芦田宏直の「ツイッター微分論」(13)/〈教育〉と遊動空間とパワー(エネルゲイア)と、限界=境界
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。



第9章・第2節を締めくくる12項には
「〈新人〉の発掘としての学校教育
 -----ハイデガーのエネルゲイア論と大学」
というタイトルがついている。

芦田さんが思う教育とは、
〈新人〉の産出・発見とのこと。

〈学校教育〉が〈生涯学習〉と異なるのは、
〈学校教育〉は若者の教育であり、
次世代(ながーい時間)を形成する
人材の形成だということ。

「若い」ということは、
〈先にあるもの〉にまずは支配されているということ。

慣習・風習・伝統、あるいは偏見・先入見。
身近でいえば〈家族〉や〈地域〉。

「大人になる」というのは、
「イノセントであること」を脱して
その″影響”を何らかの仕方で
とらえ返せる(引き受け直せる)
ということなのだから、
こういった先行性を有した
受動的な主体(主体ならざる主体)は、
決して生涯学習マーケットのような
〈顧客〉や〈消費者〉ではない。

その若者は、〈校門〉と〈塀〉に囲まれた
《学校》の中で学ぶわけだけれども、
校門や塀は、生徒・学生たちを
閉じ込めるためにあるわけではなく
(その機能もきわめて大切なものだけれど)
広大なキャンパスを確保することによって
社会との遊動空間を形成している。

※ 遊動空間/Spielraum/シュピールラオム
  は、ハイデガーのキーワードとのこと。

それは慣習・風習・伝統・偏見・先入見などからの
″隙間(Lichtung/リヒトゥング)”である。

この″隙間”は、〈教室〉の中ではみんな平等だという
学校教育の基本思想を形成している。

人間だけが、生の威力に押し出されるように
時間を過去から未来へと追随させるのではなくて、
その時間を溜めること、
その時間を解釈(=再解釈)することができる。

先行する時間を曲げるこのプロセスが
〈学校教育〉の意味だ、と芦田さんは言う。

で、このあとはちょっと込み入った話になっていて、
ハイデガーの概念もビシバシ出てくるので、
いまはちょっと要約さえもできそうにない。

ので割愛して、次の部分だけ触れておきたい。

私は、学校schoolの語源は
スコレー(暇)だという話がお気に入りで、
それはこの生活ブログでも書いているのだが、
http://sukkiri.artet.net/?eid=1407641
芦田さんもそのことに触れておられる。(p.376)

「暇」というのは、「遊動」につながる。

無駄に大きな図書館、無駄に長いアプローチ、
大小いくつもの大きさの教室。
建物よりも数倍、数十倍も無駄に広い
大きな空地(=キャンパス)。

これらは、世俗の時間を曲げるパワーだと
芦田さんは言う。

大地震が起こり、原発がメルトダウンし、
多くの人々が路頭に迷っても、
うれしそうな顔をして
地震や津波の「専門知識」を語り、
原子力の「専門知識」を語る「遊動」学者。

飛行機が落ちても、戦争が起こっても、
デフレでもインフレでも。
そういった「遊動」学者がテレビや新聞に登場する。

それは確かに不謹慎なことだけれど、
大学がキャンパスに守られていることの証でもあり、
大学のパワーそのもの(エネルゲイア)を意味している、と。

少し前にさかのぼると、こんなことも書いてある。

どんな曲がった道でも、後から見れば一本道でしかなく、
つまり本来の″曲がった時間”とは
その「一本道」との断絶の中で曲がっているということ。

機能主義的な述語化に抗うのが、
この″曲がった時間”である、と。

そして、この″曲がった時間”を見出すことを
〈批評 Kritik/クリティーク〉と言う、と。

このパワーは、大衆的な規模でいえば、
キャンパスの「遊動空間」の中からしか出てこない。

芦田さんは第9章の終わりのほうで、
「できない学生」ほど大学へ行くべきだ、
と書いておられる。

それは、「できない学生」ほど
短い時間の機能主義的、ビヘイビアリズム的な
「必要」と「反応」で生きているから。

何を言っても「何の役に立つの?」と聞いてくる。

この子供たちを大学の外に追いやったら、
一生、生活=生死に追われることになる。
機能主義者のように述語ばかりを拾い集めて
生きることになる。
〈新人〉になる契機を永遠に失う。

現在の学校教育における〈キャリア教育〉は、
述語人材作りにすぎない、と。

そう、私も娘に「大学に行ったほうがいいと思うよ」
とアドバイスすることがあったら、
まさにこの「遊動」体験をしてほしいからだと思う。

芦田さんは言う。
どんな人間も専門家(ストックの持ち主)として
生まれてくるのではない。

〈どこか〉で、その道に入った。
〈どこか〉でその人も「できない学生」だった。

その〈どこか〉の〈限界=境(ぺラス)〉に
立ち続けることのできる人を
″専門家”と言う、と芦田さんは語る。
(専門家という言葉は好きではないけれど、
 とりあえず、とのこと)

吉本隆明はこの
〈限界(ぺラス)〉としての〈どこか〉を
言葉の〈像〉と呼んでいたそう。
(ちなみにこの本の第10章は、
 「追悼・吉本隆明」となっている)

ストックとは、
〈限界=境(ぺラス)〉に立ち続ける
パワー(エネルゲイア)のこと。

アリストテレスが〈ウーシア(実体)〉を定義して、
点、線、面のことだと言ったのは、
それらが限界=境界の時間性を意味していたから。

以下は、芦田さんが
ヘーゲル『大論理学』第一巻「存在」論
(岩波版上巻146ページ)
から引用している部分を抜き出したもの。

 点は線の絶対的な始まりである。のみならず、また線がその両端において限りないもの、あるいは通常言われているように無際限に延長しうるものと考えられる限り、点は線のエレメントをなしている。同様に線は面のエレメントであり、面は立体のエレメントである。実際これらの限界はそれが限界づけるところのものの原理(Prinzip)である。それはちょうど、一がたとえば百番目の一として限界であるとともに、百全体のエレメントでもあるのと同じことなのである。

(p.381)

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まだまだ刺激的な話は続くのだが、
時間切れとなってしまった。

中途半端になってしまったけれど、
とりあえず上記部分が
引用できるところまではきたので、満足。

  それにしてもあれですよね、
  機能主義=関数主義、そして微分、
  「境界」とエレメント、
  そのまますぐに
  数学の話につなげたくなってしまいます。

これで第9章の感想は一区切り。
次の機会にまた続きを考えることにしたい。

あとはトークセッションの感想を書かなくちゃ。
たぶん、数学教育ブログのほうに書きます。

[追記]書き始めました。
 >芦田宏直×本間正人 トークセッション『ソーシャルメディア時代に求められる人材像とは?』の動画を観て(1)
 2014.06.10 Tuesday 18:34 『努力する人間になってはいけない』 permalink  
芦田宏直の「ツイッター微分論」(12)/ツイッターとポストモダン
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。



なんでもヘーゲルは、
〈いま〉現在は存在しない、
と言ったのだそう。

たとえば「いまは夜である」という
感覚的な確信の真理を書き留めておく。
(真理は書き留めたからといって消えてなくならない)
そして、日中に書き留めた真理を眺めてみれば、
それは気の抜けたものになっている、と。

しかし芦田さんは、
「いまは夜である」と書きとめたものが
日中に気の抜けたものになるのは
書く時点と読む時点が分離しているから、
と解説する。

もしこれが同時だったらどうだろうか。

発信が瞬時に共有(=消費)されるような
メディアが存在するのであれば。

そうなれば「書き留める」ことの問題は発生しない。
書き言葉は限りなく話し言葉に近づく。

「濃密手帳」やツイッターにおいて〈現在〉を微分するのは
現在において生じ、現在において終わろうとするものだけに
気を留めるため。

それは、将来の自分や過去の自分を捨てているのではなく
〈現在〉において〈始まり〉や〈終わり〉を細分化することによって、
〈現在〉が〈永遠〉であるようにとどまり続ける
〈ふるまい(behavior)〉である、と。

折りしもこのあと、
宮台真司『終わりなき日常を生きろ』
が話題に出される。

なぜ折りしもかというと・・・

「ツイッターの微分が進むことによって
 ラディカルに忘れ去られているのは
 人間が死ぬことだ」
ということについてはすでに書いたが>
芦田さんはp.367(11項のかなりうしろのほう)で
 人間の生死って生まれたときから確実なのは生きることより死ぬことなんだから、いつも選択し直され続けている。生きることの影が死ぬことなのではなくて、死ぬことの影が生きることなわけです。
人間の死はいつでも死のうと思えば死ねたという現在を抱えながら存在しているという意味で、ツイッターの現前性の微分はそういった緊迫感を隠喩している点ではすごく革命的です。
と書いておられて、「いつでも死のうと思えば死ねた」という言葉を
「いつでも死のうと思えば死ねる」に変えると、
私は鶴見済さんのあのベストセラーのことを思いだすのだ。

で、少し前にツイッター経由で知った
このページのことを思い出したしだい。↓

tsurumi's text>宮台真司による捏造記事を訂正する
http://tsurumitext.seesaa.net/article/397032095.html

宮台真司さんの応答はこちらからダウンロードできるようなので
興味のある方はどうぞ↓
https://twitter.com/miyadai/status/466839570378944512

芦田さんいわく、
「終わりなき日常を生きろ」と叫ぶまでもなく、
日常は〈終わり〉を見せないように進行している、と。
しかしもう一方で、この日常は、
不断に終わりを見せつける日常でもある。

上記のやりとりのなかでハルマゲドンの話も出てくるが、
オウムの「ハルマゲドンによる救済」を、
長い時間の終わりというファンタジーだとすれば、
ツイッターにおける「タイムライン」は、
短い時間における終わりを不断に再生している。

  このあとに続く買い物のローン化の話は、次の機会に、
  郡司ペギオ-幸夫の時間論とあわせて考えたい。↓
  http://math.artet.net/?eid=1352630

芦田さんは、先の引用部分の2番目、
つまりツイッターがいかなる点で革命性的か、
というに話に触れたあと、次のように続ける。

これは、ポストモダンの思想家たちが
〈主体〉とか〈人間〉というのは
実は幻想(超越論的仮象)なんだと言ったことにかなり近い、と。
 
ツイッターの微分作用は、ドゥルーズの言葉を借りれば「多平面主義」「n個の自己」「共立性(ルビ:コンシスタンス)consistance」「流動性(ルビ:フレクシビリテ)flexibilité」、「解離性同一性障害(ルビ:トルーブル・ディスソシアティフ・ドゥ・リダンティテ)trouble dissociatif de l'identité」「共立平面(ルビ:プラン・ドゥ・コンシスタンス)plan de consistance」「分割体(ルビ:ディヴィデュアル)dividual」とほとんど同じです。ドゥルーズの言う″意味の反復性"が力動的なのも「タイムライン」そのものです。むしろこれらの難しい言葉の意味は、ツイッターの登場においてすごく理解しやすくなった。デリダの「差延」もそう。これらは、思想的概念にすぎなかったわけですが、ツイッターにおいてはすでに世俗化しています。
(p.367〜368)

ツイッターとはそんなすごいものだったのか〜〜、
私はツイッター体験がまだ足りん、
まずはフォロー数が少なすぎる、
などと思った一節だった。

そして芦田さんは、ツイッターの予感を
次のように書いておられるのだが、
これを読むとますますその思いが強くなる。
 

 さて、加速器のように人間を微分記述すれば(短い時間で傾向処理すれば)、人間の身体も相対化できるのではないか。これが、ツイッターの予感です。われわれ哲学者、あるいは現代人は、ツイッターの挑戦を受けているわけです。いまから思えば、ポストモダンの思想家たちは、単に心理主義でしかなかったのではないか、というのが、この数年間のツイッター体験における私の感慨です。

(p.370)

 要するに、タイムラインでフォロー数を増やして毎秒死ねば、最後には「死ぬなう」とつぶやきながら死ねるかもしれない、というのがツイッターの予感です。すでに「セックスなう」は登場している。あとは「死ぬなう」を待つばかり(笑)。速度は死を乗り越えられるのか、ということなのです。「フレーム問題 frame problem」における〈フレーム〉をも微分で刻んで相対化しようとしているわけです。

(p.371)

しかし、話はここで終わるのではなく、
「それらはすべて終わりの強度がそうさせている」
と芦田さんは付け加える。

終わりの強度(=決着の強度)に応じて、
相対化の強度が進んでいるだけのことだ、と。
 

機能主義、あるいは機能主義的心理学というのは、決着の強度を忘れた思想なわけです。ツイッターのタイムラインがそうであるように。

(p.371)



(つづく)
 2014.06.10 Tuesday 16:52 『努力する人間になってはいけない』 permalink  
芦田宏直の「ツイッター微分論」(11)/機能主義こそが、〈個性〉を要求する

『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。



そんなこんなで、消費社会、IT社会においては
コミュニケーション能力が全盛になっていく。
(学校教育でもコミュニケーション能力が大流行)

それは、人間のビヘイビア(外貌)に
すべて意味があると考えてしまう
行動主義的な強迫神経症だ、
と芦田さんは書いておられる。

こういう話のときに「強迫神経症」という言葉が
わりとよく出てくるものだけれど、
ここでは比喩を超えて、
実際にその傾向があるのかもしれない。
(一億総強迫神経症時代到来か!?)

あの人はああいう目線で私を見ているけれども
ひょっとしたら私を嫌っているのではないかと、
どんな仕草も有意味と見なして
過剰に恐怖を感じる。

芦田さんはこれを
「ソーシャルメディア現象と言ってもよい」
と書いておられる。

いま、若い人たちは、
メールなどでそういう体験を絶えずしている。
(私は経験がないけれど、LINEもそうだろう。)

わずか3、4人の付き合いであっても
ファシズムみたいな関係になってきて、
〈内面〉がすごく肥大していて
ずっと友達に気を遣い続けている。

  このあたりに興味・心あたりのある方は、
  米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を
  どうぞ>カテゴリー作って感想書いてます
 
2、3人だけど、世界大に内面が肥大化しているから、
外が共同性として見えない。
外の者は人間でないみたいになる。

人間がいないのではなくて、
2、3人で十分人間的に疲れている状態になってる。
なにしろ24時間やりとりしているようなものなので。

つまり、24時間の「関係(function)」が
内面を以上に肥大化させている。

たった2人、3人であっても
世界大の情報処理能力を必要とする。

役に立つかどうかではなく、ずーっと話し続けているというのが大切なのです。だから家族や地域を越えた少数の共同体が他者の存在を極端に排除する。それは他者が不在なのではなく、内部にすごく巨大な他者を抱えてしまっているからです。

(p.337)

しかし、ツイッターには、そのしんどさがない。
ということについては、これまで書いてきた。

たとえばmixiもFacebookも″承認”が必要なので、
互報性の原理が機能しており、
どちらも村落的で奴隷的だが、
ツイッターの他者関係にはそれがない。

ツイッターでは少数の他者との関係ではなく、
現在と他者を微分によって拡大してするものなので
「どんなに性格が曲がった人間であったって」
「どんなにストックのない人でも」
ある種の社会性を獲得することができる。

つまり、現在が何千人もの人によって
微分されていくというのは、
そこに世界大の他者が入り込んでいて、
過去や未来も包含して
現在の微分の中に並列的に展開するということ。

過去と未来を忘れることのできる
究極のメディアだということ。

しかし、果たしてそうかという問題があって…
というわけで、
ツイッターの微分がどんなに進んでも現前化できない出来事
の話に入っていくのだった。

以上は10項の後半の内容であり、
上記の「現前化できない出来事」が
11項の前半に書いてあるわけだが、
その11項の途中で
土井隆義著『個性を煽られる子どもたち』
の話が出てくる。

土井隆義さんは、
「最近の若者」の個性幻想について、
「人間関係の函数としてではなく、
 固有の実在として感受されている」
と言っているそう。

つまり、他者との比較のなかで
自らの独自性に気づき、
その人間関係のなかで培っていくものではなく、
あたかも自己の深淵に発見される
実体であるかのように、
そして大切に研磨されるべき
ダイヤの原石であるかのように
感受されている、と。
その原石こそが「本当の自分」。

そして、近年(土井さんのこの本は2004年発行)、
少女たちの多くが持ち歩いているという
「濃密手帳」の話が出されている。

私は、この本のタイトルは
どこかで目にした記憶があるように思うけれど、
「濃密手帳」という名称は初めて知った。

日々の出来事を日記のように書き連ねたもので、
″自分の所有する時間の濃密性を表すメタファー”として、
極度に小さく凝縮された微細な文字を使いこなすものだそう。

芦田さんがこの本から引用している部分に
またまた「強迫神経症的」という言葉が出てくる。

濃密手帳をつけている少女たちは
未来にも過去にも実感がなく、
時間に対する余裕の感覚を見失ってしまい、
たった「いま」のこの瞬間にしか
その生の感触を得ることができない。
したがって、つねに疲労困憊してしまうまで
この「いま」を濃密な時間でうめつくさないと
安心していられない。
「いま」という時間にポッカリとできた空白は
自分の存在そのものを
まるで全否定しているかのように思えてしまうから、
彼女たちは、なかば強迫神経症的に、
その空白を埋めようと躍起になる、と。

で、芦田さんはというと、土井隆義さんの議論は
当人の主観的な信念のようなものを前提にしている分、
鼻につくところがあるとして、
繰り返される、この「社会的」個性論(詳細は割愛)は、
それ自体が機能主義に他ならない、と指摘する。

土井さんが
「本来の個性とは相対的なものであり、
社会的な函数です」と言う通りに。

しかし「若者」の個性幻想は、
むしろそ機能主義から発生している、
と芦田さんは指摘する。

つまり、〈個性〉が存在する、
〈私〉が存在するというのは、
むしろ、1990年代後半から加速する
24時間の緊密なコミュニケーションが
要請しているものであって、
その逆ではない、と。

機能主義は、
内部の実体論を相対化しはするけれど、
存在しないというわけではない。
外面性の強度は、内面性の強度と
〈相関〉しているとするのが、
機能主義=行動主義の論理的な帰結。

で、先ほどの「濃密手帳」のような
〈現在〉を細分化する行動は
いまではツイッターによって普遍化しているわけで、
いってみれば「若者」も「大人」も、
「濃密手帳」を書き続けているようなもの。

個性幻想とコミュニケーション幻想とが
一体になっているメディアが
ツイッター現象だと言える、
と芦田さんは語る。

なぜ、個性幻想とコミュニケーション幻想とは
一体になって表れるのか。

それは、実体としての中身を持たない〈人間〉には、
反応することのみが自己確信する原理になるから。

機能主義にとって、
〈ふるまい(behavior)〉がないことは、
非存在に等しい。

無反応でさえ、
ひとつの〈ふるまい(behavior)〉として
意味づけられている。

 それは、精緻なフィードバックシステムが、反応する差異を微細化していく過程に似ている。24時間の微細なコミュニケーション共同体は、したがって、最初から矛盾をはらんでいます。
 近接化(″同調”を求めて自己確信を強化すること)と疎隔化(″特長=差異”を求めて自己確信を強化すること)とが同時に進行するという事態。外面化と内閉化とが同時に起こるのが機能主義=行動主義の特徴です。

(p.357〜358/漢数字は算用数字に変えました)

結局、ここに立ち現れる
〈自己〉と〈他者〉との関係は
長い時間によって形成された
人格と人格との関係、
あるいは思想と思想との関係ではなく、
短い時間の神経症的な反応の応酬にすぎない。

極端な主観性と極端な客観性が共存できるのは、
いずれも〈拡張された現在〉に定位しているから。

「いま、そう思う」というリアリティだけが
自己確信、他者認知の基盤になっている。

どんなに感情的でも、どんなに細微であっても、
〈現在〉というリアリティに定位している。

逆にいえば、細微で些細なことであっても、
〈現在〉のリアリティがそれを重大事にさせている。

傘がない」(井上揚水)というように。

(つづく)

 2014.06.10 Tuesday 14:44 『努力する人間になってはいけない』 permalink  
芦田宏直の「ツイッター微分論」(10)/消費社会における知識のあり方
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。



実際のところどうなのか私にはわからないが、
芦田さんの話によると、なんでもトヨタは
車好きをあまり採用したがらないらしい。
(ホンダはわりと車好きを採るそう)

なぜかというと、
車好きは自分の好きな車しか
売ろうとしないから。

 「なんでこんなの買うのか」と
 思いながら仕事して、それが顔に表れる。
 他社の車の良いところまで
 自分のショールームでコンコンと喋ってほめる・・・

なるほど、それはあるかもしれないなぁ、と思った。

消費社会ではサービス産業がどんどん進み、
第3次産業が全産業内の70%にまで迫る。
個人消費もGDPの一番大きな要素になってくる。

そして市場が飽和した高度消費社会では、
〈作る〉ことよりも
〈売る〉ことに力点がかかってくる。
また、技術の進歩で、
〈作る〉ことのコストのかけ方が変わってくる。

専門学校がいくら建築の技術者の優秀な人材を出しって、
ミサワホームも大成建設でさえも、
〈作る〉奴はいらない、
〈売る〉人間を一人でも出してくれと言い始める。

知識や技術は、
売ることに対する貢献度合いにおいては、
作ることに対する貢献度に比べて遥かに少ない。

かくしてどういうことになるかというと、
一億総営業マン化が起こり、
一億総営業マン化社会の教育では、
知識が技術を体系的に勉強する、
ということになっていかない。

求められるのは、客の顔を見ながら、
何を言えば喜ぶかということに対するサーチ力。

何しろ人が物を買うときには、
知識や技術で買うのではなく〈心理〉で買うのだから。
心理の基準は〈納得〉。

〈納得〉は〈評価〉ではない。
正しい納得も間違っている納得も存在しない。

それは、お金を出すことに対する
決断のための心理主義。

なるほどなぁ、と思った。
私もこのブログで次のようなことを書いています。
桔梗信玄餅の「詰め放題」について考え込む
「お得感」と「イベント性」。
これにかなう購買意欲はないのではなかろうか?
そして、「安さ」に理由があり、そこに納得すると、
もうこわいものはない。

そのような状況に加え、IT技術が進んで
24時間覚醒時代のプッシュ型情報利用
をするようになると、
車のショールームで
ずーっと相手の顔色を伺い続ける、
そういう〈人間〉を作っていく場面が
強固なものになっていく。

人格的なふれあいで
相手に気に入られようとする。
他者に敏感になっていく。
そういった〈関係(function)〉に
敏感になっていく。

さらに別の側面として、
サービス社会(消費社会)は、
製造業を海外に追いやることになること、
あるいは外国人労働者に任せること、
IT社会が中途半端に複雑な仕事を
全部コンピュータ化したこと、
1990年代後半から非正規雇用が拡大すること、
などがあげられている。

このような状況を受けて、
高卒求人件数が落ち込んでいく。

大学大綱化の翌年1992年には
1,676,000件あったのが
2003年には198,000件という
落ち込みのピークを迎え、
さらに2010年に同じピークの数値を
再現しているそう。
(驚異的な数値の減り方ですね…)

高卒求人件数が落ち込むと、
その分、大学全入が高卒者を進学者、
言わば擬似進学者として吸収する。

この擬似進学者たちは、体系的な教育を嫌う。
その分、評価の曖昧な意欲、個性教育に、
学校側も文科省も走る。

かくして学校教育が、
コミュニケーション能力論などの
ハイパー・メリトクラシーに走る。

というのが、9項〜10項前半の流れになる。

で、このあと紹介したい文章には
「バカ」という言葉が頻発していて、
この言葉を使い慣れていない
(=上手に使えない)私は
要約に戸惑ってしまう。

ので、引用してしまいましょう。

 だから、バカでも選択する主体を形成せざるを得ない社会になる。これまでバカは結構平和に、選択なしで生きていけたのですが(笑)、街を歩いているバカでもいま自分は何をすべきかを絶えず気にしている。バカでも就職の試験で〈自己分析〉テストをやっているでしょ。バカって自己がないことなのに(笑)。バカが自己内面調査して何になりますか(笑)。ますますバカになる(笑)。
 まだ実体を形成し終えていない者をバカと言うのだから(そもそもその意味では若者はみんなバカです)、そんなところで、わざとらしい心理試験を受けて、〈私〉はこの方に「向いている」とか、そちらには「向いていない」という結論を出して動いたら、とんでもないことになってしまう。これから〈自己〉を形成していく人を〈若者〉と言うのだから。

(p.334〜335)

このことは、
数学教育ブログで書いている
第7章と関わってくる。
〈学ぶ主体〉を〈学校教育〉以前に認めないということ

芦田さんがおっしゃることは
もっともだと思うわけで、
だからこそ私はショックを受けたし、
この本を読んでいて「つらい」と思うわけだが()、
ひとつ疑問に思うのは、
じゃあ、主体はいつ形成されるのか、
ということ。

私が大学を卒業したとき教員免許をいただけたように、
「主体」もいただけるのだろうか。

〈自己〉は、ある日突然、
形成されるものなんだろうか。

そうではないだろう。

「だんだんと」作られていくものなのではなかろうか。

この本には、そこの視点がちょっと足りないな、
と感じているのだけれど、
それは私の読み込みがたりないせいかもしれません。

あとやっぱり、
学校を卒業してもバカに主体はない、
と読めてしまいますよね。

講演をまとめたものだから、
そういう口調になっているとは思うだが。

が、これは講演の記録に
大幅に修正・補筆を加えたものだから、
書き言葉に少し変貌させられた
トークと言うことになるのだろう。

  ちなみに、「書き言葉とトークの違い」に関しては、
  「まえがきにかえて」で書いてあります。

第9章第2節の他のところではあまり感じなかったが、
何しろ「(笑)」が頻発しているので、
「ああ、これ、もともとは講演なのだよな…」
ということを感じながら読んだ部分だった。

  なお、芦田さんの「語り」は
  トークセッションの動画で観ているので、
  容易に変換されて、バカが頻発していても
  特に違和感はない私なのであった。

ついでに余談ですが、
私はツイッターを始めてしばらくしたころ遭遇した
内田樹さんのこのツイートが忘れられません〜〜(笑)↓
https://twitter.com/levinassien/status/361297693940793346

ついてるリプライがまたなんともいえない雰囲気なのだが、
これも瞬間で微分せずに流れを見てみると印象が変わってくる。↓
(あのツイートは1つで十分に成り立っているとは思うけど)
http://twilog.org/levinassien/date-130728

すっかり話がずれてしまった。

ずれてしまったついでにもうひとつ。

私は東日本大震災時の原発事故を受けて
電力について考えていたとき、
盲点は「サービス部門」なのではないか、
というところに考えがいきついた。
http://sukkiri.artet.net/?eid=1407233

これは言い換えると、
商品が消費者に渡る場面に関わりの深い部門、
つまり堤清二が言うところの
マージナルなのかもしれない。

(つづく)
 2014.06.08 Sunday 16:03 『努力する人間になってはいけない』 permalink  
芦田宏直の「ツイッター微分論」(9)/自分が卒業した大学の現在のシラバスを確認して驚いた
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。



このブログでは第9章だけを読んでいるが、
「学校教育の意味とは何か」
というタイトルがついた第7章については、
数学教育のほうでカテゴリーを作って書いている

そちらのほうの6月2日の記事で書いたように、
この本を読んでいると、
「最近の大学ってどうなってるの??」
と疑問符がとびまくる。

現在、中学1年生の保護者である私は、
娘の高校進学が公立になるか私立になるかで
経済的事情が変わってくるなぁ、
というところまではリアルに考えられても、
その先はまだわからない。

わからないけれど、
娘が大学に行きたいというのならば
それが可能な状況を作りたいし、
もし、行ったほうがいいと思う?ときかれたら、
「うん、行ったほうがいいと思うよ」
と答えると思う。

それは就職を見据えた意見ではなくて、
「本当の勉強ができる場所だから」
という意味において。

あんなに勉強の環境が整った場所は
他にないと思う。ないはず。なかったはず。
何しろ、専門家から直接指導が受けられるのだから。

しかし。

なんだか大学がえらいことになっている。

大綱化については上記リンク先の記事で書いたが、
「なんか不安だなぁ・・・」
と私が感じていたキャリア教育は、
不安どころの話ではないかもしれないと思えてきた。

ちなみに「第8章 キャリア教育の諸問題」については
親子ブログでカテゴリーを作って書き始めています

なんだかんだいっても、小学校の場合は、
「それっぽい教育」ですんでいるところが、
大学や専門学校などの高等教育の場合、
就職というものが目の前にせまっているので、
「それっぽい」ではすまされない。

もしかしてかけ算の順序にかまけている場合じゃない!?
なんてことを思ってしまった。
(ちなみにnoteで学習指導要領の検討をやっています。
 いまのところ、ここから5ページ。)

大学がこうなってしまったら、
人はどうやって勉強すればいいのでしょうか・・・

これまで大学の状況を感知していなかったことを、
大いに反省している。
が、いまがそのときだったのだろう。

なんでも「国」(と、とありあえず書いておく)は、
大学、短大に次ぐ第三番目の高等教育機関を
作ろうと考えているらしい。

これでしょうか?↓
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/
chousa/shougai/015/siryo/08052807/001.pdf


先ほど私がおおまかに「国」と書いた部署は、
芦田さんの解説によると、
厚生労働省、経産省、総務省、文科省あたりであるらしい。
まあ、そういうことになるのでしょうね。

つまり、専門教養主義ではなくて、
キャリア教育に特化する新しい大学を作る、と。

これってあれじゃないですか、私が親子ブログで触れた
「労働力を作るための教育」そのものじゃないですか。
算数ドリルの宿題で、「失うもの」はまったくないのか?

このような教育が目標とするものを、
芦田さんは〈力(りょく)〉能力と称している。
人間力、課題発見・解決能力、社会人基礎力、
コミュニケーション能力といった類のもの。

前回、メリトクラシー(学歴主義)のことを書いたが、
〈力〉能力を目標とするのは、ハイパー・メリトクラシー教育。

これは1990年代初めから始まった
自主性、個性教育、多様性教育というものの延長だ、
と書いておられる。

いまの大学は選択科目がすごく多くて、
「哲学」なんていうもっとも大学らしい科目はなくて、
あっても「人生論」「世界観」だとかの
科目になっているんだとか。

数学も「数と生活」、
英文学も「英語コミュニケーション学部」に
変わっているのだとか。

やっていることはシェイクスピアやエリオットだけど、
英語コミュニケーション学部とつけば
英語のできない者もやってみようかという気になる、と。

ためしに自分が卒業した大学はいまどうなっているのか、
とサイトで確認したところ、
学部のほうのカリキュラムはまあそんなところだろうと思ったが、
教養教育のシラバスをのぞいてびっくりした。

「コミュニケーション」という文字が
ドドドドドドドドドと並んでいるのだ。

一応、哲学とか日本国憲法とか線形代数学もあるけれど、
コミュニケーションの勢いにおされている。

ワードで検索してその数を確認してみたところ、
「哲学」15、「心理学」15、「日本国憲法」12、
「数学」49、「線形代数」32、「微分積分」34、「統計」10、
(ちなみに「幾何学」は0でーす (;_;))

で。

「コミュニケーション」は・・・

          445

大学はもう、コミュニケーションを学ぶところに
なってしまったのですね……
試験を受けて、お金を払って。

なんかもっと別のことに
お金と時間を使いたいんですけど。
(いや、私はもう入学しませんが)

芦田さんは第8章でこんな痛快なことを書いておられる。

 この種の〈力(ルビ:りょく)〉能力の特性の一つ一つは、学校教育(=若者)に特有な課題ではないということだ。「若年者」を離れれば、大概の大人は「コミュニケーション能力」を身につけているというのか。そんなことはあり得ない。世の中の組織の会議(民間であれ、官庁であれ)で、まともな議事が進行する会議がいくつあるというのか。ほとんどの場合は、「コミュニケーション」不全状態でしかない。大人の自分たちでさえコントロールできない「コミュニケーション」を、なぜ「若年者」に特有な課題(あるいは学校教育に特有な課題)であるようにでっちあげるのか。私にはそのセンスがわからない。その場合にでも、そもそも現場(=社会人の現場)にその種のコミュニケーション能力が不足しているのは、学校教育におけるコミュニケーション能力育成の不在にあるとでも言うのだろうか。

(p.257〜258)

まったくだ。

特に最後の一文は大きな声で読みあげたい。

私はずいぶん前に、ブログではなくて、
いわゆるホームページ(サイト)で
日記を綴っていた時期があり、
そこで「教育はゴミ捨て場じゃない」
というような内容のことを書いたことがある。

社会問題が、
何かというと教育問題に帰着させられるのがイヤだった。

教育は、だれにでも語れる。
何しろ当人が教育を受けてきているし、
親になれば子どもを通して教育と関わる。

だから、社会がおかしいと、
「いまの教育はどうなっとるんだ!」
ということになる。
とりあえず教育のせいにしておく。

だけど、いまの社会を作ってきたのは、
「むかしの教育」を受けてきた
あなたたちではないのか?と言いたい。

2002年指導要領反対運動のときに、
芦田さんのような問題提起があれば、
私ももっと考えたことと思う。

もっとさかのぼって考えなくちゃいけないことに
気づいていたと思う。

数学教育ブログでしつこく書いてきたが、
私はあのとき、「反対していること」そのものに
異議があったのではなく、
「その理由」に驚いていたのだ。

「え、そ、そんな理由で反対するの…??」と。
反対の理由を、そんなふうにしか表現できないの?と。

話をもとにもどすと、
なぜそんなハイパー・メリトクラシー教育が
盛り上がってきているのかというと、
その理由の一つに消費社会がある、
と芦田さんは話を続ける。

消費社会の深化は、
ストック人材をますます不要にしていく、と。

(つづく)
 2014.06.08 Sunday 11:02 『努力する人間になってはいけない』 permalink  
芦田宏直の「ツイッター微分論」(8)/近代の自由と主体性、そして教育の問題
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。



私はこのブログや数学教育ブログで
何を考え続けているのかというと、
ひとことでいえば、
「私はいて、私はいなくて、私はいる」
ということを考え続けているのだと思う。

それを考えるときの重要な手がかりが
「近代から現代へのつながり」
にあると自覚して久しい。

つまり私は、
「近代を乗り越えられなかった現代を
 いかにして乗り越えるか」
ということを考えたいのだと思う。

私が考えたい近代とは
「個人」と「自由」の時代。
あるいは「主体性」の時代といっても
いいのかもしれない。

歴史の時代区分としての近代については、
数学教育ブログ内で書いています。↓
http://math.artet.net/?eid=1421882

芦田さんは第9章の第2節、
「5 近代の問題」で、
近代的な自由の最大の限界(敵対物)は
自分が自分の意志や選択なしに生まれたことの
有限性(=出自)だと書いておられる。

何しろ、自分は主体的に生まれてきたのではなく、
親という先行者によって生まれたのだから。

すなわち、親は近代的に言ったらノイズ。

そういう意味で、
家族の存在と近代的自由とは対立する。

できれば家庭なしですませいというのが、
近代的な自由。

しかし、親から自由になるというのはあり得ない。

あり得ないが、そういう家族というものから
自由になるための最大の武器は、
近代で言うと学歴主義(メリトクラシー)だ、
と芦田さんは語る。

この学歴主義に対立する概念は、
階級主義、家族主義。

「学歴主義」という言葉は
特に日本では評判がわるいけれども、
歴史的には、人間を出自(所属する身分・階級)で
判断しないという考え方が基本になっている。

だから、たとえば東京大学さえ出れば、
家が貧乏人であろうと、犯罪者の息子であろうと、
社会的な差別からはとりあえず抜け出せる。

一方、自分たちの家柄だとか身分だとか、
それなりに同じ雰囲気(メンバーシップ)を
持っている人しかうちの学校には入れません、
というのが家族主義。

というわけで、学歴主義にフィットする
最適の選抜方法はマークシート試験ということになる。

ここに親の痕跡はついていない。

そういう意味で言えば、
〈人間性〉(パーソナリティ)というものを
選抜の対象にするということは、
すごく差別主義的だといえる。

その人の身なりだとかしゃべり方とか、
″総合的な”選抜基準は、家族や地域や環境、
そして生い立ちに縛られた
パーソナリティの評価になってしまう。

日本の学歴社会がすごく優れているのは
たった1日の受験(点数主義、○×ペーパー試験)で
決まるから。

それまでどんなにマイナスの過去をもっていようとも、
全部チャラにできる。

アメリカの大学の場合、大学に入るには、
高校のときにボランティア活動をどのくらいしたかとか、
親の推薦状がどのくらいかけているかとか、
高校の先生はどう評価しているのか、といった
″人間的”なことを聞かれる。

試験点数以外の家族主義的な履歴、
あるいは長い時間の評価を聞く。

それに比べて、
1日で逆転満塁ホームランが打てる
日本のマークシート方式こそ
ウルトラ近代主義だといってよい。

1日という短い時間だからこそ
逆転満塁ホームランが打てる。

で、ここからツイッターの話に入っていく。

 
芦田さんは、
ブログやミクシィをやり始めた頃に比べて、
ツイッターには遥かに衝撃を受けたという。

とんでもないものが出てきた、と。

人間主義的な差別は何で起こるのかと言うと、
その人間の観察を長いスパンで見ることによって起こる。

その意味でも、受験制度における
「たった1日」という短い時間は、
「自由と平等」に関わっていると言える。

差別には″長い時間”が関与している。

ツイッターはこの「たった1日」を、
140文字にまで縮めた。

「1日」ではなくて、
「いまどうしてる?」というように。

これが、短い時間で切り取れば、人間誰しもみな同じ
という話につながっていくのだと思う。

もしかすると、現在のツイッターは
芦田さんがツイッターを始めた頃とは
だいぶ雰囲気が変わってきているかもしれない。

しかし、「著名人もだいたいこんなもんなんだ〜」
ということはツイッター歴1年の私もけっこう味わってきた。

で、このあと検索主義の解消の話に入っていくわけだが、
すでに書いたように、
ツイッターはデータベース主義(ストック主義)を
やめようというというメディアであり、
したがってそれは〈専門性〉も解体することになる。

だから、著名人と一般人が対等に話をすることができる。

そして芦田さんはこのあと、
「ハイパーリンクの課題
 ------強力な学びの主体がないと機能しない」
ということについて語る。(6項の後半)

テッド・ネルソンが1960年代に示した
ハイパーリンクという概念は、
現在のインターネット利用の
思想的な源になっているとして、
次のように説明している。
 それは学ぶ順番(学び方)というのは自分が興味を感じる、自分がわかるということを基にして辿っていくことが、その人にとって一番いい学び方であって、学校教育体系のように小学校はまずやさしくて、中学校は中級で、高校・大学で難しいことを学んでいくというような学ぶ順序を他者に強制される筋合いはないというものです。頂上(目標)は同じであったにしても、学ぶ道筋は100人いれば100あるはずです。
(p.315)

これはまさに私が理想としてきた学習のあり方で、
そのことを数学教育ブログでずっと書いてきた。

しかし芦田さんは言う。

学ぶ順序を自ら切り開いていくというのは、
一所懸命学ぶぞというかなりの意欲が
前提にされないとやっていられない、と。

そういう意味で、e−ラーニングは
「いつでもどこでも」の上に
さらに「どんなふうにでも」
「自分の基礎能力と進度に応じて」
が付け加わっていて、
″自由な”分、強い学習意欲、
禁欲的なまでの学ぶ意欲を要求する、と。

しかし、〈学校〉は校門と塀と教室に囲まれていて、
学べる〈形式〉を整えている。
なんとなく学ぶ気にさせる仕掛けが存在している。
みんなが学ぶから学ぶというように、
〈学校〉の″不自由”はそれなりに意味を持っているのだ、と。
〈学校〉の″不自由”は、〈学ぶ主体〉なしでも学べることと引き替えの不自由でもあるわけです。
(p.316)

この芦田さんの意見は
大変ありがたいものであると同時に
(私がわかっていなかったことをわからせてもらった)
消化することを拒みたい意見でもある。

たぶん芦田さんは、
(そのあとに続く部分で書いておられるように)
「人は、普通は勉強などしたくないのだから」
ということを前提に考えておられるのだと思う。

でも私は、子どもというものは基本的に
「知りたい生き物」だと思っている。

特に幼児〜小学校中学年くらい。
もしかすると、この年代の子どもたちは、
どの年代の人間よりも、
〈わたし〉にではなく
〈対象〉に向かっているのではなかろうか。

〈主体〉がなくても、
〈学びたい〉と思っている。
たぶん、本人もよくわからないままに。

それがいつのまにか、
「知りたい前に教え込まれる″未成熟な人間”」
にされていっているのではなかろうか、
と感じることがある。

もしかすると芦田さんは、
子どもを「白紙」ととらえていて、
私は「一度、学校教育によってフォーマットされる」
ととらえているのかもしれない。

また、e−ラーニングの
「自由」の話はよくわかるとしても、
たとえば小・中学生の場合、
e−ラーニングで何を学び得るのだろうか?
ということを、
実際に提供されているコンテンツを含めて
考えたいという気持ちがある。

たとえばこのサンプルページ↓を見ると、

http://www.oemnavi.com/etrek.php
システムは新しいかもしれないが、
やっていることは学校の内容となんら変わらない、
という印象がある。少なくとも算数に関しては。
(三角形の「上底0」は珍しいけど…)

e−ラーニングの問題と、「学ぶ順序」の問題は、
分けて考えたいのだ。

芦田さんは、校門と塀で囲まれている学校では、
みんなが学ぶから学ぶというように、
なんとなく学ぶ気にさせる仕掛けが存在している、
と書いておられるが、
身体が校門と塀のなかにあれば、
〈心〉もそこにあるのだろうか?

そう考えるとあれですよね、
キャラクターの絵が入った文具を
学校に持っていってはいけない、
というような決まりがあるのもよくわかりますね。
そこから〈心〉がどっかに行っちゃいますから。


思えば
「勉強に関係ないものは持ってきてはいけません」
というのも当然のルールだ。

だけど勉強に使う消しゴムで、
″消しピン”できちゃうんだよな。

芦田さんはこう語る。
″関心”や″意欲”を超えていやいや勉強するからこそ、知見が広まり、世界も広がるのです。学校の〈先生〉というのはやる気のない者をその気にさせるから〈先生〉。やる気のある者になら、誰でも教えることができます。
(p.317)

確かに、たとえ「知りたい生き物」であっても、
知りたいことは偏っているだろうし、
そうそう根気も続かない。

″関心”″意欲”だけで開ける世界はしれている。
だから、〈先生〉は絶対必要だと私も思う。


というわけで、「じゃあどうやって″その気にさせる”のか…」
というところが結局いちばん難しいのだと思う。

いくら校門と塀で囲まれていても、
それだけで子どもたちは勉強はしない。

校門と塀で囲まれていても、教室にいても、これもんですから…↓
実話かどうかは知らないが)
(これ以上リンクはしませんが、関連度の高いQ&Aが下の欄にたくさん出てきます。)

そして芦田さんは6項をこう締める。
 ツイッターは、その意味で、検索=学ぶ主体の意欲と選択なしでネットを活用できる初めてのメディアだったとひとまず言えます。
(p.317)

(つづく)
 2014.06.07 Saturday 18:06 『努力する人間になってはいけない』 permalink  
芦田宏直の「ツイッター微分論」(7)/ツイッターにおける検索主義の解消
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。



前回、機能主義のことを書いた。

機能主義は、忘れさられ、無視された環境
いわば時間性としての環境ではなく、
いつも環境を意識(=現在)に取り込んでいって、
どういう関数で自分を構成するか、
構成されているかということを考え続ける。

この、環境を意識化するということは、
〈データベース〉につながっていく、
と芦田さんは話を続ける。

何が必要かは後でしかわからないので、
とにかくなんでもいいからデータにしておく。
後でしかわからないことを先立たせるためには、
入力値を差別化してはダメで、
選別なしでなんでも入力しておかなくちゃいけない。

そんなふうにして入力されたデータは
ほとんどが使われず、膨大にたまっていくので、
どこかで差別(選別)する必要が出てくる。
それが〈検索〉。

〈検索〉は、無時間的、無選別的に蓄積された情報を
判断と評価が迫られる〈現在〉という時点における
情報にまで持ちきたす、ということ。

〈検索〉の機能は現前化=現在化ということ。

したがって、〈検索〉データベースは、
データ量(HDD容量)だけの問題ではなく、
時間(CPUの高速化)の問題でもある。

すごい量の情報があったとしても、
必要な情報を出してくるのに
時間がかかってしまったら意味がない。

〈関係のないもの〉を無視して、
忘れることができるのが人間だけれど、
〈データベース〉と〈検索〉は、
その無視と忘却を、
情報の膨大性と超高速でカバーする。

〈データベース〉は機能主義の極限にいる、
と芦田さんは言う。

そして、膨大な情報量(と超高速CPU)という事実が、
機能主義を機能主義的に見せないで、
どんどん人間に近づいているかのように見せている
一番大きな要因だと思う、とも。

そういった膨大な情報量が
〈現在〉という場面に持ちきたらされる理由は
何なのかと言うと、
それは自分は行動するときに
できるだけ無制約でいたいということに他ならない、と。

あらゆる情報を勘案した上で一つの正当な(=後悔をしない)行動を決定する意思が存在することがもっとも幸せなことだという前提があるからです。

(p.301)

これに続く話(近代の問題)をとばして先に進むと、
結局この〈データベース〉というのは、
長い時間の入力累積がものを言う世界であり、
入力と出力のあいだに長い時間差があり、
しかもそれらの間には必然的な関係がない、
という話になっていく。

だから、〈検索〉が必要になってくる、と。

つまり、〈データベース〉とは
ストック情報である、ということ。

入力と出力との間に差があること。

これを、〈専門性〉という、と。

専門家は、安易に発言したりはしない。
あることを学び始めてから、
自分の考えを作り上げるまでに
ある一定の時間をかけて、
これなら自信があるという段階まで
自分の意見の発表を避ける。

検索を役立てるにも情報の評価が必要で、
この評価は専門的な評価になる。
なぜならば、データベース、
すなわちストック情報の評価は、
検索の現在と情報の時間が遠すぎて、
利用者はその間を埋める作業を強いられるから。

データベースに向かって得られる検索情報は、
その向かう人自体がデータベース(=専門家)
でなければ使いこなすのが難しい。

その「検索主義」を解消したのが、
ツイッターだった、ということになる。
(というか、私はそう読みました)

これが、すでに書いている
ツイッターの反ストック主義につながる。

ツイッターには時間差がない。

いまカレーを食べていておいしい、
ということがつぶやかれる。

ブログの場合だと、
「今日食べたカレーはおいしかった」となるか、
夜、おいしいディナーを食べたら、
カレーの話は捨ててディナーの話を書くことになる。
発信する側が情報を選択、評価する。

しかし、ツイッターでは、
そういうふうに時間をかけて丸められる〈選択〉がない。
(もちろん、ツイッターをツイッターらしく使った場合は、
 ということでしょうが)

 〈反省〉ではなく、〈現在〉が持っていることの迫力(リアリティ)が前面化しているのがツイッターなのです。あいついま、カレーを食っているから、俺も食べたくなった、カレー食べようという現在の時間の共有がツイートに(意味のない)説得力を持たせています。「意味のない」というのは、ここではいい意味です。

(p.314〜315)

だから、ツイッターではみな平等。

タイムラインは人物の特定化、
話題の特定化に抗う。

どんな人間も現在という瞬間の軸で微分すれば
すべての人間に共通する要素を持ち始める。

時間と表現とを微分していくと、
どんどん身体表現に近くなっていく。

身体は平等。

どんなエライ人も親から生まれてきたし、
どんなエライ人も老いて死ぬ。

すごく有名な人も立派なことばかり考えているわけではなく、
ご飯が美味しかったとか、
家族といま遊んでいますとか書いている。

なるほど、この人も人間なんだな、
とみな思い始める。

短い時間で切り取っていけば、
人間誰でも結構同じなんだ、と。

この話をきいて私は、
光野桃さんのエッセイを読んだときに
感じたことを思い出した。
http://sukkiri.artet.net/?eid=1407141

容姿や経済力や性格や価値観や趣味が違っても、
人間は食べて出す肉袋をベースにしているのだから、
動詞であらわせるレベルの生活内容と、
生き物としての在り方にきっと大差はないのだ。


人の生活を短い時間で切り取っていけば、
きっと、動詞であらわせるレベルのものになるんだ。

で、いま読んでいる第9章の
第2節(「傘がない」よりあとの部分)は、
講演の記録に大幅に修正・補筆を加えたものだそうだが、
全部で次のような12項目に分かれている。

1.機能主義とは何か
2.機能主義の蹉跌
3.環境とは、後からやってくるもの
4.データベースと後悔
5.近代の問題
6.ツイッターにおける自由と平等
7.ツイッターにおける検索主義の解消
8.1990年代中盤から始まったオンライン自己現象
9.消費社会における知識のあり方
10.IT社会(高度情報化社会)と「オンライン自己」
11.ツイッターの〈現在〉の限界とポストモダン
12.〈新人〉の発掘としての学校教育
  ------ハイデガーのエネルゲイア論と大学

これまで、
ツイッターの反ストック主義のこと、
24時間覚醒時代の、プッシュ型情報利用のこと、
ツイッターは何ゆえ〈ソーシャル〉なのかということ、
ツイッターの微分がどんなに進んでも現前化できないこと
について書いてきたが、
これらは7のほか、6の前半、10の前半、
11のごく一部の内容をざっと紹介した形になっている。

そして前回と今回で、
1〜4および6の前半の内容に触れた。

というわけで、5と、6の後半、
8と9と、10の残りの部分、
11の残りの部分と、12が残っている。

これらはみな、教育問題と関わりが深い。

また、これまで取りあげたところだけを読んでも、
芦田さんがなにゆえ機能主義を痛烈に批判するのか
その意味はわからない。

というわけで、残りの部分を心して読んでいきたいと思う。

(つづく)
 2014.06.06 Friday 15:02 『努力する人間になってはいけない』 permalink  
芦田宏直の「ツイッター微分論」(6)/本丸、機能主義批判へ
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。



さて、これまでのらりくらりとかわしてきた……のではなく、
もったいぶってきた芦田宏直の「機能主義批判」について
そろそろ書いていきたいと思う。

ここでいう機能とはfunction、
すなわち関数のこと。

f(x)=2x+1 のあれです。

たとえば上記の関数にx=3を代入すると、
f(3)=2×3+1=7
というふうに、7という値が出てくる。

すなわち、3を入力すると、7が出力される。
つまりこの関数f(x)は、
3を入力すると7が出力されるような
働きだということになる。

4を入力すれば、9が出力されるし、
−1を入力すれば、−1が出力される。

そういう関数に主義がついたもの、
すなわち関数主義=機能主義を
芦田さんは痛烈に批判している。

執拗に批判している。

諸悪の根源とまで言っている。

私が芦田宏直さんに出会った経緯は、
数学教育ブログで書いているのだけれど
(>http://math.artet.net/?eid=1422143
私はこの本を手にしたあと、いったん閉じて、
どうしたものかと考え込む時間があった。

その時間中に、
Amazonのカスタマーレビューを読みにいったのだが、
まずはいちばん上にあった
中西大輔さんという方のレビューを読んだ。
タイトルは「痛烈な機能主義批判」。

中西さんは、第9章には
「ツイッター微分論」というタイトルがついているが、
これはツイッターの話ではない、と書いておられる。

そして中西さんのレビューは、
「つらい」で終わっている。

実は私も、この本を読んでいると、つらい。
とても面白いのに、つらい。
面白いから、つらい。

ひとつには、教育論として、つらい。

これがまずとてもつらい。

そして折も折、
このブログで芦田さんの本について
感想を書き始める直前に、
私はブログの記事のなかで
フィードバックという言葉を使っているのだ。
「いい人」のようにふるまうと、「いい人」になる

この話自体がどうこうというわけではなく、
佐々木俊尚さんも森田正馬も
そんな言葉は使っていないのに、
あの話をフィードバックという言葉を使って表現した
自分の感性、あるいはものの考え方が
もしかしたらヤバイかもしれないという、
その予感がつらいのだ。

芦田さんは、機能主義は
パブロフの犬の条件反射が最初ではないか、
と書いておられる。

ベルを鳴らして犬に食べ物を与えることを反復していくと、
ベルを鳴らしただけで犬に唾液が出るようになる、
というあの話。(実際には飼育者の「足音」だったらしい)

中西さんもレビューのなかで
「刺激-反応」の「S-R」モデルの話を
出されているが、
こういうふうに刺激と反応の一定の規則性から
何かを見出そうとすること、
つまり、入力と出力に注目することは、
その〈中間〉にあるものを無視することでもある。

パブロフの犬でいえば、
「ベルの音をきいたら食べ物が食べられるから唾液が出る」
という因果関係を担っている〈犬〉の実体を無視する、
ということ。

何をインプットしたら、
何がアウトプットされたか、
そこにある傾向性と規則性が
その存在者の実体性を構成する、
と考える。

そこに〈主体〉や〈内部(内面性)〉や
〈心〉は存在しない。

だから中西さんもこう言う。

全く確かに心理学者が扱っているのは 〈心〉 ではありません。


で、芦田さんはこのあと
ウィーナーのサイバネティクス論の話を出してくる。

たとえば船を動かすとき、
舵や手漕ぎの動力はコントロールできるけれど、
風や波はコントロールできない。

だから船頭は、
風や波に押し流される分を計算して
舵や動力を調整する。

風や波といった制御できないものを、
舵や動力という制御できるものを使って
相対的に支配する。

つまり、コントロールできる制御変数で
自分の有限性や受動性を突破しようとする。

こういう機能主義の次の段階には
何がくるかというと、行動主義がくる。

なお、芦田さんは behaviorism を
「行動」主義と訳したのは間違っている、
と指摘する。
(中西さんもレビューで書いておられる)

「行動」ではなく「外見=外貌」のことらしい。

つまり、〈内部〉なんてものは〈外部〉なしにはない、
と考えるのが行動主義。

ちなみに、このブログでは森田療法のことを
けっこう書いているので付記しておくと、
森田療法は「行動本位」ではあるが、
行動主義ではないと私は思っている。

何々療法でいうならば、
まさに行動療法が行動主義なのではなかろうか。
実際、behavior therapy だし。

強迫神経症に対する治療法でいえば、
暴露反応妨害法などが
行動療法にあたるのではないかと思うが、
詳しいことはわからない。

精神分析、行動療法と森田療法の違いについての
ひとつの見方は、こちらをどうぞ→森田療法 vs 精神分析

で、このあとチューリングテストの話に入っていくのだが、
すみません、ここは今回は保留とさせてください。
チューリングについては、いつか森田真生さんを通して
ゆっくり考えたいと思っている。
(このタイミングでリンクしたいページも見つけられなかった)

その次はフレーム問題。
説明はウィキペディア>フレーム問題にまかることにして、
芦田さんはここで何が言いたいのかというと、
人間は〈関係のないもの〉を無視する、
忘れることができる、ということ。

しかも、それを″なんとなく”行うことができる。
つまり、関係のないものや関係のあるものについての
ある種の処理能力を、人間は″内部”にか、
″経験的”にかもっているということ。

この内部性や経験性は、
機能主義心理学で言う〈学習〉とか〈記憶〉とは
何の関係もない。

たとえば、芦田さんが講演中に、
急に電灯が消えたとすると、
会場の人たちはみんな驚くはず。

芦田さんが話すという行為と、
電灯が消えるという事態には因果関係がないと
″なんとなく”わかっているから。

だけど、ロボットは驚かない。
というか、こういうときに驚くロボットを作るのは大変。
講演中に急に電気が消えたら驚きなさい、
壁が倒れてきたら驚きなさい、
急に風が強くなってガラス窓が割れたら驚きなさい、
というふうに、講演には関係ないことを
プログラムに無限に書き込んでおかなかればならない。

しかし、人間は驚ける。

しかも、電灯が発見されるのは、
講演中に急に電灯が消えたとき。

電灯がついている間ではなく、
電灯が消えたときに
「講演中に電灯が消えたりはしない」
ことが確立される。

認知科学者の松原仁さんという方が
(ちなみに芦田さんは、認知科学者の部分に、
 イコール機能主義者とかっこ書きを添えている)
フレーム問題の本質を情報「量」の問題とみなすような
発言をしているそうなのだけれど、
芦田さんは、フレーム問題の本質は情報「量」ではなく、
「時間性」だと書いている。環境の時間性の問題だ、と。

たとえば、『窓際のトットちゃん』でいえば、
黒柳徹子があのような本を書くことは、
「自由奔放な子ども時代の教育を許してくれた
 学園の雰囲気があったからいまの自分がある」
というふうに、自分の環境を自分で語ること。

そしてそれをありがたく思うのは、
″いまの”黒柳徹子を立派な人だと思っている人。

  ここで自分のためにメモ。この話のあとで(p.294)、
  フッサールに対して悪口を言う人は、
  あいつは哲学者としての素養がない、
  デカルトもカントもまともに勉強していないと言うが、
  ちゃんと正統派の哲学を勉強しなかったからこそ、
  「現象学」を確立することができたと言えるかもしれない、
  というようなことを芦田さんは書いているが、
  矛盾している(機能主義的な発想が入り込んでいる)
  気がするのは、私の読み込みがたりないせい?

  それから、私はクワインのこと思い出したのだけれど、
  さて、このことと「教育」を考えあわせると、
  どういうことになるのでしょうね。
  「正統派の勉強をしたこと」も
  「正統派の勉強をしなかったこと」も
  〈環境〉ではないのだとしたら……  

また別の例。

イチローはこんなふうに↓子供時代を送ったから、
http://ichirozyouhoukan.blog.so-net.ne.jp/2014-01-29
あのような選手になれたのだ、
とする見方があるかもしれないが
同じような子供時代をおくった人は
ほかにもいたのではないか?
だけど野球選手にならなかったから、
野球に注目して過去を見られないだけではないのか?

つまり、黒柳徹子が小学校のときに
勉強していなかったという話や
イチローが子供時代からバットを持っていたという話は、
〈環境〉でもなんでもない、ということ。
そんな〈環境〉や〈過去〉は存在していない。

同じようなことを玄侑宗久さんが
『まわりみち極楽論』で書いておられた。
そもそもこの本は、
「僧侶が芥川賞などいただいてしまうと、
 いろんなことが起こる。」
という一文から始まるのだけれど、
第3節のなかに″無意識に「物語」を作っている私たち”
という項目があり、そこでこんなことを書いている(p.35)。
...、卑近な例で言えば、私だって今は芥川賞作家ということで、まるで子供のころから作文が上手だったみたいに思ってもらえるわけですが、これで泥棒でもして新聞に載ったりすれば、そういえばあいつは子供の頃から手癖が悪かった、ということになるんですよね。

そんなふうに、
あのときのあれがこうしてこうなった、
というふうな仕方でしか見えてこないものが
〈環境〉問題であり、
〈生まれ〉とか〈育ち〉とかいう問題は、
すべてでっち上げられた「問題」にすぎないと、
芦田さんは言う。

そして、機能=関数主義は、
忘れさられ、無視された環境、
時間性としての環境ではなく、
いつも環境を意識(=現在)に取り込んでいって、
どういう関数でもって自分を構成するか、
構成されているかどうかを考え続ける。

だから、機能主義者の環境論、
内部=外部論も、
でっちあげられたものにすぎない、と。

(つづく)
 2014.06.04 Wednesday 10:31 『努力する人間になってはいけない』 permalink  
芦田宏直の「ツイッター微分論」(5)/ツイッターの微分がどんなに進んでも現前化できない出来事
『努力する人間になってはいけない―学校と仕事と社会の新人論』
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。

きょうは長いです。



そういえばまったく触れてこなかったけれど、
なにゆえツイッター「微分」論なのかを
一度考えておきたい。
(芦田さんの説明ではなく、
 私はこう考えたということです。)

現在、私はツイッターで
154人しかフォローしていないので、
タイムラインはそれほど流れていかない。

平日のいまの時間(朝の9時半)くらいだと、
1分間に1〜2ツイートの割合。

フォロー数が増えれば、
当然タイムラインのツイート数も増えるので、
1分間に流れてくるツイートの数も増えるはず。

たとえば、ごく単純に考えて、
フォロー数100人の場合、1ツイート/分だとすると、
フォロー数が200人の場合、2ツイート/分になる。

フォロー数が300人になると3ツイート/分、
フォロー数が1000人になると10ツイート/分
という具合に、同じ1分間という時間なのに、
フォロー数に応じて出会えるツイート数は変わっていく。

つまり、フォロー数を増やすことは、
1分間に出会えるツイートを増やすことであり、
それは、自分にとっての1分間の
解像度をあげるということでもあると思う。

逆に、1ツイートに出会うのにかかる時間を考えると、
フォロー数100ならば1分なのに、
フォロー数1000ならば1/10分になる。

つまり、ツイッターの「微分」というのは、
フォローを増やすことによって、
タイムラインにおける自分の時間を
細かく細かく分けることができるという、
そういうイメージをさしていると私は理解している。

ところが。

それらを全部読むかどうかは、
また別の問題だと思う。

私は140文字を6秒では読めない。
(フルで書く人はそんなにいないけど)

ツイッターを始めて、
文章を読むのが雑になったなぁ、
と自分で思うのだけれど、
なんだか「ツイッター速読」とでも呼びたい
独特の文字の追い方をするようになった。

ツイートがたくさんたまっているときなどは、
ざーっと目を通して部分的に読み、
特に興味を持ったものだけ全部読む、
あるいはリンク先を開く、ということをしている。

すなわち、たとえ1分間に
10個のツイートが流れてきても、
全部は読めない。

いくらタイムラインという機能で
〈現在〉の解像度を上げても、
私の目や脳はそれに追いつけない。

いまためしに、「読むかどうか」だけの判断で
タイムラインを追ってみたら、
1分間に対応できたツイートは30個だった。
判断するだけでも1個につき2秒かかるらしい。
私自身の解像度とは、
せいぜいそのくらいのものなのだ。

ためておいてあとで読もうと思っても、
その間に刻々と次のツイートが流れてくるのだから、
とにかく全部読むことはできないのだ。

たとえば、1ヶ月分くらいのテレビ番組を
全部録画できるようなハードディスクがあっても、
そして実際に録画したとしても、
そのことと全部観ることとは関係ない。

なにしろ1日の時間は24時間、
そのことに変わりはないのだから。
ハードディスクの容量が増えても、
私の時間は長くならない。

そんなふうに大容量のHDDレコーダーが
〈現在〉の出来事を多チャンネルにおいて微分し、
全時間を支配したかのように錯覚させるのと同じように、
ツイッターも〈現在〉を細かく微分することによって、
過去と未来をラディカルに忘却する装置になっている、
と芦田さんは言う。

そこでラディカルに忘れ去られているものは何か。

それは、人間が死ぬことだ、と。

なぜかというと、人間の死というのは、
現在においてこそ不在であるような
唯一の出来事だから。

死が現前化するということは
自分がいなくなるということであり、
死は現前化に一番抗っているから。

ところで、私自身は、
ツイッターで「なう」も「だん」も
一度も使ったことがない。
恥ずかしくて使えないというのもあるし、
そもそもそういうツイートをしていない。

いま、自分のタイムラインでも
「なう」を使っている人は
ほとんどいないのではないか、
という印象をもっている。
すぐに思いつくのは内田樹さんくらい(笑)。
 いや、笑うとこじゃないか…(^^;

芦田さんはp.371(第9章のかなり後半)で
すでに「セックスなう」は登場しているので
あとは「死ぬなう」を待つばかり(笑)、
というようなことを書いておられるが、
当然のことながら別の「死ぬなう」は
ツイッター内で検索するといっぱい見つかる。
けっこう「死んでいる」人多いです。

で、私はある本のことを思い出した。
まだツイッターを始める前に、
歴史好きの娘が買った本↓

『つぶやき戦国武将 天下統一なう』
(歴史魂編集部著/アスキーメディアワークス/2012年)

「敵は本能寺にあり!」とは当然つぶやけないわけで、
そのあたりはどうするんだろう??と思っていたら、
nobunagaの「ムホンなう 炎上なう ぜひもなし……」
が15,826人にリツイートされている。(^^;

それをhideyoshiが
「信長さまの最後のツイート!みなみな心してきけや!」
というコメントつきで非公式RTしている。
ちなみにタグは「#さらば信長」。(^^;;;

あの時代にツイッターがあったというのは
おおいなるフィクションだとはいえ、
「炎上なう」は「死ぬなう」に
近いといえば近いかもしれないなぁ、
なんて思った。
まあそれでも時間差はあるのだけれど。

芦田さんは言う。

「人間が死ぬ」ということは
ツイッターの微分がどんなに進んでも
現前化できない出来事だ、と。

現前化できないのに、絶対にやってくるもの。
それが、死ぬこと。

で、このあとはハイデガーの話になっていく。

 ちなみに、第9章の「傘がない」よりあとの部分は、
 講演内容の記録に
 大幅な修正・補筆を加えたものだそうだが、
 文字で読んでも(私には)よくわからない単語が
 ふんだんに盛り込まれているこの話を
 講演できいた人は理解できたのだろうか!?
 そういう人ばかり集まる講演だったのかな…?
 と思いながら読んでいる。

人間が死ぬということは
完結しているのに未決であるような出来事であり、
これをハイデガーの言葉でいうと、
「つねにすでに(immer schon)、
 未だない(noch nicht)」こと
となる。

人間が死ぬということは、
人間の全体を形成しているけれども、
つねにすでに未だないこと、
未だないということが
すでに存在しているというふうに形成している。

たとえば、茂木健一郎が有名にした「アハ体験」は、
終わっているからこそ、
目の前に在るものが見えていない。
〈見る〉ことは、見損なうこと、
無を見ていることと同じ事態。

ちなみに、アハ体験という言葉「Aha-Erlebnis」は
アルキメデスの「ヘウレーカ!(見つけた!)」
から来ているのだそう。
ヘウレーカって、「見る(へウリスコー)」の
現在完了形だったのですね。

いま書いているのはp.345のあたりの話なのだけれど、
p.365では、フッサールの〈現象〉とは
「見た(Gesehen-haben)」という
現在完了のことだった、と書いてある。
それは、片時も抑えようのない現れのこと(p.364)。

もとにもどると、
先の現在完了の話をハイデガーの立場からいえば、
人間は死に続けている存在だということになる。
終えているのに始まり続けているもの、
それがハイデガーにおける
〈死〉=「不動の動者」だと
芦田さんは解説している。

このあたりは、
もろ時間論に関わる話だと思うので、
いずれ機会をあらためてゆっくり考えたい。

で、「人間の死は曲がっている」という話に入っていく。

動物の死は生死にとらわれている分、一直線に、
継続的な時系列にそって死に向かうけれど、
人間の死はそうではない。

人間の死は、もともと忘れてこそ死「である」。

なぜ、人間は死を忘れることができるのか。

その答え方にはいろいろな水準があるけれど、
たとえば人間の死が見えなくなっているという状況。
(「心電図」を見ながら死を”確認”したり)

脳科学や免疫学の進歩、
臓器移植における機能主義的な代理も
死ぬことを相対的に希薄化している。

また、喧嘩や怪我といった、
身体を介在させる出来事を避ける
子育ての影響。

いまの世の中で自分にしかできないこと、
代理がきかないことは何かというと、
恋愛、散髪、病気(入院)など、
身体が介在しているもの。

そして、身体の本質は滅びること、
つまり死ぬことである、と芦田さんは語る。

私が死ぬことを
だれかに代理でやってもらうことはできないのだが、
私が死ぬことは、
私単独では不可能な″何か”。

そういうふうに、
〈死〉というものが私にも訪れることを
私が知っているのは、
他者が際限なく死に続けているように
私に見え続けているから。

で、このあとはジャン=リュック・ナンシーの
話に入っていく。
先に書いてしまうと、ナンシーの議論をふまえれば、
〈死〉は「コミュニケーション」としてしか存在しない。
ということになる。

ここでいうところ「コミュニケーション」は
個人間のコミュニケーションではない。

それはあらゆる内在の有限性(他人の死の有限性、私の誕生の有限性、私の死の有限性)を意味しています。

(p.350)

これらの有限性の一切は、
「外部」に曝されている。

ナンシーがいうところのコミュニケーションとは
初めに「分割(分有)partage/パルタージュ」あり
という事態。

私の私にとっての近さ(内在)、そしてまた他者の存在は、死(現存在の「有限性」)が〈共-現〉として存在すること、〈共-現〉としてしか存在しないことの結果(effect)にすぎない。

(p.350)

したがって、〈死〉が忘れ去られているということは、
〈他者〉が忘れ去られていることだと言ってもいい。

死の忘却は、言い換えれば、私の私にとっての〈内在〉を
強化する事態だと言ってもいい。

なんだかすごい話になってきたが、
これがいったいどうツイッターにつながるのだろうか。

(つづく)
 2014.06.03 Tuesday 13:40 『努力する人間になってはいけない』 permalink  
芦田宏直の「ツイッター微分論」(4)/ツイッターはなにゆえ〈ソーシャル〉なのか
( 芦田宏直著/ロゼッタストーン/2013年)の
「第9章 ツイッター微分論―機能主義批判と新人論と」
を読んでいる。



前回、「24時間覚醒時代の、プッシュ型情報利用」
について書いた。

では、ツイッターはいったいどういうものなのだろう。

芦田さんは面白いことを書いている。

ツイッターの微分機能は
内面を現在で微分しているという意味では
すごく内面を強化しているけれども、
タイムラインがどんどん内部を解体していくので、
携帯電話やメールのような
きつい感じにはなっていかない、と。

ツイッターは(フォロー数を多くしておけば)
多数の他者との現在を
簡単に増大させることができる。

現在が何千人もの人によって微分されていくので、
そこに世界大の他者が入り込む。

3000人も4000人もの現在のつぶやきを見ていけば、
必ず自分と話題が共通するツイートが
タイムラインに出てくる。

だから、「どんなに性格の曲がった人間であったって、
ある種の社会性を獲得することができる」し、
「どんなにストックのない人でも社会性を獲得できる」。

しかもその社会性は、
著名人とカレーライスの話をすることだったりする。

あるいは、紅ショウガのいっぱい入った
牛丼の話をすることだったりする。

そういう話がもとで「趣味が合う」ということになり、
その相手が哲学をやっていたりすると、
哲学ってなんだろうということになり、
牛丼しか関心を持っていなかった人が
「ハイデガー」なんて言い始める。

これが〈ソーシャル〉だ、と。

 〈ソーシャル〉とはセグメントから離れているということです。

(p.339)

  セグメントという言葉をきいて、 
  私は、noteを運営しているcakesの
  加藤貞顕さんのことを思い出した。

  いまはお客さんがセグメント化されているから、
  クリエイター本人がマーケティングを
  やっていなくてはならない状況であるという話。↓
  https://note.mu/tamami_tata/n/n94cf5633cb9c

しかし芦田さんは、
セグメントマーケティングはくだらないというのが
「ソーシャル」なツイッターの新次元だ、と説く。

そして、〈ソーシャル〉とはインフレした社会でもあると。

これは進歩でもなんでもないということも。

ツイッターのタイムラインはどんどん流れてくるから、
そういう意味では極限のプッシュ通知なのだけれど、
流れてきても流れていくので、ストック性は解体する。

つまり、ツイッターは過去と未来を忘れることのできる
究極のメディアであり、
ストックなしでも生きていける希望の原理なのだ、という話。

だから、みな平等。
だからみな、面白がっている、と。

そうか、だから私は面白がれなかったのか、
とあらためて感じた。

フォローする人をわりと慎重に選んで、
あまり数が多くならないようにして、
しかも最初のころは、
できるだけツイートをさかのぼろうとしていたので、
現在を微分している感じはまったくなくて、
あいかわらずストック情報を求めていた。

ただ、自分で検索するときとは違って、
向こうからの刺激を待つ、
というところが違っていた。

どこまでいっても自分はテーマ主義なんだろうと思う。

さて、それはそうとして。

当然のことながらここで話は終わらない。

過去と未来を忘れる究極のメディアであるところの
ツイッターが切り開いた新次元はわかった。

しかし。

「果たしてそうかという問題があって…」

と話は続く。

そうして、
「ツイッターの〈現在〉の限界とポストモダン」
という項目に入っていく。

(つづく)
 2014.06.02 Monday 17:08 『努力する人間になってはいけない』 permalink