順列組み合わせとしての人間、個と全体の生物学(pha的ニート道の核心)
難しいタイトルになってしまったが、
「順列組み合わせとしての人間」も
「個と全体の生物学」も
pha著『ニートの歩き方』の中にある言葉。

ちなみにこの本には、もっともっと別の話、
ニート暮らしのための具体的なノウハウ
(たとえば住居やお金の支払い、
 証明書・保険・年金、
 どうしても困ったときの支援団体、生活保護、
 そして小金稼ぎのことなど)
がたくさん書いてあるのだが、
そのあたりが読みたい方は、是非直接読んでいただくとして、
いよいよ(?)ニート道の核心にせまっていきたいと思う。

以前、鈴木健『なめらかな社会とその敵』のことを
このブログでも少し書いたけれど、
結局、pha著『ニートの歩き方』も
同じ時代性のなかで綴られたものだということを
読むほどに感じている。

おそらく、いま現在、
(近代以降の)「自己」と、
「自己」を前提にした「全体性」が、
根本的なところから問い直されている、
そういう時期にきているのではないかと思う。

そんな流れのなかで、
「多様性」や「層」という言葉がキーワードになるというのも、
なるほど頷ける話だ。
また、仏教がはやるというのもよくわかる。

なぜ私はphaさんにこんなに惹かれるのか、
ようやくわかってきた。
私がここ数年で出会ってきた人(著者)のなかで、
いちばん、自己を解体して生きている人だからだ。

解体というのは、自己をなくすことではない。
“あわい”を生きるということ。

phaさんは、自分が何かをやってうまくいったときにいつも、
この成功は別に自分がすごかったからではなく、
たまたまその場所に自分がいたからというだけにすぎない、
と思うのだそう。
(この前に「自己責任」の話が書いてあるのだが、
 phaさんは何事も自己責任と不可抗力を半々で考えている)

自分がたまたまAという土地で育って、
Bという知識を持っていて、
CやDやEという知り合いがいて、
Fという土地に住んでいて
Gという趣味を持っていたという、
その組み合わせが偶然うまくいくことがある。

そのAからGまでの要素の組み合わせを持っている
他の人がいれば、自分と交換可能なのだけれど、
AからFまでは揃っていて、
最後の要素がGじゃなくてKだったりQだったりして、
微妙に配列が違うと、
それぞれ異なる人生が展開がしていく。

それは、単なる偶然の結果だ、と。

そういう考え方のもと、
phaさんは何かがうまくいってお金が入ったりしたときには
ある程度を他人に分けるようにしているらしい。

全部を人にあげてしまうほど聖人じゃないし無欲ではないけど、
それを得たのは自分だけの責任ではないという気持ちがあって、
たまたまお金を得られた自分が、
たまたまお金を得られていない人に
おごったり何かをあげたりするのは、
phaさんにとって生きる上での
「税金」みたいなものであるらしい。

phaさんの手にかかると、保険制度も税金も、
まったく新しいものに見えてくる。
いや、本来そういうものだったんじゃないか、
と思えてくる。

また、その少しあとでは、
長谷川英祐『働かないアリに意義がある』をとりあげ、
集団は全体で一つのもの、
ということについて書いてある。

アリの集団では、2割くらい働かないアリがいるけれど、
8割の働くアリだけを取り出して集団を作ると、
そのなかで反応閾値の低い2割はやっぱり働かないらしい。

結局、あるアリが働くかどうかは、
そのアリ自身が持っている性質ではなく、
アリの群れ全体とのバランスの兼ね合いで
決まっているものなんだ、という話。

つまり、集団と個体は切り離して考えることができない。

このことに関連して、さらに生物学的考察が進められていき、
真木悠介(見田宗介)『自我の起原』が紹介されている。
 自分の身体の内側を見ても外側を見ても、どこまでが自分自身であるかというのは思っているほど自明なものではない。自分とは一体どこまでが自分なのか。
(『ニートの歩き方』p.255〜256)

phaさんの考えていることは、
鈴木健さんの考えていることと、
ほとんど同じだと私は思う。
そして私もそのことを、
ずっと考えてきたように思う。

しかも、phaさんはすでに、「なめらかな社会」を
局所から実践している。

鈴木健さんの提唱しているPICSYや分人民主主義は、
それを実際に本気で社会に組み込む、
つまり「実装」するためには、
なんらかの法的整備が必要だろうと思うし、
動かしていくための大規模なシステムの構築がいるだろうし、
多くの人の同意、少なくとも、
それを走らせるための集団内の同意がなければ、
始められないものだと思う。

PICSYや分人民主主義は魅力的だが、
究極の目的はその方法論の中にあるのではなく
「なめらかな社会の実現」にあるのであれば、
PICSYや分人民主主義を「実装」するよりも、
pha的ニート道をまったりじわじわ広めていくほうが、
話がはやいのではないか、という気がしてきている。

それから、PICSYや分人民主主義を本気で「実装」するときは、
「核」と「膜」を完全になくせないのではなかろうか、
という疑問もある。
このシステムを取り入れるためには、最初の段階で
何かを制御する必要があるのではなかろうか?

でも、pha的ニート道は違う。
人々がそれぞれのやり方で、
個人レベルですぐに実行できる。
しかも、賛同できない人はやらなくていいのだ。
それこそ多様性を受け入れる社会ではなかろうか。

そのことに気づいたのは、
phaさんとちきりんさんの対談を読んだことも
ひとつのきっかけになったのかもしれない。
(ここの部分↓)
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1003/26/news007_2.html
 そこで思ったことは、僕はたくさんの人が反応してくれること自体は嬉しいんですが、意見の内容はわりとどうでもいいんですよね。賛同されてもそんなに手放しで嬉しいわけじゃないし、批判されてもそんなに落ち込まない。ただ僕が何か書くことがきっかけで、いろんな人が自分の考えを刺激されて自分の考えを外に出してくれればそれでいいと思っている。自分の意見が支持されるかどうかはあまり興味がない。
 僕の考えが意見を出すきっかけになればそれでいいし、僕のブログのコメント欄が意見を吐き出す場所になればそれでいいですね。先にも出た多様性の話で言えば、いろんな意見を持っている人が共存していることは大事だと思いますし
なんだか小池龍之介を思い出す↓
『考えない練習』から、「書く」こと&コミュニケーション

しかもphaさんの場合、
インターネットによる人と人とのつながりを素直に受け入れ、
そこから得られるものをしなやかに享受し、
なおかつ「慢」の欲がないのだ。

ある意味ちょっと、うらやましい。

pha的ニート道、深い。
 2013.08.12 Monday 11:36 『ニートの歩き方』 permalink  
感覚を大切にするということ/「だるい」から学ぶこと

pha著『ニートの歩き方』を読んでいる。



「第2章 ニートの日常風景」のなかに、
「だるい」というタイトルの一節がある。

「だるい」というタイトルだけきくと、
それだけでだるくなるけれど、
実際に読んでみたら、
「まさかそういう話の展開になるなんて…」
とちょっと驚く内容だった。

「だるい」というのはphaさんの口癖らしく、
実際、私がphaさんのブログや
Twitterをのぞきはじめたばかりのころ、
だるそうな空気が漂っていた。

私もけっこうめんどくさがりやだが、
こういう「だるい」感じはあまりない。
「億劫」ということはしょっちゅうあっても。

ただし、

 

予定なんて入っていないに越したことはない。

(p.152)
という部分にははげしく同意する。

私はスケジュール帳が白いほど安心するタイプなのだけれど、
世の中にはそうではない人もけっこういるらしいと

別の本を読んで思ったことがあり、ちょっと驚いた。

っていうか、そちらのほうが主流なのかな。
でないと、こんなに世の中、
いろいろなことが発展していませんよね…

phaさんいわく、
「だるい」という感覚は
もっと大事にされるべきものだ、と。

 

 

それは自分がやりたくないこと、自分が本当はやらなくていいことを見分ける重要な感覚だ。

(p.153)

phaさんはこの感覚を直感とも呼んでいるのだけれど、
確かに大切なことかもしれないとあらためて思った。

「だるい」じゃなくてもよくて、
たぶん人によってちがうと思うのだが、
「なんだかイヤな感じ」「しっくりこない」
「居心地がわるい」「心が塞ぐ」「気が重い」
といったような感覚は、
きっとメッセージなのだ。

そのメッセージをきちんと受け止めて、
行動の指針にしていくということは、
わが身を守るのに、
けっこう大切なことなのではなかろうか。

たとえ明確に言語化できなくても、
あるいは、頭で考えることと矛盾していても。

これは第2章の最初の一節である
「集まっていると死ににくい」のなかの
「合わない場所には行かなくていい」
とも関係してくると思うのだが、
どうにも学校に行きたくないときには、
「だるい」って言って休んでしまえばいいのだ。

「悪い場所からはできるだけ早く逃げよう」という
phaさんの言葉には、深いものがあると感じている。

頭で理路整然と考えようとしたり、
他の例を参照したり、常識に照らし合わせたり、
自分を説得しようとしていると、
逆に答えがわからなくなっていくのかもしれない。

そういうときにはやはり直感が大事で、
直感をキャッチするには、
日ごろからそういう感覚に鋭敏になり、
自覚し、素直になっておく必要があるのだろう。

まわりの顰蹙は買うかもしれないけれど。

(だから、できるだけ顰蹙をかわないよう、
 早い段階で「だるい」をキャッチして
 NOを出すのもミソかも。)

ちなみに、こうも書いてある↓

 

 

 

(まあ、だるくても頑張らないといけない場合はよくあるし、自分が休むことで他の人に「だるい」を押し付けることになるのはあまり良くないので、他人に迷惑をかけない範囲において「だるい」は尊重されるべき、ってことだけど)(それでも最悪、自分の身は自分で守る、ということは覚えておかないといけない)

(p.153)

このような感覚を研ぎ澄ますと、
人は自分で思っているよりも
「ねばならぬ」で動いていて、
それを支えているのは、
意外にも他人の価値観なんだってことに
気づくこともできるのかもしれない。

で、さらに面白いことに、phaさんは、
「だるい」は空から降ってくる、とも書いている。

私の「めんどくさい」「億劫だ」という気持ちには、
まだ自分の「NO」という意志が入っているが、
「だるい」はそうしたところも曖昧になっている、と。

「自分がやる気がない」のか
「やりたいけど気力がない」のか
「やりたいのに体力がない」のかも
はっきりしていない。

また、「やったほうがいいけど自分がたりたくない」のか
「そのやるべきことがどうでもいい内容だからやりたくない」
のかも曖昧。

 

 

自分が悪いのか相手が悪いのかその仕事が悪いのか、誰に責任があるかも分からないし責任の所在をはっきりさせる気もないし、とにかくだるいから仕方ないのだ。「だるい」という自然現象が突然発生したからもう人間にはどうしようもない、という感じだ。
 本当は世の中のものは何でもそんなもんじゃないかと思っている。誰が悪いとかじゃなくても何か物事がうまく回らないってときはしょっちゅうあって、そういうときは誰のせいにもせず、「だるい」って言って休んでいればいいのだ。

(p.154)

そっかぁ、phaさんの「だるい」には、
そんな深い意味があったんだぁと思ったあと、
この一節は次の一文でしめられていて、笑ってしまった。

 

 

 

 なんで俺は「だるい」についてこんなに熱弁しているんだろう。だるい。

(p.155)

 

 

 2013.08.11 Sunday 15:49 『ニートの歩き方』 permalink  
ニートと生活リズム、そして「ニート道」
4泊5日の帰省からもどってきた。

今回は何も本を持っていかなかったので、
書籍『ニートの歩き方』をはなれて、
ニートについて考える時間もあった。

で、思ったこと。

やっぱり、ニートをずっとやっていくのって、
大変だろうなぁ…ということ。

たとえば私の場合、いまは娘の夏休み中なので、
私も夏休み中の気分になっている。

しかし9月になれば、また学校が始まる。
学校が始まると、1日や1週間のサイクルがもどってくる。

年間のサイクルに応じた学校行事もあるし、
次は中学校、次は高校というふうに、
年齢に応じて大きな節目が次々とやってくる。

その時々では、いろいろと忙しかったり、
気を遣ったり、緊張もするのだけれど、
結局、このような繰り返されるサイクルと節目が
自分の心身を整えている面があるように思うのだ。

ニートでずっとやっていくということは、
これらのサイクルを自分で整えるか、
あるいは整えずに暮らしていくということであり、
それはけっこうしんどいんじゃなかろうか?

収入や貯蓄がないという不安定さに、
生活リズムの不安定さが重なるわけなので。

以前、他人と住むのは一人暮らしより面倒か?という記事で、
「一人暮らしを快適に健康に持続させるためには、
 自分で自分を律する力が必要になると思う」
と書いたが、裏をかえせば
他人と住むと生活リズムが整いやすくなる、
ということでもある。

しかし、そういうことが言えるのは
生活リズムを整えざるを得ない人との共同生活の場合であり、
好きなときに寝て好きなときに起きる
ニートばかりが集まって暮らしていると、
生活リズムはますます乱れていくような気がする。

そうなるとおそらく、身体が疲れてくる。

身体が疲れてくると、生活が楽しめなくなる。

これじゃあ、働いて疲れているのと
さしてかわりがないのではなかろうか。
しかも、ニートの場合、収入もないわけであり。

phaさんのブログで、ある方がコメントしていたように、
たぶん、働くのがいちばんラクなんだと思う。

でも。


生活サイクルを自分で整えて、
身体がしんどくないニート生活ってのも
あるのではなかろうか、
なんてことを考えている。

こうなるともはや、「ニート道」かもしれない。

なんというのか、社畜という言葉を使っているうちは、
まだ“アンチ賃金労働”だと思うのだ。

それから(phaさんはそんなことは言っていないけど)、
「働いたら終わり」なんてことを思う必要もない。

どうしたら、不本意な労働をせずに、
安定した収入や貯蓄がない状態で、
健康に豊かに暮らしていけるのか、
それを模索する道というのはあるような気がする。

なんだか私ってば、『ニートの歩き方』から、
えっらいものを読み取ろうとしているのかもしれない。
っていうか、読み取りたいんだな、きっと。
 2013.08.10 Saturday 15:08 『ニートの歩き方』 permalink  
ニートの食生活

pha著『ニートの歩き方』を読んでいる。



さて、ニートはどんな食生活を送っているか?

phaさんは、食は生活の基本であり、
料理はニートの基礎教養ととらえている。
自炊ができるかどうかで
ニート生活の質はかなり変化する、と。

また、別にニートに限った話ではなく
「お金はいくらでもあるから
 料理なんてお金を払って人に作らせりゃいいじゃん」
というお金持ち以外は、
みんなある程度の自炊能力、
最低自分が満足できる食べ物を作れる能力
を身につけておくべきだと思う、と。

ニートのなかには、
お金がなくて自炊もしない人もいるらしく、
ひたすらインスタントラーメンを食べていたり、
白米に醤油をかけただけのものを食べていたりするらしい。
たまに外食しても、牛丼屋とか立ち食いそばとかばかり。

そんなものばっかり食べていると
健康にも悪いし精神的にも滅入ってくるので良くない、
きちんと自炊をすれば
インスタントラーメンとあまり変わらない値段で
ちゃんとしたものが食べられるのだ、とphaさん。

こんなふうに、pha風ニート暮らしは、
けして自分の日常生活をおざなりにする
自堕落な暮らしではない。

ニート暮らしの行動原理は、
「できるだけ働かない」ということだが、
それは賃金労働をしないということであり、
日常生活にまつわる一切のことをやらない、
ということではないだろう。

賃金労働をしないので、
結果的にお金のない生活になり、
そのなかでいかに楽しく生きていくか、
それを模索した暮らしだと思う。

phaさんいわく、ニート生活を楽しむには
お金のかからない暇潰しを持っていることが大事で、
料理はそういった点でも最適、とのこと。

凝ったことをしようとすればいくらでもやることはあるし、
自分の食費も浮くし健康にもなるし、
他人に振舞うこともできる。

それから、料理が作れると人とつながりやすい。
「カレーを大量に作るよ」とか「鍋やるよ」とか言うと
人がたくさん集まってくる。

さらに、料理が作れると、
他人の家に居候できる確率がかなり上がるらしい。
ちゃんと料理を作ってくれるなら
家賃はいらないからうちに住んで欲しい、
っていう忙しい勤め人は結構いたりする、
とも書いてある。

別の章で「一家に一人、ニートを置こう」と
いう話が書いてあって、これも面白かったのだが、
(家にいつもいてくれる人がいると、
 生活のあれこれで便利だし、
 人々をつなぐハブになるもなるという話)
こういう話をきくと、
おのずと「主婦」の存在を思い出す。

もちろん、直接、主婦の話に結びつけると
ジェンダーの波にもまれてえらいことになりそうだし、
専業主婦(あるいは女を)ニート呼ばわりするのか!
ということになってしまいそうなので
気をつけなければならないのだが、
当然のことながら、この存在は女性である必要はない。
また、「主夫」である必要もない。
婚姻関係にある必要はなく、恋人関係である必要もない。

何しろギークハウスの発案者のニート暮らしなので、
あたりまえといえばあたりまえのことかもしれないが、
こういう意味での「支え合う暮らし」、
あるいは適材適所の日常生活は、
「新しい家族の形」につながる発想だという気がする。

ちなみに、自炊をするときに役に立つ
サイトやマンガなどの紹介もある。

私もクックパッドそのほか、
よくお世話になっているけれど、
インターネットってほんとに便利。
何しろタダで情報を得られるのだから。

また、買い物は1回1回の料理で考えるじゃなくて、
1週間くらいのスパンでまとめ買いをしたほうが安くすむよ、
そのへんは主婦向けの「オレンジページ」「レタスクラブ」
が参考になるよ、ということも書いてある。

phaさん、けっこう研究熱心〜
何しろ生活かかってるから…!?

もし、自炊がすっごくイヤ、めんどくさいと思ったら、
ニートになるのはやめておいたほうがいいかもしれない。

そう。この本、ニートに向いてる人と向いてない人を
振り分ける機能もあるような気がする。

人によっては「いっそ働こう」と思うように
なるかもしれないですよ。
 

 2013.08.03 Saturday 13:50 『ニートの歩き方』 permalink  
保険会社を介在させない保険制度、新しい経済活動としての相互扶助
pha著『ニートの歩き方』を読んでいる。



phaさんは、ネット経由で
名前も顔も知らない人から
ときどきお金をもらっているのだそう。
「今お金がなくてこんなに困っててヤバイ」とか
「こういうことをやりたいんだけど
 お金が足りないので誰かカンパしてください」
ということを丁寧に説明すれば、
結構もらえるのだとか。

この、「丁寧に」というところが
ミソなんだろうと思う。

たとえば、あるイベントに参加したくて
台湾に行きたかったけれど
お金がなくてカンパを募ったときのことや
風邪をひいたときに「オダイ ジニ」さんから
お金が送られてきたときのエピソードなど。

phaさんいわく、個人のキャラクターや
告知のうまさにも左右されるので、
誰でも簡単にできるものではない、とのこと。

きっとそうだろうと思う。

もしかすると、一般的な営業よりも大変かもしれない。
勇気がいるし、誠意がいるし、文才がいるし。
(一般的な営業にも必要なことだろうが)

そういえば昔、
とある教育関係のアルバイトを始めたばかりのとき、
本格的に仕事を始めるまえに、
営業の電話をかけさせられたことがある。

そもそもOKをとりつけたい気はさらさらなく、
失礼にならないようにしながらも
基本やる気のない電話をかけていたのだが、
やる気がないほうが
先方が興味をもってくれる場合がある、
というのを学んだ。

「何かお手伝いできることはありませんか〜
 ないようですね〜」
って感じで切ろうとすると、
電話先のおかあさんが、
もうちょっと話したそうにしてたり。

で、社長(だったのか?)が話していたのだが、
昔、その会社に、
電話営業がすごくうまい人がいたらしい。
面白いエピソードをきいたのだが(詳しくは割愛)、
たぶん、相手の不安をあおるのが
うまかったんだろうと思う。

こういう営業って、考えてみれば、
「あなたの不安や不便さを解消して、
 あなたをちょっと幸せにするものをあげるから、
 お金ちょうだい」
と言っているようなもんですよね?

一方、ネットによるニートのカンパ募集は
「僕が困っているから余裕のある方お金ください」
「こういう面白いこと考えているけど
 資金がないからだれか力をかしてください」
とアナウンスするわけであり、
先の会社の営業と意味は違うけど、
こっちはこっちで、
お金をまわしていく営みではなかろうか。
しかも、モノやサービスを介在させずに。

この考え方を進めていくと、
phaさんが書いているように、
保険会社という胴元を必要とせずに、
保険制度と同じ効果が成り立つし、
政府という胴元を必要としない、
所得の再配分が成り立つ。

もちろんこの保険制度や再配分には、
細かい取り決めはないから、確実な保障はないし
(逆にいえば限界もない)
やってみないとわからないところはあるけれど、
「面白い人を応援したい」
「困っている人を助けたい」
という気持ちは、人々のなかに
けっこうみなぎっているということを、
私もネットをながめながらしみじみ感じていて、
意外と成り立つんじゃなかろうか、
という気がしている。

たとえば、話のニュアンスは少し変わるが、
私が住んでいる自治体のなかで、
福島県の子どもたちのために
とある活動をしている人たちがいて、
私自身はその活動をお手伝いできないのだけど、
募金はできる(というかしたい)ので、
過去に1000円×3回ほど振り込んだことがある。

最初は、ひとり親家庭で支援を受けている私が、
こういう募金することはアリなんだろうか?
と考え込んだのだけれど、
おかげさまで安定した生活が送れているし、
アリという結論を出して、募金したしだい。

もしかすると私は、
震災や原発事故のことを憂いながら、
何も行動を起こしていない自分の後ろめたさを、
この募金でほんの少し解消しようとしたのかもしれない。
つまり、後ろめたさ解消の機会を
「買った」のかもしれない。
こういうお金の使い方は、不謹慎だろうか。

しかし、先日、案内がきたときには、
預金残高と相談して入金をやめた。

以前、「自分が苦しくてもやるのがボランティア」
という考え方をどこかで読んだことがあるのだが
(そんなにヘンな話でもなかった)
上記のようなお金のやりとりは、
もしかするとボランティア精神によるものではなく、
新しい経済活動なのかもしれないと、
このたび思った。

phaさんが、
「人にお金をあげるのはコンテンツ」
ということも書いていて、
セブ島の大喜利ハウスの話
(落研の先輩にセブ島に送りこまれたニートの話)
の例などを示しているのだけれど、
もしかすると、こういうお金のやりとりって、
TV番組「世界1のSHOWタイム〜ギャラを決めるのはアナタ〜」
みたいなことを、
もう少し意味の幅を広げて、たくさんの人で、
ひとりあたりは少ない額で
やるようなものなのかもしれない。

phaさんはほかにも、
アマゾンの「ほしいものリスト」を公開していて、
そこからものを送ってもらうこともあるそう。
http://d.hatena.ne.jp/pha/20100114/1263446037
実は私もこのあいだのぞいてみた。

何か面白いもの、意外なものがあったら、
本のお礼にお送りしようかと思ったのだが、
いまのところ見つけられていないので、
保留となっている。
なんでもいいわけじゃないらしい。

 あ!そうそう、自分の話でいえば、
 別ブログで、興味をもっている
 ある本の書名を書いていて、
 結局、他の本を買った話を書いたら、
 それからしばらくして会った知人から、
 「これ読む?」と、
 買わなかったほうの本を渡されたことがある。
 (その人も、あるところでもらって、読み終わったんだって。)
 読みたい本の書名は、ブログに書いておくもんだなぁ!

念のために書いておくと、私は
ニート全般にシンパシーを感じてるわけじゃない。
phaって人、面白いなぁと興味をもっているのだ。

で、思うことは。

ニートで「成功する」(やっていく)って、
けっこう大変かも!ということ。

こりゃ、ふつーに働いたほうが、
むしろラクかもしれませんよ〜!?
 2013.08.02 Friday 12:25 『ニートの歩き方』 permalink  
シンプルライフの一形態としてのニート暮らし

pha著『ニートの歩き方』を読んでいる。



シンプルライフという言葉に明確な定義はないだろうし、
その意味するところは幅があると思うのだが、
とりあえずシンプルというからには、
「ごちゃごちゃしていない、
 無駄なものがほとんどない」
環境においての、
「自分にとってしっくりくる暮らし」
と考えていいのではないかと思っている。

で、シンプルライフには、
2つの流れがあるのではないか、
なんてことを個人的に感じている。

まずはインテリア系のシンプルライフ。
スタイリッシュというニュアンスでの「シンプル」。
素敵なお部屋、こだわりのアイテム、
すっきり収納のコツやアイデア。


で、もうひとつは、自給自足系を含む、
自然派ミニマリスト方向。

たとえば、
All About で金子由紀子さんが紹介されている
マーク・ボイル『ぼくはお金を使わずに生きることにした』
の翻訳者の吉田奈緒子さん。
http://allabout.co.jp/gm/gc/394269/

あるいは、つい先日、
常見藤代さんのツイート経由で知った、
『電気代500円。贅沢な毎日』のアズマカナコさん。
http://www.f-tsunemi.com/blog/nomad/886/


で。


phaさんはといえば。

 

 

 

 シェアハウスの管理人をすることで家賃を安く済ませ、食事は自炊中心。服にはこだわりがないのでほとんど買わないし、買うときはユニクロなどが多い。服は人からもらったりもよくする。生活用品は百均で大体揃う。本は図書館で借りるかブックオフで買う。ゲームは友達に借りる。音楽はレンタルCD屋で借りる。たまに旅行をするときは格安バスか青春18きっぷを使って、泊まるときはネットの知り合いの家に泊めてもらう。暇なときは考えごとをしながら家の近所を散歩したり、家であまり上手じゃないギターを練習したりしていれば退屈しない。
 人と遊ぶときも、家で飲み会をやったりオフ会をやったりすることが多いのでお金はあまりかからない。誰かの家やシェアハウスで肉を焼いたり鍋を囲んだりしながら、発泡酒や安いワインを飲んでいればそれでわりと幸せだ。
 もともとあまり物欲がないせいか今の生活に不満はない。本と音楽とネットとゲームと、あとたっぷりの時間があればお金がなくても大体楽しく過ごせる。


(p.65〜66)

これはこれで、
ある種のシンプルライフではなかろうか。

本来はシンプルライフというより
あまりお金を使わない生活といったほうが近いけど、
かといって節約生活というわけではない。

ニート系シンプルライフには、
インテリア系のようなおしゃれ感は皆無なので、
(そもそもインテリア系は、
 生活水準がけっこう高そうですよね)
どちらかといえば自然派系に近いだろう。
しかし、決定的な違いがある。

それは、自然派ミニマリスト系が
いわば「少し昔に帰る暮らし」であるのに対し、
ニート系は現代でしかできない点。

phaさん風ニート系シンプルライフも
ある意味で自然派なのだ。
しかし、その「自然」は、
田舎暮らし、田んぼや畑や山や川ではない。

都会のなかに、人々のつながりのなかに、
インターネットのなかにある自然。

以前の記事で、「サイト作り」や「せどり」は
(「せどり」とはブックオフで本などを買ってネットで売ること)
山に入っていって栗を拾ってくるようなもんだ、
とphaさんが語っていることを書いたけれど()、
その続きではこんな言葉が綴られている。

 

 

 

 

 

サイトを作って広告を貼ったら毎日ちょっとずつお金が入ってくるのは、川に罠を仕掛けて放置して、一日一回見に行くと魚が何匹か入っているようなものだ。ブックオフの本棚を巡ってレア本を探すのは山に入ってきのこ狩でもしている気分だ。風向きや天気からその日の収穫を予想するように、サイトのアクセス解析や広告の売上レポートをチェックしたりもしていた。
 実際にはネットは人間が作ったもので、人間の活動の集合体ではあるんだけど、僕にとってはもうネット自体が人間から独立した一つの新しい自然として存在しているように思えた。
 その新しい自然の生態系はとても複雑で豊かで、いろんなもの(植物や動物や虫など)が活発に活動して絡み合っていて、その中をこまめに見て回ればなんとか自分が食べる分くらいは拾ってこれる。


(p.73)

私にとって、目から鱗の発想だった。

さらに、この少しあとで、
坂口恭平さんという方の話が出てくるのだけれど、
これがまた興味津々。

東京で暮らすホームレスを題材にした、
『TOKYO 0円ハウス 0円生活』、
『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
という本を書いておられるそうで、
なんでも、「隅田川のエジソン」と呼ばれている
ホームレスの鈴木さんという方の話も出てくるらしい。
落ちている物を工夫して使う天才なのだとか。

鈴木さんいわく、
「東京には何でも落ちているよ」。

ああ! きっとそうなんだろうと思う。

考えてみれば、粗大ごみではなくても、
道端に「ご自由にお使いください」という貼紙のあるものが
置いてあったりしますよね。

それいえば、うちの電子レンジがまさにそう。
しかも貼紙さえなかったらしい。
「らしい」というのは、直接私が見つけてきたのではなく、
知り合いが見つけてきたから。

どこかのオフィスが片付けをしている際、
道端に電子レンジが置いてあって、
これは捨ててしまうのかときいたら、
「まだ十分に使えるんだけどいらなくなったんですよ。
 使う? そういう人がいるかと思って置いといたんだよ〜!」
とタダでもらってきて、それを私がもらったしだい。

〔2013年9月6日追記〕
電子レンジの点検に来てもらってよかった〜


なんかいろいろ思い出してきた。
そういえば私、なんかよくものをもらうのだ。
しかも、向こうからやってきてくれる。

やっぱ私、ニートの資質あるかも!

もちろん、"もらいもの生活”には

それはそれで注意点があるだろう。

しかしとにもかくにも思うことは、

世の中に物が余っているということ。

鈴木さんの言葉をきいて、phaさんは思ったそうだ。
「東京には何でも落ちているかもしれないが、
ネットにも何でも落ちてるな」と。

ってことは、ニート暮らしって、
エコロジカルでもありませんか!?

すでにあるものをまわしていくし、
いろんな物をシェアしていくわけだから、
限りある資源を無駄遣いしないことにもなる。

なんだかだんだん、ニート暮らしが
クリエイティブに思えてくる私だった。

 

 

 2013.07.30 Tuesday 18:20 『ニートの歩き方』 permalink  
「働く母」がビジネスのターゲットになっていることについて

pha著『ニートの歩き方』を読んでいるところだが、
折りしもきのう、Twitter経由で知ったニュースが、
前回の記事に関連することだったので、
そのことについて考えてみたい。

そのニュースとは、こちら。

「“働く母親”市場を狙え」
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2013_0725.html

要は、「働く母の忙しさ」に目をつけて、
時間や手間を省くための新しい商品、
新しいサービスを開発し、
それをビジネスチャンスにつなげていくという話。

具体的には、
食事や食材の宅配サービス、
家事の効率を上げるための家電製品、
手洗いや漂白の手間を省くための
底の部分だけ灰色になった靴下、
“手作りふう”に仕立ててある前掛け。
(保育園から“手作り”を求められることが多いため)

前掛けは、ミシンがなかったり、
手縫いをする時間がなかったりする「働く母親」から
好評とのこと。

さらに、数分焼くだけで出来上がるパイ菓子。
母親が仕事から帰宅し、
慌ただしく夕食を作る間におなかをすかせて
ぐずり始める子どもに食べさせることを想定して
開発されたものなのだとか。
働く母親には“出来たて”を出せる“手作り感”が
大切だという意見も採用の決め手となったそう。

子育て中の社員を集めた
ランチミーティングの様子も示されていたが、
こういう発想で開発された商品を、
実際にその会社で「働く母」が使う場面を想像すると、
面白い話だなぁ、と思う。

ただし、現役の保育園ママではなく、
先輩ママの、過去の苦労をふりかえったうえでの
意見なのかもしれない。

幼稚園ならともかく、保育園なのだから、
こういうときに保育園の先生に、
「先生、どうして手作りがいいの?
 既製品じゃ何がだめ?」ときいてみるとか、
「すみません、ミシンも手縫いする時間もなくて、……
 出産祝いでもらった前掛けがたくさんあるから
 それを使ってもいいでしょうか?」ときいてみるとか、
たぶん義務ではなく推奨だと思うので、
この際、無視する(気にしない)とか、
そういう対応だってできるんじゃないだろうか。

わざわざ「手作りふう」に見せかけた商品を買うよりも、

そっちのほうがよっぽど、
子どもに対して誠実だという気がする。

また、既製品を使うことに後ろめたさを感じないほうが
自分に対しても誠実だという気がする。
(ちなみにどうでもいい話ですが、
 うちは小学生の娘が学校で使う雑巾を
 近所のスーパーで買ってます)

私も、娘が1つめの幼稚園に入園するときに、
入園説明会かなにかで必要グッズ一覧を渡され、
「どれかひとつは手作りを・・・」といわれた覚えがある。
そんなもんなんだ〜と思いつつ、
特に洋裁は苦ではないし、時間もたっぷりあるので、
何か作った覚えがあるが、
「そんなに喜ぶ?」と不思議になるくらい
娘が喜んだ記憶がある。

ママが一生懸命だからか、
なんか面白そうなことをやっているからかは
よくわからない。

そして父親もがんばってはさみカバーを作ったのだが、
娘のいないところでチクチク縫ったもんだから、
できあがりを見ても娘はピンときていない様子だった。

で、私は学んだ。
幼稚園の先生がどういう意図で
手作りを推奨したかはわからないけれど、
手作りをするそのプロセス、
幼稚園で使うものが
目の前で生み出されていくその過程に
意味があるのなかもしれないなぁ、と。
(赤ちゃんの場合はどうなるんだ?という話はあるが、
赤ちゃんのものも手作りが推奨されるのかな?
いずれにしろこれは一般論ではなく、私の発見です)

これから新しい生活が始まる、
その心の準備をする時間になったのかもしれない。

だから逆に言えば、1つでいいんだと思う。

私は先のニュースを見たときに、
自販機の「消灯」ではなく「撤去」の動きは生じるか?
でリンクした、
JR東日本ウォータービジネスの
「自販機イノベーション」宣言のことを
思い出した。
http://www.acure-fun.net/declaration/index.html


供給者起点から顧客起点へシフトして、
“ブランドミックス機”を推進し、
「お客さまに喜んでいただける売れ筋商品」等を
仕入れ、販売するという流通の再構築。

電子マネー“Suica”に徹底して対応させ、
「財布を出す必要がない」「小銭が増えない」
という利便性の向上により、客単価も若干上昇。
「バッグから財布を出す手間が省ける」ことから、
女性の利用を促す副次効果も見られた。

という話。

ビジネスって、こういうことなんだろうか?

ビジネスにもいろいろあろうかとは思うが、
商品開発やサービス開発に関わる人たちは、
毎日毎日こんなことを考えているのだろうか。

この作業は、主婦が毎日、
うちで淡々とやっているような家事よりも、
意味があることですか?

なんだかここでいう“イノベーション”って、
浅薄というか、けっこうレベルが低いと感じる。

働いている人たちは、
性別問わず専業主婦よりも「社会」に出ていて、
視野が広いはずなのに、
どうしてこんな方向に行くのだろう?
という素朴な疑問がわいてくるのだが、
たとえば先のランチミーティングにしても、
「どうしたら働く母がラクになるか」ではなく
「どうしたら、それを商品につなげられるか、
 利益につなげられるのか」
という視点で考えていくことになるんだろう。

その“イノベーション”が
私たちの生活や、感覚や、身体を変えていく。
気がつかないうちに。

だとしても、それがお金につながり、利益を生み、
市場を開拓するならば、
そこには大きな「価値」があるということに
なるのだろうか?

そのビジネス界には、もちろん「働く母」もいるだろう。

そうして「働く母」は、ある程度お金を持つことになり、
今度は、時間と気持ちに余裕のない人として、
「ビジネスチャンス」のターゲットにされてしまう。
つまり、「消費者」にされてしまうのだ。

そうしてお金をまわしていくことが、
景気回復なんだろうか。
それが人を幸せにする道筋なんだろうか。

ここ数十年いろいろあったのに、
ほんとにいろいろあったのに、
基本的な考え方・価値観が
何も変わっていないような気がする。

あまり日本の未来を考えても、良いニュースは待っていなさそうだ。
 しかし、それでも東南アジアの発展途上国なんかと比べてみると、やっぱり日本はまだまだ恵まれているほうだと思う。ごはんは美味しいし道路や水道や電気などのインフラは安定しているし、治安も良いし文化的にも豊かだし物もたくさんある。
 じゃあなぜ、日本に生きる若者がこんなに生きづらさや閉塞感を感じているんだろう。それは多分、日本の経済がまだ成長している頃に作られたルールや価値観が生き残っていて、それがみんなを縛っているせいなんじゃないかと思う。

(pha著『ニートの歩き方』/p.8)

 2013.07.28 Sunday 11:11 『ニートの歩き方』 permalink  
働かなくてはいけないという強迫観念と、ユーキャンのCM
pha著『ニートの歩き方』を読んでいる。



たとえば、日本で暮らす人の2割くらいの人が、
働かなくても最低限の暮らしができる、
そういう世の中になったとする。

なお、ここでの「働かない」は
「働きたいけど働けない」ではなく、
「働きたくないから働かない」場合を
想定している。

もしそうなったときに、働く側の8割の人が
そんなの不公平じゃないか!
俺たちががんばって働いているから、
その2割の人は暮らしていけるだろう
と不満をもったとする。

ということは結局、そういう不満を言う人も、
実は働きたくないんじゃなかろうか?

 いや、世の中には、仕事が楽しくてしかたない人も
 それなりの人数いると思うから、
 その方々にはどんどん働いていただくことにして……

働きたいのではなくて、
食っていくためには働くのがあたりまえ、
働かざるを得ない、
働くべき、
という意識で働いている人が
実はけっこういるのではないだろうか。

あるいは、働かないと不安というか。

pha著『ニートの歩き方』のp.10に、
「強迫観念」という言葉が出てくる。

「ちゃんと働かなきゃいけない、
 真っ当に生きなきゃいけない、
 他人に迷惑をかけてはいけない」
といった強迫観念。

私はこの本を、主婦向けに、
あるいはワーキングマザー向けに
アレンジできないかな、と考えているのだが、
それは、主婦あるいはワーキングマザーに
伝えたいからというよりは、
主婦あるいはワーキングマザーの視点で考えると、
働いて賃金を得ることと、
人間として豊かに暮らしていくことの意味が、
よく見えるような気がしているからだ。

こういうことを考えていると、
ユーキャンのCMを思い出す。
特に、富田靖子篇と、友近篇。

友近篇については、次のような感想ページを見つけた。
http://blogs.yahoo.co.jp/kerotyan0402/21354003.html
わが意を得たりの感想だ。

私は、20代ではいろいろな分野のアルバイトを経験したが、
それ以降は基本的に教育関係の仕事をしている。
しかし、結婚してすぐの頃に、
教材の仕事が減ったからだったか、
仕事の幅を広げようと思ったんだったか、
とにかく、ちょっと違うジャンルの
仕事をした時期がある。

それが、通信講座の添削員。ユーキャンではない。
もっと的を絞った小さな会社。
その仕事の技術をもっていない私が添削するんだから、
変な話ではある(マニュアルがあるのだ)。

基本は在宅で、出社は週に1回でいい。

ところがこの仕事、ものすごく率がわるい。
ノルマを果たすのも大変。
逆にいえば、これまでやってきた教材の仕事が
いかに自分に向いていたか、
いかに率がよかったのかということを
あらためて思い知る経験となった。

さらに「ところが」が続くのだが、
その会社では、私たちとは違う職種でも
人が雇われていて(たぶん在宅ワーカー)、
社員さんの話によると、
その人たちに比べれば、私たちの仕事は
グレードが高いとのことだった。

でもいずれにしろ、私たちはお金をもらうほう。

一方、生徒さんはといえば、
お金を払うほう(ですよね、普通に考えると)。

若い人たちや男性もいたのだろうとは思うが、
在宅でできる仕事の技術を身につけるための
講座だったので、主婦的立場の人が
けっこう含まれていたのではないかと
想像している。

しかし、生徒さんはとても多く、
たとえその技術を身につけても、
そんなに仕事(雇用先)があるだろうか?
という素朴な疑問があった。
(これは疑問ではなく現実だったと思う)

もちろん仕事はゼロではないだろう。
多くの生徒さんの中から、
最後まで残る、ほんのひとにぎりの
ものすごく優秀な人には
仕事があったんだと思う。
(だとしても、どれくらいの給料の仕事かは
 わからない。)

しかし、それ以外の人たちは、
いったいどうすればいいのだ?

その会社、うまいことやってるなぁと思った。
まずは講座で稼ぎ、
なおかつ、超優秀な人材を発掘する。
(会社を経由して仕事を出していたかどうかは
 よくわからない。)

仕事が欲しいから、仕事がしたいから、
まずはお金を払って技術や資格を身につけたい。
その「気持ち」が、商売の対象になっている。

とにかく率はわるいし、なんか納得できないので、
その会社の仕事は1年も続けなかった。
で、すでに書いたように、
教材の仕事は自分に向いていることを認めて、
もどってきたしだい。

 なんて書いていたら、
 ブログの編集画面にユーキャンの広告が出ていて
 笑ってしまった。
 ボールペン字講座だって。

言うまでもなく私は、
ユーキャンを批判したいわけではない。
しかし、働かなくてはならないという気持ちは
働きたいという気持ちに微妙にすりかえられて
それに「私らしく」や
「本当にやりたいこと」という
微妙な付加価値がつけられて、
それ自体がビジネスの対象になっている、
ということもあるのではなかろうか、
なんてことを考えてしまうのだ。

なぜ、先の感想ページにあったように、
仕事を辞めて家にいてゆっくりしていると、
取り残されたような、さみしい気分に
時々なったりするのだろう?

なぜ、仕事している人に、
なんだか遅れをとっているかのような
気分になるのだろう?

そのこと自体を、
もう少しゆっくり考えたい。
 2013.07.27 Saturday 14:22 『ニートの歩き方』 permalink  
pha著『ニートの歩き方』の読み心地

pha著『ニートの歩き方』は読み心地がいい。

まずは、著者の正直さが気持ちいいのだと思う。

それから、文章がおだやか。

淡々と歩く速さで進んでいく文章のリズムが
スムーズにページをめくらせてくれる。

人に無理強いをせず、自分を卑下したりもしない。
基本は「ぼくはこうしています」という報告書。

しかし、具体的に細かく書かれたその報告書の奥に、
とても深いテーマが含まれているように感じる。

私がここ数年、読んできたこと、考えてきたことが
いっぱい詰まっている気がしている。

また、ソーシャルネットを
さらっと肯定していることも清々しかったし、
インターネットを新しい自然ととらえているところも面白い。

「サイト作り」も「せどり」も、
山に入っていって栗でも拾ってきているような感じだ、と。

もし私がまだTwitterをやっていなかったら、
この本を読んで考え方がかわって、
Twitterを始めていたかもしれない。

phaさんがニートをやっていけることの理由が
何よりもこの本の読み心地に
あらわれているように思った。

書き言葉を使って、自分の思いを伝える力。
相手を動かそうとするのではなく、
ただ淡々と、自分の気持ちを形にする力。

なるほどこれだったら、
ネットでカンパしてもらったり、
欲しいものを送ってもらったりということも
起こりうるだろう。

ただし、もらいっぱなしではない。
そこがミソ。

この本の最後のほうに
「個体同士の共生から一つの個体へ」という
項目があるのだが、
phaさんは基本的に、集団は全体で一つのもの
と考えているのだと思う。

だから、
何かがうまくいってお金が入ったときには
ある程度を他人に分けているそう。
溜め込んだりしない。

このあたりについては、
いずれまたゆっくり。

とにかく私にとっては
「働きたくない」って言っちゃっていいんだという
そのことが、まず新鮮だった。

ただ、ちょっと意外に思ったのは、
phaさんが「社畜」という言葉を使っていること。
(ちょっとだけど)

そのへんもう、突き抜けちゃえばいいのに。

でも、突き抜けられないのが30代。

私は、現在の30代は悩ましい世代だと思っていたのだが、 phaさんによると、
30代とはそういうものであるらしい。

 

 

そして33歳の僕がここで言っているみたいに、若者に向けて、年寄りはうっとうしいけどそれは世界がこんな風になっているからなんだよ、って分かったようなことを語るのは三十代だと相場が決まっている。人間はそういうものなのだ。

(p.228)

 

 

 2013.07.26 Friday 14:17 『ニートの歩き方』 permalink  
pha著『ニートの歩き方』に出会った経緯
今年の5月に
久保田裕之『他人と暮らす若者たち』
を読んだ。

この本を知ったのは
ギークハウスのサイトに行ったのがきっかけで、
ギークハウスを知ったのは
佐々木俊尚さんと5人の若者の座談会を
web上で見たのがきっかけだった。
(上記リンク先にURLあり)

phaさんとこんな形で出会えてよかったと思う。

もし、何かのはずみで
ブログやTwitterで出会っていたら
なんだこのだるそうな若者は、
こっちまでだるくなるじゃないか〜
と思っていたかもしれない。

私はその後、ごくたまに
phaさんのブログや
Twitterを訪れるようになった。

ちょっと疲れたときなどに。

疲れたといっても、
家事や子育てや仕事に疲れたときじゃない。
もともと毎日たいしたことはやっていない。

何か別のもの・・・・・・たぶん
自分に疲れてきたときに。

で、pha著『ニートの歩き方』の公式サイトを訪れたら
鶴見済さんのコメントがあった。
http://text.pha22.net/neetest.html

コメントの内容よりも、鶴見さんのコメントがある、
そのことにいたく納得した。

公式サイトでは、
読者からの質問とそれに答えたQ&Aが読める。

たとえば、本を出しているのだから
ニートではないのではないか
という指摘もあるようで、
これについての返答もweb上で読める。
http://text.pha22.net/neetest/qa_neet.html

なるほど、と思った。

そんなこんなで、
この本に興味をもち、好印象をもち、
まずは図書館で借りてきてひととおり読み、
結局、購入したしだい(中古ですが)。

しばらく、この本を読んで感じたことを書いていこうと思う。
 2013.07.22 Monday 13:00 『ニートの歩き方』 permalink