力をずらして、楽な場所を見つける身体感覚
坂口恭平さんの方法論と「いじめ問題」の関連性について、
子育てブログに記事を書いた。

学校生活で苦しいことがあったとき、
こんなふうに考えてみるとどうだろうかという
新しい視点をもらった話。


このことを身体感覚でもとらえられるのではないか、
と考えていた。

私自身には経験がないが、たとえば武術において、
こういう感覚があるのではなかろうか、と。

で、そういえばpha著『ニートの歩き方』で、
合気道の話が書いてあったぞ…と思い出し。
「自分が楽に動ける場所」(p.149〜150)を確認したら
まさにどんぴしゃりのことが書いてあった。

昔、phaさんは内田樹さんのブログの影響を受けて
1年くらい合気道の道場に通ったことがあるそうなのだが、
そのとき先生から教わったことでよく思い出すことがあるそう。
 自分より力の強い人に腕をぐっとつかまれて動けなくなったときに、それを力づくで振りほどこうとしたり抵抗しようとしてもうまくいかない。ではどうすればいいかっていうと、つかまれた腕はそのままにして自分の体をスッと相手の体の横などに移動させるのだ。そうすると位置関係が変わることで立場が逆転して、相手の攻撃はこちらに届かなくなり、相手は腕に力が入らなくてこっちは力を入れやすくなって、こちらが自由に主導権を握れるようになるのだ。
(p.149)

うまい人はそういう「どこに行けば自分が楽に動けるか」
が自然と分かるようになるらしい。

合気道の先生は
「力で対抗してはいけない。自分が楽に動ける場所に行けばいい。
 自分が楽に動ける場所は絶対あるから」
とよく言っていたのだそう。

坂口恭平さんがいう「解像度を上げる」というのは、
ぼんやりとしか見ていなかったもの、
あるいは他人の目を借りてしか見ていなかったものを、
自分の目でよく見て、感じて、
自分が楽に動ける場所、しっくりくる場所を
見つけるということなのではなかろうか。

世界はひとつだと思うと、
そのひとつになじめない自分を否定してしまいそうになる。

そうではなくて、世界には地平が無数に重なっている。
そのなかに、自分が楽になれる地平が必ずある。

力の強い人に腕をつかまれて動けなくなったときが、
逆にその地平を見つけるチャンスになるかもしれない。

もしどうすれば楽になれるのか全く見えない状況だったら、あまり焦らずに何かが見えるまでじっと何もせずに待ってみてもいいんじゃないかと思う。寒い冬は時間が経てばそのうち終わるものだし、状況はどんなときも必ず変化し続けるものだから。
(『ニートの歩き方』p.150)
 2013.09.11 Wednesday 13:52 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』 permalink  
「環境やシステムは何一つ変化させなくてよい」/私がとらえた"坂口恭平哲学"の核心
そろそろ『独立国家のつくりかた』に移りたいので、
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
から私が得た最大のメッセージについてまとめたいと思う。

この本は、路上生活者の暮らしぶりを綴ったものだが、
客観的な調査報告の体ではなく、
実際に自分自身が無職、無一文で
都会のまんなかに突っ立っている状態から、
「都市型狩猟採集生活」のノウハウを
少しずつ身に着けていく組み立てになっている。

なので、実際のマニュアルとしても使えそうな雰囲気だし、
「人間、どんな状態になっても、ぜったいに生きていけるよ」
ということを教えてくれる本に仕上がっているのだが、
私がいちばんドキっとしたのは、
「おわりに」の最後近くにある次の2行だった。
 環境やシステムは何一つ変化させなくてよい。必要なのは、きみ自身の思考の解像度を上げ、無数の視点を獲得し、創造的に生きる方法を見つけることだ。
(p.180)

このメッセージは、路上生活の範囲を超えて、
適用範囲の広い、汎用性のある哲学、方法論だと思った。

以下、本に書いてあったことはなく、
私が勝手にこの本から受け取ったメッセージをもとに、
考えたことを書いてみる。

『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』では、
路上生活者の暮らしぶりを見るという形で、
<都市の幸>について考えてきたが、
そこにある世界は、
いままで私たちが生きてきた世界と、
同じ世界なのだ。

なのに、見方によって見え方が変わり、
見えるものが変わる。

否、私たちはふだん、見えるものしか見ていない。
見ようとするものしか見えていない。

世界の、社会の、ある一部分、
たくさん重なった層の1枚ないし数枚しか見えていない。
あるいは渾然一体となって大きな地層となったものを、
ぼんやりとしか見ていない。

それは、具体的な「物」や「風景」についてもいえるし、
思考についても言えると思う。

そうして、何か困った状況があるとき、苦しいとき、
しっくりこないときに、
一部しか見えていない環境やシステムに問題があると考える。
わかりやすく言えば、社会に問題がある、と。

だから、環境が変われば、システムが変われば、
社会が変われば、問題がとりのぞかれ、
苦しさがなくなると考える。

逆にいえば、環境が変わらないかぎり、
システムが変わらないかぎり、社会が変わらないかぎり、
その苦しみはとりのぞかれないと考えてしまう。

「環境・システム・社会」のところに、
「他人」を入れてみるとさらにわかりやすくなるかもしれない。
いま、実際に何かに苦しんでいるとしたら、
それをもたらしている(と自分が思っている)具体的な相手を。

その相手を変えることが、どれだけ大変か。
あるいは、そもそも、変えることなど可能なのかどうか。
相手が(勝手に)変わることはあっても、
私が変えることなどありうるのだろうか。

もちろん、環境やシステムや社会を変えようとすること、
そのために働きかけることは大事だと思う。

しかし、坂口恭平さんのメッセージを受けて、
私は次の2つのことを考えたし、考えさせられたのだ。

まず、「鍵は自分の手の内にある」ということ。

自分の生きる世界を変えるための
もっとも有効かつ手っ取り早い方法は、
自分の見方・考え方を変えるということ、
坂口恭平さんの言葉でいえば、
「解像度」をあげるということ。

ものは考えようとか、見方を変えようということは、
これまでたくさんの人が言ってきたと思うのだが、
路上生活者の具体的な暮らしのディテイルに触れることで
その可能性があらためてせまってきたのだ。

ある意味それは、したたかな生き方とも言える。

 「したたか」は漢字に変換すると「強か」となるが、
 今回検索してみて「健か」とも書くらしいことを知り、
 ちょっと驚いた。

見方を変えようとしているようで、
考え方を変えようとしているようで、
意外と同じ層のなかでもがいている、
ということがあるのかもしれない。
しかもその層は、
自分が選んだ場所じゃないかもしれないのだ。

あるいは、迎合する、妥協する、現状に甘んじる、
あきらめる、うそをつく、ごまかす、
ということにもなってしまうものかもしれない。

そうではなくて、自分の知覚の層自体を転位させること。
そのときに、新しい地平(世界)が開かれる。

実は、自分なりにこのメッセージを受けとってから、
「いじめ問題」のことを考えていたのだが、
それに関する坂口さんのツイートをまとめたページに出会い、
やっぱりという思いを強くした。
このことについては、後日、
子育てブログに書こうと思っている。

そしてもうひとつ思ったことは、
環境、システム、社会を変えようとすることは、実は、

 「他人もそう思っているはず」
 「私と同じことを望んでいる人が多数派のはず」
 「社会のためにはそれがいいはず」
 「私が思っていることは正しいはず」

ということを前提にしているか、あるいは

 「他人はどうだかわからないけれど、
  私はそれを望んでいる、そちらのほうが都合がいい」

という気持ちを前提としているのではないか、ということ。

これはちょっと、考え込んでしまう気づきだ。

場合によっては、
「私はそれでは都合がわるいが、社会のためにはそっちがいい」
という考え方だってあるかもしれない。

もちろん、坂口恭平さんはそんなことは一切書いていない。
自分で勝手に考えたことなのだが。

さらに、ここから先はちょっと込み入った話になってしまうのだが、
鈴木健『なめらかな社会とその敵』に対する辛口批評について
のなかで書いた森田真生さんの書評の次の引用部分について、
あらためて考え込んでしまうのだ。
複雑な世界とつき合うために、膜は世界の複雑さを縮減する。一方で、世界の複雑さをそのまま環境の方に押し付けてしまう、という手がある。認知的な負荷を環境に散らすために、自分でしなくて済む計算を、環境の方に押し付ける。自分で計算をする代わりに、環境がうまく計算をしてくれるように、環境を作り替えてしまう。これこそ、複雑さとつき合うために生命が編出した「第二の手段」であり、筆者はこれを、広い意味での「建築」と呼んでいる。
途中の下線部分には、
『数覚とは何か?』(スタニスラス ドゥアンヌ著)
がリンクしてあり、
「環境を作り替える」の意味を
短絡的に考えることはできないのだが、
(これについては別ブログで後日ゆっくり考えたい)
あえて単純に考えるのであれば、
私が坂口恭平さんの
「環境やシステムは何一つ変化させなくてよい」
という言葉にドキッとしたことは、
順列組み合わせとしての人間、
個と全体の生物学(pha的ニート道の核心)

の後半で書いた、
PICSYや分人民主主義を「実装」するよりも、
pha的ニート道をまったりじわじわ広めていくほうが、
話がはやいのではないか、という気がしてきている。
ということと
つながっているような気がするのだ。
(そして、鈴木健さんと坂口恭平さんの双方に興味を
 もったことも矛盾していないのかもしれない)

だから、phaさんの本を通して坂口恭平さんに出会ったことは、
私のなかでとても辻褄があっている。

で、坂口恭平をもう1冊、と思い、
『独立国家のつくりかた』を手にしたわけなのだった。

というわけで、次は『独立国家のつくりかた』に
進んでみたいと思う。
 2013.09.09 Monday 12:00 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』 permalink  
資本主義の中だからこそやっていける「代々木公園の禅僧」
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
を読んでいる。



さて、今度は、究極の0円生活を営む、
「代々木公園の禅僧」について。

坂口恭平さんはある日、
代々木公園の奥へ歩いていたら、
ひとりの男性がケヤキの木の横に
ぽつんと座っているのに出会ったそう。
地面にブルーシートを敷いているだけの彼にはまったく悲壮感が感じられず、むしろ安心感すら漂わせていた。そのどこか悟りを開いたような雰囲気が気になり、話しかけてみた。
(p.139)

なんと彼は、その場所に2年以上暮らしているという。
(雨のときには別のところに移動する)

冬は、教会の人がくれる毛布ですごしているという。
それを着て寝れば全然寒くない。
足りなかったら、もう1枚くださいと言えばいい。

路上生活を始めた2年前から、お金を手にしたことがない。
アルミ缶を拾って稼いだりしない。
「ぼくがやったら、他の人が稼げなくなっちゃうでしょ」

食事は支援団体や教会の人が配ってくれるもののみ。
それでもうおなかいっぱいだという。
おにぎりが2個あれば、2日もつ。
しかも健康的になったという。
「そう、人間ってのは、余計に食べすぎなんだよ」

彼はもらった食事を、代々木公園に集まってくる
鳥たちに分けてあげている。
ベジタリアンで、肉はほとんど食べないそう。

なお、身体の清潔には気をつかっているらしい。
毎日、公園の水を使って身体を洗う。
石けんもシャンプーも炊き出しに行ったときに
ついでにもらえる。服ももらえる。
ゴミ置き場から調達することもあるけど。

そんな彼は、新品のアディダスを履いていたという。
教会からもらったものだとか。

肉も食べず、酒も飲まず、タバコも吸わず、性欲もないらしい。
「そういう欲はあんまり持たないほうが健康的になれるよ」

それでも病気になったときはどうするかというと、
区役所の福祉課に行くと、病院を紹介してくれる。
もちろん、タダ。

ときどき炊き出しの現場に医者が来ているときもある。

とにかく、病気になっても何も心配がない。
お金という概念は必要ない。

本当に幸せだ、と彼は言う。
ここには、鳥たち生物もたくさんいるし、
植物もたくさん育っている。
それを眺めているだけで、
心が落ち着いて気持ちよくなる。

公園の周りでは、若者がよく音楽を演奏している。
そういうのも自分の娯楽として楽しんでいる。

ホームレスっぽい恰好をしていれば、
0円で幸せな生活が送れる。
こんなこと、社会主義の国ではぜったいできないよね。みんな等しくはたらかなくてはいけないんだから。これは資本主義だからこそできるんだよ。自由経済の社会だからこそ、お金を一番重要なものだと信じ込み、お金持ちと貧乏人というヒエラルキーができあがる。すると、貧乏人はかわいそうだってことで、助けてくれる人が出てくる。自分がヒエラルキーの中に入ったままだと、貧乏がコンプレックスになって、絶望してしまうかもしれない。でも、そのヒエラルキーから自由になった人にとっては、すごく楽なの。まあ、たいていの人は世間体とかを気にしちゃうから、こんな生活できないだろうけどね。
(p.144)

彼を「禅僧」と呼ぶのはもちろん比喩にすぎないとしても、
“隅田川のエジソン”や
“多摩川のロビンソン・クルーソー”とは、
生活の在り方が違うことは確かであり、
あえて名をつけるとしたら「禅僧」となるのもうなずける。

そうなると、教会が禅僧を助けている構図になって、
なかなか興味深い。

 〔関連記事〕
 【都市型狩猟採集生活】、まずは 「衣服」のなかで、
 仏教の頭陀行の話をちょろっと出しました。

都市型狩猟生活は、
ゴミという名の<都市の幸>が豊かなればこそ
成立するものだった。

また、究極の0円生活は、資本主義なればこそできる。

という裏返しの構図に、
最近とにかくよく目にする、
多様性や層(レイヤー)という言葉の意味の
とてもわかりやすいひとつの形を見る気分だった。
格差という言葉の響きもかわってくる。

そういえば、あれは私が30歳前後のときのことだったと思うが、
何かの生活状況調査のようなものがあって、
担当者が訪問した旨を知らせる連絡票のようなものが
郵便受けに入っていた。

で、こちらから電話してあらためて来てもらったら、
そういうこと事態がめずらしいということで、
担当の方はちょっと喜んでおられた。

何の調査だったかは覚えていないが、
公的な雰囲気があったし、
とにかくあやしいものではなかった。

当時はお風呂なしトイレ共同のアパートに住んでいて、
アルバイトを在宅ワークに切り替えたくらいの時期だった。
収入には波があったが、基本的には貧乏だった。

で、担当の人の質問に答えながら、
「経済的には余裕がないが、精神的満足感は大きい」
というような自分の状況を、 自分で確認することになったしだい。

そのころのことを思い出して書いたのが、
別ブログのこの記事→郵便局での思い出

「しあわせになる力」は
「しあわせを見つける力」だという
友人の言葉を思い出す。

与えられた単一の価値観の上にのっていても、
その価値観のなかで競い合っても、
その先にしあわせがあるとは限らない。

自分のしあわせはどこにあるのか、
その在り処を見つけたとき、
はじめてしあわせになれる。

苦しいのはそのレイヤーにいることではなく、
別のレイヤーの価値観をもったまま、
そのレイヤーにいることなのかもしれない。

また、しあわせの在り処は、
年齢によってもかわってくるように思う。
 2013.09.05 Thursday 11:33 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』 permalink  
多摩川のロビンソンの、雨水利用システム
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
を読んでいる。



今度は「水」について。

路上生活者は、その多くが
公園の水道の水で生活をしているらしい。

都市公園法では、公園の水を個人的に利用することは
禁止されていないらしいが、
東京都内に限ると、都立公園条例というものがあって、
第十六条で利用が禁止されているのだそう。

しかし、罰則があるわけではないので、
実質的には使い放題、ということになっているもよう。

路上生活者が公園の水で生活することに
問題がないわけではないのだけれど、
住む場所がない人にとってはここが最後のライフラインなので、
それを禁じたら大変なことになってしまうわけであり、
黙認されているというのが現状らしい。

坂口恭平さんは、
…、水はもともと誰のものでもなかったはずだ。だから、お金を払えばどれだけ水を使ってもよいという仕組みも、ずいぶんとナンセンスなものに思える。
(p.103〜104)

と書いておられる。
このことについて、2つの思いがある。

まずは、水の所有権について。

これについては、
検索するといろいろなページがひっかかってくる。

たとえば、水のジャーナリスト・アクアコミュニケーター
という肩書きをもつ、橋本淳司さんという方がいて、
http://www.aqua-sphere.net/profile.html
この方は、水についてたくさんの著書を出しておられる。
Amazonで検索した結果

タイトルと内容紹介を読んだだけでも、
「う〜ん」とうなってしまう現状がありそう。

そしてもうひとつは、
水そのものは、もともと誰のものでもないとしても、
それを飲めるようにして、
家まで運んでくれる人がいるのであれば、
その対価は支払われるべきではないか、という思い。

で。

先ほど、路上生活者は基本的に
公園の水で生活していると書いたが、
公園の水を一切使用していない人もいるのだそう。

それが、多摩川沿岸に15年以上住む、
通称ロビンソン・クルーソー。

彼いわく、水道水なんてまずくて飲めない。

では、何を飲んでいるかというと、雨水。
(降ってくる雨水をそのまま飲んでいるわけではないので
最後まで読んでくださいませ〜)

「えー!!」と思うでしょ?

私も思いました。

ところが。

次のくだりを読んで、私は考えこんでしまった。
その「えー!!」ということを、
私は日常的にやっているかもしれない、と。
 ロビンソンによると、現在の東京の水道水は、ダムに溜められた汚い泥水だという。それを塩素で殺菌して飲めるようにしている。だから、その日の水の汚れに合わせて薬品の量が変化し、味も変わるのだそうだ。
(p.105)

実は、私が住んでいるマンションで、
以前、貯水タンクの渇水騒動があった。

また、今年は今年で、漏水があった。
修理のあと、特にお知らせもなく、
一瞬だけ「赤水」が混じった。

さらには、かつて、お風呂にためたお湯が、
少し黒ずんで見えたときもあった。
(念のために問い合わせたら、その前日に
ポンプの切り替えをしたそうで、
それが影響しているかもしれないとのこと)

そんなこんなで、これまであまり気にしていなかった
貯水タンクというものを意識するようになったのだが、
自分の家の水道から出てくる水が、
どこでどう調達され、どんな処理がされ、
どこをどう通って、どう運ばれてくるのか、
その間の様子をすべて直接目でみたら、
水道の水って、実は飲めたものではないのかもしれない。

「わからない」ことはときに不安につながるが、
知らないから無頓着でいられる、
ということもあるわけであり。

貯水タンクについても、検索してみると、
「しえ〜〜」と思う話が読める。
(リンクはやめておこう・・・)

もちろん、大気中にだって、
塵やら埃やら化学物質やらあるわけで、
雨にもいろいろ混ざっているけれど、
2時間もすれば、ほとんどの不純物がなくなるのだそう。

だから、雨が降っても2時間はほうっておいて、
2時間以上たったら溜め始める。
蒸留水と同じくらい純粋な水だそうだが、
万が一ということもあるので、
飲むときには沸騰させる。

実は、先ほどお名前を出した橋本淳司さんの
『水は誰のものか―水循環をとりまく自治体の課題』の目次にも、
「雨水は蒸留水に近い」という言葉があるのだ。
http://www.imagine-j.co.jp/book/copa/copa033.html

で、『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』のp.132に
「雨水再利用システム」のイラストが載っている。

まず、屋根に降った雨水が雨どいから流れてきたのを
茶漉しでこして、寸胴に溜める(2時間以上たってから)。
これが飲み水になる。

この水は純粋なので、2ヶ月置いておいても腐らないのだとか。
(普通の水道水なら腐る)
だから、洋服などを入れるクリアボックスにストックしておく。

寸胴には蛇口がついていて、その下にはタライを置いておく。
皿を洗った水は畑にまく。

また、それ以外にも、
拾ってきた鍋、バケツ、炊飯ジャーなどに水をためて、
飲み水以外の生活用水にする。

「2ヶ月保存」のところが不安だけれど、
無駄のない、なんとも魅力的なシステム。
(水量を少なくすればお風呂もまかなえるかな?)

もちろんこのシステムは、
そこそこの割合で2時間以上雨が降る地域でないと使えないが、
そこそこの割合で2時間以上雨が降る地域では使えるのだ。
っていうか、実際に使っている人がいるのだ。

うーん、すごい。

水道水もあわせて、水質調査してみたい。

ちなみにこの多摩川のロビンソン・クルーソーの生活ぶりは、
路上生活者の域をはるかに超えております。

 2013.09.03 Tuesday 11:27 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』 permalink  
路上生活者の、電気とのつきあい方
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
を読んでいる。

この記事は、いったん、
「12Vバッテリーを使った自家製電気システム」
というタイトルで投稿したものであり、
実際の電気システムを含めて書いていたのだけれど、
なんだか不安になって、数分で記事を非公開にした。

どうして不安になったのか自問してみたところ、
この記事を読んだだけでだれかが試して、
そこで何かが起きても責任がとれないなぁ、
というところに不安のもとがあるらしいとわかった。

本当は、そこのところ
(「自己責任でお願いします」と付記したくなること)
に、すでに考えるべき問題が含まれているようにも思うのだが
自分で試したわけでもないし、
こと電気に対しては私は不安感が強いようなので、
ひとまず具体的なシステムは書かずに、
この話から得たことだけを抽出して書いてみることにした。



これまで、都市型狩猟採集生活の衣食住について、
とりあえずざっと見てきた。

いろいろと新しいことを知ることができて、
それなりに新鮮だったけれど、
そうはいっても予想をうわまわる話でもなくて、
「なるほどねぇ〜」という感じだった。

ところが後半に進んでいくにつれて、
だんだんと話は予想を超えていく。

そして、いままで自分があたりまえだと思っていたことが、
根本的なところから揺らされていくのを感じるようになる。

もっとも大きいことは「土地を所有すること」
についてなのだけれど、
これについては後日ゆっくり考えることとして、
まずは「電気」について考えてみたいと思う。

衣服や食べ物や寝床の材料は「採集」することはできても、
あるいは電化製品は「採集」することができても、
さすがに電気そのものを「採集」することはできない。
まさか、どこかから延長コードをひいてくるわけにもいくまい。

しかし、ある程度「作る」(ためる)ことはできる。

ときくと、まず太陽光発電のことを思い出すが、
一般家庭での普及率は上がっているとしても、
(参考ページ:
http://xn--hdks077uppbe7rpxwfzwdr2dq6a.net/ qanda/fukyuritu.html
まさかソーラーパネルを装備した
ブルーシートハウスがあるなんて、
知りませんでしたよ私・・・
しかも10年以上前から。

 坂口恭平さんが2000年に出会ったそのおうちの写真が、
 別の本に掲載されている。
 (『独立国家のつくりかた』p.23)

『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』では、
実際に、その自家製電気システムのしくみが書いてある。

自家製電気システムを作るには、ある程度の知識がいる。
ソーラーパネルもバッテリーも電化製品も
自分で作ったものではないとしても、
家の壁に設置されているコンセントに
付属のアダプター経由でプラグを差し込む、
というときには考えなくていいことを
ちょっとだけ踏み込んで考えることになる。

ということを考えていたら、
ナチュラルクリーニングを通して感じた2つのことと、
別ブログで書いた
姜 尚中 『悩む力』---「物知り」と「知性」は別物
のことを思い出した。

私たちは、多数のブラックボックスに囲まれて生きている。
日常生活が、ブラックボックスに支えられている。
たとえば、電気がどこでどう作られ、どう運ばれ、
それが家のなかでどう配線され、
それがどう電化製品を動かしているのか知らなくても、
電化製品は動いてくれるし、役に立ってくれる。

危険は、製造会社が極力排除してくれる(はず)。
だから、何がどう危険なのか、なぜ危険なのかは、
マニュアル以上のことはわからない。
自分が作ったものではないから、修理もできない。

折りしも先日、
洗濯機無料点検のお知らせが転送されてきた。
実家で使っていた洗濯機を現在の帰省拠点に移したのだが、
この製品の一部に不具合が見つかったらしく
母のところに出された郵便がうちに送られてきたのだ。
もう、帰省からもどってきていたので、
おばに立ち会ってもらって点検してもらった。
http://www.sharp.co.jp/support/announce/ es_info_130729.html

それから、少し前に自宅のオーブンレンジで気になる症状が出て、
それは些細なことだったのだけれど、
例のごとく心配性の私はメールで問い合わせてみたのだが、
直接見てみないとわからないとのこと。(ですよね)
ものが古いこともあり、一度点検してもらいたいと思いつつ、
のばしのばしになっていて、
レンジもオーブンもない生活をしばらく続けていたのだが、
先ほど、点検の申し込みをした。

気づけば、身のまわりはブラックボックスだらけ。

使用料金もそう。
なぜそういう料金体系になっているのかよくわからないまま
支払っている。(少なくとも私はよくわかっていない)

それよりも何よりも、いちばんわかっていないのは、
「自分はどのくらいの電気量があったら生活できるのか」
という、その必要量なのかもしれない。
…、わからないということは即、不安につながってしまうのである。
(p.94)

大震災のあとの計画停電のことを思い出す。

路上生活者の場合、
「12Vで動く小型テレビは、自動車用のバッテリー1台を使えば、
 1日5時間観たとして10日間くらいもつ」
というような具体的な数字がすらすら出てくるという。

だから、常に電線とつながっている必要がない。
必要な電気量がバッテリーに蓄電されていればいい。
基本使用料なんて、払う必要がない。

路上生活者と私とでは、電気とのつきあい方がちがう。

ちなみに、発電機で生活している路上生活者もいるらしいが、
こちらはガソリン代がかかる。
路上生活でありながら、冷蔵庫やエアコン、
電子レンジも使っているある人は、
月に1万円以上のガソリン代がかかるらしいのだが、
この方は節約生活を目的としているのではなく、
今の社会システムから独立して生きるために
独自のインフラを獲得しようとしているらしいので、
それもアリ、ということになるのだろう。

とにかくこの話の要点は、
「家とインフラはセットではない」
というところにある。

なお、ガスについては、カセットコンロを使うコツと、
カセットコンロの銘柄にもこだわってみよう、
という話が書いてある。

そうして今度は「水道」の話になっていくのだ。

(つづく)
 2013.09.02 Monday 12:31 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』 permalink  
【都市型狩猟採集生活】、仲間とつながる
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
を読んでいる。



さて、衣服、食事、寝床が手に入った。

かつての生活では、衣食住という「安心」を得ることが
生活の目的だったかもしれないが、
都市型狩猟採集生活においては、
これらの「安心」は最初から揃っている。
ここが目的ではない。

では、何が目的になるのか。

坂口さんは、本来、人間というものは、
生活そのものからさまざまな刺激、興奮、感動を受け、
偶然起きるとてつもない出来事を
楽しむために生きている、と考えているのだそう。

なので、ここから先は、
どうすればこの生活がもっと面白くなっていくか、
というのがテーマになる。

というわけで、まず何をやるかというと、
仲間とつながること。

アパートに住んでいたころは、
隣に住む人の顔も知らなかったかもしれないが、
都市型狩猟採集生活ではそうも言っていられない。

ここでは思考停止状態で過ごすことは不可能だし、
他人との出会いを活かさないと、
自分の生活の可能性はどんどん縮まってしまう。
 心配することはない。彼らがモンスターである可能性はとても低い。なぜなら、彼らもきみもお互いに奪い合うものを所持していないからだ。
(p.49)

そうしてどんどん話しかけていくと、
気のあう人たちを見つけることができる。
そして、いろいろなことを教えてもらい、
いろいろな経験を積んでいくことができる。

都市型狩猟採集生活では、
お金よりも経験値のほうが重要。
しかも、お金は使えばなくなるが、
経験値は一生減ることがない。

また、人が集まる場所には、さらに人が集まる。

そこにはいろんな人がいる。

誰にでもなにかひとつは得意なことがあり、特徴がある。

食材の入手方法を知っている人、
料理が得意な人、
電化製品の修理ができる人、
絵を描くのがうまい人。
そのとき、きみは、人間という生き物が多様な技術を持った個の集合体であることを実感するだろう。
(p.51)

自分だって何か得意なことはありはしないか?

それを周りの人のために使ってみる。
ギブ&ギブ&ギブで。



ここでいったん本をはなれる。

いま言ったことは、
「自分が得意なことを提供し、
 他の人の技術の恩恵をあやかる」
と言い換えてもいいと思うのだが、
これは、ちきりんさんの日記の
個人にとってのクラウド・ソーシング
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130802
にある、
個人にとって大事なことは、
・自分が得意な、高付加価値の仕事をクラウドソーシングで請負い、
・自分が不得意な仕事は、どんどんクラウドソーシングで調達する
に近い構図の話かもしれない。

しかし、構図が同じなのに、
印象がまったく違うのはなぜだろう?と
またまた首を傾げてしまう私。

もちろん、お金のやりとりがあるかないかの違いは、
大きいと思うが、それだけではないような気がする。

それから、この機会に追記すると、
自分で読み返していて気になったので、ちょっと追記>低価格ワーク
のなかで、
なので、日本に住み続け、日本で働く私たちの
「働き方は大きく変わる」という、
その内実がどういうものになるかは、
また別に考えていかなくてはいけないと思うのだが、
と書いたが、それに関連する記事がひとつ、
ちきりんさんの日記にあった。↓

あなたの孫はインドか中国で生まれます
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20090714

ふう…

ため息が出ます。

これを読んだ10歳以下の子どもをもつ保護者、
(2009年の段階で10歳以下なのでわが家も入る)
あるいはこれから保護者になる人たちは、
どうすればいいのか。
(もちろん、そんな答えはちきりんさんは書いていない。)

わが子が(4)にならないように
(あるいはできれば(5)にもならないように)
対策を立ててがんばり、
(1)〜(3)に対応できるよう準備すればいいのだろうか?

とりあえずわが家の場合、娘の希望をきいたところ、
(5)でいいんじゃないか、ということになった。
生活できればそれでいい、とのこと。

だって、そういう生活のなかにも、しあわせはあるよ?

ちきりんさんは、たぶん私と同年代ですよね。
シアワセでとんでもない時代を生きてきたお仲間()が
ここにもひとり・・・

なお、ちきりんさんは、
遠い国の子供たちを不幸にする意味
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130829
という記事を書いておられ、
この文章にも何かギザッとしたものを感じてしまうのだが、
(背景に高度な、あるいは基本のマーケティングがあるのかしらん?)
わが子を救うもっともよい方法は、世界中のすべての子供を救うことなんです。
という部分には賛同する。

それから、このツイートもまさにその通りだと思う↓ https://twitter.com/InsideCHIKIRIN/ status/285547861293293568



都市型狩猟採集生活にもどると、
このあとは例の「おいしい食事のありか」の話になり、
(先に「食事」のところで 書かせてもらった)
娯楽スポットの話になり、
(路上の雀荘があるんですってよ!)
師匠を見つける話になり、
生業を見つける話に入っていく。

この「生業」の話は、けっこうページ数も割いてあって、
へぇ〜と思う話も書いてあって面白かったのだけれど、
興味のある方は本を読んでいただくことにして、
次は、電気や水道といった生活インフラ(公共インフラ)を
とらえなおす話に入ってみたいと思う。

(つづく)
 2013.08.30 Friday 11:17 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』 permalink  
いわゆる「ホームレス狩り」のこと
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
を読んでいる。



1つ前の記事で、
「ザ・ベスト・ダンボールハウス」のことを書いたが、
このハウスにはスライド式の屋根がついていて、
完全に閉じると、外からはただの箱に見えるそう。

で、坂口恭平さんは、この話より前の部分で、
簡単なダンボール寝床の作り方を示しているのだけれど、
ダンボールの上部を閉じて自分の寝姿をかくすことは
あまりお勧めできないと書いている。

なぜなら、人は姿の見えない対象のほうが
“攻撃しやすい”から。

なんの話かといえば、いわゆる「ホームレス狩り」の話。

どんなに想像力が乏しい人でも、
相手の身体が見えていると危害を加えることに躊躇するから、
安全確保のためにも、自分の身体を
少しは見える状態にしておいたほうがいい、と。

なるほど、そういう面はあるかもしれないなぁ…と思うが、
もちろん、身体が見えていれば安心かというと、
そんなことはないわけであり。

たとえば、こういう事件の場合。↓
(ニュースのタイトルの意味がずれているのでURLのみ/
 ツッコミが入っている動画をリンク)
http://say-move.org/comeplay.php?comeid=94075

彼らが襲った人はホームレスではなかったのだけれど、
彼らが襲おうとしたのはホームレスだったので、
そういう意味では「ホームレス狩り」なのかもしれない。

この事件では、ベンチの上に寝ていた男性のうえに、
オイルの入ったビニール袋をのせ、
ライターで火をつけたのだという。

普通に考えると、
おそらく生身で寝ていたと思うのだが、
まっぽす人間の姿が見えていても、
オイルをのせて火をつける、
つけてしまうことができる人がいる、
ということになる。

他人の身体に起こることの想像力は、
いちどシャットアウトしてしまうと、
もうどうにもならないのかもしれない。

それ以外にも、検索していると
いろいろな事件やそれについての考察の記事が
ひかっかってくる。↓

■(世田谷区の事件/2009年1月)
http://www.youtube.com/watch?v=RpSyurCCSR8

■ホームレス狩りを楽しむ少年の心(2009年7月)
http://blog.goo.ne.jp/masao19481/e/ 5a0f89b5f15a93fe39da38ef910a08fa

■襲われるホームレス(2012年11月)
http://webnews.asahi.co.jp/cast/offreco/121108.html

■野宿者襲撃・年表 2000〜2012
http://www1.odn.ne.jp/~cex38710/attackchronicle.htm

■ホームレスのテントに花火 中学生2人逮捕
 「スリル味わいたかった」東京
http://blog.livedoor.jp/sokuhoublog/archives/30446680.html

自分ならどうするか考えてみたのだけれど、
やはりできることなら、
身体を見せて相手の想像力を頼りにするよりも、
ただのダンボール箱のように見せて、
そこに人がいるのがわからないようにできたらいいなぁ、
と思うことであった。

あと、長い期間、同じ場所にいないほうが
いいのかもしれない、とも思ってみたり。

それにしても、キャンプ場などではない野外で、
どこにどう寝床を作るか、ということを考えていたら、
避難所運営訓練を体験したときに考えたことを思い出した。

あのとき、私が避難所にお世話になることはないだろう、
それは厳しいだろう、と思ったのだ。

そんな状況のときに
ダンボールが手に入るかどうかはわからないけれど、
ある程度柔らかいし、保温性もあるようなので、
一応の知恵として、
頭に入れておいても無駄にはならないかもしれないな…
と思うことであった。
 2013.08.29 Thursday 10:50 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』 permalink  
【都市型狩猟採集生活】、そして「寝床」
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
を読んでいる。



衣服も調達できたし、食事もすませた。
となると今度は「寝床」がほしい。
(酒、たばこ、シャワーについては割愛)

「住居」としてもいいのだが、
とりあえず眠れればいいし、
昼間は解体できるという意味で「寝床」を考えると、
やはりダンボール箱の出番。

確かにこの素材は役に立つし、どこででも手に入る。

私は娘が小学校3年生のときに、PTAの仕事の関係で、
大きめのダンボールが何枚も必要になったことがあり、
時間をかけて集めたときに、
大きめでそろったサイズのものを集めるコツを学んだ。

たとえば、ドラッグストアのA店では
外にたくさん置いてあるので、
お店の人に声をかければもらい放題。
あとは、目指すメーカーの箱があるかどうか。
これまでも利用していたお店だったのに、
ダンボール置き場を意識したことがなかった。

また、スーパーのB店では、大きめのものは
お店の人に言って裏からもってきてもらうことになるが、
お店でも使うらしいので、一度にたくさんだと
いい顔をされない。

だから、「お目当てのダンボール箱」に入っている品物の
セールの日を目指すなど、日ごろの観察力が大事。
そうふうに意識していると、お店のおにいさんが
商品を並び終えたあとのダンボール箱を、
店内から裏にまわすときの様子も目に入るようになる。
これまで見えていなかったのだ。

普通のダンボール箱であれば、引越しや宅配便などで
これまでももらったことがあったが、
大きめのがほしいときには、
それなりのコツが必要なのだな、
そしてコツがわかれば難しいことはないのだな、
と知ったしだい。

というわけで、ダンボール箱は
どこででも手に入るわけなのだけれど、
(本の中では、お店でもらってくることは想定されておらず、
そこらあたりから拾ってくるものだとされている)
同型のダンボール箱4枚を作って使ってつくった
「ザ・ベスト・ダンボールハウス」が
イラストで紹介されている。

外から見れば、ただの直方体。
(いや、中に入っても直方体だろうけれど)

美しい。

寝床の完成形って、こうなんじゃないだろうか。
(結果的に棺桶型!?)

けっこう暖かいらしく、
真冬のいちばん寒いとき以外は毛布などもいらないのだとか。
しかも軽量で、すぐに解体できて、すぐに作れる。

すばらしい。

もちろん、「場所」の問題はあろうが、
(そしてそれは大きいだろうが)
「寝床」の機能としては、
これで十分なのではなかろうか。

この話をきいて思い出すのは、
All About のシンプルライフで紹介されていた、
次の記事↓
究極のシンプル旅スタイル「野宿」の達人登場
http://allabout.co.jp/gm/gc/416364/

達人は女性。
しかも、初の野宿は高校1年生のときで、
国道の側溝の中だったそう。

金子由紀子さんが紹介するシンプルライフも
ついにここまで来たかと私は思った。

金子さんはこの文章を
西行、芭蕉、山頭火――。
という一文で始めておられるが、
先の「ザ・ベスト・ダンボールハウス」の住人の暮らしぶりを
坂口恭平さんは「方丈庵を作った鴨長明もびっくりの、
最先端ミニマムライフ」と書いておられる。

 この住人の方は、日中は小さなバッグひとつで行動するそう。
 ダンボール箱はどこででも手に入り、
 持ち運びの必要がないので。

おのずと、砂漠のサイーダさんのことも思い出す。

やっぱり、日本の都市部は、エジプトよりも、
ノマド生活が送りやすいのかもしれない。
水もどこにでもあるし。

そして、「怖いのは人間」()という点も、
ある程度共通しているのではないか、と、
自分がダンボールハウスライフや
野宿生活をすることをイメージしてみるなかで思った。

坂口さんは、明るくて人通りの多い場所なら
安全なのでは?と考えていたそうだが、
そういうところは寝心地がわるいそう。

落ち着いて眠ることができないし、
他者から攻撃されることもあるので。

路上生活者によると、
公園などの公共施設、河川敷、橋や高架の下などが
狙いめだそう。

ちなみに、先の野宿の達人は、
公園、無人駅、道の駅などに泊まっているのだとか。

達人の野宿場所の選び方のアドバイスとしては、
公衆トイレのチェックなどが有効らしい。
「落書きがない」「掃除が行き届いている」所。
なるほど。

また、「寒さをしのぎやすい所」
「トイレに近い所」「虫の来ないところ」など、
その時なにを自分が重要視するかによっても、
野宿地は変わってくるとのこと。

さらに、法的にはグレーゾーンであることも多いので、
近隣に住む方に迷惑をかけないことは必須、とのこと。

季節の選び方にもコツがあるらしい。

この「法的にはグレーゾーン」というのは
もちろん路上生活者にも言えることであり、
このあたりについても考えたいのだけれど、
この「法」に関しては、
坂口恭平さんの別の著書『独立国家のつくりかた』で
なるほどねぇ〜〜と思う記述があったので、
いずれそのことについても書いてみたい。

というわけで、本格的な「住居」ということになると
新規参入は難しいかもしれないが、
一晩限りの「寝床」ならば、場所さえ見つかれば、
なんとかなりそうですよ〜〜

 2013.08.28 Wednesday 15:00 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』 permalink  
炊き出しについての追記と、フードバンクのこと
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』は、
2010年8月発行なのだけれど、そのなかには2003年当時の
台東区周辺の炊き出しスケジュールが掲載されている(p.26)。

この表の中にあるのは、
SSS(NPO法人の路上生活者向けの簡易宿泊施設)、
http://www.npo-sss.or.jp/index.html
上野公園、千住新橋教会、隅田公園、吾妻橋、
白髭橋、駒形公園など。
SSS以外の主催者はよくわからず。

1つ前の記事でリンクした中止のニュースは
駒形橋の炊き出しで、山友会がやっていたものらしい。

また、その後、2012年3月発行の都内炊き出し一覧表を見つけた。
(文字化けするのでエンコードで自動選択したら見られた)↓
http://www.geocities.jp/food_bank2007/HTML/suiji.html
(台東区庁舎前でもやっているのですか!)
やはり教会が多いという印象がある。

ここにある「フードバンク」が
一般名詞なのか固有名詞なのかわからなかったのだけれど、
(ウィキペディア:フードバンク
「セカンドハーベスト・ジャパン」(http://2hj.org/)は
炊き出しMAPのなかに名前が含まれていた。

そっかぁ〜、私なんか、
2000万トンの計算をして終わりだけれど、
ちゃんと行動を起こす人は起こしているのだなぁ・・・

また一方で、こんな意見も見つけた↓

キレる準備はいいですか?
http://daisuke-m.com/621.html

それ以外にも、検索していると、
ボランティアに参加した人の話なども読むことができる。

路上生活もこれから先、
形が変わっていくんだろうなぁと思う。
変わっていかざるを得ないというか。
なお、pha著『ニートの歩き方』(2012年)によると、
やはりホームレスはつらいようだ、という話(p.175)。

坂口恭平さんの本に出てくるような年代の人は、
もう生活が確立しているのでだいじょうぶかもしれないが、
若い人の新規参入は厳しいかもしれない。

やっぱり若い人でホームレスになりそうな人は、
ひとまず支援団体の人に相談するのがよさそう。
(phaさんもそれを勧めている)

すでに何度が書いてきているが、
phaさんの本や坂口恭平さんの本を読んでいると、
「いっそふつうに賃金労働で働こう」 という気持ちも生じてくる。
私にこの力はない、と。

路上生活やニートは、それができる人がやることというか。

だけど、いざとなったらどうにかなる、
なんとか生きていける、ということは
心にとめておいてもいいような気がする。

それから、ニートや路上生活のことを考えていると、
いまの生活をするなかでのヒントももらえるし、
考えるための新しい視点をもらえる。

なお、坂口さんの本や、炊き出しの写真などでは、
女性のホームレスの存在を感じることができないが、
このあたりについても機会があったら
ちょっと知りたいな、と思っているところ。

 2013.08.27 Tuesday 12:15 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』 permalink  
【都市型狩猟採集生活】、次に「食事」
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
を読んでいる。



さて、次は食べるもの。

ホームレスと食事といって思い出すのは、
漫画『美味しんぼ』の辰さんや、
映画『たんぽぽ』のセンセイ、
あるいはノッポさん演じる浮浪者が作るオムライス。

 ちなみに、『美味しんぼ』の原作者である雁屋哲さんによると、
 浮浪者とホームレスは区別されるべきものであるらしい。↓
 http://kariyatetsu.com/blog/373.php

これらは完全なるフィクションなのか、
それともモデルがいるのかはよくわからないが、
そこまでグルメ生活ではないにしろ、
やはり路上生活者は食事にも困っていないらしい。

東京都に限れば、初心者はとりあえず
(当時は毎日)炊き出しのある台東区に向かえ、
ということになるようだが、
(本には2003年のスケジュールが載っている)
ちょっと調べてみたところ、駒形橋の炊き出しは、
2009年3月末に中止になるという記事を発見した。↓
http://www.asahi.com/special/08017/TKY200903130167.html

その後、再開したかどうかはわからない。

山友会>アウトリーチ・炊き出し↓
http://www2.gol.com/users/sanyukai/outreach.html

とりあえず、東京23区・炊き出しマップというサイトを
見つけたので、リンクしておきます。(2012年?)↓
http://www.ikimap.com/map/ dong-jing-23qu-chui-kichu-simatupu

あと、こういう意見も見つけたのでリンクしておきます。↓
「ホームレスに炊き出しをしているボランティア団体って、
 一見は善人に見えますが、無能なバカだと思いませんか?」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/ qa/question_detail/q1074394985

ちなみに、坂口恭平さんが話をきいてきた路上生活者たちは、
みんな最終的には炊き出しに並ぶことをやめているのだそう。
「炊き出しに頼ると、自分で努力しようという気持ちがなくなってしまう。そこが落とし穴なんだ。自分で何とかしようと思ったほうがしっかり稼げるし、おいしい飯にありつけるんだよ。不思議なものだけどね」
(p.27)

で、そのおいしい食事のありかとは。

たとえば賞味期限切れのコンビ二の弁当。
ただし、大手業者は外部に渡らないように
廃棄弁当を管理するようになっているらしいので、
チェーン店ではない個人営業のコンビ二がいいらしい。
そういうところは、廃棄弁当を箱に入れて
店頭に置いていたりするのだそう。

あとは、食堂の残りものをビニール袋に入れて
玄関ノブに掛けてくれたり、
寿司屋が酢飯を室外機の上に置いといてくれたり、
パン屋で売れ残りのパンをくれたり。

びっくりしたのは、毎週、ある一般家庭の余った夕食を
弁当箱に詰めてもらっている人もいるのだとか。
直接顔をあわせたことはないけれど、
毎週決まって、おいてくれるのだそうだ。

ここで気をつけなければならないのは、「採集」の際に、
絶対に周囲をちらかさないようにすること。

坂口さんが取材した人たちの中には、弁当をもらったあと、
ホウキとチリトリで周囲を掃除する人もいたのだそう。

もちろん、ぼーっとしていても食事にはありつけない。
何しろ狩猟採集生活。
高い解像度の視点を持って街を歩き回り、
自分なりの食事方法を見つけねばならない。

私は、まだこの本を読む前、
(pha著『ニートの歩き方』を読んでいたころ)
とあるCMを思い出していた。

公共広告機構のたぶん1996年ごろのCMで、
太った猫がゴミ箱の中から出てきて、
「輸入してまで食べ残す、不思議な国ニッポン。」
という言葉が示されるもの。
http://www.youtube.com/watch?v=pgXC0ZOHaHs

また、ベーシックインカムについて考えていたときに、
小飼弾さんのブログの記事
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51412308.html
のなかで次の文章に出会った。
インフレなのに、ものは余っている。「失われた20年」の中にいるはずの日本で、2000万トンの残飯が出ている。

この「2000万トンの残飯」には次の記事のリンクが貼ってある。

2000万トンの残飯(2008年5月5日)
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51045604.html

年間2000万トン、供給量の4分の1、11兆円・・・

日本の人口を1億2700万人と考えると、
2000万トン÷1億2700万人=約0.157トン/人
つまり、1人が1年間に157kg食べ残していることになる。
365日でわると、1日約430g。これってたぶん、
大きめのコンビ二弁当1個分くらいの重さですよね?
(計算間違ってない?)

1人1日4食分供給されて1食分捨てられるとすると、
とりあえずざっくりと計算はあう。

日本国民全員が、1日にコンビ二弁当を
1個ずつ捨てている計算になる。

そんな国で、食べられない人がいるって、
どう考えてもおかしいんじゃなかろうか。

とにもかくにも、衣服、食事も、
ないわけではないのだ。
っていうか、大量にあまっているのだ。

それをどうやって狩猟採集していくかというのが、
都市型狩猟採集生活の技になる。

で、コンビ二弁当もいいけれど、
もっと食材にこだわりたいという人は
スーパーマーケットが狙い目だそう。

無報酬でゴミ捨て場の掃除をやりますから、
そのかわりに余った食材をください、
と直談判してみる。

実際、坂口さんが取材したある人は、
この方法で毎日新鮮な食材を10人前以上もらってきては、
みんなで分け合い、料理していたそう。

そのほか、居酒屋が集まっているテナントビルの
廃棄食材から肉と魚を手に入れている人もいるそう。
肉は塊で出てくるし、
ブリが丸ごと1匹でることもあるのだとか。

 だからやっぱり料理はできたほうがいいし、
 魚はさばけたほうがいいですね〜。

スーパーに陳列されている商品のことは、
“あちら側”の人たちに任せる。

まったく同じものなのに、陳列棚からおろされたとたん、
それらは「ゴミ」あらため<都市の幸>となる。

うまくやれば、毎日食べきれないほどの
<都市の幸>を採集できる。

それはとうぶんの間、湧き水のように湧いてくるということを、
先の2000万トンという数字が保証してくれる。
小飼弾さんの言葉を借りれば、市場経済が保証してくれる。

なんてこったい。
 きみはもう時給や月給で働かされる雇われの身ではない。生活のすべてが仕事である。一挙一動に神経を注ぎ込もう。
(p.53)
 2013.08.27 Tuesday 09:13 坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』 permalink