強迫神経症とお金のこと
タイトルに強迫神経症と書くか強迫性障害と書くか迷って、
自分にしっくりくる前者のほうにした。

最近、生活費の総点検をするなかで、
あることを思いつき、ひとりで苦笑している。

それはなにかというと、
家計簿の項目に「強迫」の欄が必要かもなぁ…ということ。
実際には設けていないのだが。

強迫神経症というのは、たとえば、
外出するとき鍵をかけたのに
かけたかどうか不安で何度も確かめるとか、
手を洗ってもまだ汚れている気がして、
洗い続けてしまうとか、
そういう症状のある病気のこと。

わかりやすい例で示したが、
バリエーションも多く、
症状は人それぞれなのではないかと思う。

かういう私も強迫神経症であり、
そのことについてブログで書いてきた。
>カテゴリー:強迫神経症

日常生活に大きく支障があるレベルではないので、
「強迫神経症気質」と自分で勝手に称しているが、
たぶんそのまま強迫神経症といってもいいのだと思う。
実際、専門家に相談したこともある。

おもな症状は加害恐怖・確認強迫なのだが、
年齢を重ねるにふえて症状も多様になってきた。
一方で、消えていったり、弱まっている強迫もある。

治ってきているといえば治ってきているし、
治っていないといえばまったく治っていないのだが、
とにかく付き合いが長いので、
なんとか折り合いをつけて暮らしている。
それができるので、「〜気質」をつけているのだった。

具体的には、確認強迫と加害恐怖を中心に、
多少の不潔恐怖、感染恐怖、縁起恐怖、
ある種の不完全恐怖などが混じっている。

そんな私の強迫観念のひとつに、
「買物中、商品を傷つけてしまったのではないか」
というものがある。

自分が手にとった商品の
隣の商品を落としたのではないか、
お肉のパックを破ってしまったのではないか、
一部を壊してしまったのではないか、
蓋を開けてしまったのではないか…と不安になり、
必要のないものを買ってしまうことがよくあるのだ。

もちろん、実際にやっていない、起こっていないことは、
どこかでわかっている。
それでも不安になるのが強迫神経症なのだ。

そうやって買ってしまった予定外のものも、
買ってしまえば消費・使用することが多いのだが、
食べきれなかったり、結局、使わなかったりして
捨ててしまったものもある。

そういうものにかけたお金がけっこうあるのではないかと、
生活費チェックをしながら思ったわけなのだった。
お金ももったいないし、ものももったいない。

また、若干の不潔強迫もあるので、
洗濯・手洗いの回数や水量が
多めになっているかもしれないし、
なんだかんだで、日々ほんの少しずつ、
強迫経費とでもよびたいものが
かかっている気がする。

それぞれは「少し」でも、積み重なれば
それなりの額になるのではなかろうか。

今回の作業のおかげで、強迫行為も少し減るとしたら、
ほんとに意味ある作業だったということになりそう。

実際、生活費の総点検をするようになって、
お金のことを考えていると、
強迫が少し弱まるような感覚を得ることがある。

強迫は、ある程度、余裕のある状態のときに
生じやすいということを、
何かの本で読んだ記憶があるし、
どこかで聞いた気もする。

いや、少なくとも経済的には
まったくもって余裕のある生活ではないのだが、
実際に余裕があるかどうかと
本人にその自覚があるかどうかは
別問題らしい。

ときどき、自分が強迫神経症なのは、神様が私に
「この人、強迫を与えとかないと呑気すぎてあぶない」
という感じで与えているのではないかと思うことがある。

とにもかくにも、
「強迫どころじゃない」状態になれば、
少し弱まるのかもしれない。

というわけで、強迫に陥りそうになったら、
お金の計算をしようと思うきょうこのごろなのだった。
 2017.10.24 Tuesday 12:16 強迫神経症 permalink  
強迫行為と告白とSNS
昨年12月に、

不安神経症・心配性を自分で治す実践ノート
(高田明和/リヨン社)

という本を買った。

熟読はしておらず、
ノートの「実践」もしていないのだけれど、
p.92〜97に示してある「強迫行為の分類」の
次の一項目にハッとして、
それがひとつの収穫になった。

2.何かを言わなくてはいけない、告白しなくてはいけないと思い、行動する。

(p.97)

そんな強迫行為があるなんて、初めて知った。

確かにそう言われれば、
ほんの少し心あたりがある。

  ただ、検索してみると、
  ニュアンスの違う「告白」行為が
  示されているサイトもあるので、
  「強迫」と「告白」の関係については
  もうちょっと深めて考えてみたいところ。
 
私はふだん、とても「話したがり」だ。
でもそれは、上記のような「強迫行為」ではなく、
単なる「おしゃべり」だと自分では思っている。

しかし、そんな私も、
web上に書く記事に対しては、
ある程度、配慮するようにしている。

何事も相対的なものだと思うので、
web上で発信していない人からすれば、
ブログを書いたり、
SNSをしたりしていることそのものが
「無用心」に思えるかもしれないが、
少なくともリアルな生活のように
「おしゃべり」ではないつもりでいる。
(あたりまえのことですが)

しかし、過去をふりかえってみると、
直接書く文章の内容とは別のことで、
「あっ、あれ、強迫行為としての告白だったかも…」
と思える出来事がある。

それは何かというと、
自分のブログなりnoteなりtwitterなりで
どなたかの記事をリンクしたときや
文章に言及したときに、
「(その事実を)知らせなきゃ」と思う気持ちが
生じる場合があること。

いつでもそうなるわけではない。

たとえば、このブログの左側のサイドバーにある本、
つまりブログで本格的に感想を書いている本の著者に対して、
自分からコンタクトをとろうとしたことはない。

 むしろ、更新をツイートすると著者が見つけてくれて、
 先方から何らかのリアクションをいただいたりする。
 (RTという形で「使って」もらったり…)

不思議なもので、
そのレベルまでいかない言及やリンクのときに、
ちょっと報告したくなってしまうことがあるのだ。

あったのだ。

なんというのか、そうしないと、内容に関わらず、
「陰口」を言っているような
そんな気分になってしまうから…
だったのではないかと思う。

リンクしたそのときは気にならなかったのに、
あとから心配になったりするのでタチがわるい。

ちなみに、いまだに
無断でOKなのか判断できないのは、
ツイートの埋め込み。
twitterにそういう機能がついているんだから
勝手にやっていいような気もするが、
いいんでしょうかね?

読む側からすると、リンク先を開くより、
直接読めたほうがいいですよね。

気になるなら、URLをリンクして、
「引用」すればいいのかしらん?

記憶にある限りでは、
過去に2回埋め込みをして、
どちらも報告をした。

あらためて考えてみると、
面識がない人や有名人と、
簡単にコンタクトをとることができる、
そういう時代だからこそ、
「報告しておこうかどうしようか」
と迷うことができるんだよなぁ、
と、しみじみ思う。

もちろん、相手がweb上に
連絡経路を作ってくれていればの話なのだが、
twitterをやっていてもらえれば、
すぐに「報告」ができてしまうわけであり。

自分が書いた記事を読んでほしいというより、
ある種の「義務感」がそうさせている。

しかし、知らせるということは、
一般的に、「読んでほしい」ということの
意思表示とみなされるだろう。

ともすれば相手のリアクションを求める行為にもなるし、
場合によっては、許可を求める形にもなる。

なので、下手すりゃ先方に負担をかけてしまう。
いや、下手しなくても、確実に負担をかけてしまうだろう。

じゃあ、自分だったらどうだろうか?

立場を入れ替えて考えてみた。

私は有名人ではないので、
自分のブログの記事やツイートに対して
言及されることはほとんどなく、
したがって「報告」を受けることもないわけだが、
エゴサーチしてみるとゼロではなくて、
たまに見つけることがある。

そういうとき、
「報告もなしに勝手にリンク(言及)してぇ…!」
と思ったことはない。思うわけがない。

大抵、
「わあ、読んでもらっているんだ、うれしい!」
と感じる。

また、場合によってはむしろ、
報告ナシで助かることもある。
報告されるとリアクションしなくちゃいけないから…
(義務はないだろうが、心情的に)

web上で発信されたものは、
どんなものであっても、
「どうぞご自由に読んでください」
「どうぞご自由にリンクして、
 ご自由に言及してください」
ということを前提としているのではなかろうか?

先ほども書いたように、このご時勢、
逆に「エゴサーチ」というものができる。

ということは、
自分が放った文章に言及している人がいるかどうか、
どういうふうに言及されているのか、
どういうふうに読まれているのかについて、
ものすごく興味がある人は、
自分で見つけようとするだろう。
知らせるまでもなく。

そして、そういうことに興味がない人は、
エゴサーチもしないだろう。

また、エゴサーチしたい気分のときと、
そうじゃない気分のときもあるのではなかろうか?

だから、いちいち報告しなくていいんじゃないかな…
と、思うようにしようかな…
と最近は思っている。

もちろん、ケースバイケースだと思うので、
「あ、これ、告白したい強迫行為だな」
と感じたときに、
「報告」を控えるといいのかもしれないなぁ、
と自分に言っているところ。

読んでいることを知らせたい!
触発されて記事を書いたことを知らせたい!
そして読んでほしい!
と思うことも確かにあるので、
そういうときに控える必要もないだろうて。

ところで。

先ほど、面識がない相手でも有名人でも、
「こちらの存在をお手軽に知らせることができる」、
そういう時代なんだということを書いたが、
そもそもそういう時代であればこそ、
私のような一般人が、不特定多数を相手に、
何かを紹介したり、何かに言及したりすることが
できるわけなんだよなぁ、ということも思う。



ちょっと関連した話題として、
少し前にこういう興味深い話を知ったので、
よろしければどうぞ…↓

ニュースサイトのリンク条件の不思議
 2015.03.21 Saturday 13:14 強迫神経症 permalink  
森田療法の流動観
岩田真理『流れと動きの森田療法』
読んできた。

まだまだいろいろなことが書いてあるが、
そろそろ一区切りさせることにして、
書名にもある「流れと動き」について
まとめておきたいと思う。

森田療法のいう流れと動きは何かというと、
簡単にいえば、
「すべては流れ、変化してゆく」
ということであり、
自然は「動いて変化して″調和”と″均衡”を目指す」
という考え方であるらしい。

「自然」は、動きながら「調和」と「均衡」へと向かう。

わたしたちのなかの「自然性」も同じ。

わたしたちを外界に適応させ、調和させ、
自分の命を守る方向へと導いていく。

そして、
自分の個性を無理なく表現して現実に生かしていくのが、
わたしたちの自然性であり、
わたしたちはそれを信頼していいのだ、
と岩田さんは言う。

その信頼をなくしてしまって、
なんとか自分の意志の力で無理やり変えよう、
自分の考えに従ってコントロールしようとしているのが、
神経症の症状ということになろうかと思う。

わかる。

たぶん、神経症の人って、
せっかちなんだよね。

待てない。

いますぐなんとかしたい。

がまんできない。

自分で自分をなんとかしなくちゃと思う。

なんとかできると思ってしまう。

そうじゃなくて、まず待て、落ち着け。
ちょっと落ち着いて、
いま起こっている事実に目を向けよ。
湧いてきた感情を、
価値判断をいれずにそのまま感じる。
感じるままにして、動く。
頭で不安をこねくりまわさず、
身体を動かす。

そういうことですよね?

 神経症も依存症も、その人の時間を止めます。

(p.60)

動きたくない、
怖いことはなるべく避けたい、
頭ですべてを解決したい、
解決してから動きだしたい。

 その結果、流れない水のようになります。生活全体が淀んでくるのです。別にそれでいいなら、現状維持でもいいのです。それを非難しているわけではありません。しかし神経質の人は、本当はもっと変化したい、発展したいという意志があるのに不満な現状のままでいるから、悩むのです。

(p.61)

確かに。

症状になるほどの強い不安を持っている人なら、
当然強い欲望も持っている。
つまりは症状を克服できるだけのエネルギーを
自分のなかに持っている、ということになる。

不安の影に隠れているその欲望を見つけ出し、
実現化へ向けて動き出すことで、
克服の道のりが始まっていく。

そう、岩田さんは書いておられる。

この本の「まえがき」に、
「それぞれの持ち味のままに、流れに乗って生きる」
というフレーズがあるのだが、
全体を読んだあとあらためて触れると
よりしっくりと自分の中に入ってくるのがわかる。

なお、p.64ではこの「流れに乗る」ことを、
サーフィンにたとえてある。

波を読み、波の上でバランスをとる。
自分だけの力ではなく、
勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにする。

この流れに乗るということをさらに説明するために、
「無所住心」という言葉が出てきているのだが、
最近どこかでこの言葉目にしなかったっけ?と思って
心当たりの本をめくってみたのだけれど、
見つけられなかった。禅語っぽいですよね。

で、Googleで検索してみたら、トップに森田療法関連ページ↓
http://fujitarou.web.fc2.com/page214.html

注意を一点に集中したままではなく、
四方八方に意識を向ける、
という意味の言葉なんだろう。

こういう流動観をつきつめていくと、とどのつまり、
「今、ここ」を重視するという話になるのだが、
こうなるともう目新しくない、
おなじみのフレーズになるだろうか。

とにもかくにも神経質の人は、
たったいま起こっている現実に
気持ちを向けられなくて、
頭のなかにある過去や未来を、
ぐるぐるこねまわしてしまうわけだが、
そのことの例が「保護者会」で示してあって、
なるほどと思った。

自分の番が来たらなにを言おうかと考えていて、
前に話した人の言ったことなど聞こえていない、
意見を聞かれて、どきまぎしてしまう、
「過去にこういう失敗があったから、
 きょうは落ち着いて話そう、
 でも、声が震えるかもしれない…
 どうしよう...」
とぐるぐるぐるぐる考えて、
今目の前で進行していることは眼中にない、
という状況。

対人緊張の例として出されているので
自分にはあまりあてはまらなかったが、
別の場面で考えるととてもよくわかる。

自分の心配ごとに精一杯で、
耳に入っちゃいない、目に入っちゃいない、
ということ、よくあります、はい。

心ここにあらず、ってやつですね。

そのことで、
別のもっと大きい次の心配ごとの種を
拾っちゃったりするわけなのだ。
嗚呼。

岩田さんは、頭で理解しようとすると、
森田療法ほどつまらない精神療法はないかもしれない、
ということも「まえがき」で書いておられる。

広大な無意識に潜むものを探索するわけでもなく、神話の世界にまで広がる集合的無意識や原型のイマジネーションもなく、成育歴のなかの原因探しというスリリングな世界もありません。

(p.21)

この記述、他の何らかの″療法”を説明したものなんだろうな。
詳しい人には、「ああ、あれね」とわかるのだろう。

 けれど実は、卑近で日常的に見えるその世界のなかには、人間の宿命的に抱える「言語、知性」と「自然性」との葛藤を、そのまま抱えながら生きていく道筋が示されています。
 今、ここ、そのままの自分にYESを言い、自分の葛藤やゆらぎにさえYESを言うのが、森田療法です。

(p.21)

私が森田療法に興味を持つようになったのには
いくつかきっかけがあったように思うのだけれど、
おそらくこの「卑近で日常的に見える世界」
を重んじるところに、
惹かれているんじゃないかと思う。

なので、森田療法は神経質の人ではなくても、
日常生活で役立てられるんじゃないだろうか?

「まえがき」では
森田療法を伝えていく難しさについても触れてあるのだが、
森田療法には脱言語・脱論理という側面があり、
入っていく切り口も多様なので、
いろいろ難しい面があるといえばあるらしい。

たぶん、どこで変化がもたらされるか、
どこにハッとするかが、人によって違うんだと思う。

岩田真理さんの場合、それが「純な心」だった、
ということであり。

でも、岩田さんはこう言う。

たぶん、それぞれの人の森田療法があっていいのだと思います。

(p.19)

そして、森田療法をこれから体験する人、
自分で学習する人には、
数ある森田療法の本や体験談の
微妙なバリエーションについて、
以上のような問題があるという事実をふまえたうえで、
学んでいただきたい、ということも書いておられる。

「自分の森田療法」を見つけてほしい、とも。

ああ、だから逆に森田療法の本って、
何冊読んでも面白いんだなぁ、
とあらためて思った。↓

森田療法の本にすっかりハマってしまった

そして、森田療法を語るときの、 語り手による違い、語り手の個性の違いも面白い。



しかーし!

あれから4年弱。

岩井寛『森田療法』を読んでから約3年。

やっぱり一向に、自分の強迫神経症的症状は
おさまっていない。

軽減もしていない。と思う。

だから、

ただ、困ったことに、
私の強迫神経症はちっともよくなっていない(^^;

私の強迫神経症がよくなっていないことが困るのではなく、
こんなに森田療法を面白がっている私の
症状が軽減しないということは、
森田療法に効果がないことの一例になりはしないか・・・?
という懸念としての困りごとなのだった。


という困りごとも、
いっこうに解消されないままなのであった。

どうすんのよそこんとこーーー!?

(ただ、若干あとをひく案件が減ったかな・・・?
 という感触はある。うん。)
 2014.05.02 Friday 12:35 強迫神経症 permalink  
心配を抱えながらも動き、最低限のことをする

岩田真理『流れと動きの森田療法』
読んでいる。



引き続き
第3部「森田療法を活かすには」のなかから、
「不快な感情を打ち消せない」のところを
読んでみたいと思う。

不快な感情をもよおすということは、
別に神経症の人に限ったことではなく
だれにでも起こることだが、
神経症の人はその感情を
いじくりまわしてしまうわけなのだ。

つまり、不快な感情を消そうとする。
そうしてそれにとらわれて、
そのとらわれが緩んできても、
快感情よりも不快感情のほうを
敏感に感じとってしまう。

心配になったり不安になったりするのは
「感情の事実」であり、自然現象なのだから、
意志で消すことはできないのに、
反復していじりまわして考え抜くうちに、
感情は刺激され不快感は増していく…
というのが森田療法が考えるところの
神経症の仕組みなのだと思う。

で、岩田さんは続ける。

「そのときにたぶん、身体は動いていません」

ふむ。

「座りこんで頭の中で
 ぐるぐる考えていることでしょう」

・・・ふむ。

そしてこう続ける。

心配を抱えながらも、動くことです。やるべきことは目の前に山積みになっているはず。のろのろと手を出し、いやいやながら、ひとつひとつ片づけていくのです(気分本位からものごと本位へ)。
 落ちこんでいるからと、ゆっくりと気分にひたるために家事を簡略化したり、会社を休んだりしていると、またそのことで周囲と不調和をきたし、ますます落ちこんでいきます。能率が悪くても最低限のことをしてみましょう。

(p.211)

この、のろのろでいいから、
いやいやでいいから最低限のことをする、
という言葉には「なるほど」と思った。

つまり、やる気満々じゃなくていいから、
テキパキじゃなくていいから、
とにかく手を出すってことですよね?
(って、ここでやる気満々とか
 テキパキとかっていう発想が
 出てきちゃうわけなのよね…)

これは、
不快感情にとらわれているときではなくても、
日常的に有効な発想だという気がする。

1こでも2こでも、
とにかく片づけていこうと思えば、
かたまった身体も動くかもしれない。

ただし、このあと
「もう少し深く考えてみると」
という項目のところで、
以下のようなことも書いてあった。

神経質の人は、自分のことで憂うつな気分になっても、
食欲が落ちたり、今まで興味のあったことが
面白くなくなったりすることはあまりないようだけど、
時として憂うつな気分が長く変化なく続いたり、
身体が異様に疲れたり、食欲が落ちたり、
興味があったこともやる気がなくなったりすることがある。

これは抑うつ状態のサインなので、
そんなときは我慢せずに
すぐに医師の診察を受けてください、と。

あるいは、少し休みをとって充分寝ることもいいし、
こういう人は、ふだんからできるだけ
規則正しい生活をするといいようです、
とも書いてある。

さらに「別のタイプの方」についての
アドバイスも書いてあり、
そこを割愛して先に進むと、
今度は「強迫行為がやめられない」
という項目に入る。

これも基本は同じで、
強迫観念や強迫行為そのものは
放っておく、
ということになろうかと思う。

また、強迫神経症の人は「観念」で生きているから、
実は身体感覚や感じをどこかに置き忘れている、
ということも書いてある。

というわけで、強迫行為をしながらも、
なるべく身体感覚を感じようとしてみることだ、と。

寒い夜に洗面所でずっと手を洗い続けて、
身体は寒くないのか? 疲れていないのか?
もっと自分に楽をさせてあげてもいいのではないか?

要は、「動く」こと、
そして「感じる」ことなのですね。

確かに神経症の人たちは、
頭のなかで生きているのかもしれない。

いま夢想していることは、夢想であって、けっして現実ではありません。

(p.211)

(つづく)

 2014.04.30 Wednesday 15:18 強迫神経症 permalink  
着手恐怖という強迫観念(←結局やること遅くなるしたまるし気になるし...)
岩田真理『流れと動きの森田療法』
を読んでいる。



まだまだ痛快な言葉は続く。

いや、今回はほとんど「快」はなくて、
…」だった。

第3部「森田療法を活かすには」のなかの
「自分の完全主義が苦しい」について。

神経質者には完全主義者が多い。
(″ようです”とついてるけど、多いですきっと)

たとえば強迫神経症の場合、
完全に手を清潔にしたいとか、
まったく間違いのないように行動したいとか。

 その行為がまったく完全ではない
 (場合によっては逆)ということは、
 身をもって知っている。

 しかし、そうやって気を遣って遣って、
 ようやくいまのレベルが保てているのかもなぁ、
 と思うこともある。

対人恐怖の人は、
人前で立派にふるまえるようになりたい、
つまり、明るくて話し上手で
誰からも好感をもたれる
自分の理想の完全な人になりたいと思う。

普通神経症の人、不安神経症の人は、
完全な健康を手に入れて安心したいと思う。

みんな不可能なことを求めている。

神経症の思う「完全」は、観念でしかないのだ。

ちなみに自分の経験でいえば、
強迫神経症的気質の場合、
「自分のこだわりがある部分のみ」
完全であろうとするので、
その他の部分については逆に、
かなりおおらかというかいい加減というか、
テキトーな人に見えると思う。

中学生のときだったか、高校生のときだったか、
友人からこんなことを言われた。

その友人は私のことを普段から見ていて、
どうしてこの人はこんなにテキトーなんだろう…
と思っていたらしい。

しかしあるとき、
「テキトーってすごいな」
と思う瞬間があったらしく、
それを私に伝えてくれたのだ。
真面目な顔で。

いや、ありがたい話なんだけど、
そんなにテキトーだったんだ私、
と思いますよねやはり。

これとは逆に、
出会ったばかりのころ「繊細な人」と思われ、
実はそうではないとわかって
そのギャップが逆に強い印象として残る、
という経験もしている。

ちなみに、PTAで接した一部のママ友は、
私のことを「ミリ単位で作業する人」
「細かいことに気づく人」と
思っていると思う。

しかし、ミリにはこだわっても、
キロメートルに無頓着だったりするわけなのだ。

また、東日本大震災で原発が大変なことになったとき、
つきあいの長いママ友から、
「心配症のtataちゃんのことだから、
 九州に帰省してるかと思ってたよ」
と言われたこともある。

で、私は伝えたわけなのだ。
あのね、心配症すぎるから、コトが大きくなると
よくわからなくなるの、と。
だから逆に何もしない、できない。

そんな私に、
この一節がカコーンと与えてくれた一撃は、
次の記述だった。
 また完全主義者は、逆に仕事が遅くなったり、取りかかりが遅くなったりしがちです。きちんと立派なものを作らなくてはならない、立派に仕上げなくてはならないという欲求が大きく、そのために重圧が他の人より大きいからです。
 着手恐怖という強迫観念もあります。自分のやるべきことがあまりにも重く感じられて、いつまでも手が出ないのです。「早くやりたい、いい仕事をしたい」という欲求と、「やるのがこわい」という不安感との葛藤です。これも、苦しい葛藤です。
(p.204〜205)

ああ・・・

どうして森田療法の関係者は、
私のことをこんなによく知っているんだろう。

そう思いながら私は、
部屋の片隅で「寄付されるのを待っている」
娘のランドセルについて、
また、ため息をつくのだった。

娘のランドセルを、
あるところに寄付しようと思っていた。

「思い出だから捨てられない」
という感覚はほとんどなく、
どこかでだれかが使ってくださるのなら
できれば早めに、
カビなど生えないうちに
引渡したいと思っていた。

リサーチするところまで仕事ははやくて、
よし、ここに寄付にしよう、
と決めるところまでもはやかった。

しかし、なかなか行動に移せない。

それはなぜかというと、
まず、人様にあげていいくらいには
きれいにしなくちゃ…という思いがあり
これはとりあえずやった。
(着手するまで数週間かかったけど)

ところがそのあと、典型的な強迫問題が発生。

そこはランドセルの他に、
古着なども受け付けてくれるので、
娘がもう着ないと言っている
ニットワンピースとスカートを同梱しようと思い、
一度洗ったはいいが、そのときに、
「汚物がまぎれこんでしまったのではないか?」
という強迫観念が生じてしまったのだ。

一緒に洗った他のものは気にならないのに
(というか、そもそもあり得ないことなのに)
人様にあげる、寄付するものだから、
気になってしまうわけなのだ。

で、スカートのほうは、
もしかしたら今後も着るかもしれないと判断し、
寄付をやめることにしたのだけれど、
いただきもののニットワンピースは
娘の趣味ではなかったらしく、
どう考えても今後も着そうにない。

見た目もまったく傷んでいないし、
一度寄付しかけたので捨てるにしのびない。

しかし気になるのであれば、
とりあえずランドセルだけ
寄付すればいいじゃないかとも思うのだが、
そこはサイズごとに料金が決まっており、
ランドセルだけでこの料金(2400円)をつかって
寄付するということを、
いろいろ援助もしてもらっている
母子家庭のわが家が
やってもらってもいいものだろうか?
それだけのために集荷してもらってもいいものだろうか?
と気になってしまうわけなのだ。

せめてランドセルのなかにあのワンピースを入れて、
あるいは他の寄付できそうなものを入れて、
では部屋中をさがして寄付できそうなものを見つけてから…

ってな具合で、
ぐるぐるぐるぐるぐるぐる頭のなかを観念がめぐり、
やることリストのなかの
「ランドセル寄付」のメモもむなしく、
毎日のようにとは言わないが数日に一度は思い出して
気が重くなる日々。

きっとそうこうするうち
ランドセルをしまいこんでカビがはえてきて
ワンピースも着ないままで、
「あーあ」と思いながら捨てるのだよ私。

もう、聞くだに、めんどくさいし、妙な話でしょ?

これは一例であり、
その他にも「手つかずのまま気になっている案件」は複数。
自分でも疲れる。

仕事など締切があるようなことは
そうも言っていられないので
比較的はやめに着手するほうなのだが、
やってもやらなくてもいいこと、
やるかどうかを自分で決めてやらなくちゃいけないことは、
往々にしてこういう状態に陥ってしまう。

で、この本を読んで
「そうか、着手恐怖という言葉があるのか」
と知って、へんな話、
少しほっとした部分もあるわけなのだが、
ではどう考えるか…ということについて、
いろいろ書いてあるところを読み進んでいくと、
再びカコーンと一撃をくらった。

「自分を環境や他人にゆだねてみるという経験を繰り返す」
という話のなかで出てくる記述↓
 さて、協力者を得られたというとき、完全主義の人は時として、「まかせすぎてしまう」こともあります。オールオアナッシングの傾向があり、自分が0か1かになりがちなのです。放り投げるか、抱えて離さないかの両極端です。
(p.209)

ああ・・・

特にこれといって、
自分についての具体例を思いつかないのに、
なぜ身につまされるんでしょう。

たぶん、この感覚がわかるからだと思う。

放り投げるか、抱えて離さないか。

 ・・・ね。

  森田療法の本って面白いでしょ?
 (きょうは若干落ち込みぎみなトーンで…)

(つづく)
 2014.04.28 Monday 12:15 強迫神経症 permalink  
他人の評価を気にする神経質の人は、実は他人のニーズには関心がない。

岩田真理『流れと動きの森田療法』
を読んでいる。



いやはや、とにかく森田療法の話は
耳が痛くて痛快。

 それにしても痛快という言葉、
 「痛くて快い」だなんて、よくできている。

この本の第3部では、
実際の生活のいろいろな場面で
森田療法を活かすための
コツのようなものが示されており、
場面別に「こういうときにどう考える?」
ということがまとめてある。

他人の評価が気になるとき、
自分の完全主義が苦しいとき、
不快な感情を打ち消せないとき、
強迫行為がやめられないとき、
対人恐怖で人のなかに入れないとき。

で、最初の
「他人の評価が気になるとき」において
次のような記述があり、
またまた膝を打ってしまった。

 そしてもうひとつ踏み込んでみると、神経質の人は、「他人が自分をどう見ているか、どう評価しているか」を気にしても、その当の「他人」のニーズには、あまり関心がないと言えるのではないでしょうか。他人の目に映る「わたし」が心配なのであって、「他人」のことを本当に心配したり、親身になったりしていないことがあるのです。つまり、まずは「わたし」が来てしまい、相手の身になるのは二の次なのです。

(p.201〜202)

引用部分が前後してしまうが、
このことを理解するには

他人の評価や視線は自分がコントロールできるものではありません。

(p.200)

ということをおさえておくと、
話がわかりやすくなるように思う。

また、こんなことも書いてある。

 わたしたちは、「変な人と思われるのはいや」とか「優しい人と思われたい」と思って、どれだけ目の前の相手を損なう行動をしてきたことでしょう。
(p.203)

森田療法の重要な用語に
「思想の矛盾」
というものがあるのだが、
この場合でいえば、
善人になろうとすれば悪人になり、
悪人になろうとすれば善人になる
ということになろうかと思う。

自分が善人になろうと思って
人のために尽くしているつもりが
相手にとってはありがた迷惑になることがある。

森田正馬はこれを
「相手がお腹をこわしているのに、
 ご馳走をすすめて親切の押し売りをすること」
とたとえているそう。

相手の健康を思って、無愛想をして
自分が悪人になることはむずかしい、と。

これって本当に、
お中元・お歳暮とか、御礼とか
お返しといった″贈答の文化”に
あてはまる話であるような気がする。

相手がそれを求めているからというより、
そうしないと自分の気がすまないのだと思う。

そして、できるだけ相手に喜んでもらえるものを
選ぶよう努力するけれど、
結局、それは自分の好みや判断だから、
相手がどう思うかは結局わからない。
(直接たずねられる仲ならいいけれども)

ちなみに私自身も、贈り物について反省したことがある。
自分が困ってみて、はじめてそれに気づいた。

「自分が恥ずかしくないように」、
「非常識な人と思われないように」、
「気がきく人だと思われるように」
という気持ちで起こす行動って、
けっこう多いのではないかと思う。
 
それって結局、
他人の目に映る「わたし」を
私が見ているということであり、
他人を気にしているようで、
実は他人は眼中にないという
状況なのかもしれない。
神経質ではない人の場合も。

面白いなぁ…!

いや、面白がっている場合じゃないのだが。

自分の評価に必ずしも結びつかない場合でも、
相手の立場を察して行動していくことは、
とてもむずかしいことだけれど、
そういうことを頭の片隅にでも
常においておくのは大事なことでしょう、
と、岩田さんはこの一節をまとめておられる。

ちなみに、ではどう考えたらいいかというと、
恥ずかしいとき、悔しいとき、
「恥ずかしい」「悔しい」、
ただそれだけでいい。

座りこんだままいろいろ思いをめぐらして
その感情をいじくりまわしていると、
どんどん悪循環にはまってしまう。

そして人のなかにいるときには、
緊張しても、その場の話題や目的に
目を向ける努力をする。

緊張しているなら、緊張したままでいい。

自分のなかに湧き上がってくる感情を、
そのまま認めてあげる。

湧いてくる感情は異常でもなんでもない。
自然なものなのだ。
 
自然のままの人間は、誰でもそれほど「立派」ではなく、そしてそれでいいのです
(p.201)

(つづく)
 2014.04.26 Saturday 16:33 強迫神経症 permalink  
「これから注意しよう」とノートに書くより、「しまった!」を強く感じることのほうがミスが減る(かも)
岩田真理『流れと動きの森田療法』
を読んでいる。



次は、森田療法の「純な心/初一念」について。

最初に書いたように、この「純な心」は、
岩田さんに衝撃をあたえた概念であり、
森田療法の最終到達目標なのではないか、
という説もあるそうで、
岩田さんもそう思うと書いておられる。

私自身は、森田療法の本を読むなかで
この「純な心」に該当する概念には
あまり強い印象をもっていないのだが、
今回、なるほどと思う説明をきいて、
また新たなヒントをもらった気がした。

「純な心」というのは、
「きれいな美しい心」という意味ではない。

価値判断の入らないナマの「感じ」のことであり、
森田生馬は「あるがままの心」「すなおな心」
「心の自然」「初一念」というふうに
言い換えていることもあるそう。

森田療法の考え方は
修養主義的に誤解されることが多いそうだが、
修養主義とはまったく無縁なところにある、
と岩田さんは説明している。

たとえば、「仕事をするのがいやだな…」と思う、
その「感じ」が「純な心」。

これに対して神経症の人は、
「仕事がいやでたまらない自分は怠け者なのだ」
というふうに、自分を認めず、
感情に価値判断を入れてしまう。

つまり、どこかに理想の人間像を描いていて、
それに当てはまらない自分を裁いてしまうのだ。

で、なるほどなぁと思ったのが、次の具体例。

たとえば、仕事で、
今日電話をかけるべきところに連絡を忘れて、
相手の事務所はもう閉まっている、
というような状況のとき。

最初の感じは「しまった!」となるわけだが、
この「しまった!」を強く感じたほうがいい、
と岩田さんは言う。
「連絡ミスをしないように注意しよう」と、そんな標語をノートに書いても、しばらくすればそのノートのことすら思い出さないでしょう。
(p.190)

またまたウケた。

こういうところにいちいちウケては、
耳が痛いなぁと思いつつ膝を打っている。

「しまった、たいへんなことをした」
という体験は強く心に残るので、
それ以後、電話連絡のたびにこのことが甦り、
ミスは少なくなると思う、という話。

確かに、「もう同じ失敗はしない!」
とメモすることで、
そのことを片付けよう、辛さを忘れよう、
としている面があるのかもしれない。

また、教育と関連した次の記述も印象的だった。

森田正馬は今から90年近く前に、
観念的な教育の弊害を説いていたのだそう。

たとえば 「お年寄りには席を譲りましょう」
という標語で育ってきたら、
目の前にお年寄りらしき人がきたときに、
「この人はお年寄りだろうか?」
と観念で判断することになる。

あるいは、
「もしこの人が自分を年寄りと思っていなかったら
 席を譲ると怒られるだろうか」
という心配もしなくてはならない。

こういうふうに観念で判断せずに、
自分の実感で判断するなら、
お年寄りといわず、
障害者、妊婦といわず、
つらそうな人に席を譲ればいい。

相手がどういう状況か実感で感じ取り、
判断して行動する能力、
それを養うことが教育だと思う、
と岩田さんは書いておられる。

それがつまりは「共感能力」というわけだが、
「純な心/初一念」は「平等観の獲得」にも
つながっていくということが、
この一節の後半で書かれてある。

自分の自然な感情を感じ取れるようになってくると、
「かくあるべし」の胡散臭さが感じ取れるようになってきて、
論理にくぐらせてから事実を見るという癖にも
気づくことができるようになる。

そして、理想を尺度に事実を見るということも
少なくなってきて、自分を取り囲む現実が、
「わたし」の観念を離れて把握できるようになり、
直観というものが働きだす。

森田正馬は、治療の最終ゴールは
「直観から行動できるようになること」
と言っているらしい。

そして、直観を養うことは、
なにかの修行が必要だったりする
神秘的なことではなく、
「感じ」とそれにもとづく経験から養われる、と。

という話は、
pha著『ニートの歩き方』にあった
感覚を大切にすることにも
つながるなぁ、と思った。

そういえば、何年か前にきいた
臨床心理士さん(だったかな?)の講座で、
こんな話があった。

子どもが「学校に行くのめんどくさい」
とぼやいたとき、
「そうだねぇ〜めんどくさいね〜
 でも身体は行こうか」
と言って送り出すという話。

先のリンク先の話と
矛盾しているようにきこえるかもしれないが、
要は、「めんどくさい」という気持ちはそのままで
行動を起こせばいい、という例だったのだと思う。

それを、「めんどくさいと思っちゃいけない」
とねじふせると、妙なことになってしまう、
ということなのではなかろうか。

ちなみに先のリンク先では
「休んじゃえばいい」と書いたけれど、
実際にそんなふうにして、
熱や痛みといった症状もないのに
娘を休ませたことがある。

また逆に、
似ている状況で登校を促すこともある。

そのどっちにもっていくかは、
私自身の勝手な判断なのだが、
これまた私の「感じ」に
依存した判断なのかもしれない。

 ただし、娘の学校の
 スクールカウンセラーの先生には、
 「学校を休ませる必要があるかどうか、
  考えたほうがいい」
 という内容のことを言われたこともある。
 いや、そんなに長期間休んだわけでは
 ないのですが、考え方としてね。

(つづく)
 2014.04.24 Thursday 12:30 強迫神経症 permalink  
「あるがまま」のパラドクス

岩田真理『流れと動きの森田療法』
を読んでいる。



森田療法にはいろいろな用語が出てくるのだが、
そのひとつに「あるがまま」という語句がある。

ひとつというより、
最も重要な集約された一語だと、
私は思っていた。

しかし、実は森田正馬は、
この「あるがまま」という言葉を
それほど多用はしていないのだそう。

「あるがまま」という言葉が独り歩きをすると
神経症の人はそれを目標にして
かえって混乱するということを
どこかの時点で理解した森田正馬は、
「あるがまま」を他の言葉で
置き換えるようになったのだとか。

たとえば「柳は緑、花は紅」。

 (期せずしてこの言葉は
  玄侑宗久『禅的生活』に出てくる)

あるいは

 「自然服従」
 「事実唯真」
 「なりきる」 

など。

「あなたはそのままの自分でいいんだよ」
と言われれたら、
「そうか、このままでいいんだ」
とホッとすればよさそうなものを、
神経質な人たちは、
「どうやったら“あるがままでいい”と
 思えるようになるんだろう」
と考えてしまう。

つまり、森田療法を学んで症状を克服することで、
現在の自分とはまったく違う
「あるがままを受け入れられる自分」が
どこかの時点で現れてくると思っている。

その空想のなかの「あるがまま」の自分は、
すでに現在「あるがまま」の自分ではない。

ぜんぜん「あるがまま」じゃないじゃーん、
という話。(私の表現です↑)

 (面白いねぇ〜〜)

で、ここからひとつ前の記事の
行動の話につながるのだけれど、
結局、所詮変えられないものを変えようとするから
空回りするということなんだと思う。

実際、整形で外形的なことが変えられる時代だし、
自己改造本などもいっぱい出てるので、
自分の性格なども変えられそうな気がするけれど、
果たしてそうなんだろうか、
ほんとにその人は変わってるんだろうか、
変われるんだろうか・・・

がしかし、ひとつだけ言えることがある、
と岩田さんは続ける。

その人の態度・行動が変われば、
外から見てその人は変化したように見える、
ということ。

つまり、「思いやりのある人」に
「なろう」とするんじゃなくて、
思いやりのある行動・態度をとる。

早起きできる意志の強い人間になるのではなく、
早起きしなくちゃならない状況を作り、
実際に早起きをする。

つまり、まずは「自分は意志が弱い」
ということを自覚し、認める。
そこから始める。

自分は思いやりがない人間だと
しっかり認識したら、
人のなかにいるときに、
相手の立場に立てない自分を踏まえたうえで、
いつもより真剣に相手の話を聞くようになる。

理想の自分になろうとするのではなく、
具体的に足りない部分をどうカバーするか考えていく。

つまらないことが気になる自分も「あるがまま」、
他人にイライラする自分も「あるがまま」、
それを否定したくなる自分も「あるがまま」。

そのままで生きていくしかない。

そのままの自分を、
現実のなかでどう生かしていくかを考えることが、
変化につながる、と。

岩井寛『森田療法』に出てくる
「あるがまま」へのアプローチとは
ずいぶん雰囲気が違うけれども、
とてもわかりやすくまとめてあると思う。

(つづく)

 2014.04.23 Wednesday 11:54 強迫神経症 permalink  
「外相整えば内相おのずから熟す」―――形から入る
岩田真理『流れと動きの森田療法』
を読んでいる。



森田療法のなかで出てくる用語の1つに、
「ヒポコンドリー性基調」というものがある。

自分の心身を過度に気にする傾向のことで、
普通神経症、不安神経症の人に剥き出しに見られるもの。

ちなみに、症状別ポイントのところ(p.101〜)で、
普通神経症に対しては、
「まず身体的な愁訴に対してお医者さんに行き、
 身体的な病変がないかどうか診てもらうことが大切」
と書いてある。
(この本を手にしている普通神経症の人は、
 言われるまでもなく、
 すでに病院に何件か行ってる気がする)

そして、病変がないとわかったら、
もう医者めぐりをやめることだ、と。

このことに関連して、p.83では、
「外相整えば内相おのずから熟す」
という言葉が出てくる。

つまり、
「形から入る」「形から整える」
ということ。

具合が悪くても、日常生活で
とりあえずできるだけのことはする。
今日は寝ていたいと思っても、
最低限のことはする。

身体を気づかって、
生活を身体の状態に合わせていたのを、
生活の形を整える。

つまり、
「あたかも調子が悪くないような振る舞いをする」

そうすれば、自分のなかにあった自然良能が、
自ずから働き出す、と。

これは、後半で出てくる
「あるがまま」や「純な心/初一念」にも
つながる話だと思う。

たとえば、家庭の手伝いを何もやらない人が
「ああ、たいへんだなぁ…」と思っていても、
何もやらないのであれば、
結局は思いやりのない、自己中心的な人。

ましてや、
「思いやりのある人になるには
どうしたらいいのだろう」
と思っているだけでは、
変化はいつまでも起こらない。

また、こんな例も示してある。
混んだバスで座席に座っていたら、
斜め前にお年寄りの方が立っていた。
席を譲ろうかと思うが、
ふと隣に座っている人が気になる。
自分が席を立つと、
隣の人が気まずい思いをしないだろうか、
あてつけがましくないだろうか。
いろいろな思いが次から次に湧いてくる。

そして自分は立てないまま、
そのお年寄りは降りていってしまう。

どんなに当人のなかでは
善意の観念がぐるぐるめぐっていても、
結局、思いやりがある行為は行っていない。
ということは、
その人は思いやりのある人ではないのだ。

結局、思いやりがあるかどうかって、
観念ではなく行動の問題なんだなぁ、
とあらためて思うことであった。

これは、不安の正体でリンクした
「自動車の運転における強迫神経症の様相と治療」
という論文からの引用部分にも関わる話だと思う。

つまり、強迫神経症の人は、
一見「良心的」と思えるこだわりをみせるが、
実は全然良心的じゃない、という話。
(もう十分わかっているけど、耳が痛いっス〜〜)

さらに、岩田さんの本の別のところで出てきた
「早起きの努力」のエピソードも面白かった。

朝に弱い岩田さんは、
「早起きのできる人」になろうと
努力したことがあるらしい。

しかし、どうしてもできなくて、結局、
「早起きしなければならない状況」
(用事を入れるなどして)をつくり、
実際に早起きをするようにした、という話。

つまり、「早起きができる人」に「なろう」と
するから無理が生じるわけであり、
そうじゃなくて、
「実際に早起きするような工夫をすればいい」
ということなんだと思う。

早起きできる人になるんじゃなくて、
早起きをすればいいのだ。

早起きをする人は、
早起きをする人だから。

なるほどねぇ〜〜

なんだかちょっと話がずれてしまったけど、
とにかく、まず「形から入ってみる」というのは
神経症の人ではなくても、
時と場合によっては有効かもしれない。


 なお、森田療法の適用対象は、
 森田正馬の時代には厳密に定められていたそう。
 現在はもう少し適用範囲が広くなっているようだけど、
 やはり向いている症状と、
 向いていない症状があると思う。


(つづく)
 2014.04.22 Tuesday 15:09 強迫神経症 permalink  
「なにをしても無理です」という言葉に救われる不思議
岩田真理『流れと動きの森田療法』
を読んでいる。



森田療法の本にこんなにハマル前は、
森田という個人名のついた「方法論」に対して
ちょっと距離を置いていたように思う。

しかし、面白くなってくると、
そういうことはどうでもよくなってくる。

ちなみに森田正馬自身は、
自分の治療法を「森田療法」とは
称していないのだそう。

これは後世の人のネーミングで、
本人は「自然療法」と呼んでいたらしい。
(p.29〜30)

なにゆえ「自然療法」かというと、
心身同一論つまり一元論にもとづく
自然治癒力を生かした治療法、
という意味でとらえればよさそう。

 森田正馬本人は
 「自然に服従」という言葉を使っているそうだが、
 現代の語感では、これはなにかとても受動的で
 卑屈なニュアンスをともない、
 時代的な「ずれ」をもつ言葉かもしれない、
 と岩田さんは書いておられる。

森田療法の発想の根底には、
「人間は自然をコントロールできない」
ということがある。

しかもその人間自身が自然の一部なのだがら、
人間は自分でコントロールできないものを
自分のなかに抱えていることになる。

それをなんとかしようとするから
困ったことになるのであり、
そうじゃなくて、
自分の自由にならないところまで
責任を負うことをせずそれを認めていくこと、
というのが「自然に服従」の意味なのだろう。

ちなみに、先日読んだ、
枡野俊明『心配ごとの9割は起こらない』
のなかにも、

 「あるがまま」でいる
   ◆「どうにもならないこと」に心を注がない

という項目があり、
「たとえば、心臓の鼓動を自分で止められますか?」
と書いてあったりする。

岩田さんも心臓の例はあげている。

一方、枡野さんの本と岩田さんの本の間に読んだ、
玄侑宗久『禅的生活』では、
最初の一節で
「体も心もある程度コントロールできる」
ということについて書いてあって、面白い。
(これらは矛盾しないと思っているが、
 詳細はいずれまた)

ほんでもって、かつて森田療法に関連して
私の内側に私はダイレクトに手を出せない
という記事を書いたことがあるが、
今回私が岩田さんの本から得た会心の一撃は、
次の一文だった。
なにをしても無理です。
(p.103)

ウケた。

ちなみに、森田療法で症状を乗り越えるための
症状別ポイントの
「強迫神経症」のところで出てくる言葉であり、
「頭のなかの不快なイメージは自分では消すことができない」
の直後に添えられているもの。

森田療法の本を読んでいると、
こういう「痛快さ」を味わうことが多く、
よくひとりでウケているのだが、
この一言にもカコーンとやられてしまった感じ。

以前も書いたことだけれど、
なぜ森田療法が痛快かというと()、
強迫神経症に対する憐れみのようなものが
感じられないからだと思う。

もちろん、辛さはよくわかってくれている。
だれよりもよくわかってくれたうえで、
「結局、あなたって、
 自意識が高くて自己中心的で、
 欲望強いんだよね」
とさらっと指摘されてしまうわけであり、
普通ならばムッとしそうなことを、
爽やかに受け止められるというか、
それこそ「降参」できる感覚があるのだ。

そして今回、岩田さんの本で
他の本よりも強く感じたことは、
森田療法は症状を消すことが目的ではなく、
神経症の人がもっている欲望を
活かせるようになる、ということ。

欲望があるから不安がある。

欲望があるから葛藤がある。

ですよね〜〜

(つづく)
 2014.04.21 Monday 13:01 強迫神経症 permalink