自分で読み返していて気になったので、ちょっと追記>低価格ワーク
ちきりんさんが解説する、マイクロタスク型の
低価格ワークについて考えてみる。

において、時給1.66ドルの仕事の話を出したが、
「やらないでしょふつう」というのは
もちろん日本に住む私(たち)の感覚であり、
「新興国では、それでも十分に生活が成り立つ
 という人が大量に」いて、
先進国企業はネット上にて「一日10ドルでも働きたい!」という途上国ワーカーを、大量に集められます。
というのが話の本筋なのだと思う。

そもそもあの記事のタイトルは
「企業の競争力を左右する新しい労働力調達市場」であり、
テーマは「コスト削減」なので、
それを、日本で働く自分の立場から考えるのは、
筋違いといえば筋違いかもしれない。

なので、日本に住み続け、日本で働く私たちの
「働き方は大きく変わる」という、
その内実がどういうものになるかは、
また別に考えていかなくてはいけないと思うのだが、
(それがちきりんさんの本に書いてあるのかな?)
ひとまず、同じ時給で働かないと仕事がない状況を想定して
ああいうことを考えてみました。

ついでといってはなんですが、
こういうことを考えていると小池龍之介を思い出すので、
『貧乏入門』の社会的な視点と、仏道との関係 (1)
をリンクしておこうと思います。

あのときの「新興国」の例は中国だったから、
また話は変わるのかもしれないけれど…


先進国から仕事をもらえるようになった人々が住む
「新興国」は、どう変化していくのだろう…


そして世界は、どう変化していくのだろう…

 2013.08.23 Friday 09:51 pha著『ニートの歩き方』 permalink  
もやもやの意味が、やっとわかってきた。
pha著『ニートの歩き方』の帯に
推薦文を書いているちきりんさんの
ブログの記事に対する「もやもや」について、
あれこれ考えてきた。

ここまで書いてきて、
「もやもや」を総括する言葉に
ようやく出会えた気がする。

気がついてしまえば、単純なことだった。

いろんな人が言っているように、
これから先、国や組織や会社の枠の意味が薄れ、
働き方も変わってくるのだろうと思う。

しかし、今回私が触れたちきりんさんの視点は、
結局のところ、根本的には「20世紀の価値観の延長」で
その変化に対応しようとするものなのではないだろうか?

「コスト削減」「効率化」「分業」「スピードアップ」
「生産性向上」「市場原理」「競争原理」

「人件費の安い国に機関をつくって…」という発想も。

一方、phaさんの『ニートの歩き方』に、
私は未来を感じたのだと思う。
21世紀、あるいは22世紀を。

まだこのことに気がついていなくて、
大学院生がマウスの世話から
解放されるにはどうしたらいいのか、
そもそも解放されたほうがいいのか、
あれこれあこれこれ考えていたときに、
郡司ペギオ-幸夫さんの
『群れは意識をもつ 個の自由と集団の秩序』の
あとがきを締めくくる次の一節に出会った。

 沖縄県西表島における兵隊ガニ、ミナミコメツキガニの撮影は、効率の悪いものながら、愉しいものだった。ときには飛行機が台風で飛ばなくなり、石垣島に足止めされた。毎朝、飛行場で搭乗の順番を確認しながら、今日もダメかと宿へ戻り、暑くて寝てしまう。こうした繰り返しもいずれ心地よく感じたものだ。兵隊ガニの本格的な研究は、まだまだこれからだ。これからも院生たちと、西表の干潟に通い、群れのなかに社会の原器を見ていこう。
(p.285)

この一節を読んで、私はなんだかほっとした。

そして、少しもやが晴れたような気がした。

ついでにいえば、頭の中で、
「暑くて寝てしまう」郡司さんの姿が、
phaさんに置き換わったりして…(^^;

研究をやっていく人には、基本的に
こういうメンタリティが必要なのではなかろうか。

1年棒にふるのはあたりまえ、
下手すりゃ3年くらいは軽く棒にふる、
棒にふってもかまわない覚悟あるいは楽観性でもってして、
違うと思ったらその3年を切り捨てる勇気も
必要なのかもしれない。

そして実は、棒にふってはいないのかもしれない。

「短期間で高い成果をあげる」ことは、
ビジネスの世界では最重要事項かもしれないが、
それは研究の世界においては本分ではないのではないか、
と部外者ながらに思う。

(ただし、ビジネス界における研究、
 ビジネス界に非常に近いところにある研究は
 この限りではないという現実はあるのかもしれない。)

そしてこの感覚は、研究の世界にとどまらず、
私たちの日常生活においても
大切なことなのではなかろうか。

予定通りの行動ができなかったときに、
「ああ、貴重な滞在期間を一日無駄にしてしまう」
と焦るのではなく、暑いので寝てしまい、
その繰り返しがいずれ心地いいと思える余裕。

そういうなかで、
見えてくるものもあるのではなかろうか。

郡司ペギオ-幸夫さんの本のタイトルは
『群れは意識をもつ』であり、
サブタイトルは「個の自由と集団の秩序」なので、
本来であれば、あとがきを引用している場合ではなく、
もっとまともに取り上げるべき内容なのかもしれない。

なにしろ郡司さんは、
「社会の原器」を見ようとしているのだから。

しかし、それはまた別の機会に、
ゆっくり考えたいと思っている。

というわけで、もやもやを巡る旅は、
このあたりで締めくくることにしようと思う。

見えなかったものがだいぶ見えたのはうれしいし、
形にできてよかったと思うが、
こういうアプローチでブログの記事を書くのは、
やっぱりちょっとしんどいなぁ、と途中で思った。
だけど、書ききったほうがいいと思ったので、
書ききってみました。

そろそろ次に進もう。

 2013.08.22 Thursday 09:10 pha著『ニートの歩き方』 permalink  
大学院生が実験動物の世話をしなくてはならない現状があるとして、それについて考えたこと
pha著『ニートの歩き方』の帯に
推薦文を書いているちきりんさんの
ブログの記事に対する「もやもや」について、
考えている。



これまで読んできた記事はどれも最近書かれたものだし、
ベースに
『クラウドソーシングの衝撃
 雇用流動化時代の働き方・雇い方革命』
 (比嘉邦彦、井川甲作著)
という書籍があるようなので、
本当はこの本を読んでから
考えたほうがいいのかもしれない。

しかし、最初にリンクしたうち(
7年前の文章にも、
同じ価値観が含まれていると私は感じている。
ショウジョウバエ
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20060306

実際この記事は、比較的最近、
ちきりんさんのツイートで知ったので()、
(ちょっとのぞいてみるかという感じで読みにいった)
ちきりんさんにとっても現在進行形の問題なのだろう。

どういう話かというと、
生物、バイオ、遺伝子工学の進歩のためには、
大量の実験動物を「管理して飼育する」必要があるが、
それを大学院生がもくもくと続けているという現状があり、
この状況はあまりにももったいないんじゃないか?という話。

ちきりんさんがいうには、解決方法はないことはなくて、
それは何かというと、
「実験ラット育成機関」を人件費の安い国に作り、
きちんと管理し、
日々の作業はその国の人にやってもらうということ。

そういう仕組みを作れば、優秀な人の人生を
何年も「マウスの世話」に費やす必要もないし、
実験だってどんどんスピードアップできる、と。

実験動物を使うような研究は
実際に「多くの人のため」になる成果をあげる研究だから、
研究を効率的に進め、短期間で高い成果を上げるには、「マネジメント」もとても重要。ところが日本では、技術分野にプロのマネジメントをいれないという伝統?が強くあります。
と言いたくもなるのだろう。

旧態依然とした日本の研究機関のあり方に対する
ちきりんさんの提言には、
聞くべきところも確かにあると思う。

部外者なので想像でしかないが、
「それなくてもいいんじゃない?」とか、
「それ、私たちがやらなくちゃいけないですか?」
というような事務作業や余計な仕事が、
きっと研究機関や教育機関にいっぱいあって、
それを本来の仕事が圧迫しているということは
確かにあるのだろうと思う。

研究というものは、もともと、
時間をたっぷり必要とするものだと思うから。

大学時代のサークル仲間で
(確かバイオ関係だったと思うが)
その方向の研究をしている人がいて、
「自分たちがやっているような研究は、
 楽観的な人じゃないとできない」
と言っていたことがある。

仮説を立てて実験データをとるからだろうか、
「丸一年、棒にふる」ということも
めずらしいことではないらしい。

そんなふうにして、
基本的に研究というものは時間がかかるものであり、
ならばせめて、他の人でもできることは他の人に頼み、
意味のあるところに時間と労力をかけられるような環境を
研究者たちに提供すべきというのは、
確かにそうかもしれない。

だけど、それを、
「(こちらから見れば)安くでやってくれる人に
きちんとやってもらって、ハイ解決」
みたいな感じで言われると、
私は10秒単価0.01ドルでテープ起こしをしながら(
ねずみの世話もしなくちゃならないのか…
という気分になってきて、“だるさ”が倍増してしまうのだ。
(という考え方がものすごく傲慢だということを、
 あとで知ることになる)

私はこの段階ではまだ、
国内に専門の会社があることを知らなかったので、
アルバイト感覚で他に方法はないか考えたりしていた。

まず思ったのは、
実際に実験・研究する人の目が届かない、
遠くはなれた場所にある機関に飼育をまかせると、
「きちんと管理」の部分が
けっこう大変だろうなぁ・・・ということ。

なので、飼育自体は学内ですることにして、
大学院生の無償奉仕ではなく、
学部生の廉価なアルバイトにしたらどうかと考えてみた。

しかし、このご時勢、いま話題にあがっている“いい大学”に、
苦学生ってあんまりいないかもしれない、と思いなおした。
いまだったらランサーズで募集かな。

では、ボランティアを募集したらどうか?
研究のためにとても大切な仕事であることを伝えたうえで。

しかし。

たとえば動物保護の仕事ならば、
ボランティアが集まりやすいかもしれないが、
ボランティア精神のある人が、
実験動物の飼育に心が動かされるだろうか?

じゃあいっそ、動物実験なしで研究できる道を
考えるというのはどうだ?ということも想像してみたが
これがいちばん難しそうだし、
実はこれが可能になった状況というのも、
けっこうこわいものがあるかもしれないと、
よくわからないままぼんやりと思った。

ううむ。

やっぱり人件費の安い国に、
「実験ラット育成機関」を作るしかないだろうか。

で、実情を知るために、
実験動物の飼育について検索をするなかで、
国内に専門の会社があることを知った。

株式会社ケー・エー・シー
http://www.kacnet.co.jp/

実験動物飼育管理業務というのは
実際に飼育するということだと思うのだが、
もしそうならば、
このような会社に委託する、
このような会社から購入する、
という道があるのではなかろうか。

しかし、会社案内の「ご挨拶」に、
大手製薬会社の創薬研究や大学・国公立研究所の生命科学研究のお手伝いをしております。試薬提供業務では、国内では容易に入手できない生体由来の研究材料を研究者にお届けしています。
とあるところをみると、
生体由来の研究材料は
国内では容易に入手できないようなので、
おそらく供給量が足りなくて、
生体をまわせるのは試薬提供業務のみ、
(基本的には製薬会社なんだろうか?)
大学に対しては、たとえ東大だろうと京大だろうと、
「お手伝い」にとどまるのかな、と勝手に想像した。

ほんとに完璧に管理飼育されているから、
大学内で院生が行うレベルの研究、
あるいは初期の段階の研究では、
もったいなくて使えないのかなぁ、
高くてとても手が出せないのかなぁ、
と思ってみたり。

というか、供給量が全然足りていないのだろうか。

サイトの説明を読んでいると、
(考えてみればあたりまえのことながら)
きちんとした教育が必要な業務だとわかった。

さっきの自分の発言をかえりみるにつけ、
私が小金稼ぎでできるような仕事ではないと深く反省した。

ちなみに、『ニートの歩き方』に示してある小金稼ぎには、
「治験」も含まれている。
これは新薬を発売する前の最終的な実験台みたいなもの
(法的に必要なデータをとるためのもの)らしいので、
考えるなら、マウスを飼育する側ではなく、
マウスの側にまわらねばならないのかもしれない!?
(でもたぶんもう年齢的にアウトかしらん!?)

大学院生の立場からみれば
「こんなことに時間をとられるなんて…」
と思える仕事も、それを専門とされている方は、
誇りと責任感をもってやっておられるのだなぁ、と感じた。

そう考えると、研究をするためには、
きちんと管理飼育された実験動物が
不可欠なことをよく知っていて、
なおかつ、そのような管理能力を
それほど苦労せずに身につけられるであろう
大学院生が管理飼育に従事するというのは、
とりあえず妥当なようにも思えてくる。
(先の会社のサイトにあった作業のプロセスを見ていると、
確かに大変そうだけれど…)

いや、だからこそプロにまかせて、
それ相応の対価をはらって仕事をお願いする、
そういう研究環境が整えられないか検討する、
という考え方もできるかもしれない。

「優秀な研究者がやることではない」から外注するのではなく、
別の知識と能力が必要な仕事なので、
プロに外注できるシステムを作る、
というふうに考えていくと、
なるほどそれは必要なことかもしれないと思えてくる。

で、調べてみたら、関連会社はほかにもあるようなのだ。


株式会社ジェー・エー・シー
http://www.jac-co.co.jp/

株式会社エーテック
http://atec-net.co.jp/service.html

三協ラボサービス株式会社
http://www.sankyolabo.co.jp/

(実験動物管理業務の人材派遣会社の求人広告)
http://haken.rikunabi.com/K/1893123010_130808_3.html? PHPSESSID=5d9396aa9b75c162a99b195c93445380%22

(求人そのものもけっこうあるみたい)↓
indeedというサイトで検索をかけてみた結果


ということは、わざわざ大学用の飼育機関を
人件費の安い国につくって管理するよりも、
同じ予算内で、国内にあるこれらの会社やシステムを利用して、
大学院生を「ねずみのお世話」から解放する道は、
あるのではなかろうか。

というようなことを考えるためにも、
マネジメント能力にたけた人が研究機関に必要、
ということならば、
なるほどそれは検討すべきことかもしれない、
と思えてくる。

(つづく)
 2013.08.21 Wednesday 09:54 pha著『ニートの歩き方』 permalink  
中学生や高校生が「市場から学ぶ」ということについての抵抗感
pha著『ニートの歩き方』の帯に
推薦文を書いているちきりんさんの
ブログの記事に対する「もやもや」について、
考えているところ。



きょうは、以下の記事について考えていこうと思う。
「低価格ジョブ」は、民主的な市場に不可欠
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130804

ちきりんさんは、
「廉価な仕事が市場に溢れていることも
 一概に悪いとは言えない」ことについて、
中学生の文章作成アルバイトの例を出している。
 
これをふたつやって月に 2万円のお小遣いが得られたら、「中学生のちきりん」にとっては、他のどんなバイトより圧倒的に楽に稼げます。今でもそういう(文章を書くのが好きで得意な)中学生は、たくさんいる。

中学生の彼ら・彼女らにとって(それがたとえ他人のアフィリエイトブログであったとしても)自分の文章が売れ、公開されるのは嬉しいことのはず。その上、もしも文章力や洞察力が認められたら、その後のキャリアチャンスさえ手にできるかもしれません。


いえ、そこまでいかなくても、彼らは顧客からフィードバックを得ることで、どんどん文章力を伸ばしていけます。学校では、平均的な文章力の子供に合わせた指導しか得られません。それでは作文の得意な彼らには、物足りない。

でも、大人からお金をもらって仕事を受ければ、たとえそれがどんなに安い値段でも、様々な学びを得、成長の機会を手にできるはずです。こうやって彼らは“市場から学び”、学校教育の枠を超えて、その力を伸ばしていけるのです。
 
なるほど、きくべきところはあると思う。

しかし、大きな違和感もある。

その違和感を脇においといて先を読むと、
後半でモロッコ人の男の子の話が出てくる。



ちきさんさんが昔、ポルトガルから船に乗って、
モロッコの港に着いたときのこと。

船着き場で待ち受けた
モロッコ人の男の子(10〜13歳くらい)に付きまとわれ、
でも最後には迷路のような旧市街で
ホテルやレストランに案内してもらいと、
とってもお世話になったそう。

彼は流暢な英語を話し、
フランス語とドイツ語もペラペラ。
観光客が知りたがることを先回りして説明できる
聡明な子供だったらしい。

ちきりんさんは2日間ほどその子にガイドをしてもらった後、
日本から持参していたカードに、
簡単なお礼を書いて(ガイド代とともに)渡そうとした。

そしたら、浮世絵の女性像が描かれたカードを見ながら、
その子は言ったのだそう。
「きれいなカードをありがとう。
 でもコレ、なんて書いてあるのか、読んでくれますか?」と。

そのカードに書いたのは、
本当にシンプルな英語でのお礼だった。

今まで話してた彼の英語力で、読めないはずがない。

だけどそう言われて、ちきりんさんは気がついた。

彼は年齢にそぐわないほど大人びた物言いをし、
文法的にもきちんとした英語で話せるのに、
“THANK YOU”の文字さえ読めない。
学校で(教科書とノートを広げて)
英語を習ったわけじゃないから。

複数の外国語を口と耳から学び、
あれほど流暢な英語を話しながら、
アルファベットさえ読めない少年。

「市場から学ぶ」っていうのは、こういうことだ、
とちきりんさんは言う。

市場の需要があることと無いことは、
ここまで厳しく峻別される、と。

彼には「仕事につながらない知識」を
学ぶ余裕も理由もない。

彼の職場において、
「読み書き」にはなんの需要もない。

ちきりんさんは、ちょっとの間フリーズしたあと、
彼のために自分の書いた文章を音読しながら、
ゆっくりとコトの意味を理解し、
財布からあらたに数枚の米ドル札を取り出したそう。

「彼に渡すべきは、浮世絵柄のカードなんかじゃなくて、
 こっちなんだとわかったから。」



ちきりんさんはこの経験から、
「市場から学ぶことの意味」を
学んだということなのだろう。

一方私はこの話をきいて、
こういう子どもたちが、
労働や市場原理から解放されて、
「学ぶ」ことができることこそが、
教育の意義ではないのか?
と思った。

ということについて、
あえてちきりんさんの土俵で考えてみる。

子どもである彼が労働から解放されて、
勉強をすることができたなら、
市場では何の意味もなさそうに見えることを含めて
たくさんの知識を得るだろう。

文字がわかれば本が読めるし、文章も書ける。

そうすることで彼の世界はぐんと広がり、
モロッコで観光客を待ち受けていたときには
考えられなかったような未来が開けるかもしれない。
(2016年2月4日追記:別の選択肢が得られるかもしれない)

私は、schoolの語源がスコレー(閑暇)であるという話を
ずいぶん前にきいて感動して、
それ以来、ことあるごとに思い出しているのだけれど、
(ウィキペディア:スコレー
ギリシャの「市民」ではなくても学問ができること、
生まれや家庭状況に左右されずに
だれでも「学ぶ権利」が得られること、
それが成熟した社会なのではなかろうか?

という発想自体がすでにずいぶん古いもので、
それこそ近代が生んだものかもしれず、
実際に学校で行われていることを含めて
いろいろ問い直すべきことはあると思うが、
かといって、市場原理で子どもが成長するという発想が、
前向きなものとも思えない。

で、最初の「違和感」にもどると、
私は中学生や高校生がお金稼ぎをしたり、
お金稼ぎのことを考えることが
おかしいと思っているわけではない。

たとえば、むかし家庭教師をしていたころ、
生徒さんのなかに、お金に関する意識の高い中学生がいて、
その子と話をしていると、三平方の定理の証明の話が
なぜか「消しゴム付鉛筆がそうとう売れたらしい」
という話につながったりして面白かった。
(三平方の定理と鉛筆が関係するのではなく、
 三平方の定理の証明のアイデアに感動して、
 それがお金に結びつかないか考えたらしい。)

確か彼は学校の課題レポートで
「株」をテーマにすることになり、
いっしょに東京証券取引所に見学に行った覚えがある。
(自分もこの機会に行きたかったから、
 おかあさんに提案して許可をもらったんだったかな)

また、高校生で会社をつくった大関綾さんのことを
テレビで知ったときも、面白いなぁと思った。
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1291019590847.html

さらに、個人指導塾でアルバイトをしていたとき、
小学校6年生くらいならば、月謝についての話もしていたと思う。
(たとえば、お休みしたときの料金体系などについて)
あるおかあさんに、少し迷いながら
「私は生徒さんにお金の話もしてしまうのですが…」と伝えると、
「先生のそういうところで(ところもあって)、
 娘は先生を信用しているのだと思います」
と言ってもらえて、ほっとしたことがある。
ただし、このあたりの考え方は家庭によって異なるだろう。

だから、中学生や高校生がお金を稼ぐなんて、
あるいはお金を稼ぐことに関することを考えるなんて、
とんでもないとは思っていない。
考えたい人にはどんどん考えてほしい。

だけど、クラウド・ソーシングの意義を
そういうところに見出すのは
ちょっと違うんじゃないのか?と思うわけのだ。

思うにたぶん。

私はさして、
「市場」を信用していないのだと思う。

ただ、ちきりんさんが何かの本で、
市場という言葉を怖がらないほうがいい、
といったようなことを書いているのを読んだとき、
なるほど確かにそれはそうかもしれない、
私はこの言葉を少し怖がっているのかもしれない、
と反省した。

「市場」をよく知り、
「市場」とうまくつきあっているちきりんさんが使う、
「市場」という言葉に、
私はもう少し謙虚になったほうがいいのかもしれない。

と同時に、「市場」を味方につけているちきりんさんが、
「話し合って決める」ことを幻想と言い()、
民主主義とは最終的に多数決だと考えていることは
とても辻褄があっていると感じている。

(つづく)
 2013.08.20 Tuesday 09:21 pha著『ニートの歩き方』 permalink  
ちきりんさんが解説する、マイクロタスク型の低価格ワークについて考えてみる。
pha著『ニートの歩き方』の帯に
推薦文を書いているちきりんさんの
ブログの記事に対する「もやもや」について、
考えているところ。

とりあえず記事のカテゴリーは
pha著『ニートの歩き方』のままに
しておこうと思う。



ちきりんさんは、
「戦力外労働力」の市場参入が始まる
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130718
において、
今までは「時間と場所の制約のために、活用されていなかった仕事力」が、(個別にはごく僅かだけれども、合計すると実は)ものすごい量、存在していたわけです。
と書いているが、私はこのことを13〜14年前に実感した。

というのも、
働かなくてはいけないという強迫観念と、ユーキャンのCM
で、一時期「通信添削員」のアルバイトをしていたと書いたが、
それがまさにテープリライターの講座だったのだ。
(後に続く記事で、ちきりんさんは「テープ起こし」を
 マイクロタスク型の仕事として例にあげ、
 企業のコスト削減について解説している。)

けっこうな数の添削員が働いていて、
私はノルマも達成できずにひーひー言っていたのだが、
「いつやってるの!?」と思えるくらいの量を
出社日に抱えてくる優秀な人もいて、
それでもオフィスの棚の中には、
未添削の提出物がぎっしり詰まっていて、
いったいどーすんのよ!?と思ったものだった。

それだけ、テープリライターになりたい人が多かったわけなのだ。
おそらく、在宅でできる(比較的高収入の)仕事として、
このジャンルを選ばれたのだろう。

ちなみに、私が関わっていたのは小さな会社だったし、
たぶんいまはもうないと思うので、
ケイコとマナブ.netを参考にさせてもらうと、
テープライターの講座は
半年間、6回の添削で、7万1,400円らしい。

「60分テープ1本、1〜2万円」
といううたい文句も書いてあるので、
仕事を始めれば7本で元がとれる、
という計算になるだろうか。
http://tsushin.keikotomanabu.net/ tk-khn-koza-shosai_RC0000000522_TCK030074/

さらに、
「率が悪いと感じたその添削員の仕事も、
社内の他の仕事に比べるとグレードが高かったらしい」
という話の中の「他の仕事」とは、
ハガキの中の一部の文字に線をひくとか、
そういう内容だったと記憶している。
単価は「銭」の世界だったかと思う。

で、私は思ったのだ。

まずは、主婦といった立場の人、
つまり家の中にいる人たちのなかに、
優秀な人材が埋もれているのではないか、ということ。

そして、経済って、実はこういうところから調達してきた
低賃金労働に支えられている部分が大きいのではないか?
ということ。

(あのころの私はまだ、「主婦」「主夫」という仕事の可能性、
 重要性に気づいていなかった。また、ニート道にも。)

すでに書いたことだけど、あの頃は、
生徒さん全員がリライターになれるとは
到底思えなかったし、
それだけの仕事があるとも思えなかった。

しかし、ちきりんさんが解説しているように、
仕事がマイクロタスク化されて、外注する人も増えて、
単価は安いが仕事は多いという状況になれば、
仕事を出す側は能率化が促進され生産性が増し、
仕事を受ける側は、たくさんの人が仕事をもらえて、
お金もまわって万々歳、ということになるだろうか。

ここの部分がどうにもしっくりこなくて、
もやもやしているのだ。

こういうマイクロタスク化された低価格ワークも、
『ニートの歩き方』のなかの「小金稼ぎ」のなかに
入れてしまえばいいことなのだろうか?

ちきりんさんは、続く
企業の競争力を左右する新しい労働力調達市場
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130722
では、クラウド・ソーシングの“クラウド”を
(この場合は“雲”ではなく“群衆”)
「新しい労働市場」とみなし、
それを「企業の競争力」に結びつけて考えるときに、
コスト削減という視点を提供しているのだが、
「テープ起こし」の仕事について、
次のようなことを書いている。

先ほど、こういったマイクロタスク型のクラウド・ソーシングでは、「仕事を分解して発注するのがポイント」と書きました。

たとえば“音声の文章化”(いわゆるテープ起こし)に関しても、クラウド・ソーシングでは、1時間の講演が10秒ごとの音声に分解されて発注されます。(この分解はシステムにより自動的に行われます) 発注価格は、10秒の音声の文章化で 0.01ドル。

しかも、同じ箇所を複数のワーカーに文章化するよう依頼し、上がってきた文章の内容が合致している場合のみ、正しいと判断する仕組みなんです。これによって、間違ったテープ起こしが混じるのを防止できる。

つまり、単価があまりに安いので、複数チェック(読み合わせ)まで可能になっているというわけ。時給 1.66ドルなら、ふたりの人に同じ仕事をダブル依頼しても時給3.32ドルですからね。これで品質問題も解決でしょ。
発注する側から見ればね。

私はかつて、友人の手伝いでテープ起こしを
一度だけやったことがあるが、
もうやらない…とそのとき思った。
けっこう時間がかかるのだ。
慣れていないというのもあっただろうし、
詳しいジャンルではなかったせいもあるかもしれない。
報酬はよく覚えておらず。

(ちなみにそれを無償でやるPTAもすごいですよね〜。
 私がやったのはテープ起こしではなく、
 起こされた原稿の要約だったけど。)

「テープ起こし業務日誌」さんの
■どのように、どれくらいの時間をかけるか
http://d.hatena.ne.jp/tape_okoshi/20091219/1261189757
によると、
60分の音声をテープ起こしするのに、
120分から180分、長くて300分かかるらしい。
いちばん能力の高い120分を採用すると、
(録音時間の2倍ですむというのは、
 すっごく優秀だと思う。
 あるいは起こしやすい内容だったか。)
10秒で0.01ドルならば、1分で0.06ドル、
1時間で3.6ドルとなり、
これを120分つまり2時間でやるわけだから、
時給は1.8ドルということになる。
(ちきりんさんは時給1.66ドルという数値を出している)

単純に日本円に計算するのもなんだけど、
1ドル98円として、時給176.4円。
超優秀または超ラッキーという状況で時給176円。
(計算間違えていないかな…と不安になる数値)

やらないでしょふつうこれ。
(もちろん、日本に住む私の感覚です>追記

それとも、ちきりんさんの他の記事()の言葉を借りれば、
どこかにやる人がいるでしょうか、インドあたりに。

これって、仕事をするほうからみれば、
「仕事がたくさんある喜び」
「たくさんの人が仕事ができる好ましい状態」
ということになるのだろうか。

そこまでして働かなくちゃいけないのか?

そこまでして働かなくちゃ人は生きていけないのか?

『ニートの歩き方』を読んでいるときには、
なんだかだんだんクリエイティブな気分になって、
どういうわけか元気が出てきていたのに、
ちきりんさんのクラウド・ソーシングの文章を読んでると
「単価安くても仕事見つけて働かなくちゃいけないかなぁ」
という気分になってきて、「だるい」@pha(>)。

ちなみに、私の感覚はいつも仕事を受注する側にある。
仕事を発注する側にまわることはないと思うし、
(いまお世話になっている会社に、機会があれば
 ランサーズのこと伝えようかな…)
「これをチャンスとして世に出るクリエイター」ではなく、
ひたすらマイクロタスクをこなす位置に
自分をおいて考えてしまう。

なお、すでに書いているが、
ランサーズのサイト自体は興味深い。
http://www.lancers.jp/

なんか面白いものないか見つけたくなってくる。
懐かしい感覚だなぁ…と思っていたら、
あれです、「公募ガイド」と同じ感覚。

たくさんの申し出があった場合、
どういう基準で選出しているかも興味津々。

こんなのもあって苦笑してしまった。↓

小学生向け「計算プリント」を大量にこなす仕事10
http://www.lancers.jp/work/detail/136661

600枚を、鉛筆または、シャープペンシルで解いて、
そのまま模範解答として使用!?
非常にカンタンな計算ではありますが、ケアレスミスが複数あると、すべての解答に関し、疑うことになり、すべて、こちらで検算しなくてはならず、依頼が無駄になってしまうことをご理解ください。
塾用プリントかな…?
手書きが得意な人ならへんに入力するより能率的だし、
かえって味わい深いかもしれませんね。
私の字じゃとても無理だけど。

それにしても、この仕事の報酬いくらだったんだろう?
5,000円〜50,000円とのことなので、
50,000円だとして、83円/枚。

これだったら、算数が得意で文字がきれいな小学生の
お小遣い稼ぎにもなるでしょうか。
計算練習にもなって一石二鳥。
無償の宿題なんて、
ばかばかしくてやってられなくなりますね。

ちきりんさんは、(さすがに小学生は除外しているが)
能力のある中学生や高校生が
「市場から学ぶ」ことについても語っており、
私はそれに抵抗を感じている。

ということについて、次回書いてみたい。

(つづく)
 2013.08.19 Monday 09:50 pha著『ニートの歩き方』 permalink  
まず末端的な問題と、話の発端であるベンチャー企業「ランサーズ」は面白いということ
pha著『ニートの歩き方』の帯に
推薦文を書いているちきりんさんの
ブログの記事に対する「もやもや」について、
考えているところ。



まずは、末端的なことを書いておこうと思う。

私は、ちきりんさんのお名前はもちろん知っていたが、
(出会いは『自分のアタマで考えよう』の
 車内広告だったと記憶している)
書籍もブログの記事を読むことはなかった。
興味はあったが、ご縁がなかったという感じ。

それが、何かのきっかけで次の記事を読むことになった。
(わりと最近の話)
「話し合って決める」という幻想 http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20120813

このテイストが、私の「ちきりん原体験」になり、
内容の前に、文体が「好みではない」というのが
この段階でインプットされてしまったのだと思う。

また、「そんじゃーね」もなにか生理的に受け付けない。
1つ前の記事で2006年の文章をリンクしたが、
そちらでは「また明日」となっている。
しかし「また明日」では
「ちきりん」の“記号”にはならないだろう。

ちなみに、一人称が「ちきりん」となっているのも
私は苦手なのだが、
ちきりんはあるひとりの人間のうちのひとつの人格であり、
「私」にするわけにはいかないだろうと
勝手に解釈している。

なお、検索していくと、
ちきりんさんの正体を明かそうとするページにいきつく。

本人が公表したくないといっているものを
無理にこじあけるのもなんなので
(それに本当にあっているかどうかわからないし)
リンクを控えるが、
私はこの説はたぶんあってるんじゃないかと思っている。

そっちの方のほうは、
大学の教育学部のキャリア教育についての授業で
ゲストスピーカーに呼ばれたりしているようなので、
こうなるとちょっと身構えてしまうが、
いずれにせよ別人格なので、
別問題ということにしておく。

というわけで、文体の問題は大きそうだが、
とはいえ「文体が好きじゃない」というのは
あまりにもあまりな結論だ。
身も蓋もない。
(もちろん、文体の肌触りが有している情報は、
 きっととても大きいのだろうと思う。)

何かほかにあるはず。

で、考え込むことになったしだい。

ちなみに、話の発端となった「ランサーズ」は
とても面白いと思ってる。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130715

ランサーズで評価が高く
受注数の多いワーカーを検索したとき、
最上位に、わがふるさと宮崎県がくるというのも
なかなかオツな話だ。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130718

ですよねぇ…
基本、在宅で仕事をしているのだから、
高い家賃払って東京に住むのではなく、
宮崎にある土地(もう売ったけど)を活かして
生活費はおさえて、
ネットをうまく使って働くというのが、
賢いやりかたですよね、ふつう。

(だけど私は東京を生活の拠点にすることを、
 離婚のときに決めたし、
 この決心は、娘が中学校を卒業するまでは
 変えられない。)

とにもかくにも、そんなこんなで、
ランサーズが提供するような働き方に
異を唱えたいわけではないらしい。

たぶん、ひっかかっているのは、
ちきりんさんの解説およびその奥にある価値観。

しかし、ちきりんさんならこう言うだろうか。
あなたはあなた、私は私。
すりあわせる必要はない、と。

私も一時そう思った。
わけもわからず気持ちがふさぐのならば、
通り過ぎればいい、と。

でも、多様性を受け入れる社会というのは、
みんなバラバラ、好き勝手でいい、
物事決めるときには多数決、
ということではないと私は思っている。

自分の中でも外でも、
異なるものが有機的につながりあって、
互いに変化をもたらす、
そこに意味があるのだと思ってる。

働かない2割のアリに意味があるのは、
働く8割のアリあってのことだろうし、
逆もまたしかりだと思うのだ。
それらは、互いに独立していないから、
意義があるのだと思う。

(この多様性についての考え方の違いは、
 末端的ではなく、根本的なことだと、
 書いたあと頭のなかで反芻していて気づいた。)

(つづく)
 2013.08.18 Sunday 07:13 pha著『ニートの歩き方』 permalink  
あちゃ〜
なんであした投稿予定の記事が
すでに公開になってるんだ…(>_<)

まだ推敲途中だったのに…(涙)

だけど読み直してみたら、
ほとんど推敲は終わっていたとわかった。ほっ

ただ、「あそこはがっさり消そうかな」
と思っていたところを
一度公開してしまったので、
あしたはそのまま投稿することになりそう。

まあ、そういうご縁だったということなんだろう。
 2013.08.17 Saturday 21:48 pha著『ニートの歩き方』 permalink  
ちきりんさんが、pha著『ニートの歩き方』の推薦文を書いていることに考え込むの巻
少し前に、ちきりんさんのブログの記事を
いくつか読む機会があった。

Chikirinの日記
企業の競争力を左右する新しい労働力調達市場
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130722
個人にとってのクラウド・ソーシング
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130802
「低価格ジョブ」は、民主的な市場に不可欠
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20130804
(以上は最近の記事、以下は2006年)
ショウジョウバエ
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20060306

読み終えたあと、
なんともいえない気持ちにつつまれた。

ふだん、なんらかの意見を読んだときには、
大きく分ければ、
「共感」「違和感」「どちらでもない」
のいずれかの印象をもち、
さらに「共感」「違和感」のどちらかであった場合
「この場ですませられる共感」「発展させたい共感」
「この場ですませられる違和感」「発展させたい違和感」
のどちらかになるわけなのだけれど、
ちきりさんの記事の場合、
どのカテゴリーにも入れられなくて、
なのに通りすぎることができず、
大事なことを言っているのかもしれないと思いつつも、
妙に気持ちがふさいだのだ。

「この感じはなんだろう?」ということが、
引いたり寄せたりしながら、もやもやと続いている。

いや、そもそも、ちきりんさんが
pha著『ニートの歩き方』の帯に推薦文を書いていなかったら、
ここまでこだわることもなかったと思う。

推薦文そのものは、まさにどんぴしゃりなのだが。

ちきりんさんのような考え方をしている人が
『ニートの歩き方』の推薦文を書くということは、
とても合致しているようでいて、
実は微妙にずれているのではないか、
あるいはけっこうな皮肉になるのではないか、
という思いがある。

で、何かヒントがほしくて検索をしてみたり、
書店でちきりんさんの本を
ぱらっとめくってみたりしているのだけれど、
ちきりんさんが
『ニートの歩き方』の推薦文を書いていることには
とりあえず納得がいった。

どうやらちきりんさんの希望で、対談もしたことがあるらしい。
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1003/03/news008.html

考えてみれば、
「他にだれが書く?書いてくれる?
 誰が書いたら(販促に)意味がある?」
という問題はあるわけであり。
そう考えていくと、ちきりんさんという人選は、
これ以上ないもののようにも思えてくる。

たとえば、やまもといちろう氏や
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2012/08/pha-4b6e.html
山形浩生氏などの
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20120807/1344344247
「じゃあ何も書かなきゃいいのに」
と思える文章に触れたいまとなっては、なおのこと。

それでもあえて、ちきりんさんが『ニートの歩き方』に
推薦文を書いている意味を問い直そうとすることは、
たぶん、とてもぜいたくなんだろうと思う。

そのぜいたくなことをやらないと、
どうにも先に進めない気がしてきたので、
ちょっと考えてみることにした。

久保田裕之さんも言ってたし。
共感できないときに、どう理解するかが大事だと()。

ちなみに、「ちょっと考えてみることにした」と
書いているいま現在、
このもやもやの意味は3割ほどしかわかっていない。
その3割をつきつめていけば、
残りのうち5割くらいは見えてくるだろうか?

(つづく)
 2013.08.17 Saturday 11:12 pha著『ニートの歩き方』 permalink  
順列組み合わせとしての人間、個と全体の生物学(pha的ニート道の核心)
難しいタイトルになってしまったが、
「順列組み合わせとしての人間」も
「個と全体の生物学」も
pha著『ニートの歩き方』の中にある言葉。

ちなみにこの本には、もっともっと別の話、
ニート暮らしのための具体的なノウハウ
(たとえば住居やお金の支払い、
 証明書・保険・年金、
 どうしても困ったときの支援団体、生活保護、
 そして小金稼ぎのことなど)
がたくさん書いてあるのだが、
そのあたりが読みたい方は、是非直接読んでいただくとして、
いよいよ(?)ニート道の核心にせまっていきたいと思う。

以前、鈴木健『なめらかな社会とその敵』のことを
このブログでも少し書いたけれど、
結局、pha著『ニートの歩き方』も
同じ時代性のなかで綴られたものだということを
読むほどに感じている。

おそらく、いま現在、
(近代以降の)「自己」と、
「自己」を前提にした「全体性」が、
根本的なところから問い直されている、
そういう時期にきているのではないかと思う。

そんな流れのなかで、
「多様性」や「層」という言葉がキーワードになるというのも、
なるほど頷ける話だ。
また、仏教がはやるというのもよくわかる。

なぜ私はphaさんにこんなに惹かれるのか、
ようやくわかってきた。
私がここ数年で出会ってきた人(著者)のなかで、
いちばん、自己を解体して生きている人だからだ。

解体というのは、自己をなくすことではない。
“あわい”を生きるということ。

phaさんは、自分が何かをやってうまくいったときにいつも、
この成功は別に自分がすごかったからではなく、
たまたまその場所に自分がいたからというだけにすぎない、
と思うのだそう。
(この前に「自己責任」の話が書いてあるのだが、
 phaさんは何事も自己責任と不可抗力を半々で考えている)

自分がたまたまAという土地で育って、
Bという知識を持っていて、
CやDやEという知り合いがいて、
Fという土地に住んでいて
Gという趣味を持っていたという、
その組み合わせが偶然うまくいくことがある。

そのAからGまでの要素の組み合わせを持っている
他の人がいれば、自分と交換可能なのだけれど、
AからFまでは揃っていて、
最後の要素がGじゃなくてKだったりQだったりして、
微妙に配列が違うと、
それぞれ異なる人生が展開がしていく。

それは、単なる偶然の結果だ、と。

そういう考え方のもと、
phaさんは何かがうまくいってお金が入ったりしたときには
ある程度を他人に分けるようにしているらしい。

全部を人にあげてしまうほど聖人じゃないし無欲ではないけど、
それを得たのは自分だけの責任ではないという気持ちがあって、
たまたまお金を得られた自分が、
たまたまお金を得られていない人に
おごったり何かをあげたりするのは、
phaさんにとって生きる上での
「税金」みたいなものであるらしい。

phaさんの手にかかると、保険制度も税金も、
まったく新しいものに見えてくる。
いや、本来そういうものだったんじゃないか、
と思えてくる。

また、その少しあとでは、
長谷川英祐『働かないアリに意義がある』をとりあげ、
集団は全体で一つのもの、
ということについて書いてある。

アリの集団では、2割くらい働かないアリがいるけれど、
8割の働くアリだけを取り出して集団を作ると、
そのなかで反応閾値の低い2割はやっぱり働かないらしい。

結局、あるアリが働くかどうかは、
そのアリ自身が持っている性質ではなく、
アリの群れ全体とのバランスの兼ね合いで
決まっているものなんだ、という話。

つまり、集団と個体は切り離して考えることができない。

このことに関連して、さらに生物学的考察が進められていき、
真木悠介(見田宗介)『自我の起原』が紹介されている。
 自分の身体の内側を見ても外側を見ても、どこまでが自分自身であるかというのは思っているほど自明なものではない。自分とは一体どこまでが自分なのか。
(『ニートの歩き方』p.255〜256)

phaさんの考えていることは、
鈴木健さんの考えていることと、
ほとんど同じだと私は思う。
そして私もそのことを、
ずっと考えてきたように思う。

しかも、phaさんはすでに、「なめらかな社会」を
局所から実践している。

鈴木健さんの提唱しているPICSYや分人民主主義は、
それを実際に本気で社会に組み込む、
つまり「実装」するためには、
なんらかの法的整備が必要だろうと思うし、
動かしていくための大規模なシステムの構築がいるだろうし、
多くの人の同意、少なくとも、
それを走らせるための集団内の同意がなければ、
始められないものだと思う。

PICSYや分人民主主義は魅力的だが、
究極の目的はその方法論の中にあるのではなく
「なめらかな社会の実現」にあるのであれば、
PICSYや分人民主主義を「実装」するよりも、
pha的ニート道をまったりじわじわ広めていくほうが、
話がはやいのではないか、という気がしてきている。

それから、PICSYや分人民主主義を本気で「実装」するときは、
「核」と「膜」を完全になくせないのではなかろうか、
という疑問もある。
このシステムを取り入れるためには、最初の段階で
何かを制御する必要があるのではなかろうか?

でも、pha的ニート道は違う。
人々がそれぞれのやり方で、
個人レベルですぐに実行できる。
しかも、賛同できない人はやらなくていいのだ。
それこそ多様性を受け入れる社会ではなかろうか。

そのことに気づいたのは、
phaさんとちきりんさんの対談を読んだことも
ひとつのきっかけになったのかもしれない。
(ここの部分↓)
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1003/26/news007_2.html
 そこで思ったことは、僕はたくさんの人が反応してくれること自体は嬉しいんですが、意見の内容はわりとどうでもいいんですよね。賛同されてもそんなに手放しで嬉しいわけじゃないし、批判されてもそんなに落ち込まない。ただ僕が何か書くことがきっかけで、いろんな人が自分の考えを刺激されて自分の考えを外に出してくれればそれでいいと思っている。自分の意見が支持されるかどうかはあまり興味がない。
 僕の考えが意見を出すきっかけになればそれでいいし、僕のブログのコメント欄が意見を吐き出す場所になればそれでいいですね。先にも出た多様性の話で言えば、いろんな意見を持っている人が共存していることは大事だと思いますし
なんだか小池龍之介を思い出す↓
『考えない練習』から、「書く」こと&コミュニケーション

しかもphaさんの場合、
インターネットによる人と人とのつながりを素直に受け入れ、
そこから得られるものをしなやかに享受し、
なおかつ「慢」の欲がないのだ。

ある意味ちょっと、うらやましい。

pha的ニート道、深い。
 2013.08.12 Monday 11:36 pha著『ニートの歩き方』 permalink  
感覚を大切にするということ
pha著『ニートの歩き方』を読んでいる。



「第2章 ニートの日常風景」のなかに、
「だるい」というタイトルの一節がある。

「だるい」というタイトルだけきくと、
それだけでだるくなるけれど、
実際に読んでみたら、
「まさかそういう話の展開になるなんて…」
とちょっと驚く内容だった。

「だるい」というのはphaさんの口癖らしく、
実際、私がphaさんのブログや
Twitterをのぞきはじめたばかりのころ、
だるそうな空気が漂っていた。

私もけっこうめんどくさがりやだが、
こういう「だるい」感じはあまりない。
「億劫」ということはしょっちゅうあっても。

ただし、
予定なんて入っていないに越したことはない。
(p.152)
という部分にははげしく同意する。

スケジュール帳の空白への感じ方でも書いたように、
私はスケジュール帳が白いほど安心するタイプなのだけれど、
世の中にはそうではない人もけっこういるらしいとわかって、
あのときにはちょっと驚いた。

っていうか、そちらのほうが主流なのかな。
でないと、こんなに世の中、
いろいろなことが発展していませんよね…

phaさんいわく、
「だるい」という感覚は
もっと大事にされるべきものだ、と。

それは自分がやりたくないこと、自分が本当はやらなくていいことを見分ける重要な感覚だ。
(p.153)

phaさんはこの感覚を直感とも呼んでいるのだけれど、
確かに大切なことかもしれないとあらためて思った。

「だるい」じゃなくてもよくて、
たぶん人によってちがうと思うのだが、
「なんだかイヤな感じ」「しっくりこない」
「居心地がわるい」「心が塞ぐ」「気が重い」
といったような感覚は、
きっとメッセージなのだ。

そのメッセージをきちんと受け止めて、
行動の指針にしていくということは、
わが身を守るのに、
けっこう大切なことなのではなかろうか。

たとえ明確に言語化できなくても、
あるいは、頭で考えることと矛盾していても。

これは第2章の最初の一節である
「集まっていると死ににくい」のなかの
「合わない場所には行かなくていい」
とも関係してくると思うのだが、
どうにも学校に行きたくないときには、
「だるい」って言って休んでしまえばいいのだ。

「悪い場所からはできるだけ早く逃げよう」という
phaさんの言葉には、深いものがあると感じている。

頭で理路整然と考えようとしたり、
他の例を参照したり、常識に照らし合わせたり、
自分を説得しようとしていると、
逆に答えがわからなくなっていくのかもしれない。

そういうときにはやはり直感が大事で、
直感をキャッチするには、
日ごろからそういう感覚に鋭敏になり、
自覚し、素直になっておく必要があるのだろう。

まわりの顰蹙は買うかもしれないけれど。

(だから、できるだけ顰蹙をかわないよう、
 早い段階で「だるい」をキャッチして
 NOを出すのもミソかも。)

ちなみに、こうも書いてある↓
(まあ、だるくても頑張らないといけない場合はよくあるし、自分が休むことで他の人に「だるい」を押し付けることになるのはあまり良くないので、他人に迷惑をかけない範囲において「だるい」は尊重されるべき、ってことだけど)(それでも最悪、自分の身は自分で守る、ということは覚えておかないといけない)
(p.153)

このような感覚を研ぎ澄ますと、
人は自分で思っているよりも
「ねばならぬ」で動いていて、
それを支えているのは、
意外にも他人の価値観なんだってことに
気づくこともできるのかもしれない。

で、さらに面白いことに、phaさんは、
「だるい」は空から降ってくる、とも書いている。

私の「めんどくさい」「億劫だ」という気持ちには、
まだ自分の「NO」という意志が入っているが、
「だるい」はそうしたところも曖昧になっている、と。

「自分がやる気がない」のか
「やりたいけど気力がない」のか
「やりたいのに体力がない」のかも
はっきりしていない。

また、「やったほうがいいけど自分がたりたくない」のか
「そのやるべきことがどうでもいい内容だからやりたくない」
のかも曖昧。

自分が悪いのか相手が悪いのかその仕事が悪いのか、誰に責任があるかも分からないし責任の所在をはっきりさせる気もないし、とにかくだるいから仕方ないのだ。「だるい」という自然現象が突然発生したからもう人間にはどうしようもない、という感じだ。
 本当は世の中のものは何でもそんなもんじゃないかと思っている。誰が悪いとかじゃなくても何か物事がうまく回らないってときはしょっちゅうあって、そういうときは誰のせいにもせず、「だるい」って言って休んでいればいいのだ。
(p.154)

そっかぁ、phaさんの「だるい」には、
そんな深い意味があったんだぁと思ったあと、
この一節は次の一文でしめられていて、笑ってしまった。

 なんで俺は「だるい」についてこんなに熱弁しているんだろう。だるい。
(p.155)
 2013.08.11 Sunday 15:49 pha著『ニートの歩き方』 permalink