お伝えした記憶があるのだけれど、
いずれにせよ事後報告。

で、励ましのお便りと、お叱りのお手紙が届いた。

ほんでもって、同じくらいの時期に
基本六法を手にする機会があったので、
著作権法の部分をコピーして持ち帰った。

印象的だったのは第13条。

第十三条  次の各号のいずれかに該当する著作物は、この章の規定による権利の目的となることができない。
  一  憲法その他の法令
(以下略)

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S45/S45HO048.html

著作権法って法律ですよね?
ということは法令ですよね?
ということは、
権利の目的とならない著作物なんですよね!?

というわけで(!?)、その翌年に、
「著作権法条文」をもとに台詞を作って、
公演をやったのだった。

ちなみに2本立てで、もう1本は
「憲法21条vs刑法175条」というタイトルでした。

↑この人、好きなことして遊んでるなぁ…

ちなみに会場は公的施設で、
前売・予約が800円、当日が900円。

もちろん、芝居で食ってなんかいなかった。
生計は別のところで立てていた。

あのころ私は、クリエイターだったんだろうか?

(つづく)
 2014.07.23 Wednesday 11:37 『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』 permalink  
野菜は食べればなくなるが、コンテンツはコピーしてもなくならない!?
『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』
(岡田斗司夫、福井健策/阪急コミュニケーションズ/2011年)
を読んでいる。なお、章立ては次の通り。

======================================
 chapter-01 電子書籍の自炊から著作権を考える
 chapter-02 著作権は敵か、味方か?
 chapter-03 コンテンツホルダーとプラットフォームの戦い
 chapter-04 クリエイターという職業
 chapter-05 ネットの中に国家を作り上げる
======================================



chapter-01は省略して、
まずは chapter-02 から読んでいきたい。

著作権は敵か味方かと考えてみた場合、
ついこの間まで、多くの″普通の人”にとっては
「敵」だったんじゃないか、と岡田さんは語る。

コンテンツがタダで手に入れば誰でもうれしい。
違法コピーだろうが何だろうが、
タダで音楽を聴いて、タダで映像を見たい。
それを著作権法が邪魔する。

特に大学生くらいはそういう意識が強くて、
「コンテンツなんかタダでばらまいたっていいじゃない」
と声高に主張する人もいる。

畑から野菜を盗んだら泥棒だけど、
ソフトウェアやコンテンツは
いくらコピーしたって減らないんだから泥棒ではない、
と考えたりする。

しかし、今や誰もがツイッターでつぶやいたり
ブログを書くようになって、
以前ならば人口比率で0.1%にも満たなかったクリエイターの側に
みんなが回るようになってきた。

敵か味方かという以前に、
著作権とみんなどう付き合っていけばいいか
わからなくなっているように思う。

と、岡田さんは語る。

 まさに私もそのような意識で
 ネットライフと著作権(1)/無関係でいられない時代
 を書いた。

これを受けて福井さんは、
野菜とコンテンツがどう違うという視点は的確であり、
著作権とは「情報コントロール権」と表現することもできる、
と説明している。

つまり、紙の本それ自体には購入者の所有権が働くが、
中に記されている情報には著作権があって、
紙の本を自分で買ったとしても、
中の情報をどんどんコピーすることは許されない。
これが著作権というものの本質だ、と。

 福井さんのこの話を読んで思い出したのだけれど、
 知的財産権について考えていると、
 確かに所有権のことを思いだす。
 つまり、「だれのもの?」という発想。

さらに福井さんは、
情報の「非競合性」「非排他性」についても
説明しておられる。

野菜の場合、複数の人が1個の同じ野菜を
同時に消費することはできないが、
情報は1人で使おうが100人で使おうが減ることはない。
(非競合的)

また、野菜は倉庫にしまって管理すれば盗めないし、
物はだれかが盗んだらすぐにわかるけれど、
本をだれかがどこかでコピーしても通常はわからない。
(非排他性)

減りもしないいし管理することもできない情報というものは、
必然的に自由流通にならざるを得ず、
著作権というのは本質的に無茶な仕組みなんだと
福井さんは語る。

そしてこのあと岡田さんが、
昔は、情報もモノとして流通させる必要があった、
ということについて言及する。
つまり、情報は印刷物として流通していたわけだ。

昔は情報がモノと一体化している度合いが高く、
モノとして独占的に管理しやすかった。

しかし、情報がデジタル化されて、
ネットワーク化の波が一挙にやってくると、
モノと一体化しなくても
情報を流通させられるようになってきた。

そういう状況になると、
情報の本質がクローズアップされ、
従来の著作権の考え方とは矛盾が広がりつつある。
(ちょっと表現がおかしいですが、
 最後の一文は原文ママです)

これが、この20〜30年の間に起こっている変化の意味だろうと、
福井さんは岡田さんの話を受けてまとめておられる。

 chapter01の「自炊」の話で、
 岡田さんが、本をデジタル化して
 体積を圧縮化する話をしておられるのだが、
 モノはモノとしての管理の大変さがあり、
 情報は情報としての管理の大変さがあるなぁ、
 ということを、あらためて感じている。

 というか、大変さの質が違う。

 私は現在noteのマガジン
 『暮らしのなかの「どうすりゃいいのさ!?」』で、
 「メールの管理」について扱っているのだが、
 もう少ししたら「紙の管理」についても書こうと思っている。
 (と、さりげなく宣伝を混ぜておく〜)

(つづく)
 2014.07.18 Friday 13:17 『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』 permalink  
『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門 』岡田斗司夫・福井健策
先日書いたように、
最近noteというところでテキストを書いている。

いまだに「というところで」 を付けてしまうのだけれど、
普及・認知の度合いがどのくらいなのか、
私にはよくわからない。

で、ここ数日は、
「ネットライフと著作権」
というテーマでいくつか文章を書いていた。

 値段がついていますが、
 全文公開の投げ銭方式ですので、
 よろしかったら読んでみてください。
 …と、書いてしまうわけですよ。

いつか考えたかったことを、
本腰入れて考えてみようと思ったのだが、
あれこれ調べているうちに、
本が2冊読みたくなって、
1冊は購入し、1冊は図書館から借りてきた。

購入したのは
『「ネットの自由」vs.著作権 TPPは、終わりの始まりなのか』
(福井健策/光文社/2012年)

ぱらぱらっとめくって、
「うわ〜〜、これはひと勉強だな〜〜」
と思った。

そして、先にのぞいたあとがきで、
次のようなことが書かれてあるのに感動した。

ある弁護士から著者が
「あなたは権利者側か利用者側か、どちらの味方なのか」
ときかれたときの答え。

 著者は、どちらの側に立とうと思ったこともありません。そんなことには、興味すらありません。ただ、いつでも「文化の側」に立ちたいと思っています。もっとおもしろい、豊かな作品を創造し、発掘し、育て、そしてより多くの人々に届けようとする人々の側に立ち続けたいと思っています。

(p.192)

著作権のことを調べていると、
「そもそも著作権ってなんのためにあるんだっけ?」
とだんだんわからなくなってくるのだが、
それはつまり「文化の発展とはなんぞや?」という
問いでもあるような気がする。

図書館から借りたのは
『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』
(岡田斗司夫、福井健策/阪急コミュニケーションズ/2011年)

少し斜に構えた気持ちで手にしたのだけれど、
読み始めてすぐに「う〜ん」とうなってしまう。
(なお、対談形式で読みやすいです)

まさかベーシック・インカムが出てくるとは
思っていませんでしたよ。ちょろっとだけど。

というわけで、返却期限もあることだし、
まずは後者について読んでいきたい。

ところで、岡田斗司夫さんが
cakesに文章を書いているところまでは
チェックしていた私。

cakesはnoteと同じく
株式会社ピースオブケイクが運営している。
って、言い方が逆だけど。

その代表取締役CEOの加藤貞顕さんは編集者で、
以前はダイアモンド社の社員だった。

あの「もしドラ」の編集者。

「もしドラ」がダイアモンド社から出たのが2009年。

そして、上記の「なんでコンテンツに…」が
阪急コミュニケーションズから出たのが2011年12月。

ほんでもって、
岡田さんと加藤さんの関係ってどんな感じなのかな?
という好奇心で検索してみたら、
岡田さんの『評価経済社会』の編集担当をしたのが
加藤さんだとわかった。
http://sadaakikato.com/author/sadaaki/page/3/

この本の発行は2011年2月。
もちろんダイアモンド社から。

そして加藤さんが
株式会社ピースオブケイクを成立したのが、
2011年の12月8日。
http://sadaakikato.com/2011/12/09/pieceofcake/

つまり、岡田さんの「なんでコンテンツに…」が
発行されたのとほぼ同じ時期なのだ。

面白いなぁ!と思う。

noteはどんな人でも
(著名人じゃなくてもプロじゃなくても)
自分の絵や音楽やテキストに課金をして、
コンテンツを売ろうとすることができる。

ブログのようでもありSNSでもあるのだが、
もっとも大きな特徴は、やはり、
個人間で簡単にコンテンツの売り買いが
できるところだと思う。

私も売ってるし、買っている。

それは実際のお金、
つまり日本国内で流通している「円」であり、
それは他のものも買える貨幣なんだけれど、
もしかするとほとんど「評価」のようなものかもしれない、
とも思うきょうこのごろ。

評価を、貨幣で行うわけなのだ。

新しいものに抵抗感の強い私が、
なぜこのnoteにだけは
比較的早めに反応したのか、
最初は自分でも首を傾げていたのだけれど、
(使いやすさも大きな要素だが)
私をnoteに導いてくれた一人が
phaさんだったというのは、
やはり象徴的だなぁ、と思う。

だけど、コンテンツにお金を払うことに
抵抗のある人は、まだまだ多いのではなかろうか。

私たちは、安いことと「タダ」に、
本当に慣れてしまったと思う。

どんなページにも広告があることにも
すっかり慣れてしまった。
(それもあってnoteの画面のシンプルさは新鮮)

そういえば古い記事だけれど、
次のようなページを見つけて笑ってしまった。
架空の料金を判定する「Twitter利用料金チェッカー」なるものの話。
http://matome.naver.jp/odai/2135091613860835701

私たちはいま、何に対してお金を使っているのだろう?

岡田さんは「なんでコンテンツに…」のなかで、
ユーザーが求めているのはコンテンツではない、
というようなことも語っておられる。

その意味を含め、
いま自分が考えたいことと関連深い章を中心に、
読んでいこうと思います。

(つづく)
 
 2014.07.16 Wednesday 18:44 『なんでコンテンツにカネを払うのさ? デジタル時代のぼくらの著作権入門』 permalink