強迫行為と、告白と、SNSと。
昨年12月に、

不安神経症・心配性を自分で治す実践ノート
(高田明和/リヨン社)

という本を買った。

熟読はしておらず、
ノートの「実践」もしていないのだけれど、
p.92〜97に示してある「強迫行為の分類」の
次の一項目にハッとして、
それがひとつの収穫になった。

2.何かを言わなくてはいけない、告白しなくてはいけないと思い、行動する。

(p.97)

そんな強迫行為があるなんて、初めて知った。

確かにそう言われれば、
ほんの少し心あたりがある。

  ただ、検索してみると、
  ニュアンスの違う「告白」行為が
  示されているサイトもあるので、
  「強迫」と「告白」の関係については
  もうちょっと深めて考えてみたいところ。
 
私はふだん、とても「話したがり」だ。
でもそれは、上記のような「強迫行為」ではなく、
単なる「おしゃべり」だと自分では思っている。

しかし、そんな私も、
web上に書く記事に対しては、
ある程度、配慮するようにしている。

何事も相対的なものだと思うので、
web上で発信していない人からすれば、
ブログを書いたり、
SNSをしたりしていることそのものが
「無用心」に思えるかもしれないが、
少なくともリアルな生活のように
「おしゃべり」ではないつもりでいる。
(あたりまえのことですが)

しかし、過去をふりかえってみると、
直接書く文章の内容とは別のことで、
「あっ、あれ、強迫行為としての告白だったかも…」
と思える出来事がある。

それは何かというと、
自分のブログなりnoteなりtwitterなりで
どなたかの記事をリンクしたときや
文章に言及したときに、
「(その事実を)知らせなきゃ」と思う気持ちが
生じる場合があること。

いつでもそうなるわけではない。

たとえば、このブログの左側のサイドバーにある本、
つまりブログで本格的に感想を書いている本の著者に対して、
自分からコンタクトをとろうとしたことはない。

 むしろ、更新をツイートすると著者が見つけてくれて、
 先方から何らかのリアクションをいただいたりする。
 (RTという形で「使って」もらったり…)

不思議なもので、
そのレベルまでいかない言及やリンクのときに、
ちょっと報告したくなってしまうことがあるのだ。

あったのだ。

なんというのか、そうしないと、内容に関わらず、
「陰口」を言っているような
そんな気分になってしまうから…
だったのではないかと思う。

リンクしたそのときは気にならなかったのに、
あとから心配になったりするのでタチがわるい。

ちなみに、いまだに
無断でOKなのか判断できないのは、
ツイートの埋め込み。
twitterにそういう機能がついているんだから
勝手にやっていいような気もするが、
いいんでしょうかね?

読む側からすると、リンク先を開くより、
直接読めたほうがいいですよね。

気になるなら、URLをリンクして、
「引用」すればいいのかしらん?

記憶にある限りでは、
過去に2回埋め込みをして、
どちらも報告をした。

あらためて考えてみると、
面識がない人や有名人と、
簡単にコンタクトをとることができる、
そういう時代だからこそ、
「報告しておこうかどうしようか」
と迷うことができるんだよなぁ、
と、しみじみ思う。

もちろん、相手がweb上に
連絡経路を作ってくれていればの話なのだが、
twitterをやっていてもらえれば、
すぐに「報告」ができてしまうわけであり。

自分が書いた記事を読んでほしいというより、
ある種の「義務感」がそうさせている。

しかし、知らせるということは、
一般的に、「読んでほしい」ということの
意思表示とみなされるだろう。

ともすれば相手のリアクションを求める行為にもなるし、
場合によっては、許可を求める形にもなる。

なので、下手すりゃ先方に負担をかけてしまう。
いや、下手しなくても、確実に負担をかけてしまうだろう。

じゃあ、自分だったらどうだろうか?

立場を入れ替えて考えてみた。

私は有名人ではないので、
自分のブログの記事やツイートに対して
言及されることはほとんどなく、
したがって「報告」を受けることもないわけだが、
エゴサーチしてみるとゼロではなくて、
たまに見つけることがある。

そういうとき、
「報告もなしに勝手にリンク(言及)してぇ…!」
と思ったことはない。思うわけがない。

大抵、
「わあ、読んでもらっているんだ、うれしい!」
と感じる。

また、場合によってはむしろ、
報告ナシで助かることもある。
報告されるとリアクションしなくちゃいけないから…
(義務はないだろうが、心情的に)

web上で発信されたものは、
どんなものであっても、
「どうぞご自由に読んでください」
「どうぞご自由にリンクして、
 ご自由に言及してください」
ということを前提としているのではなかろうか?

先ほども書いたように、このご時勢、
逆に「エゴサーチ」というものができる。

ということは、
自分が放った文章に言及している人がいるかどうか、
どういうふうに言及されているのか、
どういうふうに読まれているのかについて、
ものすごく興味がある人は、
自分で見つけようとするだろう。
知らせるまでもなく。

そして、そういうことに興味がない人は、
エゴサーチもしないだろう。

また、エゴサーチしたい気分のときと、
そうじゃない気分のときもあるのではなかろうか?

だから、いちいち報告しなくていいんじゃないかな…
と、思うようにしようかな…
と最近は思っている。

もちろん、ケースバイケースだと思うので、
「あ、これ、告白したい強迫行為だな」
と感じたときに、
「報告」を控えるといいのかもしれないなぁ、
と自分に言っているところ。

読んでいることを知らせたい!
触発されて記事を書いたことを知らせたい!
そして読んでほしい!
と思うことも確かにあるので、
そういうときに控える必要もないだろうて。

ところで。

先ほど、面識がない相手でも有名人でも、
「こちらの存在をお手軽に知らせることができる」、
そういう時代なんだということを書いたが、
そもそもそういう時代であればこそ、
私のような一般人が、不特定多数を相手に、
何かを紹介したり、何かに言及したりすることが
できるわけなんだよなぁ、ということも思う。



ちょっと関連した話題として、
少し前にこういう興味深い話を知ったので、
よろしければどうぞ…↓

ニュースサイトのリンク条件の不思議
 2015.03.21 Saturday 13:14 強迫神経症/森田療法 permalink  
そういえばまだ紹介していなかった強迫神経症のおすすめ本
森田療法系列ではない、
強迫神経症のおすすめ本をまだ書いていなかった↓

田村浩二『実体験に基づく強迫性障害克服の鉄則35』(文芸社)


これまで強迫神経症の本を何冊か読んできたけれど、
森田療法以外ではいちばんおすすめ。

何がおすすめかというと、読んでいて、
「ああ、この著者、強迫神経症の人のことよくわかってる」
と感じられるから。

それもそのはず、何しろ著者は体験者。
書物や自分自身の工夫で
強迫神経症(著者は強迫性障害という言葉を使用)
を克服してきた方なのだ。

 薬などは確かに、精神科医でないと処方できませんが、強迫性障害を治す手助けは、なにも医者でないとできないわけではないと常々考えております。むしろ、その分野に明るくない精神科医に掛かるくらいなら、体験者の体験談を聞いた方が余程効果的だと考えます。
 (「はじめに」より)

なるほど、医者にかかったことはないけれど、
確かにそうかもなのしれない。

なお、個人的には、この本が有効なのは、
軽度の方の場合、強迫神経症というより
強迫神経症気質---という用語があるわけではなく、
私が勝手に使っているだけなのだけれど---
の場合なのではないかと感じている。
(重い人は、やっぱり専門家の力を借りたほうがいいと思う)

ちなみに、いま手元になくてうろ覚えなので
書名はふせてリンクも控えるけれども、
もっと重度の人たちの話が含まれている本もあり、
この本を読んだときには、「私は強迫神経症ではない、
私ごときを強迫神経症と言ってはいけない」
としみじみ思ったものだった。

専門医はこういう人たちのためにある、
私くらいのレベルの人は自分でなんとかしないと・・・
とも思った。

まあ、いまだ克服できずにいる私だけれど、
自分でなんとかする道はある、ということは感じている。

さて、田村浩二さんが示している
強迫性障害を克服するための35の鉄則について、
私が特に「なるほどねぇ」と思ったのは次の9項目。


 1.今、やろうとしていることが、強迫行為かどうか、
  少しでも迷ったら、それは強迫行為である。

 2.少なくとも、強迫行為をしようかどうか迷った時は、
  絶対してはいけない。

 8.考えてはいけない。頭の中で、あれこれ考えたり、
  回想したりしないこと。考えれば考える程、正解から
  遠ざかる。強迫性障害の人は、とにかく物事を深く
  考え過ぎである。

 10.安心しようとして行う行為は、必ず新たな不安を
  生み出す。つまり、強迫観念は飛び火する。

 15.微かながらでも大丈夫ではないか、なんとなく
  大丈夫ではないかと感じたら、大丈夫である。

 16.気にするから気になる。

 17.第三者の視点で物事を判断し、行動すべし。

 20.まず安心してからがんばろうとすることは、
  やめるべし。不安のままがんばるべきである。

 25.強迫性障害の人が思っていること、あるいは
  感じていることは、100%間違っていたり、全く
  根拠のないものではないかもしれないところが
  やっかいなところではあるが、その思いや感じ方
  は、明らかに行き過ぎていることも事実である。 


森田療法系列ではないと書いたが、
20番などはそのまま森田療法につながる話だと思う。

私がこのなかでいちばん有効と感じているのは、10番。

そうなのだ、強迫観念は飛び火するのだ。
1つの不安を消すための確認は次の不安を生み、
その不安の強さが増していくのが常。

明念典子さんも
『強迫神経症の世界を生きて―私がつかんだ森田療法』
の中で書いておられたが、
強迫行為には拡散するという性質がある。

これはもう、私もいやというほど体験ずみ。

なのに、やっちゃうのだ。

思うに、あることに対して不安になるのではなく、
本人にそのつもりはなくても
いつでも不安になる準備ができていて
もっといえば不安を探していて
(もちろん、本人は正反対の気持ちでいるのだが)
その不安を待っている“くぼみ”に
ビー玉がころんとはまるように、
何かのはずみで具体的な不安要素がはまり、
そうなるとビー玉をはずしたくなり、
なんとかはずすのだけれど“くぼみ”は残ったままで、
その残った“くぼみ”が次のビー玉を欲し、
先ほどよりも大きなビー玉がころんとはまる・・・

といったような連鎖反応が起こる気がしている。

しかも場合によっては、
不安をはらうためにやった確認行為が、
実際にだれかに迷惑をかける、ということも起こる。
たとえば、何かが気になって、確認に行って、
いそいでもどろうとしたら、人にぶつかった・・・
というふうに。

この場合は、不安の飛び火ではなく、
現実に自分の不安に他人を巻き込んだことになる。
1回目の不安は自分のなかの思いこみだが、
それをはらうための確認行為が起こしたことは、
現実なのだ。

なのに加害恐怖だなんて、自分でも笑っちゃう。
だけどやめられない。
それがこの気質の辛さなのだ。

というわけで、
何かに不安になるのはしかたがないとしても、
それをはらうための確認行為はけっこうリスキーなのだから、
確認行為やめようよ〜と自分を説得している最中なのだ。

なお、田村浩二さんがあげている35番目の鉄則は、

 35.これらの鉄則も、実行しなければ意味がない。

というもの。

                     ですよね〜〜

 2012.07.05 Thursday 14:41 強迫神経症/森田療法 permalink  
強迫神経症と関連させて読む、小池龍之介
仏教に対する興味が
ふつふつとわいてきているきょうこのごろだけれど、
小池龍之介を読むことを一段落させたいので、
一度、強迫神経症とも関連させて読んでみることにする。

さて、『考えない練習』では、
五感を能動的に使おうということが
書かれていたわけだけれど、
これと同じような話(五感で確認する癖をつける)が、
明念倫子『強迫神経症の世界を生きて』に出てくる。

 強迫神経症の人は、
 ついつい頭で判断しようとしてしまう。
 逆にいうと、
 身体の判断が信じられなくなっている。
 「何度確認しても、
 ガス栓が閉まっていることがわからない」
 という場合も、
 実はもう身体では確認できているのに、
 その判断が信じられない。

この話、よくわかる。身につまされる。
要は、頭でっかちになってしまうのだ。
しかも、その頭、あるいは記憶さえ信用できずに
ぐるぐると確認行為の輪に入り込んでしまう。

自分の体験からいうと、双方向に信じられなくなる。
つまり、「確かに○○した」という確信もなくなり、
「確かに○○しなかった」という確信もなくなるのだ。

たとえば道を歩いているときに、
歩道にとめてある自転車を倒さなかっただろうか、
と気になって、後を振り返って確認することがある。
自転車を倒せば音がするだろうに、
その音がしていないこと、
自分がその音をきいていないことも、
信用できないのだ。

何かにあたった、あたっていないという身体の感覚や、
目で見ている自分と物との位置関係、
何かが起こったときに聞こえるはずの音などが、
連動していないのだろうと思う。
明念さんがいう
「五感という無意識のネットワークにゆだねる」
という言葉が胸にしみる。

また、買い物中に、
陳列棚のガラスやプラスチックの仕切り、
蛍光灯カバーをチェックすることもよくあり、
目で何度見ても確信できない場合は、
手で触って確認することもあるのだが、
これは、視覚よりは触覚をまだ信用している、
ということになるのかもしれない。
嗅覚も比較的信用しているような気がする。

話聞くだに面倒くさいと思われるだろうが、
実際、毎日、めんどくさい。
ただ、この気質と付き合いが長いものだから、
折り合いのつけ方もある程度身につけており、
日常生活に支障はもたらさないでいる。
逆にいうと、折り合いをつけるようになったので、
この気質が定着してしまったのかもしれない。

ちなみに、ブログで感想は書かなかったけれど、
少し前に別の強迫神経症の本を読んで、
そこにある重症の人の話に圧倒され、
「自分は強迫神経症的気質ではあっても、
強迫神経症じゃない」としみじみ思ったものだった。
私のレベルで強迫神経症と言ってはいけない、と。
重症の人は、本当に大変で、本当に苦しいと思う。
これまでは、「いつか機会があったら、
森田療法をやっている病院にお世話になってみたいなぁ」
なんて呑気なことを思っていた私だったが、
私レベルは自分でなんとかしないと、と思いなおした。

それはそうとして、五感と強迫神経症の話。

では、具体的にはどういうふうに確認をすれば
強迫観念に陥らないのか、
明念倫子さんの実際の確認風景をもとに考えてみる。

まず、ドアの鍵を閉めるときは、
「ガチャン」という音をしっかり聞き取る。
つぎにドアのノブを回し、
手から伝わってくる「閉まっている」という感触を確かめる。
このとき、ちょっと注意していると、
すでにもう自分の身体は、
ドアの前から「立ち去ろう」とする動きをしているのに気づく。
そこで、この身体の動きに導かれるようにして
戸締りを完了する。

明念さんはこれを、
「身体の動きにすがり、観念の出番のない確認行為」
と称している。

健康な人であれば、
わざわざ音や感触や身体の動きに意識を向けなくても、
これらの確認を無意識に直感的にできている。

この、「観念の出番のない」ということが、
小池龍之介のいう「考えない」につながるのだと思う。

ただ、「意識と無意識」をどう考えるか、という疑問点は残る。
小池龍之介の説く仏道の場合、
五感に対して「能動的」になるのであり、
それを「無意識」とよんではいけないのだろう。

強迫神経症の人は、
その瞬間の音や感触に意識を向け、
身体の動きを信用することで、
やがてはそれらの無意識のネットワークに
まかせられるようになり、
強迫観念から逃れることを目指すわけだけれど、
健康な人の場合、「考えない練習」は、
逆に言えば、これまで無意識にやっていることを
意識化する作業になるともいえる。

ここをどう考えるのか、の課題は残りそう。

いずれにしろ共通点は、
観念(考え)にふりまされない、支配されない、
ということだと思う。

そして、いまこの瞬間の情報をきちんとキャッチする、
ということなのだと思う。

ちなみに、自分の体験から言っても、
確認強迫が起こりやすい場面では、
「ああ、また不安になっちゃうんだろうな・・・」
という気持ちに支配されてしまうことが多い。

なので、これまで日常生活の中で、
まったく気にならずに過ごしていたものが、
ある日、何かのきっかけで強迫観念の対象になると、
その次に同じ場面になったときに
「ああ、また強迫始まっちゃうんだろうな・・・」
と不安感が増してきて、案の定そうなって、
強迫場面がまた1つ増えてしまうのだ。

つまり、何かのきっかけで、
ある場面が強迫場面の候補にあがってしまうと、
頭が予期不安に占領されて、
感覚器からの情報が入ってこなくなり、
たったいまの瞬間の情報を全然キャッチしないまま、
「あとで」確認をすることになり、
同じことを繰り返して、強化されていってしまうのだと思う。

なお、『考えない練習』のAmazonのレビューの中に、
“おから”さんという方の、
しっかりできるくらいなら、ぼさっとするかい!
というレビューがあり、ここに、
ケアレスミスが多い人が読むとよろしいかと思います。あと、出掛けてから「玄関の鍵閉めたっけ?」「ガスの元栓はどうだったかな?」と気になって家に戻ることが多い人も。
と書いてある。後者は、
まさに強迫神経症気質の人のことを
指しているのだと思う。
 2011.10.27 Thursday 10:09 強迫神経症/森田療法 permalink  
岩井寛『森田療法』(講談社現代新書)

岩井寛『森田療法』(講談社現代新書/1986年初版)
を読んだ。

この本は20代のときに
友達から借りて一度読んでいるのだけれど、
あのときにはまだ我が事と思えなかった。
そして、まだ、松岡正剛という名前を知らなかった。 

  なお、この本は、松岡正剛の追悼文から始まっている。
  その経緯については、
  千夜千冊・『森田療法』岩井寛に書かれてある。

細かい内容は覚えていなかったが、
「あるがまま」を誤解してはいけないことと、
人間は最期まで自由に生きられる、
ということについて書かれてあることは心に残っていた。

20年近くのときを経て読み直して思ったことは、
これまで読んだ森田療法の本の中では、
いちばん読みやすく、バランスがよいということ。

これまで読んだどの本もそれぞれに面白かったが()、
この本ほど、森田療法の芯が、
くっきりすっきり示されている本はないかもしれない。
かつ、岩井寛独自の考え方・生き方も示されている。

森田療法は、
東洋的あるいは日本的と言われることが
少なくないと思うけれど、
今回、いちばん印象に残ったのは、

 東洋の論理=現象受容的
 西洋の論理=現象分析的・現象解明的・現象闘争的

という対比を、地理的、気候的な特徴をもとに
語っている一節だった。(かなり後ろのほう)

     *     *     *

 エジプトやイスラエルやギリシアのように
 比較的砂漠に近い過酷な自然環境の中で
 育まれた人間にとっては、
 常に自然を人間と対峙する現象として
 克服しなければならない運命に迫られていた。
 そうした自然現象を根底において発展してきた西欧文明は、
 常に現象分析的であり、現象解明的であり、
 現象闘争的であった。

 これに対して、東洋の文化、
 特に日本のようなモンスーン的自然を背景とした文化では、
 自然が比較的豊穣で、その自然現象の中に包まれながら、
 農耕を営みつつ、人間は生きてきた。したがって、
 そのような自然を背景に形成されてきた諸現象は、
 人間と敵対関係にあるのではなく、
 人々は自然の恩恵を受け、
 現象をそのままの形で受けとめるならわしを身につけてきた。
 だから、現象と対峙し現象分析的な態度をとるのではなく、
 現象受容的な心理状態におかれるようになった。

     *     *     *

私は、「日本の力を信じてる」と言われると()、
その「日本」の中に私はいない、と感じてしまうのだが、
森田療法の本を読んでると、
日本人でよかった・・・という気持ちになってくる。
なんというのか、
自分の奥底にある“風土”を感じられる気がしてくるのだ。
ただし、手放しで「私は日本人だから森田療法がしっくりくる」
と思っているわけではなく、
ここにくるまでにそれなりの紆余曲折があった。

上記の一節を読むと、
茂木健一郎 クオリア日記無根拠なるがゆえに
を思い出す。

実はこのページ、
「強迫神経症」で検索していたときに見つけたもの。
コメントの中にこの語が含まれていたので。
(なお、森田療法は、禅の考え方を取り入れているわけでは
ないと個人的には思っている。見出すことはできるとしても。)

そして、別ブログで、金子由紀子『わたし時間のつくり方』
に関する記事を書いたときに()、
上記クオリア日記のページをリンクしたのだった。

「東洋的」という言葉は
東洋以外のものがなければ成り立たず、
「日本的」という言葉も
日本以外のものがなければ成り立たない。
それはときとしてオリエンタリズムであったり、
ジャパネスクだったりするのかもしれない。

だから、
オリエンタリズムはもともと「異文化」であるのかもしれず、
日本人が東洋的なものに惹かれるとき、
そこには2段階のねじれがあるのかもしれない。

たとえば、現代を生きる私たちは、
衣食住も、文化も、教育も、
多分に“西欧的”なものを取り入れているだろう。
そこをベースにしたうえで、
オリエンタリズムに魅力を感じる、
ということもあるのかもしれない。

だから、結局のところ、東洋的なものに惹かれたり、
日本的なものに魅力を感じたりするということも、
新たな出会いにほかならないのかもしれない。

でも、それでいいんじゃなかろうか。

最近、こんなことを思う。
人間は、己を知るため、知ろうとするために、
生きるのではないか、と。
自分のこと、自分では何もわかっちゃいない。
他人は知己になりえても、自分は知己になりえない。

もし、日本的なものに触れて、
そこに安堵するものを見出したとき、
それは血としてのルーツではなく、
地(風土)としてのルーツに触れた、
ということなのかもしれない。

己は、かなりなスケールの構成物なのかもしれない。

とにかく、森田療法は面白い。

ただ、困ったことに、
私の強迫神経症はちっともよくなっていない(^^;

私の強迫神経症がよくなっていないことが困るのではなく、
こんなに森田療法を面白がっている私の
症状が軽減しないということは、
森田療法に効果がないことの一例になりはしないか・・・?
という懸念としての困りごとなのだった。

「もしかして、治そうとしてない?」
と自問することもあるけれど、
「そんなことないよ〜」
という答えが一応返ってくる。


どうなんだか。

 2011.05.09 Monday 11:53 強迫神経症/森田療法 permalink  
私の内側に私はダイレクトに手を出せない
1つ前のエントリ森田療法 vs 精神分析
「たぶん、このあたりが逆に(逆に?)新鮮で、
森田療法に惹かれている気がする。」と書いたけれど、
“このあたり”というそのあたりについて、
もう少し考えてみることにした。

森田療法というのは、簡単にいうと、
神経症の人を、
「気分(症状)本位」から、
「目的本位」「行動本位」「事実本位」
に変える治療なのだと思う。

もちろん、森田療法をきちんと説明するためには、まず、
「精神交互作用」「思想の矛盾」「生の欲望」「拮抗作用」
などの用語が必要になってくるのだろうが、
それらはおもに神経症発症の仕組みについての概念であり、
じゃあ、どうするのか?という治療を考えた場合、
「目的本位」「行動本位」「事実本位」に生きようとする姿勢を
実際の生活で培おうとする治療法と言っても、
そんなに大きくははずれていないだろうと、
現時点では理解している。

で、私にとって何が新鮮だったかというと、
私はこれまでずっと、
目的よりもプロセスを重視していたと自分で思うからだ。

あるいは、適応よりも、
自己肯定感を重視していたと自分で思うからだ。

特に問題なく仕事をこなしていたり、
特に問題なく学校に通っていたりしていても、
働いている人や学ぶ子どもの心が空虚ならば、つまらない。
何かを必要以上にがまんしたり、
自分に正直でなかったらつまらない。
そんなふうに思っていた。

たとえばこのエントリのカテゴリーは「気持ちの元気」
になっているけれど、“気持ちの”元気という表現も、
上記のような私の考え方の1つの現われだと思う。

で、そういう考え方をさらにつっこんで考えていくと、
「まず、私在りき」という発想があると気づいた。

強迫神経症の人は、不安を抱えていられない。
すっきりしてから物事にあたりたい。
だから、確認行為を繰り返す。
それはつまり、「私の状態を整えてから行動を起こしたい」
という発想なのだと思う。

まず、私があって、その私が行動を起こす。
という順番なのだ。

だから、私の“中の”不安や気になりごとを、
“私が”なんとか片付けようとする。

「それはできんことなのだよ」と、
森田正馬は言っている気がする。

できることは、
あなたがあなたの外に向かって何かをすることなのだ、と。

私が私の外に向かってできることをやる間に、
私の内側(もしそれがあるとしたら)が変わっていく。
たぶん、そういうことですよね?>森田療法関係者

なるほど、森田療法は、患者が自分で行うことができる、
というのもわかる気がする。
たとえば、精神分析的治療は、治療者がいないと不可能だろう。
(詳しいことは知りませんが…)

私の幸せや、自己実現は、私だけでは成し遂げられない。
しかしそれは、他者の力が必要という意味ではない。

私は、私と私ではないものの間で作られていく。
その“間”に、私は手を出すことができる。

そういうことなんじゃなかろうか?

ということと、市川光洋さんの言葉をあわせると、
私と私ではないものの間に今があるということになって、
面白いなぁ。
 2010.07.30 Friday 09:30 強迫神経症/森田療法 permalink  
森田療法 vs 精神分析
あいかわらず森田療法の本をあっちこっち読んでいて、
面白いなぁ!と思っているきょうこのごろ。
森田療法も面白いし、森田療法をとりまくアレコレも面白い。

たとえば、大原健士郎『新しい森田療法』
のあとがきにこんなことが書いてある。
(1970年頃の、精神病理・精神療法学会でのケンカの話)
 私もその学会で、「精神分析は小説だ」と批判したことがある。すると、有名な精神分析医の故懸田克躬教授が、即座に「森田療法は散文にもなっていない」と反論してきた。
(懸田克躬=かけたかつみ)

こういうところにウケるってどういうことよ!?
と自分でも思うけれど、なんだか面白いのだ。

なお、この本には「森田療法は科学である」という章もあるし、
精神療法家は効果を実証すべきという
アイゼンクの言葉を示して、
治療後の予後調査の重要性をうったえたりもしている。
(というか、森田療法はそれをやってきたとして、
データを示している。)

また、精神分析に批判的だったアイゼンクが、
精神分析的療法と行動療法を比較するために作った表に、
森田療法がつけくわえられた(かきかえた?)表も載っていて、
面白かった。

私が興味をもったのは、次の項目だった。

===================

(精神分析的療法)
 治癒は、根底にある(無意識的な)力動性を統制することによって達成されるのであって、症状そのものを統制することによって達成されるものではない。

(行動療法)
 治癒は、症状そのものを統制すること、すなわち、不適応な条件反応を消去し、望ましい条件反応を形成することによって達成される。

(森田療法)
 治癒は、まず行動面の改善に重点をおく。症状や気分は二の次にして、健康な生活態度をとらせるようにする。結果的には、それにつれて症状が改善される。

===================

たぶん、このあたりが逆に(逆に?)新鮮で、
森田療法に惹かれている気がする。
 2010.07.29 Thursday 12:26 強迫神経症/森田療法 permalink  
精神科医・神田橋條治さんの言葉
『強迫神経症の世界を生きて―私がつかんだ森田療法』
(明念倫子/白揚社/2009)
の著者である明念さんは、
もともとはご自身が強迫神経症だったのだけれど、
森田療法と出会い、自助グループの会員となり、
いまとなっては話を聞く立場になった方。

なので、カウンセリングも学ばれたようで、
相談を受けるものとしての心得も書かれている。
その中で印象的だったのは、
明念さんが肝に銘じておきたいと思っているという、
精神科医・神田橋條治の言葉だった。
『治療のこころ』という書籍からの引用文。

要約すると、以下のようなことが書いてある。

  精神療法は非常に影響力が強い分野なので、
  自分のたどってきた人生が、あべこべに、
  精神療法という文化に溶ける危険がある。
  そうなると、みんな似たような人間の集まりになってしまう。
  そうならないことが大切。
  みんなそれぞれ違う過去を背負って、
  遺伝的にもいろんな違うものを背負っていて、
  そこが屋台骨なのだから、
  その中へ精神療法で習得したものが統合されていくように、
  ということをいつも考えていることが大事。
  そうすれば、みんな一人ひとりが違う精神療法家になり、
  違う考えを持った人になり、
  それぞれが習得した技法もいくらかずつその人独自の
  使い方を生かしていくように改変されるはず。
  そうでなかったら、つまらない。
  精神療法も一つの文化であり、
  文化なりの価値観を持っている。
  その価値観の中に、
  自分の人生が吸い込まれてしまっているような
  集団の人たちが行う精神療法は、
  自分が相手をしている人たちがたどってきた人生を、
  自分たちの考えの価値観の中に吸い込んでしまって、
  全人格を、ワンパターンの、
  ある一色に染めつけてしまうような治療になってしまう。


神田橋條治という精神科医のことを
私はいままで知らなかったのだけれど、
少し検索してみたら、とても有名な方らしいとわかった。
ウィキペディア
「治療は、一見独特で、天才肌かつ名人芸的」
とあるのを読んで、
知らない人なのになんだか妙に納得してしまった。

上記の話は、精神療法のみならず、
いろいろなジャンルの理論・方法について
言えることなのではなかろうか。

ある理論・方法を自分の人生に統合していくということは、
その理論・方法を我流に解釈するということではなく、
その真髄にせまろうとする作業なくしては成り立たないと思う。

そして、いろいろな人に解釈されながら改変されながら、
その人の中で生き続ける理論・方法というのは、
それだけのタフさをもっているということだと思う。
 2010.07.23 Friday 23:22 強迫神経症/森田療法 permalink  
不安が苦しいのではなく、不安を消そうとすることが苦しさをうむ
『強迫神経症の世界を生きて―私がつかんだ森田療法』
(明念倫子/白揚社/2009)
の中から、
強迫神経症的気質の人に直接参考になりそうなことを、
私なりに要約して箇条書きで書いてみようと思う。


☆ 強迫行為に追われることによって、
  より強いストレスが遮断され、
  身が守られている場合もあると考えられるので、
  その人の中に耐性力がある程度育つまでは、
  「強迫行為と共生する道」を
  模索していったほうがいいかもしれない。(p23)

☆ 不安そのものが苦しいのではなく、
  不安を感じないようにすることが苦悩をうむ。
  「ガス栓の確認」のケースでいえば、
  「ガス栓が閉まっていないのでは?」
  という不安自体が苦しいのではない。
  「不安を感じないように」と確認を繰り返すことから
  苦悩が生まれる。(p73)

なるほど。しかも、強迫神経症の人は、

☆ 不安を感じないようにガス栓の確認を繰り返し、
  確認したことに「またやってしまった」と
  自責の念を感じてしまう。
  “はからう心”もまた自然。
  森田正馬いわく、
  「治そうということを実行しさえしなければよい」
  (p116〜120)

うーん、禅問答のようだ。

☆ 精神には拮抗作用があり、何かある考えが起こると、
  それと反対の観念が起こって、
  極端に走らないよう調整をとっている。
  この作用に気づくことは、
  特に加害恐怖からの立ち直りに有効。(p76〜82)

☆ まず<感じ>から始める。
  「こうせねばならぬ」の前に、
  「いま自分はどんな感じでいるのか」に関心を向ける。
  そして、頭や意志で処理しようとするのではなく、
  五感という無意識のネットワークにゆだねる。
  

なお、明念さんは、森田療法だけではなく、
「野口体操」の野口三千三さんや、
宗教哲学者の清沢満之からも大きな影響を受けているよう。

そして、私がこの本の中でいちばん印象に残ったのは、
精神科医・神田橋條治さんの言葉だった。

それは、森田療法についてというより、
精神療法についての言葉なのだが、
さらにはその枠も超えて一般性のある考え方だと思った。

(つづく)
 2010.07.22 Thursday 14:08 強迫神経症/森田療法 permalink  
強迫神経症と森田療法
というわけで、しばらくの間、
森田療法の本を読んで感じたこと、
考えたことを書いていこうと思う。

まずは、
『強迫神経症の世界を生きて―私がつかんだ森田療法』
(明念倫子/白揚社/2009)
について。

何よりもこの本から入ったのがよかったのかもしれない。

なお、この本の装丁も好き。岩崎寿文さん。

著者はご自身がもともと強迫神経症で、
その後、森田療法の自助グループである「生活の発見会」
の会員となり、活動をされている方。

とても読みやすい。そして、優しい。

神経症、特に強迫神経症で苦しんでいる方には、
まずはこの1冊がお薦めではなかろうか。

かくいう私も、
自分が強迫神経症気質であることを自覚して久しい。
ただ、強迫神経症は程度問題だと思っていて、
日常生活に大きな支障はなく社会生活も送れているので、
いまのところ医者にかかる予定はない。

でも、日常生活に支障がないということと、
苦しくないかどうかということは別問題。
(身近な人にも迷惑をかけてしまうし。)
いまは、森田療法なら受けてみたいと思う。
あるいは、本を読みながら自分でできるのではなかろうか?
とも思った。
私自身の強迫神経症体験については、
後日まとめて書こうと思う。

さて。

すでに他の本も読んでいるので思うことなのだけれど、
森田正馬本人についていえば、
すごーく人格者とか、すごーくオトナ、という印象は受けない。

だから、明念さんが、
森田正馬のエピソードについて語っているところを読むと、
「そう捉えるのかぁ〜」なんて思ってしまうところもある。
明念さんも、森田正馬のユニークさは認めているし、
人格者だと書いているわけではないのだけれど、
「明念さんっていい人だなぁ…」と感じる捉え方なのだ。

私自身は、なんというのか、
森田療法に一種の「痛快さ」を感じる。

森田正馬の文章を読んでいると、
「結局、強迫神経症の人って、
 自意識過剰で自己中心的なんだよね」
と言われているような気分になることがある。
逆に言うと、神経症に対する憐憫のようなものがない。
その正直さとピュアさ、
同じ地に立ったうえでの厳しさが、
なんだか小気味よいのだ。

強迫神経症の人はまずは何より自覚があると思う。
強迫神経症を知っているかどうかの違いはあるだろうけれど、
「自分で自分が面倒」という感覚をもっていると思う。
そして基本的に真面目であり、
よく言えば粘り強く向上心がある。わるく言えばしつこい。
それが妙な方向に際限なく進むから苦しいのだと思う。

そういう、真面目で執着性のある人に、
森田療法ってとても向いているのではなかろうか?
だから、向いている人には
比較的短期間で効果が出るんじゃなかろうか?
なんてことを感じている。
 2010.07.20 Tuesday 08:55 強迫神経症/森田療法 permalink  
森田療法の本にすっかりハマってしまった
森田療法の本()にすっかりはまってしまった。

手にした本を手にした順に書くと、次の通り。

『強迫神経症の世界を生きて―私がつかんだ森田療法』
(明念倫子/白揚社/2009)

『新版 神経衰弱と強迫観念の根治法―森田療法を理解する必読の原典』
(森田正馬/白揚社/2008)

『外来森田療法―神経症の短期集中治療』
(市川光洋/白揚社/2008)

『森田療法のすすめ―ノイローゼ克服法』[新版]
(高良武久/白揚社/2000)

『新しい森田療法 (講談社プラスアルファ新書)』
(大原健士郎/講談社/2000)


森田療法の本は白揚社と関わりが深いのですね。
あと、こうやって眺めてみると、
2000年前後に森田療法のなんらかのウェーブがあり、
ここ最近また何かが動いているのかな?
というようなことを感じる。

いい順序で手にしたなぁ、と思う。
でも、別の順序で手にしても、
いい順序で手にしたなぁ、と思ったかもしれない。

全部をちゃんと読んだわけではなく、
特に下から2番目の『森田療法のすすめ』は
まだ読み始めたばかりなのだけれど、
さすがに大抵の用語と登場人物の固有名詞は
把握できるようになってきた。

森田正馬の考え方にも興味があるし、
できたばかりのときの森田療法、
新しい森田療法にも興味がある。

そして、森田療法を語るときの、
語り手による違い、語り手の個性の違いも面白い。

何がどう面白いと感じるのかを整理するために、
しばらく森田療法の本のことを書いていこうかな…
 2010.07.19 Monday 10:18 強迫神経症/森田療法 permalink