他人と、いかに円滑に衝突するか

久保田裕之『他人と暮らす若者たち』
「終章 公共性と親密性の再編成」
を読んでいる。



この終章を読んで、
私はいろいろと反省した。

いや、反省というと、
これから改めるみたいなので、
(そこまでにはまだ至っていないので)
考えさせられたというべきか。

久保田さんはいう。

どれほど一人の世界に引きこもっても、
家庭のなかに閉じこもっても、
生きていくうえでは、
異質な他者と接触しなければならない。

だとすれば、
衝突しない他人を探し求めるのではなく、
なるべく他人を避けて生きるのでもなく
どうやって他人とうまく衝突するか、
いかに円滑に衝突するかを考える必要がある、と。

 こんなふうに考えてみると、一人の人間が、家族のなかで生まれ育ち、家を出て自分の家族を形作るまでの間に、身近な生活をめぐって対等な他人とぶつかり、共に考え、話し合う機会があまりに少ないことに気付かされる。家庭・学校・企業などにおけるような役割関係から離れて、対等な市民として他人と衝突しながら、自分の価値観を相対化し、そのうえで協力し合うという訓練の機会を、日本社会は制度的に欠いているのではないかと思えてならない。

 (p.188)

「役割関係から離れて」というのが
ミソなのだろう。

では、それを制度として整えるということは
どういうことだろうか?

私が思いつくのは、地域共同体の話くらい。
もちろん、町会とかPTAをかませると
「役割関係」になってしまうから、
「一住民」としての関係になるだろう。

ネットでのやりとりも、
他人との衝突になりうるか?
しかしそれは、「身近な生活」をめぐった
衝突にはならないような気がする。

ここで再び第一章にもどってみると、
p.20〜21にはこんなことが書いてある。

「地縁」や「地域共同体」にはしがらみや面倒くささや力関係があったろうし、古い因習や伝統に縛られない自由で自立した生活を求めてきた結果として現在があるのは否めない。しかし、それは諸外国でも同様だったはずである。重要なのは、いかにして望ましくないしがらみや力関係から逃れながらも、生きていくために不可欠なつながりや助け合いを維持していくかという、バランスの問題なのである。

この問題は、
外交関係にも関わってくるのかもしれない。

近隣諸国と、どうやってうまくぶつかり、
いかにうまくやっていくか。

実は、この本を読みながらあれこれ検索するなかで、
久保田裕之さんの次のツイートを見つけた。
https://twitter.com/hkubota1016/status/159477391431958528

学生のコメントに「共感しました」とか「共感できる」っていう表現が凄く目に付いて妙に不安な気持ちになるんだけど、君ら共感も良いけど理解もしてよね。共感出来ないときに、どう理解するかが大事なんだから。少なくとも、共感を守るために、理解を拒絶するのはやめてね。

「共感を守るために、理解を拒絶する」
というフレーズに、ハっとさせられた。

共感できないときに、どう理解するかが大事、か。

なるほど・・・

 2013.06.04 Tuesday 09:02 『他人と暮らす若者たち』 permalink  
「悩み」は取り除かなくていい
久保田裕之『他人と暮らす若者たち』
を読んでいる。



この本の終章は、
「公共性と親密性の再編成」となっており、
深いテーマに触れた内容になっている。

結局、他人と暮らすことについて考えることは、
他人と生きることについて考えることであり、
たとえ住居をともにしていなくても、
社会の中で生きているすべての人々に
共通するテーマなのだなぁ、と思った。

最初の一節は「「心」の時代と専門家」というタイトルで、
カウンセラーの長い経験を持つ小沢牧子さんが
「心の専門家」主義を批判している話が出されている。

悩み自体を病理として扱い、
それを癒すという理由をつけて
「相談という商品」を売りつけることの
問題性を指摘しているとのこと。

私は、肩書きはよくわからないけれど、
カウンセラーさんに
何人かお世話になってきたが、
悩み自体を病理として扱い、
それを癒すというような
対応する人はいなかった。
(子育てについての悩みだったが、
それは結局、自分のことだと思う)

もちろん、
保健士さんのような立場の方から、
具体的なアドバイスをいただくことは
あったと思うけれど、
大抵は「話をきいてもらう」ということで
自分の考えを整理し、
それを対象化、相対化できるというのが
相談の意味だったように思う。

逆にいえば、相談することで、
悩みがすぐに解決することはない。

むしろ、ハッと気づかせてもらったり、
逆に少しショックを受けたり・・・
ということもあった。
わるい意味ではなく。

それをどうするか、
あとは自分の問題なのだ。

そういえば離婚のときに、
ネット相談を1度だけ利用したことが
あるような気もするが、よく覚えていない。
いずれにせよ、悩みが解決した記憶はない。

小沢さんが指摘するのは、
私がお世話になってきたような立場の人、
お世話になってきたような場で
行われている相談ではなく、
それこそ「商品」と化した相談なのだろう、
と推測しているが
たとえ「商品」と化した相談でも、
専門家が相談者の悩みを取り除くということが
どのくらいあるだろうか?という疑問はある。

専門家はそうしたつもりでも、
相談した側はまだもやもやしてるということが、
往々にしてあるのではなかろうか、と。

ともかくも小沢さんは、
悩みとは単に取り除かれればよい害悪ではなく、
悩み抜くことで成長していくという意味で、
人生において不可欠な営みであるのに、
「心の専門家」はこのような機会を
当事者や社会から奪ってしまう、
そうではなくて、
「一緒に考え合う日常の営み」としての
「悩み」を取り戻そう、
といっているらしい。
(途中は久保田さんの言葉かもしれない。
参照文献は、小沢牧子『「心の専門家」はいらない』2002年)

これがどう他人と暮らすことにつながるかというと、
 本書でもこれまでみてきたように、日本で暮らす私たちにとって、他人は面倒なもの、やっかいなもの、できれば避けて通りたいものとして日々現れる。悩みの場合と同様、この他人と接する面倒さややっかいさは、ただ取り除かれればよい害悪なのか、金で解決すれば済むものなのかと問い返す必要がある。他人との間の調節の仕方を学び、助け合うことを学ぶことは、人生において不可欠な営みではなかっただろうか。
 (p.187)

とつながる。

  「悩み」といえば、
  姜尚中 『悩む力』を思い出す。

  別ブログで感想を書いています。
  >姜尚中 『悩む力』

  あの本も、
  近代以降の「自由」と「個人」が、
  いまを生きる人々に与えている
  苦悩について扱った本だった。

  Amazonでの該当ページ
  レビューが137件というのは
  さすがだなぁ〜と思うが、
  評価の星1つが28件あるのも
  特徴的かもしれない。

おそらく小沢さんも久保田さんも、
「悩みを人に相談するな」
と言っているわけではないと思う。

  私個人としては、
  「聞き上手」としての専門家は
  やはりいたほうがいいのではないかと思う。
  また、それが家族や友人・知人ではない
  ということの意味もそれなりに大きいと思う。

むしろこのメッセージは、
「悩み」はあっていいんだよ、
取り除こうとしなくていいんだよ、
と受けとめたい。

悩みは取り除くのではなく、
悩み抜くことが大事なのだろう。

悩むことはしんどいから、
取り除きたくなるが、
場合によっては、
「悩み」があることそのものを
よくない状態だと思ってしまい、
そのこと自体に苦しみ、
なんとかしようとするから
さらにしんどくなる、ということも
あるような気がする。

しんどいときは、取り除かずに、
ちょっと脇においとくといいのではなかろうか。

悩んでいる自分に、
悩んでいいんだよ、
悩みがあることはわるいことじゃないよ、
あたりまえのことだよ、
と言葉をかけるだけでも、
ほんの少しだけラクになることは
あるのではなかろうか。

その一瞬の安堵感そのものは、
求めてもいいのではないかと思う。

そうすることで、
また悩み続けることができるかもしれない。
 2013.06.01 Saturday 10:18 『他人と暮らす若者たち』 permalink  
「自由」「自立」「親密さ」を再考する
久保田裕之『他人と暮らす若者たち』
を読んでいる。


 
第六章を部分的に読んできたが、
再び第一章にもどってみる。

ここに、「「自由」「自立」「親密さ」を再考する」
という一節があり、なるほどと思ってしまった。

その内容を示す前に、
それぞれについていったん自分で考えてみる。

「自由」とはなんであるか。

それは、拘束されない、管理されない、
なんでも自分の思うようにできること、
と言ってもいいだろう。

「自立」とはなんであるか。

それは、自分で自分の身の回りのことができる、
自分の生活を自分で支えることができること、
と言ってもいいだろう。

「親密さ」とはなんであるか。

それは、仲がよい、気があう、
諍いがすれ違いがあまりなく、
いっしょにいると心地よいこと、
と言ってもいいだろう。

久保田さんは、こう語る(p.28)。
 もし、「自由」を何でも自分の思いどおりにできることだと考えるならば、他人との暮らしに「自由」はない。しかしそれでは、「自由」は夫婦の間にも家族のなかにもないことになってしまう。また、もし「自立」を何でも一人で賄うことだと考えるならば、他人との暮らしに「自立」はない。しかしそれでは、やはり「自立」は地上のどこにも存在しないことになる。「親密さ」を血縁や性愛から自然に溢(ルビ:あふ)れ出てくるものだと考えるならば、他人との暮らしに「親密さ」はあり得ないだろう。
そしてこう続ける。
 けれども、「自由」を他人との対話のなかで自分を認めてもらうことだとすれば、「自立」を程よく他人に頼り支え合うことだとすれば、「親密さ」を共に生活を営むなかで相手に感じる敬愛の情だとすれば、それらはみな、家族も含めた他人との生活のなかにしかない。その意味で、他人との暮らしは、一人で住むより家族と住むより、ずっと自由で、自立した、親密なものになる可能性を持っているのではないだろうか。

久保田さんの言葉をふまえて、
もう一度「自由」「自立」「親密さ」について
考えてみる。

すでに書いたように()、
一人暮らしならば、
好きなことを好きなときに、
好きなようにできるので、
そういう意味では、
少なくとも時間的には自由である。

しかし、それによって生活のリズムが崩れたり、
食事がおそろかになったり、
部屋が散らかったりして、
体調もおもわしくなく、
ガサガサした生活となれば、
それは自分が本当に望んでいる状態、
自分にとって快適な暮らしではないだろう。

自分ほど、
自由にならないものはない、
とも言える。

そうして人は、
生まれながらに自由でありながら、
自由を追い求め続ける肉袋として生きる。
食器洗い回想・・・・・・「自由とは何か!?」
(「自由」でサイト内検索をしたら、
いっぱい記事がひっかかってきてびっくりした)

たとえひとり暮らしでも、
実はさほど「自由」ではないのだ。

また、自立とは、
なんでもかんでも自分一人でできることではなく、
人の力を借りたり、人の助けを受け入れることを含め、
自分がこうありたいという状態を実現することだと思う。

そして親密さ。
一人だと、人との交わりから生じる
さまざまな不快感も生じないかわりに、
親密さも生じない。そもそも、生じようがない。

「他人と暮らすとはどういうことか」
について考えていくと、こんなふうに、
自由や自立や親密さについて、
あらためて考えさせられる。

思えば、親密さはもちろんのこと、
自由も自立も、他人あって成り立つ言葉だと
気がつく。

世界に自分ひとりしかいなかったら、
自由や自立といった言葉は
そもそも存在しないだろう。
 2013.05.31 Friday 11:27 『他人と暮らす若者たち』 permalink  
シェア生活では、病気になったときだれが面倒をみてくれるのか?
久保田裕之『他人と暮らす若者たち』
「第六章 シェアのここがわからない【疑問編】」
を読んでいる



「Q1、他人と住むなんて面倒じゃないの?」
を読んできたが、このあとの
「Q2、他人と住んだら危険じゃないの?」
「Q3、途中でシェアを解消したくなったらどうするの?」
「Q4、異性の友だちを連れてきたり泊めたりしてもいいの?」
をとばして、
「Q5、もし病気になったら誰が面倒をみてくれるの?」
に進んでみたいと思う。

シェアにまつわるどんな問題も、
結局、シェアハウスそれぞれの取り決めや、
どんな人たちが住んでいるかに
よるところが大きいと思うので、
一概にはいえないだろうが、久保田さんいわく、
(アメリカの高齢者向けのコレクティブハウジングならともかく)
若者たちのあいだでは、
だれかが病気になったときについて、
それほど細かく事前に取り決めるなど
ありえないだろう、とのこと。

で、ひとくちに病気といっても
いろんな状態があり、幅があるので、
ここでは、数日間寝込む程度の病気に限定して
話が進められていく。

実はこのことについては、
テレビでその様子を観たことがある。

男女4人ほどが住むシェアハウスで、
他の3人には内緒で1人に仮病になってもらい、
あとの3人がどのような行動をとるか、
というような実験だった。
(あとで事情を説明して、謝罪したことと思う)

確か熱を出したという設定だったと思うが、
薬か栄養剤か何かを買ってくる人がいたり、
こういうときに口にできそうな食べ物を用意したり・・・
というふうに対応していた。

おそらく、独立性がよほど高いシェアハウスでない限り、
このくらいのことは、
みなさんやっておられるのではなかろうか、
と想像している。

で、「共同生活者としての気遣い」の話になったあと、
「家族を前提とした社会制度」の話になるのだが、
私が面白かったのは、次のくだりだった。

 以前、ある学会で、「あなたもシェアをしているそうだが、もし実家の母とシェアメイトが同時に倒れたら、どちらの面倒をみるか」という質問をされたことがある。残念ながらその場では質問に答える時間がなかったので、代わりにこの場を借りてお答えしたい。家族がケアを行う現行の介護保険・医療保険制度のもとでは、家族へのケアは半ば強制される代わりに、家族ではない人へのケアを免除されているともいえる。しかし、もしもケア責任が現在よりも社会化され、一人でも安心して入院できるようになるか、あるいは、家族に限らず共同居住者がケア責任を担い合うことが可能な制度のもとでなら、安心して母の面倒を母の共同居住者にゆだね、自分は自分のシェアメイトの面倒をみることができるだろう。
 (p.161)

私も上記のような考え方に賛成だし、
そういう世の中になればいいな・・・と思うが、
頭ではそう考えていても、
実際にはそこまで自分は進化してないなぁ、と思う。

あと、これあれですよね、
実家からはなれて暮らしている子どもの場合に
あてはまる問いですよね。

そして、母親に「共同居住者」がいる場合。

それが、自分の兄弟のお嫁さんだったりしても、
何の抵抗(後ろめたさや申し訳ない気持ち)もなく
面倒をゆだねられるかどうか。

この場合、「嫁」は「もっとも身近にいる家族」なのか、
たまたま家族となっている「共同居住者」なのか。

「遠くの親戚より近くの他人」という言葉は
第一章で出てくるのだけれど、
「近くの親戚と近くの他人」だったら、
やっぱり、「近くの親戚」に
その役目はまわってくるのではないかと
思うわけであり。

とにもかくにも、保険制度以前の問題として、
「家族が家族の面倒をみるのはあたりまえ」
というのは、やはり人々の意識のなかに
深く浸透していることなのではないかと思う。

特に、親の老後は子どもがみるのはあたりまえ、
という発想には、「恩返し」という意味あいが
含まれているだろう。

子どもがそうしたくてそうするならばいいのだが、
これを親や世間一般から求められると、
なんだか違うんじゃないか・・・と思えてくる。

また、たとえばこんなQ&Aがある↓
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1318837463

「自分の老後をみてもらうために、女の子がほしい」
と思う人がいるという話は、私もきいたことがある。

実際、私も妊婦時代に、
近所のクリーニング店のおばさまと
おしゃべりをしていたときに、
女の子だとわかったことを伝えると、
「あら、よかったわね〜!」と言われた。

きょとんとしていると、
「男の子がよかったの?」
と不思議そうにきかれた。

そのおばさまの子どもは2人とも男の子で、
結婚するとお嫁さんにもっていかれる・・・とか、
そんな話をしていた。
女の子ならもっていかれない(可能性が高い)
と思われているところが、すごいなと思う。

家族の問題は、つくづく根深い。

シェアに対する疑問は、
「家族と家族以外の他人とが
厳密に区別されているから」発せられる、
ということも書いてあり、なるほどと思う。

久保田裕之さんは、この章の最後のほうで
次のように書いておられる。
伝統的な家族の価値や、経済成長をノスタルジックに称揚するのではなく、家族中心の福祉制度においては見過ごされがちだった、他人との連帯のあり方に光を当てる必要があるのではないだろうか。
 (p.164)

家族も、他人。

だから、家族を含めて、
「他人との連帯」を
あらためて考えるときが
きているのかもしれない。
 2013.05.30 Thursday 14:49 『他人と暮らす若者たち』 permalink  
他人と住むのは家族と住むより面倒か?
久保田裕之『他人と暮らす若者たち』
「第六章 シェアのここがわからない【疑問編】」
を読んでいる。



次は、他人と暮らすことと、
家族で暮らすことを比べてみる。

「第一章 家族と暮らすか一人で暮らすか」
のなかで、
面倒か面倒でないかでいえば、家族ほど面倒なものもないという言い方もできる。
 (p.24)
 
と書いてあるのを読んだとき、
苦笑してしまった。

まさに。

家族だって、利害の異なる他人だということ、
家族であるからこそ
大きな衝突やストレスを抱え込むということもある、
という指摘にはうなってしまった。

ルームシェアやシェアハウジングについて
考えるということは、
「家族とは何か」について考えることであり、
「ともに暮らす、ともに生きる」とはどういうことか
について考えることなんだなぁ・・・
としみじみ思う。

前回の一人暮らしとの対比で、
他人と暮らすことで面倒が減る場合もある、
という話を書いたけれど
家族暮らしの中で家事を一切やっていなかった子どもが
シェア生活を始めるならば、たとえ分業制でも
家事をしなくてはならなくなったということで
面倒は増えるだろう。

逆に、毎日、家族3人分の朝食・夕食を作り、
掃除・洗濯を毎日1人でやっていた主婦が、
3日に一度でいい当番制のシェア生活を始めたら、
面倒は減るだろう。

でも、やはり「面倒」というのであれば、
そのような家事に関することよりも
「人間関係」のほうが大きいのではないか、
と思うことであった。

で、その「人間関係」について、
他人は家族より面倒なのか?
とあらためて考えると、
実は即答できないことに気づく。

自分がどのような家族のなかにいるか、
そのなかでどのような役割を果たしているか、
にかなり左右される話かもしれない。

 ただし、家族との関係性がよくないから
 他人との関係性を求めるということではなく、
 家族との関係性がいい人は、
 他人との関係性もいい、ということも
 あるような気がする。
 
たとえば、親と住むのは苦痛だが、
子どもと住むのは苦痛ではないとしたら、
それはなぜなのか?

久保田さんは、第六章で、
シェアには家族との暮らしと比べて
明確な構造的利点が一つあり、
それは「どう住むか」を基準として
「誰と住むか」を選択できる点である、
と書いている。

私自身はシェア暮らしをやったことがないから、
実際のところどうなのかはわからないけれど、
血縁関係、パートナー関係、
ルームシェア関係でいけば、
やはりいちばんフレキシブルなのは
ルームシェア関係だろうと思う。

パートナー関係も、「相手を変える」こと、
あるいは関係を解消することは可能だ。
しかし、離婚の経験からいって、
関係解消のために使うエネルギーは、
シェアの関係よりは大きいのではないかと
想像している。

それが血縁関係になると、
「相手を変える」ことは絶対にできないし、
関係解消はその気になれば可能だろうが、
かなりの覚悟とエネルギーを要する。

私は母との折り合いがわるかったときに、
失踪したくなったことがある。
しかし、そのための負担とマイナス面を考えて
実行はできなかった。

  もし、私がひとり身だったら
  実行していたかもしれないが、
  逆に私がひとり身だったら
  そういう事態にはなっていなかったと思う。

母と離れて暮らしているのに、
関係を切れなかった。

思うに、私と母の関係を持続させたものは、
私自身の「家族観」「血縁関係観」であり、
責任や義務の意識であり、
そしておそらく依存であり、
覚悟のなさだったのだろうと思う。
自分で自分を逃がさなかったのだ。

  まあ、そんな母が、
  この春に帰省したときには
  すっかり別人になって、
  お礼を言われちゃったりしたから、
  関係性も変わっていくのでしょうねぇ・・・


(つづく)
 2013.05.28 Tuesday 16:36 『他人と暮らす若者たち』 permalink  
他人と住むのは一人暮らしより面倒か?

久保田裕之『他人と暮らす若者たち』を読んでいる。



「第六章 シェアのここがわからない【疑問編】」
に進んでみる。

【疑問編】ではまず、次の質問について検討されていく。

 Q1.他人と住むなんて面倒じゃないの?

これは実によく発せられる質問であり、
直感的にこの疑問に答えるなら、
「面倒だ」としかいえないだろう、
と久保田さんは書いている。

しかし、この面倒ということについて
きちんと考えてみると、
話はもう少し複雑になる、と。

そして、一人暮らし、家族と暮らす場合の
それぞれとの対比を通じて
「面倒さ」についてみていくことになる。

まず、一人より面倒かどうかについて。

一人暮らしの場合はとにかく、
何でも自分の自由にできる。

観たいときに観たいテレビを観て、
行きたいときにトイレに行ける。

「その意味では、自分一人の部屋のみならず、
自分一人のテレビ、自分一人のトイレ、
自分一人のリビングがあった方が、面倒は少ない」
と、久保田さんは書いておられるが、
13年くらい一人暮らしを経験している私は、
7年くらいはトイレも共同だったし、
(風呂付の部屋で一人暮らしをしたことは一度もない)
テレビのない時期もあったように記憶しているので、
私の「自由」はそのようなところにはなかった。

私の「自由」は何よりも、
自分の時間、自分のペースを乱されない、
というところにあった。

しかしこれは裏を返せば、
生活が乱れていく可能性が高いということでもある。

自分の好きなときに自分の好きなことをやる、
つまり、食べたいときに食べたいものを食べ、
寝たいときに寝て、
やりたいときにやりたいことをやるということは、
「好きなように」暮らせるかもしれないが、
健康的ではなくなる可能性が高い。

たとえば、いま現在も、
娘がたまに父親のところに2泊くらい
泊まりに行くことがあるのだが、
私は羽根をのばしてくつろげるかと思いきや、
2〜3日のことなのに、
くつろぐというよりは生活が乱れ、
体調をくずすこともある。

そんなこんなで、
一人暮らしを快適に健康に持続させるためには、
自分で自分を律する力が必要になると思う。

本にもどると、久保田さんは、
「けれども、他人のおかげで
面倒が少なくなるということも事実だ」として、
当番制により、料理を作る回数や
トイレ、風呂掃除の回数が減ることに
触れておられる。
(料理のレベルと味の好みの困難、
日本の家事の期待水準の高さの障壁については
章末注や他の章で触れられている。)

また、家賃が安くなるというのも、
広い意味で面倒が減ることの
一つに入るかもしれない、と。

再び自分の話を書くと、
私は大学1年生のときに
同じ高校出身で同じ大学に進んだ
女の子3人と同居していて、
食事や片付け、風呂掃除当番の
ローテーションをくんで
家事をこなしていた。

当時、大学生が風呂付マンションに住むなんて
夢のような話だったが、
同居だったら家賃も予算以内になる。
また、故郷をはなれて初めて暮らし始めるときだったので、
本人たちも親もそちらのほうが安心だったと思う。

食事当番や風呂掃除当番のときには、
授業が終わるとうちにもどって
食事の準備や風呂掃除をして、
それから大学のサークル活動に行く、
ということもあった。

いま思うと、高校3年生まで
ろくに家事をしていなかった私が、
よくそんなことできたなぁ・・・と思う。

ものすごく負担だったという記憶はないが、
2年生以降の一人暮らしに
さびしさを感じた記憶もないので、
友達との暮らしが楽しくてしかたなかった、
ということもなかったのではないかと思う。

その後、一人暮らしを長く経験したのちに、
結婚生活も経験し、
いま現在、子育て真っ最中の身としては、
「自分が食べるものを自分でなんとかする」
ことはまったく苦痛ではない。
むしろ、とてもラクな話。

毎回、自分が食べるもの“だけ”を作るのと、
3日に1回、3人分を作ることを比べると、
私は前者のほうがラクだ。

しかしここでも逆にいえば、
一人だったらいい加減な食事になるところが、
ほかの人のも作ることになると、
栄養や料理数を考えるし、
自分が作らないような料理を
他の人が作ってくれて、
食事の幅が広がる楽しさもある。

また、食材の調達としても
1人分よりは数人分のほうが都合がいい。

久保田さんは、
「他人と住むことによって増える面倒もあるし、
減る面倒もあるということである」
とまとめておられるが、
そんなこんなで私個人としては、
他人と住むことによって
「減る面倒」はないが、
プラス面はある、と感じている。

つまり、久保田さんの言い方でいけば、
「マイナスがプラスされる面もあるが、
マイナスがマイナスされる面もある」
ということになろうかと思うけれど、
私の感覚では、
「マイナスがプラスされる面もあるが、
プラスがプラスされる面もある」
という感じになる。

そんな私にとって、
一人暮らしはマイナスを避ける生き方であり、
他人との暮らしは、
プラスを求める暮らしなのかもしれない。

もちろん、もし自分がシェアな生活をするとしたら、
もっとも大きな理由は「生活費が安いから」
ということになると思うわけで、
これはマイナスをマイナスすることになる。

しかし、たまにテレビで取り上げられる
シェアハウジングの様子を観ていると、
シェアして暮らす人々は、
「家賃が安い」というところだけに
その意味を見出しているのではなく
(そういう人ももちろんいるのだろうが)
他人と住むことで生じる
プラスアルファの何かを求めている人も
けっこういるのではないか、ということを感じる。

また、テレビの特集を観ながら、
「シェアのわりに家賃がそんなに安くないのでは?」
と思ったこともあるような気がする。

家賃のことはともかく、光熱費に関しては、
1人1人で住むよりも複数人で住んだほうが、
割安になるだろうし、その分、
エネルギー消費量もおさえられるわけであり、
それは社会的にも大きなプラス面だと思う。

そんなこんなで私にとっては、
シェアの暮らしというのは、
なんだかポジティブな行為に思えるのだった。


(つづく)

 2013.05.27 Monday 17:18 『他人と暮らす若者たち』 permalink  
ワンルームマンションの誕生から、規制まで/そして新しい形態
久保田裕之『他人と暮らす若者たち』を読んでいる。



他人と住むこと、家族と住むことにおいて、
日本は他人と住まない国であると書いたが、
これを日本の国民性だと即断するのは短絡的だろう、
久保田さんは書いている。

  日本にも、家族を超えて
  他人とともに生活を営む長い歴史があった。

  使用人が住み込みで働くケースは
  戦後になっても存在していたし、
  書生などという形で家のなかに
  他人を住まわせることもあった。

  長屋暮らしも井戸や便所は共同だったし、
  風呂のない集合住宅の近くには銭湯があった。

  少なくとも、一つ屋根の下で暮らしたり、
  生活を支え合ったりすることができるのは家族だけ、
  という発想は、それほど古いものではない。
  (p.20より)


個人的には、実際の住居問題の歴史はそうだとしても、
人々の気持ちはどうだったのだろう・・・?
という疑問もある。

たとえば、もしかすると昔の人も、
「他人と住むくらいなら、狭くても不便でも
一人で住む方がずっと気楽で、面倒がなく、望ましい」
と考えていなかったとも限らない。

ただそれが、住環境的、経済的、社会的に
不可能だっただけで。

あるいは、そういう発想がもともとないということは、
考えようもなく、感じることもなかった、
ということになるのか。

たとえば、結婚してすぐに夫が京都に行き、
ろくに夫婦生活も送らないまま
嫁として夫の家で暮らす会津藩の女性は、
「なんで私、ここで暮らしているんだろう?」と
疑問に思うことはなかったのか、と。

そのときに「家」というものがあるとしたら、
それは強力な独立単位であり、
いまよりもひとまわり大きいだけの
「家族」ではないのか、と。

「一国一城の主」という発想も、
1つの国、1つの城という区切りあればこそだろう。

もちろん、「一国一城の主」とは無関係の
生活をしていた人もたくさんいるだろう。

いずれにせよ、住み込みの使用人と書生、
そして長屋住まいでは、
同じ「他人との暮らし」でも、
意味が異なるような気がするのだ。

とまあ、そのあたりの疑問はとりあえずおいといて、
いま考えたいのは、ワンルームマンションの歴史。

西川祐子『住まいと家族をめぐる物語−男の家、
女の家、性別のない部屋』(2004年)によると、
1976年に新宿区西早稲田で
ワンルームマンションという集合住宅が誕生し、
面積に比して割高であるにも関わらず、
瞬く間に日本中に広がっていったとのこと。

学生や単身赴任者など、
比較的住期間の短い人々が住むことを
想定して作られているものであり、
このような形態の住居は世界的にも珍しい、
と久保田さんは書いている。

なお、ワンルームマンションは、
優良な投資の対象でもあった。

西川祐子さんは、都会のワンルームマンションを
「子供部屋が分離して、別の都市へ遊離した形」
と表現しているそうだが、
なるほどねぇ・・・としみじみ思った。

それから30年近くたって、
今度はワンルームマンションの建設を
規制する動きが広まることになる。

2008年の段階で、23区中15の区において、
底面積や部屋数に基準を設けて
ワンルームマンションの新築を
制限する条例が制定されているとのこと。
(関連ニュース↓)
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20080925-90005090-r25

「仮住まい」の人々が増えすぎると、
地域の防犯や防災などの住民自治に
支障をきたすようになり、
また自治体としても、
住民票を実家に置いたままで
税収を期待できない人々の増加を
問題視するようになってきたという。

ここまでは『他人と暮らす若者たち』に書いてあることだが、
2〜3ヶ月前にテレビで観た話題で、
新しいワンルームマンションの形態が
出てきていることを知った。

東京都内の市街地(?)にあるビルの上階に
学生さんが住める割安のマンションがあるらしく、
なぜ割安かというと、
地域のイベントや活動に参加することが
条件になっているらしいのだ。

これかな?↓
http://mainichi.jp/select/news/20130411dde041040009000c.html
(東京・神田でした)

よく考えたなぁ!と思った。

オフィスと高級マンションじゃ、
若い力がやってこないですものね。

マンションに住む若者と地域の交流もあるし、
それを通して、マンションに住む若者どうしも
交流をもつことになるだろう。

建設の「規制」ではなく、
このような形で問題点を解決しようとしたのは、
地元の人の知恵と行動力があればこそだろう。

  ただ、相場より2〜3割安くて75,000円というのは、
  やっぱり東京都心近くの家賃は高いなぁと思うことであった。

ルームシェアやシェアハウスは、
同じ部屋や同じ家に住む人々と
ともに暮らす暮らし方だと思うが、
こんなふうに、
「地域とつながるワンルーム暮らし」
という形も出てきているんだなぁ・・・と
思うことであった。

ワンルームができた1976年代といえば、
私が中学生時代のころで、
時期としてはオイルショックに重なるけれど、
オイルショックの頃というよりは、
高度経済成長期が終わって、
バブル経済期へと向かう頃と考えたほうが
よさそうな気がする。

住居の形態は、個人的な経済状態はもちろん、
社会の経済状態とも連動するものだと思うが、
「ひとりで住みたい」という欲求が膨らみ
それが可能となった背景には
経済の発展があると思う。

しかし、ことの起こりは、
「個人と自由」が発生した
「近代」にあるような気がする。

面白そうな論文を発見したので、栞がわりにリンク↓
http://www.group-dynamics.org/pdf/journal/27/02sugiman.pdf


(つづく)
 2013.05.26 Sunday 13:27 『他人と暮らす若者たち』 permalink  
他人と住むこと、家族と住むこと
久保田裕之『他人と暮らす若者たち』を読んでいる。 



ルームシェア、シェアハウスという言葉を
耳にするようになって、
どれくらいになるだろう?

個人的には、
ここ3〜4年くらいかな?
と感じているのだが、
何しろ加齢にともなって
1年間がどんどん短くなるので(^^;
それを考えにいれると、
5〜6年くらいになるのかもしれない。

久保田裕之『他人と暮らす若者たち』によると、
話はもう少し遡り、10年くらいはたっていそう。

この本自体が2009年に発行されているので、
その後また状況は少し変わっているかもしれない。

日本における「ルームシェア」の普及は、
海外における留学や出張を経験した人たちによって
シェア文化が輸入されたことと、
インターネットの普及が関係しているもよう。

しかし、いまでこそ
奇異な目で見られることはなくなっただろうが、
そもそも日本は、他人と住まない国である。
(海外では、特に若者が他人と住むのは
普通のことであるらしい。)

そして、「他人と住まない国、日本」について
考察が進められていき、
「家族と他人との境界性」について
検討されていくのだが、
ハタとわが身をふりかえって思うことは、
私は、他人はおろか、
娘以外の家族とも、
もはやともに住みたいとは思わない、
ということ。

考えてみれば、ものすごく贅沢な話だ。
ありえない話だ。

低収入の母子家庭が、
東京のマンションの1室で暮らしているなんて。

状況的にそれが可能だったし、
落ち着くべくしてこの形に落ち着いているのだが。

ただ、去年ちょっとした出来事があって、
あれこれ考えて、
自分のいまのいちばんの仕事は、
自分の体調をくずさないこと、
という結論を出したのだった。

たとえ自分のお金で食っていけていなくとも、
具体的に娘の生活を支えることはできている。
それは親として当然のつとめではある。

でも、いま私がやっていることも、
いざとなれば(私がいなくなった状況でも)
他の親戚がやってくれるかもしれないし、
施設もあるし、なんとかなるだろうとは思う。

なんとかなるだろうが、
それを私ができるのならば、
いちばんいい方法だと思うわけであり。

だから、自分の心身の状態を整えること、
そして、娘が少しずつ身のまわりのことをできるよう
力添えをしていくことが、
自分の最大の仕事だと考えることにした。

いまは、私が収入を大幅アップさせることよりも、
そちらのほうが大事だ、と。

そのためには、娘と2人で暮らすのがいい。

それを思うと、実家に帰らないという道は、
ぜいたくな選択であったが、正解だったと思う。

(ちなみに、離婚は全然別の理由。
夫と暮らすのは苦痛ではなかった。
先方は苦痛だっただろうが・・・笑)

・・・と、思い切り話がずれてしまったが、
そんなこんなで
ルームシェアやシェアハウスについて考えていると、
「家族って何?」ということを考え始め、
自分の過去のこともあれこれ思い出し、
ついには、
「なぜ私はできるだけひとりでいたいのか」
というところも突っ込んで考えることになり、
ちょっとしんどい部分にも
頭をつっこみそうになる。



でも、実はもう、結論が出ている。



なぜ、私は、娘以外の家族とも
他人とも暮らせないのか。

それは、本当の意味で、
ひとりになっていないからだと思う。

だから、ひとりになるには、
「物理的に」ひとりの空間を
作らなくてはならないのだと思う。

ルームシェアやシェアハウスで
快適に暮らしていける人は、
自立している人なのではなかろうか。


(つづく)
 2013.05.23 Thursday 13:38 『他人と暮らす若者たち』 permalink  
久保田裕之『他人と暮らす若者たち』(集英社新書/2009年)

半年ほど前に、ノマドという言葉に興味をもち、
あれこれ調べたり考えたりしていた。

そして佐々木俊尚さんに興味をもち、
検索しているときに、次の座談会を知った。

佐々木俊尚×独自の生き方を開拓する5人
(安藤美冬・大石哲之・玉置沙由里・米田智彦・pha)

 http://www.ustream.tv/recorded/19198532

このなかのphaさんという方が、
ギークハウスプロジェクトというものの
関係者とのことだったので、
サイトにいってみたら、サイドバーに
久保田裕之『他人と暮らす若者たち』という本が
紹介してあり、気になったので、
図書館で借りて読んでみることにした。
http://geekhouse.tumblr.com/

ルームシェアの実態や、
シェアハウスで暮らす若者の感覚や考え方を
レポートした本だろうと思っていたのだが、
(もちろん、そういう面もあるし
そこがメインなのだけれど)
実態レポートこにとどまらず、
深いテーマにまで切り込む内容となっており、
いろいろと考えさせられている。

なお、別ブログで書いている
次の記事とも関わる話だと思う。
数式をはなれて、つらつら考えていること(3)/人々のつながり方の変化

しばらく、この本を読んで考えたことを
書いていこうと思う。

(つづく)

 2013.05.22 Wednesday 13:03 『他人と暮らす若者たち』 permalink