米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』(まとめ)/むしろ、つながるために
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んできた。

まだまだ考えたいことはあるのだけれど、
この本については今回で一区切りにすることにして、
「おわりに」から、次の部分を抜き出そうと思う。

 繰り返しになりますが、僕はこうしたテクノロジーを否定しているわけではありません。ノマド・トーキョーがそうであったように、ソーシャルメディアの最大の魅力は、偶然性による人との出会いやコミュニケーションだと、今でも強く思います。
 ネット依存、スマホ中毒といった「情報害」を避けつつも、リアルな自分を取り戻して、ワクワクするような出会いやコミュニケーションをもたらすことを肯定したい------こうした自分自身の関心から発して、試みた「デジタルデトックス」ですが、多くの人と直にコミュニケーションを交わすうち、これが自分だけの問題とは思えなくなっていました。
「なんのためにそのテクノロジーを使うのか?」という原点にもう一度立ち戻って、せっかく万民に開かれ、無限の可能性を持ったネットやスマホ、SNSをより良く使いこなそう。この本を手にしたみなさんと、こうした思いを共有できることを願ってやみません。
(p.170〜171)

「自分だけの問題とは思えなくなった」
「こうした思いを共有できることを願ってやみません」
というフレーズに、この本のスタンスを感じるし、共感する。

だから最初に()、
ネットやSNSのある生活、
またはネットやSNSのない生活に、
イライラも不安も違和感も疑問も疲れも
一切感じたことがない人は、
この本を手にする必要はないと思う。
(いや、手にしてもいいと思いますが…)

しかし、そうではない人は、
少なからずいるのではないだろうか。
と書いたのだった。

たとえば前回、
「不当なスマホ批判」という文章に触発されて、記事を1つ追加
という記事を書いたけれど、
『デジタルデトックスのすすめ』は
“すすめ”であって、テクノロジーの発達や
スマホやSNSの普及を“批判”するものではない。

社会的な影響云々の前に、
「自分はどうなのか?」から
考えていくものだと思う。

「そんなにスマホにばかり向かっていると、
 スマホ中毒になるよ、デジタルデトックスしたら?」
と他人に忠告するものではなく、
私はどうしたいのか、どうありたいのか、
という話なのだと思う。

米田さんは終章の締めくくりで、
デジタルデトックスの真の目的は、
愛されたい、認められたいという欲望が、
ネットやSNSに渦巻いている時代にあって、
自分が自分らしく
主体的に生きていくことにあると感じている、
と書いておられる。

この“主体的に”というのは、
私のシンプルライフへの興味の根底にあるテーマだ。

つまり、これまでの消費社会の話でいえば、
「買わされる生活から、買う生活へ」
という言い回しだったところを、
「使わされる生活から、使う生活へ」
と言い換えれば、
デジタルデトックスの目的になるのだと思う。

 なお、米田さんは、「使わされる」ではなく、
 さらに進めて「(ネットやスマホに)使われている」
 という言葉を出している。

インターネットやSNSで、
物理的距離をものともせず、
人々とつながれるようになった。

…はずなのだが、実際は、
さほどつながってないんじゃないか?

と思うことがある。

むしろ、考えようによっては、
孤独が深まっているのではないか?
と感じることさえある。

生活を快適にしてくれるはずのモノを
たくさん買っているはずなのに、
なぜか生活がガサガサしてしまうことがあるように。

ひとりぼっちの孤独というよりは、別の淋しさ、
見たくはなかった人間のもろさ、
引き受けられないだれかの弱さが、
回線を通して伝わってくる。

それに自分のもろさや弱さが呼応する。

そこからはなれたいのに、なぜかコントロールできない。

そういうことが起こっているとしたら、それは
使わされている、あるいは、使われている
状態になっているということなのではなかろうか。

そうではなくて、使うこと。

だって、ネットは面白いし、
たくさんの可能性がある。
これを使わない手はない。

ネットから得られる栄養をしっかりと受けとめるために、
自分の心身の状態を整えること、
そのひとつの方法が、
デジタルデトックスなのだと思う。

なお、私は米田さんのことを、
現代ビジネスの次の座談会で知ったのだけれど
http://www.ustream.tv/recorded/19198532
その後、現代ビジネスの別の座談会に出会った。↓
佐々木俊尚×田原総一朗×80年代生まれの若者4人
「公共が壊れていく時代をぼくたちはどう生きていくのか」

(動画)https://www.youtube.com/watch?v=3G4yFIVH6nc
(説明)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31938

で、この座談会に出席されている
慎泰俊(しん・てじゅん)さんのTwitterを読みに行ったら、
こんなことが書いてあったしだい。↓


実際にやってみると、
(最初は予想以上の禁断症状が出るかもしれないけれど、)
その心地よさがわかってきて、
人にすすめたくなるのかもしれないな。

と、まだ実行しないままに思う自分。

でも、実行しなくても、そこから何かを考えるだけでも、
得られるものがありました。
無買週間のときといっしょだわ^^
 2014.03.11 Tuesday 10:32 米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』 permalink  
「不当なスマホ批判」という文章に触発されて、記事を1つ追加
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』
の感想を書いているところだが、
(そして今回で一区切りにしようと思っていたが)
折りしもきのう、佐々木俊尚さんのツイート
https://twitter.com/sasakitoshinao/status/439899386014097408 経由で、以下の文章を知ったので、
ここから触発されて考えたことを書いてみようと思う。

BLOGOS不当なスマホ批判

まず、
スマホ特有の問題でもなければ、ここ数年で急に出て来た問題でもない。
についてだけれど、
私はデータを知らないので、
どちらの方向に対しても、
そう言っていいのかどうか、
よくわからない。

 今朝のニュースでやはりスマホの問題をとりあげていて、
 そこでは数字をあげていたような記憶があるのだけれど、
 メモをしていなかったのでうろおぼえ。
 (そのデータをどう考えるかが、また難しい話だと思う)

しかし、おそらくスマーフォンが普及する前には
従来の携帯電話でなんらかの問題が発生していて、
それに対する懸念の声はあっただろうし、
これから先、たとえば
ウェアラブルコンピュータが普及したら、
また同じように懸念の声があがるのだろうと、
私も思う。

 その際、「スマホ」というように、
 対象が短い言葉で表されることは
 必須の条件だろう。
 いずれにせよ普及したころには
 略語ができてますね、きっと。

この文章を書かれたりゅうたいぷさんがおっしゃるように、
スマホに限らず、“歩きガラケー”でも“歩き読書”でも
やっぱり危ないわけであり、
(“歩きマンガ”やってる人、最近見た)
「歩きスマホをやめよう」ではなく、
「“ながら歩き”をやめよう」という言葉であったのなら、
りゅうたいぷさんも納得されたかもしれない。

以前からあることだとしても、
あらためて、「やめよう」と。

おそらく、りゅうたいぷさんは、
スマホの「機能」そのものが
問題視されている(かのような)この状況に、
疑問を呈しておられるのだと思う。

そして後半を読んでみると、
TwitterやLINEはガラケーでもできるし、
既読確認機能やグループ機能も、
メールの頃からあった、ということが書いてある。

なのに、なぜスマホだけやりだまにあげられるのか?
ということなのだろう。

しかし。

ならば逆に、「じゃあ、ガラケーでいいのではないか?」
と私は思ってしまうのだ。

それなのになぜ、スマホというものが生まれ、
普及しているのか…と、素朴な疑問を持ってしまう。

私はスマートフォンにしてもTwitterにしても、
批判したいわけじゃない。

なぜ普及するのか、その意味・仕組みが知りたいのだ。

りゅうたいぷさんは、NHKの番組の指摘をふまえて、
もし、ガラケーよりもスマホのほうが
画面への集中度が高くなるとしたら、
それは使う人が慣れていないからではないか、
と指摘されている。

ということは、やっぱり危ない、ということですよね。

それはスマホの機能そのもののせいじゃない。
スマホの“新しさ”(=まだ慣れていない人が多い)のせいだ。

佐々木さんはこの記事をTwitter経由で紹介するにあたり、
「ごもっとも。新しいものが出てくるたびに拒否反応示す人が、
いつの時代にもたくさんいるというだけ。」
というコメントをつけておられて、
「佐々木さんほどの人が、それで片付けちゃうんだ…」
と、最初はちょっと残念だった。

しかしあらためて考えてみると、
そもそも、りゅうたいぷさんがとりあげている“批判”が、
そのレベルの批判だ、ということなんだと思う。

そうして人々は、やがてスマホに慣れていくのだろう。
使う側も、街で目にする側も。

そうしてスマホが「新しくなくなった」とき、
次の「新しいもの」が提供され、
それに人々は魅了され、普及し、
そしてまた「新しいものに対する拒絶反応を示す」人が、
批判していく。

りゅうたいぷさんが書いておられるように、
ガラケーであれ、スマホであれ、どんなコンテンツを見るかは使う人次第である。
だと私も思う。

つまり、どんなモノであっても、
それをどう使うかは、その人しだいなのだ、と。
使わないことを含め。

しかし、道具が便利になればなるほど、逆に、
それを使う人の意志がしっかりしていないと、
そのうち道具から使われているような状態になり、
やがて管理・支配されていく…ということを考えたくて、
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を私は読んでいる。

たとえば、ブログでは特に触れなかったが、
第1章では、ネット依存にもいろいろな形があること、
インターネットの環境を取り巻くデバイスの変遷によって
依存や病気の症例というのも変わってきていることについての
墨岡院長の話も書かれてある。

りゅうたいぷさんが最後のほうで書いておられる
「問題の本質」とは、いったいなんだろうか。

私もそこを考えたい。

あの記事で批判されているのは、
スマホに対する「不当な批判」である。

いつか、「正当な批判」に対する批判を
読めるといいな、と思う。

[関連記事]
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を意識しながら、
携帯電話とスマートフォンについて考える


(つづく)
 2014.03.03 Monday 10:22 米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』 permalink  
テクノロジーと幸せの関係/雑誌『WIRED日本版』編集長、若林恵さんが引くイリイチの議論をふまえて
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んでいる。



前回の記事のなかで
「テクノロジー」という言葉を出したが、
それをふまえて、もう一度序章にもどってみようと思う。

 なお、座談会の内容が
 書き起こされているページがあるようです。
 前回抜き出したところに該当する部分をリンクします。↓
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31598

序章はまず、デジタルデトックスの
世界的ムーブメントの話から始まり、
GoogleやFacebookといった世界的IT企業が
禅を取り入れている話につながっていくのだが、
その話の流れで、
雑誌『WIRED日本版』の編集長である
若林恵さんが登場する。

そして、米田さんと若林さんの会話の中で
テクノロジーと現代の我々の生活の均衡についての
話題になったとき、若林さんは
イヴァン・イリイチの名を出してくる。

若林さんは、テクノロジーをどう定義するか、から話を始め、
イリイチの「技芸についての学問」という規定を示し、
12世紀の修道僧が考えた「道具」は、
自然と、そこから切り離された人間とを橋渡しするための
「道具=テクノロジー」だったが、
こういう視点から考えた場合、
今、人間が使っている「道具=テクネ(技術)」は、
自然への橋渡しではなく、
それを制圧しコントロールするためのものとしてしか
存在していないということになる、
という話を展開される。

米田さんはこれを受けて、
おそらくテクノロジーに罪はなく、
進歩する技術と環境に我々がつき合い方を
学んでいくしかないだろう、と語っておられる。
また、若林さんがいうように、
道具がもたらす利便性と人間の幸福というものが
完全にイコールではない、ということも
頭のどこかで認識しておかないといけないと思う、とも。

さらに若林さんが、
自分たちが手にしている「道具」というものを
批判的に考察する枠組みは必要だということについて、
イリイチの議論を引き、それを受けた米田さんが、
道具に使われてしまっている状態(依存や中毒)から、
もはや「管理・支配」されていくような状態が
現在進行形で進んでいるのかもしれない、
と指摘されている。
 イリイチは「道具」だけでなく、学校、交通、医療といった社会的サービスの根幹にも、目的があって使うべき「道具」にも似た権力性をみて、過剰な効率性を追い求めるあまり、人間の自立、自律を喪失させる現代文明の批判を展開していますが、そうした根源的なところから、テクノロジーってものを考えないと、「効率対幸福」をめぐる泥仕合(ルビ:どろじあい)はいつまでも平行線だろうな、と思いますね。
(p.27/若林さんのお話)

1回めに読んだときにはさらっと流したこのあたりの序章の記述が、
読み返しのときには最も印象に残った。

ここから、自分の興味を
いろんな方向に広げていけると思った。

まず、イリイチの名前を見たとき、
「最近とは言わないが、そう遠くない過去に、
 イリイチの名をどこかで見かけたぞ、どこだったっけ…」
と思って記憶をひもといてたどりついたのは、
自分の2013年のスケジュール帳。
「読みたい本リスト」の中に入れていたのだ。

『シャドウ・ワーク』を入れていたつもりだったのが、
『ジェンダー』のほうだった。で、結局読んでいない。
どこで見かけて何を思ってリストに入れたのか、
いまとなっては思い出せない。

で、イリイチの名を見たときに、
「シャドウ・ワーク」という言葉を思い出した私は、
pha著『ニートの歩き方』を、
主婦&ワーキングマザー向けに
書き換えられないかと思ったこと()と、
金子由紀子さんのシンプルライフは
曹洞宗と相性がよいと感じたこと()を思い出した。

また、「道具がもたらす利便性と人間の幸福」
という言葉からは、
科学への信頼の中身のことを思い出した。
ここでいう科学は、ほとんど科学技術、
テクノロジーと同義だと感じている。

なお、昨年の1月に、
まだアカウントをとっていないころの
自分の(読むだけ)Twitterライフを通して、
少し前に気になっていたこと
という記事を書いたが、
あのときのAとBというのは、
ひとつは(大きなくくりで言えば)ジェンダー問題、
ひとつは「かけ算の順序」論争だった。

前者は、もう最近ではほとんど考えることがないのだが、
そういう意見がTLに並ぶような(フォローの)人選を
私がしていないということなんだろうと思う。

あのころ何にひっかかっていたのかよく覚えていないが、
たぶん「主婦とワーキングマザー」という
対立のさせかただったんじゃないかと思う。

まさか『デジタルデトックスのすすめ』を読んで、
こういうことを思い出したり、
こういうことまで考えたりすることになろうとは
思ってもいなかった。

やはり書籍からも「偶然」の出会いは得られ、
そしてそれは「必然」なのだ、
ということをあらためて感じている。

(つづく)
 2014.03.01 Saturday 13:01 米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』 permalink  
情報をいったん遮断することの意味
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んでいる。



私がもともと米田さんを知ったのは、
ノマドという言葉への興味がもとで
検索をしていたときに、
次の座談会を知ったのがきっかけだった。

佐々木俊尚×独自の生き方を開拓する5人
(安藤美冬・大石哲之・玉置沙由里・米田智彦・pha)
http://www.ustream.tv/recorded/19198532

全体的に面白い座談会だったのだが、
特に印象に残っている部分がいくつかあって、
そのうちの1つが、開始1時間3分〜6分30秒くらいのところ。

安藤美冬さんが、
「いま本が売れないのはなぜなのか」
ときかれたときにどう答えたか、という話のなかで
グルーヴ感という言葉を出されていて、
その流れを受けて米田さんが、
本は、ブログのように可変なものではなく、
いったん流れをとめて、ひとつの結論を出して、
えいやっと出さなくてはならないものであり、
それは大事なことなんだけれど、
新鮮度が保たれつつリリースされるか、
というのが難しいという、
そういう内容の話をされた。

この、「ひとつ流れをとめてえいやっと出す」という言葉が
とても印象深かったのだ。

  なお、この話題の最後のほうで、
  これから先は、
  「情熱大陸」といったドキュメンタリーは
  厳しくなるんじゃないか、
  という話も出てくるのだけれど、
  確かこの座談会の数ヵ月後くらいに
  安藤美冬さんが「情熱大陸」に
  出演されたのですよね?(^m^)
  面白いなぁ…

で、私は昨年末、
次のようなツイートをしたことがあった。


  おそらくこの前後で、
  米田さんのお名前を出したからだろう、
  そのことに対するリアクションの意味も兼ねてだったのか、
  米田さんがこのツイートを見つけてくださって
  「お気に入り」に登録してくださって、
  うれしくてニマッとしてしまったのだった。

思うに、発信するためには、
受信を一度完結させなくてはいけないのではなかろうか。
段階的に。
受信したものが、自分のなかで有機的につながるには、
やはり時間が必要なのではないだろうか。

私はTwitterを始めてもうすぐ9ヶ月になるが、
ブログとツイートを並行して書いていて思うことは、
これだけ“可変”のブログでも、ツイートに比べると、
やっぱりどこかいったんとめて、
「えいやっ」と書いているな、ということ。
どこかをいったん閉じている。

もちろん、ブログを書く間にも、
調べたいことやリンクしたいものを検索したり、
必要な情報をとりにいったりするので、
そういう意味ではネットにつなぐことも多いのだが、
「まだ形になっていないものを形にするための接続」
なので、「自分モード」になっている。

それと比べてTwitterは、
「きょうそういうことを考える予定ではなかった」
ということを考えさせられることが多く、
「先に刺激ありき」という感じがする。
これはこれでとても面白いことだ。

しかし、毎日毎日これを続けていると、
刺激に「反応」してばかりで、
刺激がないと考えられなくなるのではないか、
と思うことがある。

また、私の場合140字でおさまらずに
「→」でつないで連続して書くことも多いので、
そういう意味では確かにミニブログになっているかもしれないが、
(そして実際、ブログ化する道もあるのだろうが)
ツイートは過去ログが見つけにくく、
自分の発言の流れもつかみにくいので、
やはり基本的には「残す」ものじゃないな、
という感じがする。したがって、
「書き捨て」というイメージが否めない。

〔2014年4月10日追記:その後Twilogを設定して、
 過去の発言が検索しやすくなりました。〕

実際、Twitterというものはそういうものかもしれない。

だから、そういう意味では「今」の連なりが
Twitterのはずだけれど、
それは果たして「今」を見ている、
生きているということなのか?
と、自分自身で首を傾げてしまうことがある。

また、中身は移り変わっていくけれど、
パターンは同じ、という印象を受けることもある。

あの座談会で米田さんと佐々木さんが話していたように、
私も社会の構造が知りたい。

  いや、個人にも興味がある。
  個人から興味が始まる。
  だけど、私が選ぶ個人は、
  みんな同じことを言っているような気がする。
  それぞれのアプローチで。
  それが時代性、社会の構造ということかもしれない。

だから、Twitterのアカウントをとるまでの私は、
なぜ、こういうものがはやるのか、
なぜ、こういうものが受け入れられるのか、
それを知りたくて検索をしていた。
だけど、解説してくれているページを見つけられなかった。

佐々木さんは、米田さんが出された、
「新鮮度を保ちつつリリースする難しさ」という話を受けて、
時代の変化がいまものすごく早い、
テクノロジーがこれほどドライブしている時代は
あまりないのでついていくのが難しい、
というふうに答えておられるのだが、
結局、ドライブしているのはテクノロジーなんだよな、
と思う。

そして、テクノロジーをドライブさせているのは、
SNSの多くのユーザーではないだろう。

なんだかこの感覚、
「老い」について考えてたときと似ている。

どんなに食習慣や医療や文化が変わっても、
生物としての人間の耐性にそれほど変化はなく、
私たちは身体にかなりの負担をかけて、
老いを生きるのではないか、ということを
考えたときのあの感覚()。

人間って、そんなに急には変われない。

時間をかけて出版される「本」という形での
情報発信が古いものとなるほど、
人間の情報処理能力、情報発信能力、
判断能力、そして考えるスピードは、
進化していないのではないだろうか。

考えるには時間がいる。
まとめるのも時間がいる。
受けとめるのも時間がいる。

人間がついていけないものを、
人間が作り出せてしまう不思議。

私たちは知らず知らずのうちに、
「ゆっくり考える時間」を
失っているのではないだろうか…

テクノロジーの進歩は時間のロスを短縮してくれるはずなのに、
私たちはむしろ「時間」を失っているのではないか。

20世紀は、まだ終わっていないのかもしれない。

(つづく)
 2014.02.28 Friday 11:19 米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』 permalink  
米田智彦さんが語る、「二重扉化」の話が面白かった。
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んでいる。



きょうは「終章 ネットに頼らない幸せ」を
読んでみたいと思う。

これ、けして「ネットを“使わない”幸せ」ではない。

ネットはやっぱり便利なのだ。便利で楽しい。

だから、ネットのない時代にもどろうとか、
そんなことを考えたいわけじゃない。

そういうことではなくて、
ネットが登場してもうけっこう時間がたつので、
そろそろネットを
「使いこなす」時期にきているのではないか、
ということではないかと思う。

それは、ネットでできることをネットでやりつつ、
ネットではできないことを再確認する、自覚する、
ことが始まりになるのだと思う。

そのための、デジタルデトックスだ、と。

そうすることで、ネットをますます活用できる、と。

終章には、「二重扉化」の話が書いてあって、
面白かった。

米田さんはここ数年、自分たちを取り囲む世界が
「二重扉化」しているように感じている、という。

ネットやSNSによって、誰もが、いつでも、
世界中の情報が集まる巨大な情報空間へ
アクセスできるという最初の扉は開いた。

そこでは、誰もが無料で公平に情報を享受できる。
膨大な情報を共有することで、
豊かで便利な生活を手に入れた反面、
「否応なく他人と比べられる」世界が広がった。

 なお、この「他人と比べられる」世界については
 この少し前で触れてある。

しかし、実はその奥には
もうひとつの閉ざされた個室のような世界がある。

その扉を開けるパスワードや鍵は、
お金で買えるものでもなく、
ネット検索で探しあてることもできない、と。

米田さんが言うところのこの「個室」のイメージは、
コトが起きている「現場」や現実のコミュニティのこと。

ネットで見聞きすることはできても、
その先に当然リアルな、
そこに行って五感で感じなければ
価値がわからない場所やモノ、人のこと。
 その扉を開ける鍵は、自ら行動を起こして探さなければならない。
 ネットに「使われてしまう」状況にあると、僕らはふたつ目の扉があることに気づけません。
(p.164)

この「ふたつ目の扉」という比喩が面白かったのだが、
「個室」としてしまうと閉じたイメージがあるので、
私としては、「個の扉」としたほうが、
しっくりくるな、と思った。

自分が1995年末に初めてパソコンを買って、
インターネットを楽しむようになったころ、
「どんな時間帯でも家にいながらにして外出できて、
 散歩ができて、楽しいなぁ!」
と思ったことがある。

でも、結局やっぱり、家の中にいるのだ。
それはほんとの「外」じゃない。

そして、そういう物理的距離をものともせず
いつでもだれでもつながれる世界は、
実はけっこう「閉じているのではないか」と、
最近思う。

米田さんが「個室」という言葉を使ったのは、
自分自身が見出して、自らの行動によって開ける扉、
という意味での「個」だと思うので、
そういう意味では確かに「個室」かもしれない。

ネットという世界の奥にある、「個室=個の扉」。

まず、ネットにつながる扉を閉めることで、
自分という個室で「つながらない状態で」
落ち着いてものを考えることができる。

こちらは文字通り「個室」。

そして、ネットつながる扉を開けることで、
外のリアルな世界につながる「個の扉」を
見つけることができる。
その先にあるのは、個の世界ではないだろう。
 発想やアイデアのネタも、上質なエンターテイメントも、リアルな現場にこそあり、行ってみてそこで感じてみなければ本当のことはわからない、というのが僕が編集者として感じてきたことでもあります。
(p.164)

それは何も特別な場所、
特別なことでなくてもいいと思うのだ。

ネットを通してものを考えたことで、
あるいは新しい何かを知ったことで、
日常の風景が違って見えてくる。

リアルが違って見えてくる。

それだって、「個の扉」を開けた、
ということなんだと思う。

米田さんは終章の終わりのほうで、
 愛されたい、認められたい、そんな欲望がネットやSNSに渦巻いている時代にあって、自分が自分らしく主体的に生きていくこと。僕は、デジタルデトックスの真の目的はそこにあると感じています。
(p.167)

と書いておられる。

これは、私の「シンプルライフ」に対する興味に
とても近い視点だ。

いまはモノではなく、情報と、
情報を受信・発信させるツールが
消費社会を成立させているんだと思う。

情報と、「つながりたい気持ち」が
消費されているんだと思う。

ちょっと話はずれるけど、
最近買ったお徳用サイズのマスクの箱に
「使いきりタイプ」と書いてあったのが、
妙に印象的だった。

「使い捨てタイプ」とは書かないんだな、と。

たとえばTwitterの場合、
すぐにお手軽に反応できるから、
TLにはリアルタイムの情報が
どんどん流れてくる。
また、そうでないとTwitterの意味がないとも思う。

それはときにニュースの役割も果たしてくれて、
情報に疎い私にとってはありがたいのだが、
その一方で、
「かつて自分は、こんなに言葉を読み流し、読み飛ばし、
そして脊髄反射したことがあっただろうか…」
と思うことがある。

情報を、人の言葉を、人の気持ちを、
提示された問題を、読み捨てている。
あるいは、読みもせずに、捨てている。
けして読み切ってはいない。

何か調べ物があるとき、考えたいことがあるときに、
自分で検索した情報ではなく、
たまたまご縁があってフォローしている方の
そのときどきの考えたことや思いの言葉、
あるいはRTが流れているのだから、
そのひとつひとつにコミットしていては
身がもたないといえばもたないのだが、
結局、いまの自分の考えの文脈とは関係のない
「自分を最も刺激してくれるコトバ」を
待つともなく待っているような気がするのだ。
受身の姿勢で。

もちろん、自分の文脈を脱するというのは、
ときとしてとても大事だと思う。

だけど、Twitterをだらだらと読んでいるときに、
なんというのか、いまはまだうまく表現できないのだが、
「縁起」を人為的に崩してはいないだろうか…
というような、かすかな不安を感じることがある。


  ついでといってはなんですが(そして突然ですが)、
  松岡正剛・千夜千冊から2つほどリンクしておきます。↓

  ティク・ナット・ハン『禅への鍵』
  http://1000ya.isis.ne.jp/0275.html
  ※マインドフルネス出てきます。

  立川武蔵『空の思想史』
  http://1000ya.isis.ne.jp/0846.html


引用部分が前後するが、米田さんはこうも書いている。
 そんな時代にあって、都市生活の利便性や情報社会から降りなくとも、上手く泳いでわたっていくことを身体で覚えていくことはできるはずです。
(p.166)

私も、もう少し「個の扉」を開ける努力をして、
情報社会の上手な泳ぎ方を、
身体で覚えていきたいな、と思う。

(つづく)

〔おまけ〕
ちょっと関連した話だと思うので、
親子談義ブログからリンク↓
http://kodomo.artet.net/?eid=1229002

 2014.02.25 Tuesday 17:44 米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』 permalink  
ネット生活と、言葉が持っている力。
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んでいる。



前々回前回と第1章をのぞいてきたが、
次は第4章に進んでみたい。

  なお、第2章・第3章では、
  「具体的にどのようにして
   デジタルデトックスをやっていけばよいのか?」
  ということについて、
  著者である米田さんの経験談が綴られており、
  経験談であるとともに
  ガイドブックにもなっているので、
  興味のある方は、是非、本を読んでみてください。
  もちろん、これは一例であり、
  他にもデジタルデトックスのやり方は
  いろいろあるのだろうと思う。
  私も、もう少ししたら、自分なりの
  デジタルデトックスをさがしてみたい。

さて、第4章は
「デジタル時代の心のつくりかた」
というタイトルで、
早稲田大学人間科学学術院教授の
熊野宏昭さんのお話がまとめられている。

熊野さんは『ストレスに負けない生活』(ちくま新書)
などの著作がある方で、
リラクゼーション、瞑想などの
薬物を使わない治療における脳科学的研究や、
臨床医療の現場での心身症やパニック障害などの
心理学的研究を専門とされている方なのだそう。

その熊野さんいわく、
「デジタル社会になったことで、
 書き言葉が氾濫していることが一番危険」だと。
対面でのコミュニケーションと違い、テキストのみのやり取りでは、ポジティブにもネガティブにも過剰に盛り上がる。実はそこには「現実がないところで言葉のつくり出す世界ばかりがどんどん大きくなっていくという問題がある」というのです。
(p.129)

さらに、ネット上での
テキストを使ったコミュニケーションは、
うつや不安障害に苦しむ人たちの
思考パターンに似たところがあるらしい。
「うつや不安障害に苦しむ人は“考えすぎる”ところに捕まってる人だといえます。その思考パターンとして注目されているのが、『反芻(ルビ:はんすう)』心配』という考え方です」
(p.130)

たとえば、昔の嫌なことや失敗したことを思い返して、
クドクド、クヨクヨ後悔しつづける。(反芻)

また、将来のことを取り越し苦労する。(心配)

これって結局、「過去と未来」に心を奪われていて、
現在を生きられていないってことなんだな、
と思った。

このふたつの思考パターンは、
うつ病や不安障害と
関係が深いことがわかっているそう。

また、ネット上のコミュニケーションだけでは、
病気でもなんでもなかった人たちでも
無意識に「反芻」と「心配」を繰り返し、
ストレスをため込みがちだ、と。

メールを読み返してはクヨクヨしたり、
LINEの「既読スルー」があれば
「嫌われているのではないか」と
考えつづけてしまう。

そんなネガティブな感情や疑心暗鬼が
複数の人間の間で増幅されていくという特徴がある、と。

では、こうしたネットの負の側面に
とらわれないためにはどうしたらいいのか。
米田さんは、熊野さんのお話をもとにして、
言葉が持っている力を
改めて認識することだ、と語る。
僕らが考えている以上に言葉というものは強い力を持ち、そして一歩間違えば、相手にネガティブなイメージを与えてしまうのです。それを理解しておくことは、これからデジタル社会を生きていくための重要なリテラシーになってくるでしょう。
(p.131)

私も、言葉というものは、
強い力を持っていると思う。

それこそ第2章では、
ネット依存の治療現場で
「書き出すことで視覚化して、
 かつそれを何度も見直すこと」
が行われている話が出てくる。

こちらは、書き言葉の力を、
よい方向に利用している例だと思う。

また、このブログでカテゴリーを作っている、
ももせいづみさんの「願いごと手帖」
金子由紀子さんのシンプル生活手帳の後半も、
書き言葉の力を利用したものと言えると思う。
書き言葉のパワーはあなどれない!?

だからこそ、その言葉の力を、
ポジティブな方向、
自分を元気にする方向に使うことを
意識することが大事なのかもしれない。

それと同時に、五感を大切にする。

で、このあと本では、
マインドフルネスの話に入っていくのだが、
「ん? これってヴィパッサナー瞑想と同じことでは?」
と思いきや、実際に話が進んだところで
「ヴィパッサナー瞑想(マインドフルネス瞑想)」という
記述があった。(サマタ瞑想との違いにおいて)

マインドフルネスというのは、簡単に言うと、
思考が動かないのに現実を感じ取っている状態のことで、
となると、やはり小池龍之介『考えない練習』が
参考になりそう。

  カテゴリーをつくりそびれてしまったが、
  小池龍之介さんについても、このブログでは
  けっこうな数、感想を書いている。
  >いろいろな方向に読んでみる、小池龍之介

  なお、ヴィパッサナー瞑想という言葉は
  出てこなかったと思う。

さらに第4章の終わりのほうでは、
「自分の状態そのままを感じ取るようにする」話や
「苦しくなる因(もと)を自分でつくりだしている」話が
出てくるのだが、このあたりは、
いま読んでいる森田療法の本にもつながる気がするので、
いずれそちらのほうとあわせて読んでいけたらな、
と思っている。

(つづく)
 2014.02.23 Sunday 10:43 米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』 permalink  
“きずな依存” “つながり依存” そして「同調圧力」
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んでいる。



前回の続きで、第1章の、
成城墨岡クリニック院長のお話を
もう少し読んでいきたい。

墨岡院長のお話によると、
以前のテレビゲーム依存とは違って、
「他者からの承認を頻繁に求める」というのが
SNS依存の大きな特徴であるという。

リアルな人間関係のなかにSNSが入り込んできて、
いつの間にか、他者からの評価や支持をもらわないと
気が済まなくなっていくことも、SNSの怖い側面だ、と。

で、前回も書いたように、この本のなかで
特に日本の中学生以下に的を絞った議論はされていないし、
(韓国の青少年に対する対応の話は出てくる)
墨岡院長もそのことは示していないのだが、
実は、「ママ友」という言葉が一度だけ出てくるのだ。

注目すべきは中学生や小学生や幼児ではなく、
その保護者であったか!?と思いきや、
ママ友のなかで、ネットに関わる
いじめがあるということではなく、
「女性どうしのコミュニケーション」という視点で
出された話のなかでちょろっとその言葉が出てくる、
という感じ。

墨岡院長が言うには、
コミュニケーションに長けた女性のほうが
中毒になりやすいのが
SNSへの依存症の特徴でもあるらしく、
mixiやLINEなどへの依存症も
ほとんどが女性なのだそう。

私にとっては、ちょっと意外な話だった。

 それは、たとえば、女性のほうが
 依存症のしんどさを自覚して
 クリニックを訪れる場合が多く、
 結果的に多いという印象を与えているとか、
 そういうことなんじゃなかろうかとも思ったのだが、
 そのあとのページで(特に女性とは示されていないが)
 ネット依存症が進んでうつ状態になった人が
 「病院に連れてこられる」という記述があるので、
 自分でクリニックに行くというよりは、
 連れてこられる場合も多く、
 それくらい悪化するのは女性が多い、
 ということかもしれない。
 あるいは、男性はゲーム型依存が多い
 ということかもしれないな、と思ってみたり。

墨岡院長はこう語る。
なぜなら、日本人は同調志向が強く、日本の女性には昔から日記文学があったり、学生時代には友達同士で交換日記をやるといった文化があったんですね。逆にいうと、『ママ友』など濃密な人間関係のなかで、一度できた輪からはずれるといじめも発生するということです。
(p.35)

これまた私は身近な例を知らないのだが、
「輪からはずされるママ友事情」的なものは、
一応噂では聞いたことがある。

 たぶん、それ以上に世間ではある話なのだろう。
 リンクはしないけど、
 検索するとけっこうひっかかってくる。

孤独を癒すという報酬を求める一方で、
輪からはずれたときのリスクへの不安で
ネットワークから抜けられなくなる、
ということなのだろう。

そのような状態は、
“きずな依存”“つながり依存”と
呼ばれているそう。

私自身は、こういう
「抜けられないネットワーク」とは
縁のないラクな生活を送れているのだが、
(別の意味で抜けられないのはPTAです〜〜)
むしろ、「世間でTwitterがはやっている」
というそのこと自体が、
大きな大きなネットワークだった。

そして、そのなかに入っていけない自分が
なにか世間からはじかれているような感覚を
味わっていた時期がある。

というか、Twitterのアカウントをとるまで、
ずっとそうだった。

なぜこんなことがはやるのか、理解できない。
なぜこんなことが世間に受け入れられているのか、
わからない。

そして、自分には必要ないのに、向いていないと思えるのに、
なぜかやらなくちゃいけない気になってくる。

必要ないならないでスルーすればいいのに、
それもできない。

はやい話、「時代についていけてないな…」と
感じていたのだと思う。

他のことであまりこういうことを気にしたことはないが、
ことネットのことになると、なんだか気になってしまう。
mixiもそうだった。

これはこれで、とても大きな意味での、
「同調圧力」を感じていたのだろうと思う。
だれも何も言わないのに、自分で勝手に。
Twitterをやっていない人だって、
世間にいっぱいいるだろうに。

第1章の後半では、国策として、
いち早くネット依存に取り組んでいる
韓国の対策も紹介されているのだが、
墨岡院長は、日本や韓国でLINEが流行するのは
「同調型」という国民性にあると分析されているもよう。
(なお、中国でもネット依存症は相当深刻らしい)

ただこのあたりは、安易に国民性だけで
考えないほうがいいかもしれない、とも思う。
■『LINE』が欧米で普及してない驚くべき理由 外に目を向けて見ると……
http://getnews.jp/archives/496824

だけど、「世間」と「空気」に敏感な日本人ほど
依存に陥りやすいという話を聞くと、
例の沈没船のジョークを思い出すし、
ない話じゃないな、と思う。

ウィキペディア>エスニックジョーク

私が昔きいたのとちょっと内容が違うような気がするけれど、
日本人についてのニュアンスは同じだった↓

 豪華客船が沈没しそうになったとき、
 乗客を海に飛び込ませるには、
 どのように声をかければいいか?
 日本人の場合→「みなさん飛び込んでますよ」

だけど(だから?)「デジタルデトックス」は
アメリカから伝わってきたんだよなぁ…
と思うことであった。

墨岡院長わいく、
「ネット、スマホ、SNSへの依存は、
同調圧力に弱い、生真面目な日本人の方が
病理は進んでいると思います」

ちなみに、実際にネット依存かもしれないと思っても、
いきなり遮断するのは良くないそう。

たとえば、いきなりスマホを取り上げると
逆効果になることが多いのだとか。

ネットやスマホへの接触時間を
徐々に減らしていくことと同時に、
それらが自分に有害であると認識することから
始める必要がある、とのこと。

それにしても、ちょっと気になることは…

“国策”としてネット依存に取り組んでいる韓国は、
国民総背番号制を利用して
けっこう強制的な規制を行っているらしいのだが
(16歳未満の青少年は午前0〜6時の間、
オンラインゲームにアクセスできないようにする等)
日本でも2014年度から
文部科学省がネット依存に取り組むべく、
予算を取ろうとしているとのこと。

ほんでもって総務省は、業界団体の規制をつくろうと
ネットを遮断する予算を要求している段階だそうだが、
 しかし、いろんな団体があり規制があっても、業界団体による自主的なもののため、日本のネットやソーシャルメディア、ソーシャルゲームへの対策は、あまり進んでいるとはいえません。当然ですが、企業側は利益も追求する必要があるため、非常に曖昧(ルビ:あいまい)な規制になりがちです
(p.43/墨岡院長のお話)

なんというのか、規制に頼るのではなく、
企業の利益追求にもっていかれるのでもなく、
自分にとって何がどのくらい必要か自分で判断して、
快適なネット生活を送れていけたらいいですよね…

〔余談〕
ちょっと話はズレるけど、思い出したのでリンク↓
消費社会を変える論理の“強さ”
サイレント・マジョリティ

(つづく)
 2014.02.19 Wednesday 13:22 米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』 permalink  
ネット依存症のことと、子どもたちのこと。
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んでいる。



この本の第1章には、
成城墨岡クリニック(東京都)の
墨岡孝院長のお話が出てくる。

成城墨岡クリニックは、
医療機関としてではなく、
精神科医療に関する最新の知見と人材を集めた
総合研究所を設立し、
ネット依存症についての研究と
「デジタルデトックスについての研究と診察」
を行っているのだそう。

墨岡院長は、
コンピュータに関する病気への取り組みに
30年ほど前から取り組んでいるそうだが、
厚生労働省や労働団体からの依頼で、
キーパンチャー病
(データ入力に従事する人の病気や障害)から、
「VDT作業」という
ディスプレイを長時間見る作業者に発生する
ストレスにかかわってこられたのだそう。

それが、約10年前の2003年くらいから、
一般の人の治療にも取り組みだしたとのこと。
インターネットの普及に呼応するように、
ネットに依存する人が一般にまで広がってきた、
ということらしい。

現在、治療に訪れるのは、
高校生・大学生といった、
幼少時からネットに親しんでいる若年層だけでなく、
ビジネスマン、OLなどの社会人も
年々増えているのだそう。
その理由は、スマホの爆発的な普及により、一般の人のSNS利用が進んだことにあるそうです。
(p.33)

スマートフォンを使ったことのない
私が言うのもなんだけれど、
たぶんそうなんだろうな、と思う。

パソコンだけだったら、
あるいは普通の携帯電話だけだったら、
こうはならなかったのではなかろうか。

つまり、「いつでもどこでも容易に接続できる」
ということは、物理的な場所の切り替えが、
心理的な切り替えに連動しない、
ということだと思うのだ。

つまり、家に帰ってもひとりになれないし、
外に出てもひとりになれない。
「外に出る=ひとりになる」という構図

7〜8年前くらいだったか、
ブログ作りをあれこれ試しているとき、
ほんの一時期「LINE」というタイトルの
ブログを作っていたことがある。
(といっても1週間もしないうちに
 消してしまったんだったかな?)

いま思うとこのタイトルで続けなくて
ほんとによかったと思うのだが、
自分としては図形的な意味あいでの直線(LINE)だった。

直線は、点と点をつなぐが、
つなぐということは分けることでもある。
「膜」から「網」への変換イメージ(TATA風)

どういうブログにしようとか
そのへんはあまり考えていなくて、
とにかくそのイメージだけで
ブログタイトルとして採用した。

あなたと私はつながれて、
あなたと私はつながれない。
つながれないから、つながれる。
つながれるから、つながれない。
つながれないから、つながりたい。

そんなイメージ。

そのLINEという言葉が、
流行のコミュニケーションツールの名称になることは
不思議なことではないだろうが(いや、語源は知らないけど)、
イメージとしては GROUP のほうが
近かったんじゃなかろうか?と
これまた「LINE」を使ったことのないまま
勝手に思ってる。

米田さんは、この本では、
特に若年層に的を絞った議論はされていないが、
ネットリテラシーが個人レベルではなく
底上げの形で全体的に上昇していかないと、
結局、個人としてのネット実体験はゼロから始まるので、
中学生や小学生も、クリニックに行くほどの
はっきりと原因がわかる症状は出なくても、
ネット環境から大きな影響を受けるようになるのではなかろうか、
と個人的に感じている。

新しいアプリケーションがまた流行するかもしれないし、
それに応じて、その機能に付随した
「既読スルー」や「LINE外し」と同種の現象・用語が
これからも出てくるかもしれない。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130825/edc13082511110000-n3.htm

ちなみに、うちの子は携帯電話は持っているが
友だちとアドレス交換はしておらず、
LINEもやっていない。
ネット大好き人間だけど、
いまのところ基本的に受信のみツール。

LINE外し...ではなくて、LINE内LINE?については
一般的な話題として
ママ友とのおしゃべりに出てきたことはあるが、
とりあえずいまのところ、
身近の例としてはきいたことがない。

がしかし、だからといって身近で起こっていないとは限らないし、
そもそも保護者が把握し得るのか?
という根本的な疑問がある。

あれは確か娘が小5の頃の保護者会でのことだったと思う。
担任の先生が過去の経験をふまえて、
男の子たちのトラブルは比較的見えやすいのに対し、
女の子たちのトラブルは見えにくくなっていく、
昔よりさらに見えにくくなっている、
という話をされたことがあった。

昔ならば、「○○ちゃんを仲間からはずそう」
といったようなけっこうな重要機密文書?が
ポロッと落ちていたりすることもあったそうだけれど、
いまはメールなので、まったくわからない、と。
(ただし逆にいうと、データが残るという側面はある。
大きな問題になった場合には)

じゃあ、親が子どもの携帯電話なりスマホなりを
逐一チェックをすればいいかというと、
それもどうよ、という問題がある。

とにかくうちの子見てても思うのだけれど、
技術習得・機能発掘面では、子どもってやっぱりすごい。
というか、操作性っていうんですか、
インターフェイスっていうんですか、
が進歩すれば、
そりゃ幼児だって使えるようになるだろうと思う。

若い子が(ぶるってくれる)ポケベルを持っているのを見て、
「いまの子たちはいいわよねぇ〜」
と同世代の友人が言っていたのも十数年以上前の話。

友だちや恋人と連絡をとるのに家族を通す必要もなく、
身近な人からは見えないところで個人がどんどんつながり、
その世界のなかでいろんなものが可視化されていくという、
ふしぎな日常環境。

この目は一体、何を見ているのか。

学校から帰っても、友だちとつながってる。
日本のどこにいても、世界のどこにいても、つながれる。

それはとてもありがたいことだし便利だし楽しいけれど、
同時に、とても疲れることなんじゃないか、と思う。
ともすれば、私生活が侵食されていく。
しっかりつながるためのつながらない時間、
ひとりの時間が、侵食されていく。

何しろ、つながりに疲れたと感じたときには
まずその感覚を自覚し、
自分の「意志」で電源を切るなどして、
接続を切断しなくてはならないので。
切断を決断しなくてはならないので。

つながっている状態がデフォルトになっているので。

墨岡院長は、ネット依存のなかの特にSNS依存について、
「他者からの承認を頻繁に求める」ということと、
“きずな依存”“つながり依存”のことについて
書いておられる。

そのあたりのことについて、
もう少し考えていきたい。

(つづく)
 2014.02.17 Monday 12:16 米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』 permalink  
日常的な「書き言葉=読み言葉」が生じさせるもの
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んでいる。



1つ前の記事で、自分にとっての
「ネットを使うメリット・デメリット」
を書き出したが、そのうちのひとつである
「2.気が滅入ったり不愉快になる言葉を読む機会が
   圧倒的に増える。」
について、もう少し考えてみる。

実はこれ、本のなかの第4章に関わる話なのだが、
そちらの内容は私が考えているよりも
もう少し幅が広くて深いので、
またあとで読んでいこうと思う。

さて、前回書いたように、ネットがなかったころ、
私たちが触れる不特定多数に向けた「書き言葉」は
「書き言葉のプロ」が書いたものだった。

それは、ひとつの作品、ひとつの主張として
それなりの時間をかけて整理され、まとめられ、
編集等の他者の目も通った上で発表されたもの。

しかし、ネットで個人間が簡単につながるようになったいま、
そういう「書き言葉」のプロ、あるいはそれに近い人、
小説家やライターなどではなく専門領域は別にあるが、
書籍やネット上で不特定多数に向けての文章も書くような人の
日常的な言語活動を垣間見ることができるようになった。

で、そういう人たちのTwitterをのぞくようになって、
そっか、普段はこういう言葉遣いをするんだ〜
と残念に思ったことが数回ある。

なんだか著作物って、整っているぶん、
著者が人格者に見えてしまうんですよね。(^^;
いや、けしてネットで垣間見える姿が
非人格者というわけではないのだが、
「イメージと違う」と思ってしまうことがある。

  念のために付記しておきますが、
  金子由紀子さんじゃないですー。
  (いつだったか金子さんが、自分のイメージが
  勘違いされていることについて
  ちょっとなげいておられたことがあった気がするので・・・)

Twitterを始めるまえに、國分功一郎さんで
ウォーミングアップしていたといえばしていたのだが…>

こういう感覚って、著者本人が肉声に近い形で
直接メッセージを読み手に発信することが
容易ではなかった時代には、
読者は味わわなかったものだと思う。
私はフォローしていないけれど、
芸能人にも同じことが言えるのだろう。

  だから、自分がすごく期待をしている著者たちが
  Twitterをやっていないことに、ほっとしている私。

そんなこんなで、若干残念な思いはしたが、
すぐにフォローをはずすということはしなかった。

せっかくだから、もう少し読んでみよう、と。

  ただし、ネット経由で名前だけ知っていた方で、
  ひとりだけフォローをはずした人がいる。
  確か「中坊」という言葉が決め手となった記憶がある。

そうすると、読んでいくうちに
「人となり」のようなものが見えてきて、
「意外」が「納得」に変わっていくのだ。

というか、早い話、慣れていくんですな〜〜

最初はちょっと残念だったけれど、
確実に有意義な情報をくれるし、
そのツイートのテイストが、だんだんと面白くなってくる。
その人らしいと思えるようになるというか。

逆にいえば、このくらいのクセというか、
何か突出したものがないと、
社会にメッセージを出す人にはならないかもしれない。

同じことが、職業や立場などがわからない人、
(不特定多数を相手に仕事をしている
 著名人ではなさそうな人)で、
たまたまご縁があってフォローしている人にも言える。

まだ100名前後で、めったにツイートしない人も多いので、
常駐している人たちは限られており、
1つ1つの発言というよりは、その全体的な雰囲気、
そして何をRTしてくるかというので、
その人の「人となり」が感じられるようになってくる。

「人となり」というか、
その人が何を大事にして、何に怒っているのか、
ということが。

だから、最初はときどき違和感があっても、
だんだんと知り合いみたいな気分になってきて、
多少のことは気にならなくなっていき、
その人らしいな、と思えてくる。

しかし、その「人となり」の幅は
自分が日常生活(リアルの生活)で接する範囲より
圧倒的に広い。

さらに、web上ならではの言語感覚もあるだろうし、
どうしてもチクッとする言葉、
眉をひそめてしまう言葉に出会う頻度が、
ネットがない時代よりも増した、
というか激増したと思う。
自分に向けての言葉ではないのにも関わらず。

だから、その「チクッ」に脊髄反射しそうになることがある。
余計な刺激を受けそうになる。
で、それはあまりよくないということで、
読み流すようにすると、
「チクッ」はすぐに薄れていくのだが、
それは完全に消えるのではなく、
ほんのわずかな澱のようなものと化して、
自分のなかに少しずつ
蓄積されていっているのではなかろうか、
と最近思う。

この澱を侮ってはいけないのではなかろうか、とも。

自分のなかにたまるものは、自分を作っていくから。

「慣れ」と「ある程度の努力」で
不快なものを漉してできた上澄み、
すなわち「がっかり感を解消したい自分」
「いろいろな意見を受け入れようとする自分」
「いろいろな人を理解しようとする自分」
「しんどい思いを続けたくない自分」
の影…
のようなものなのかもしれない。

また、一般の人にからまれている著名人の
非公式RTが流れてきたりすると、
「世間には、こういうとらえ方をして、
 こういう言葉遣いでからんでくる人が、
 こんなにいるんだなぁ」
と驚いてしまう。

もちろん、比率はどうかわからない。
そういう人たちが目立つだけかもしれない。

だけど、予想以上に多いと感じませんか?

世の中、けっこうキツイ人が多いんだなぁ、と思う。
というか、キツイ言葉、汚い言葉を使う人が多いんだなぁ、と。
ネットのない時代には、
こんなコトバにこんな頻度で触れることはなかった。
日常生活ではそういう人たちとのつきあいはないから。
(もちろん、ネットでキツイ言葉を使う人も、
 リアルではおだやかな言葉を使っているのかもしれないが…)

これもまた、「可視化」のひとつなのだろうか。

世の中には善意があふれているが、
それに負けず劣らず、
他人を否定したい気持ちが渦巻いている。

それは、ネットのない時代からすでにあったもので、
よりよく見えるようになった、というだけのことなのだろうか。

可視化されるものは、
可視化される前から存在しているから、
可視化という言葉があてはまるのか。

ネットで簡単に発言できるようになったから生まれた、
あるいは増殖・強化された、
ということもあるのではなかろうか。

書いてみて、自分がそう思っていることに気づく。
あるいは、そう思っていることになる。
承認されて強化され、否定されてまた強化される。

ということもあるのではなかろうか。

(もちろん、ヒトゴトではない。自分もだ。)

人によっては、インターネットが
「他人を否定・攻撃することで自分を確かめる比較的安全な場所」
になっているのかもしれない。

しかし、おそらく安全ではないのだ。
対外的にはもちろん、自分にとっても。

  勝間和代さんとちきりんさんの以下の対談で、
  開始24分50秒くらいから、
  匿名性の話になっていくのだが、
  26分45秒〜29分20秒くらいの勝間さんのエピソードと
  ちきりんさんとの会話がなかなか興味深い。
  http://www.youtube.com/watch?v=ZVmT2VVAwXs

そんなこんなで、
インターネットは便利だし楽しいのだけれど
一方で、ネット生活というものは
整えられていない・練られていない、
ネガティブなものも相当に含む
裸の「書き言葉」に日常的に接することでもあり
「話し言葉=聞き言葉」&「洋服を着た書き言葉」
だけの生活の頃にはなかった、
なんらかの悪影響を受けているのではないか、
と感じている。

しかも、気がつかないうちに、じわじわと。

そのあたりについては、本の第4章を読むときに、
もう一度考えてみたい。

(つづく)
 2014.02.15 Saturday 09:55 米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』 permalink  
ネットを使うメリット・デメリットを書き出してみる
米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』を読んでいる。



というわけで、第2章は、
米田さんが実際にやってみられたという
デジタルデトックスの生活習慣編のレポートになっている。

その準備段階として、
3ステップのメモが示されているのだが、
そのなかの1つである、
「ネットを使うメリットとデメリットを書き出す」
という作業を、自分もやってみた。

やり方は簡単で、ほんとにそのまま
メリットとデメリットを書き出すだけ。

私の場合、こんな感じです。↓

〔メリット〕
 1.とにもかくにもあらゆる意味で調べものに便利。
 2.面白い人・モノ・コト・言説に出会う可能性が
   圧倒的に高まる。
 3.買い物や銀行振込みなどに便利。
 4.自分の考えたことをブログなどで発信することが、
   とても楽しい。
 5.動画や音楽を無料で視聴できる。

〔デメリット〕
 1.だらだらと続けてしまって、時間をとられてしまう。
 2.気が滅入ったり不愉快になる言葉を読む機会が
   圧倒的に増える。
 3.身体を動かさなくなる。
 4.いろんなことに受動的になっている気がする。

いずれ(私にとっての唯一のSNSである)
Twitterに特化したメリット・デメリットも
書き出してみたいが、まだ経験が浅いので、
今回はそれを含めてのおおまかりなくくりとして
ネット接続について考えてみた。

米田さんが書き出している項目と
ダブっているところもあるし、
ダブっていないところもある。

ダブっていないところについては、
やはり米田さんの「お仕事柄」に
よるところが大きいのではないかと思う。

さて、これを書き出してそのあとどうするか、
ということは次のステップに示してあるのだが、
そこは割愛して(本を読んでくださいね〜)、
上記の「私にとってのデメリット」について
もう少しつっこんで考えてみたいと思う。

この4つ、どれもきっと、
とても大切なことだと自分で思う。
あるいは、とても大切なことを失っていることだ、と。

その喪失の意味をひとつの言葉で代表させるとしたら、
GoogleのBrin氏が、
「Glassがスマホよりすぐれている理由」で使った
「去勢」という言葉があてはまるのではなかろうか。>つながる快感

 …って、もちろん訳されたものとしての言葉だけど。
 もとは emasculating という単語だったのかな?↓
 http://www.gizmodo.jp/2013/02/post_11748.html
 この単語のニュアンスはわからないのだが、
 日本語の「去勢」はしっくりくる。
 なお、Glassは去勢じゃないのか?という疑問は
 この際、ひとまずおいておこう。

なんというのか、ネット漬けの私たち、
(あえて“たち”と言ってしまいます)
いま、あのクラゲの形をした古典的な火星人のような身体に
なってしまっているんじゃなかろうか。

どこかが異常に肥大して、
どこかが萎縮・退化してしまっている。

萎縮してるものはわりとわかりやすくて、
それは全体的な身体機能、および五感だろう。

たとえばきのう、入院していた母の退院にあたり、
入院費の金額と振込み先の連絡を
携帯のCメールで受け取った私は、
忘れないうちに…と思い、
すぐにネット経由で振込みして、
振込みしたむねCメールで返信した。

所要時間わずか10分。
なんて便利な世の中になったんだろうと思う。

もし携帯電話もパソコンもなかったら、
私は電話を受けて振り込み先をメモして、
洋服を着替えて、
銀行か郵便局かコンビ二に歩いて行って、
振り込んでいたことだろう。

もちろん、ネットで振り込めるとしても
その選択をとることはできるわけだが、
逆にいえば選択しなくてはならないわけなのだ。
ネットがなかったら選択の余地はなかった。

これら1つ1つは小さなことでも、
それらが積み重なって日常生活は成り立っているのだから、
トータルでみたらかなりの影響ではなかろうか。

また、かつて、風邪をひく意外な(?)要因 という記事で、
パソコンの前に座り続けると風邪をひきやすいんじゃないか?
と書いたこともある。

五感については、
小池龍之介『考えない練習』
がまさにその話だったし、
坂口恭平の「解像度を上げる」話とも
つながってくるだろう。
(なお米田さんは別の章で、別の意味で
「思考の解像度」を上げるという言葉を使っている)

というわけで、身体・五感については
これまでもいろいろ考えてきたわけなのだが
(「考えずに使え〜」>自分^^;)
もうひとつ、今回はデメリットの2、
「気が滅入ったり不愉快になる言葉を読む機会が
 圧倒的に増える。」
について考えたい。

これがけっこうないがしろにできない問題なのではないかと、
最近強く思う。特にTwitterを始めてから。

ネットがなかった時代、
私たちの目に触れる「書き言葉=読み言葉」は、
書籍や新聞や雑誌などプロが書いたものか、
自分宛の個人的な手紙がほとんどだったと思う。

前者は、書き言葉の訓練をした人たちが書いていて、
編集という他者の目を通して出されているので、
当然のことながら整えられており、
内容・表現双方のチェックがなされている(はず)。
そして責任を負っている。

後者はまずなんといっても相手を知っているし、
自分だけに向けて書かれた文章なので、
たとえショックを受ける内容があったとしても、
単なる攻撃や非難などではないし、
受け止め消化することができる。
相手だって何かを引き受けて書いているのだ。

というか、そもそもそういう手紙自体、
10年に1通あるかどうか。
大抵は他愛ないおしゃべりや現況報告で、
それは親愛の情を基本としていた。
そうでなければ、
手間をかけて手紙など出さないだろう。

ところが、ネットに接続するようになると、
上記のどちらでもない書き言葉に日々さらされるようになる。
単語レベルから文章レベルまで
後味のわるいコトバに接触する機会が圧倒的に増える。

これってけっこう、私たちの心身に
大きな影響を与えているのではないかと最近思う。

読むほうはもちろん、もしかしたら書くほうにも。

書き言葉=読み言葉は、侮れない。

ということについて、
次回、さらにつっこんで考えていきたい。

(つづく)
 2014.02.13 Thursday 12:00 米田智彦『デジタルデトックスのすすめ』 permalink