(予定変更)
鈴木健『なめらかな社会とその敵』を
読みながら考えたことを
もう少し書いていこうと思ったのだけれど、

  だんだん本からはなれてしまうし

  けっこう込み入った話になりそうだし

  図も描き起こさなくちゃいけないし

  別ブログでも並行して書いているし
 
  他のことが書けないし

というわけで、
続けていくにはちょっと負担になってきたので、
ひとまず一区切りにすることにした。

なお、ここ最近、
数学教育のブログと
こちらの生活ブログの内容が
入れ替わったような感じになっていた。

なぜかあちらで、
シンプルライフの金子由起子さんが出ているし・・・!
数式をはなれて、つらつら考えていること(3)/
人々のつながり方の変化

 2013.05.16 Thursday 14:23 鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・ permalink  
つながる快感とつながりすぎるつまらない感(笑)

森田真生さんのツイートに國分功一郎さんを発見して、
経路は不明だけれど(中沢新一さんか何かの出版関係?)、
不思議なことではないなぁと思いつつ、
そうか、ここもつながっちゃうのかぁ、と
ミクロがっかり感(!?)を感じている
意味不明で超贅沢な私。(^^;

以前も書いたように、
つながるというのはこのうえない快感なのだけれど、
やっぱりある程度の意外性と、なおかつ、
「自分でつないだ感」がかすかに残っていないと
快感にならんのかもしれないなぁ、
と思うことであった!

 もちろん、森田さんと國分さんが知り合いだとイヤ!
 という意味じゃないですよ〜

というか、これまでも、
「へぇ、そこもつながってるのか・・・」
と思うことが何度かあって。

なんというのか、あんまりつながりすぎちゃうと
「結局、私はスモールワールドにいるのか〜」
ってな感覚になっていくものですね。

実際、そうなのかもしれないなぁ・・・

「6次の隔たり」()は、
まさにスモールワールドの実験なわけだが、
思えば、ツイッターとかfacebookが盛んになると、
n次がすぐに1次になるのかもしれない。

でも、完全に均質な網の目ではなく、
もしかすると、同じ感覚の人、
同じ考えの人が集まっていて、
意外と濃淡がはっきりしている、
すんごく遠くから見るとコロニーのような
“膜的”網なのだろうか。

すんごく遠くにいったことがないから
わからないけれど。

そういえば、ちょっと話はずれるが、
以前、別のブログで、こんな記事を書いたことがある↓
http://math.artet.net/?eid=1421626

松丸本舗に行く前に、
「これは松岡正剛さんが編集し終わった本棚で、
人が編集し終わった本棚は
面白くないんじゃなかろうか・・・」
なんて考えていたのだ。

  実際に行ってみたら、
  そんなことどうでもよくなって
  「お財布の紐しっかりしめとくのよ!」と
  肝に命じることになったのだが。(^^;

つながる快感は、
勝手につながるから快感なんだけど、
でも、そのつながり方に、
どこかほんのり自分を感じないと
快感にならないのかもしれない。

ついでに言うと、「学ぶ」って、
「つなげる」ことだと思ってるわたし。

でも、学校教育って、
いろいろ都合もあって(?)
だれかががきれいにつなげたものを
順番に学んでいくことになるから、
逆にバラバラになっちゃうのよね、たぶん。

バラバラだとわからないし、つまらないよね。

 2013.05.13 Monday 14:40 鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・ permalink  
「膜」から「網」への変換イメージ(TATA風)
ここのところカテゴリーは
「鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・」
にしていて、
「読みながら・・・」とあるように、
本に書かれていないことも含めて
自分が思い描いたことを綴っているのだけれど、
特にきょうは、私の勝手なイメージになりそう。



中学校の数学で、
正多面体というものを学ぶ。

正多面体には5つの種類がある。

正四面体、正六面体(立方体)、正八面体、
正十二面体、正二十面体。
(ウィキペディア>正多面体

このうち、立方体と正八面体に注目すると、
立方体には面が6つ、頂点が8つあり、
正八面体には面が8つ、頂点が6つある。
つまり、お互い入れ替わっている。
ちなみに、辺の数は同じ。

正十二面体と正二十面体にも
同じ関係がある。

このような関係を、「双対(そうつい)」と呼ぶ。
(ウィキペディア>双対多面体
この概念は一般的には中学校で学習しないと思う)

なお、正四面体は面も頂点も4つずつなので、
自己双対ということになる。

ウィキペディアの図からわかるように、
立方体の面の中央を結んでいくと、
正八面体ができるし、
正八面体の中央を結んでいくと、
立方体ができる。

こんなふうにして、双対な多面体は、
点と面を入れ替えることでできる。

  ちょっと画像がきたないですが、
  別ブログの以下の記事で、
  その様子を示してあります↓
  http://math.artet.net/?eid=1214551

細胞のような「膜」のイメージと、
「網」のイメージをながめていると、
私はこの双対多面体のことを思い出すのだった。

「膜」たちも、
膜をたもったまま
ぎゅっと凝縮させると、
網の目のように見える。



しかし、このときの青い線は、
「つなぐ線」ではなく、「へだてる線」だ。

ここまでが「私の領域」ですよ、と
なわばりを示す線。

この状態から、膜を点に凝縮してみる。
(下図の黄色の点)

そして、それぞれの「へだてる線」を横切る
赤い線を考えてみる。

たとえば青い線が国境だとしたら、
赤い線は出入国のルートのようなものなので、
国が2つ接しているところに、
ルートが1つできる。



このときの赤い線は、「つなぐ線」となる。

なお、面を凝縮させた黄色の点は、
膜内を制御していた「核」ではなく、
青い膜を凝縮させたもの。
(と、自分で書いておきながら、
若干首をかしげている。
なんだろう?それ・・・と。)

こういうふうに考えると、
立方体の各面の中心を結んだときに
正八面体ができるように、
「膜」のなかの点をお互いに結んだときに
「網」ができるんだなぁ・・・と思った。

1つの国境に
ルートを1本ずつひいているので、
辺の数は同じになるが、
かたや「へだてる線」、
かたや「つなげる線」であり、
性質が異なる。
ある意味、正反対。

しかし。
立方体の各面を「つなぐ線」は、
新しくできた正八面体の面と面を
「へだてる線」でもある。

また、厚紙で立体をつくるときには、
面と面を辺でくっつけることになる。
のりしろを作ったり、テープを使ったり。

そういう意味では、
辺は「つなぐ線」でもある。

LINEは本来、
つなぐこととへだてることを、
同時にしている。

なぜならば、異なるものでしか、
つなぐことはできないから。
 2013.05.09 Thursday 13:15 鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・ permalink  
もうひとつの「網」のイメージ

私が、鈴木健『なめらかな社会とその敵』を
読むことになったのは、
佐々木俊尚さんのブログを読んだ()から。

そして佐々木俊尚さんのブログを
読むことになったのは、
ノマドという言葉の変遷に興味をもった()から。

佐々木俊尚さんのことは、
『電子書籍の衝撃』で知ったのだけれど(
(結局読まなかったのだが)
おそらく、目次に安藤哲也さんの
お名前があったので、
興味をもったのだと思う。

安藤哲也さんに興味をもったのは・・・(

と、いくらでももとをたどれる。

また、ノマドに興味をもったのは、
ノマドワーカーという言葉が
ちょっと気になっていたことと
(「たけしのニッポンのミカタ」という番組をみて
そのとき安藤美冬さんが出演したこととも
も関係していると思う>)、
最近何かとドゥルーズに縁があること、
ポストモダンをふりかえっていたことが
おおもとにある。

その際に、仲谷昌樹さんの本もからんでくる。

さらに、鈴木健さんを通して
森田真生さんを知り、
森田さんが岡潔に強く惹かれていること、
専門の1つが圏論であることは、
別ルートから自分の流れとつながる。

仲正さんの本を手にするときに
背中をおしてくれたのは松岡正剛さんだし、
松岡正剛さんは、複雑系、岡潔ともつながる。

さらに、『電子書籍の衝撃』において、
安藤哲也さんと松岡正剛さんがつながる。

複雑系についてはすでに書いた通り。

いま私がある1冊の本を手にしている背景には、
たくさんの「原因」があり、
それらは複雑にからまりあっている。

そして私の興味はこの1冊からまた、
たくさん分岐していくことだろう。

そうして分岐していったものがつながることが、
つながる快感となる。




これらの網目の中から、
意図的に一部を抜き出すこともできる。

というか、ふだん私たちは、
抜き出してばかりいる。

抜き出していかないと、
生活していけない。

  どうしてそうしたかったのですか?

  なぜわが社を選んだのですか?

  そのケンカの原因はなんですか?

  その事故の責任はだれにありますか?

  そう言える根拠はどこにありますか?

というふうに。

このことを、森田真生さんは、
書評のなかで次のように書き始めている。
http://honz.jp/23020

夢を語ればその動機を問われ、信念を論ずればその根拠を訊ねられる。病があれば病因を探りはじめ、事故があれば責任の所在が追及される。とかくに人の世は、結果と原因の究明に忙しい。

そして朝日新聞のインタビューは、
まさにこの視点から始まるものだった。
http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201305010661.html

この記者を褒める森田さんのツイートを読んで、
なるほどインタビューというのはそう読むのかと
ちょっと反省?した私・・・^^;

聞き手が冷めてる感じを装いつつ、
ちゃんと著者の言葉を引き出している、と。

私はといえば、
「そこからたずねるしかなかった
インタビュアーの気持ちもわかってあげて
もっとやさしく接してあげないから、
インタビュアーかまえちゃったじゃない・・・」
と思ってしまったのだった。

森田さんの書評にある「局所」という言葉、
そのアプローチのしかたが、
ほんの少しのひっかかりをともなって、
私のなかに残っている。

だから私は、郡司ペギオ幸夫にも
興味をもっているのだと思う。

しばらくは、
パラレルでいくことになるような気がする。

果たして、いつか交わる(つながる)か!?
それとも、どちらかの流れに私はおさまるのか・・・

あるいはいったんおさまって、
そこから分岐していくか・・・

前回の「網」は、いわば空間的な網、
現在の関係性としての網だったが、
こちらの「網」は、因果関係を含む
時間軸のある「網」だ。

しかし、前回の「網」にも時間はあり、
今回の「網」も、時間だけでは語れない。

もちろん、私に「網」があるように、
私の「網」のなかに登場する人々の
それぞれに「網」があり、
それらが交錯していって、
また分岐していく。

「網」って、おもしろいね・・・


(つづく)

 2013.05.08 Wednesday 10:33 鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・ permalink  
「網」のイメージ

「網」といえば、こんな感じだろうか。



網には交点がある。



では、交点から考えてみようか。

     

ピンクさんは、
黄色さん、青さん、水色さん、
緑さん、赤さんとお友だち。

     

黄色さんと赤さん、
赤さんと緑さん、
青さんと水色さんも、
お友だち。


     

オレンジさんは、
黄色さんと青さんのお友だちで、
紫さんは、
ピンクさん、水色さん、緑さんとお友だち、
そして茶色さんは、青さん、水色さんとお友だち。

 
      


ピンクさんのお友だちには、
それぞれお友だちがいて、
そのお友だちにもお友だちがいる。


     
オレンジさんと緑さんは、
直接の知り合いではないが、
「オレンジ→黄色→赤→緑」や
「オレンジ→青→ピンク→緑」というふうに
たどっていくとつながる。



鈴木健『なめらかな社会とその敵』(p.33)に、
「6次の隔たり」の話が書いてある。

「6次の隔たり」というのは、
ウィキペディアの言葉()を借りてまとめると、
「人は自分の知り合いを6人以上介すと
世界中の人々と間接的な知り合いになれる」
という仮説のこと。
(本では、スタンリー・ミルグラムの
実験の内容についても触れてある)

電車で隣の席に座っていた人となにげなく会話したら共通の知人がいることがわかって驚いた経験など,誰しも一度はあることだろう。

私も、ある。

学生時代に、新幹線の中で。

同年代だったし、
地理的な条件をあわせると、
ものすごく稀なことでもないかもしれないが、
やはり驚いた。

そもそも、新幹線で隣り合った人と
話したことそのものが、
とても珍しいことだったのだが、
逆にいえば、
もっと頻繁に話をしてみれば、
こういう経験もふえるのかもしれない。

世間は狭いということか。

人と人は、つながっている。


(つづく)

 2013.05.07 Tuesday 09:32 鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・ permalink  
「膜」と「核」の世界がもたらすもの
『なめらかな社会とその敵』(鈴木健)の第1章では、

   【膜】  【核】  【網】

というのが重要なキーワードとなる。

世界の本性は【網】である。
【膜】と【核】は、仮の姿、一時的な現象でしかない。
しかし、いったん【膜】と【核】が生まれると、
世界の本性が【網】であることを知覚するのは難しい。

【膜】は、資源をある空間に囲い込み、
【核】は、ある空間の内部にある資源を
制御することを可能にする。



細胞膜は、必要な化学物質のリソースを囲い込み、
それらを他の代謝ネットワークから
排他的に利用できるようにする。
また、不必要な化学物質が
膜の内側に入らないように排除する。
そして、核のなかに取り込まれたDNAは、
タンパク質を制御する。

しかし、DNAとタンパク質の関係は、
それほど単純ではない。
タンパク質の構造を記述しているのはDNAだが、
DNAを書くのはタンパク質だ。
どちらがどちらを「書いている」かは解釈の問題であり、
この制御は見せかけのものにすぎない。



近代の経済システムは、私的所有を認め、
資本や資源や労働力を組織し、
企業という膜の中にそれらを囲い込むことで成立している。

企業組織の中では、
取締役会や執行役などの経営陣という核が制御し、
予算や人事などの資源の配分を決定する。



近代政治では
国民国家概念の成立とともに国境が厳密になり、
国民のメンバーシップが明確になってきた。

民主主義制度においては、
国家は参政権や社会保障のために
国民のメンバーシップを把握する必要がある。

また、国家には執行権力があり、
それが政治を制御している。



そんなふうに、【膜】と【核】で構成された
(ように見える)世界はどうなるか。

企業組織の中では、
資源は内側からのみ利用可能であり、
同業他社との間では熾烈な競争が行われる。

社員からみれば、会社の利益さえ上がり、
上司からの覚えがめでたければよく、
社会全体の福利には関心がなくなる。

強いモラルか、
外部からの強力な監視と制裁がなければ
モラルハザードが起きて、
社会的には害としかいえない行動に対しても
対価は支払われる。

国家は、国の中の利益を最大化し、
そのためであれば他国の領土を
侵略することもしばしば。

国境や国民という膜の内側と外側で、
敵と味方を明確に区別するようになる。

また、国家の執行権力は
基本的には人民の意志によって
支えられているはずであるが、
議会は異なる社会階級や階層の利害が
対立する場となり、
政党や派閥の間での権力闘争が自己目的化する。

経済においては、
貨幣という水流におけるよどみが
蓄積される資本となり、
政治においては、
委任という水流におけるよどみが
独自の論理で動く権力となる。

人々は、そのよどみが、
水流から成立することを忘れてしまう。



以上は、第1章のなかの数ページから
抜粋した話なのだけれど、
私はこの話を読んでいるときに、
九州電力やらせメール事件のことを思い出した。

福島第一原子力発電所事故の3ヵ月後、
玄海原子力発電所2、3号機の運転再開に向け、
経済産業省主催の「佐賀県民向け説明会」実施にあたり、
九州電力が関係会社の社員らに
運転再開を支持する文言の電子メールを
投稿するように指示していたとされる事件。

この事件を知ったとき、びっくりした。
何にびっくりしたって、
電子メールという手段を使ったこと。

電話するとか、直接話しに行くとか、
思いつかなかったんだろうか?と。
(いや、“やらせ”を肯定するわけではもちろんないのだが)

まあ時間がなかっただろうし、
効率わるいから、電子メールを使ったのでしょうね。

逆に、電子メールくらいの効率(=数が稼げる)
がないと意味がない行為だったのだろう。

すごいなぁ・・・と思った。
信じているんだな、と。

「膜」を。そして、「核」としての自分たちの力を。

たとえ、電子メールという手段を使っても、
膜は保たれ、核の力は発揮されると
信じて疑わなかったのだろう。
 
  「核」という語が
  二重の意味をもちそうな例だ。

また、「一国民」として、
「ご自宅等のPCから」アクセスするよう
呼びかけているのも象徴的だと思う。
(一応、会社のPCの処理能力の低さが根拠とされているが)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0605C_W1A700C1000000/?nbm=DGXNASDG0801B_Y1A700C1CC0000

「制御されない人であれ(そのふりをしろ)」と、
制御する。

  これ、本当に再開に賛成だった人も、
  複雑な気持ちだったことでしょうね・・・
  
なんだか世の中、ツールが変わっても、
発想が変わらないなぁ、と思うような事件だった。


(つづく)
 2013.05.02 Thursday 11:57 鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・ permalink  
もうひとつの「境い目」のイメージ
1つのものを2つに分けるには、
線が1本あればいい。

そして、その線の端と端をあわせれば、
つまり閉じた線にすれば、
内側と外側ができて、
何かひとつのものができる。

     
境い目はまだ作れる。

このひとつのものを包んでしまう、
ひとまわりおおきな閉じた線。

    
もしかすると
このひとまわり大きな線のなかには、
いくつかの「1」が含まれているかもしれない。

  
そして、ひとまわり大きな
外側の薄青のくくりも、
あらたな「1」となる。

さらにくくってみる。
  
さらに・・・

    


いちばん外側の紫の「1」に注目するときには、
内側の「1」たちの境い目は
あまり意識されないようになるかもしれない。


    


場合によっては
ほとんど消えているかもしれない。

    
もしかするとこの紫の「1」は、
最初の青の「1」だったかもしれない。

つまり、最初の青の「1」の内側にも、
こういうたくさんの境い目があるのかもしれない。

きのうの「境い目」のイメージは、
細胞に似ていた。

私たちの身体は、
たくさんの細胞でできているわけだが、
たくさんの細胞でできたひとりの人間が、
「ひとり」の人間といわれる。

そうしてひとりの人間は、
ある世帯に属し、
市区町村に属し、
都道府県に属し、
国家に属している。

ついでにいうと、
地球にも属している。

あるいは、
○○学校や、○○会社に属しており、
○○学科や○○部に属している。

身内を、「身・内」とは、よくいったものだと思う。
身内の範囲

また、こういうふうにくくっていくことで、
ものごとが扱いやすくなることの
典型的な例が、数の扱いだと思う。
通常の生活のなかでは、いわゆる十進法。
五進法や二進法で数を表すとき

境い目をつくること、
境い目でくくることは、
生命において、
あるいは社会において、
本質的なことである。

『なめらかな社会とその敵』で著者は、
「境界を引くことは,生きることそのものと等しいある種の業」
と書いている。


(つづく)
 2013.05.01 Wednesday 10:50 鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・ permalink  
「境い目」のイメージ
区切られた場所を境い目で2つに分けるには、
1本の線をひけばよい。 

     

しかし、区切られていない場所の場合、
1本の線では2つに分けることができない。

     

ならば、線の端と端をつなぎあわせて、
わっかにしてみようか。
            
そうすると、「内側」と「外側」が生まれる。
「1」が生まれる。

「1」がたくさんあるとどうなるだろう?

     
寄せてみると・・・

       
なんだか細胞のイラストみたいだ。

でも、細胞のイラストにしては、
何かが足りない。

核だ。

     
核を入れると、
がぜん細胞っぽくなってくる。

タマネギの表皮細胞と見比べてみたりして・・・↓
http://natural-history.main.jp/Education/Cell/Allium/Allium.html

核には、DNAがある。
DNAは、遺伝情報を有している。


(つづく)
 2013.04.30 Tuesday 09:37 鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・ permalink  
いろいろな「境い目」(3)/領域
私が小学校1年生のころ、
学校の机は木製の2人掛けだった。

現在の机のように
すべすべに加工された天板ではなく、
木の風合いそのままのもの。

なので、表面にあいた小さな穴に
消しゴムのカスをえんぴつで押し込んで
遊んだりしていた。

そして、2人の境界線を鉛筆で書く・・・
というよりほとんど刻みこむようなことも
やっていたんじゃないかと思う。
(私自身はこういうことはやった覚えがないが)

そして、境界線から筆箱が出たの出ないのと
やいのやいのやっていたかもしれない。

そういう記事(机の境界線)が見つかるかな?
と検索してみたら、発見↓
http://blog.goo.ne.jp/yasu1958/e/679fb25053580f579be62dc86734aa12



昨年度、実家の土地を売るにあたり、
隣家との境にある垣根やブロック塀が
どちらのものなのかを確かめる機会があった。
いままで意識したこともなかった。
うちのものであれば取り払わなくてはならないし、
隣人のものであれば残さなくてはならない。

また、このたび測量をした結果、
登記簿記載内容とは
数値が少し異なることもわかった。

坪単価で売られるので、
どこからどこまでがわが家なのか、
その境い目がなくては土地の面積がわからず、
値段もつけることができない。



領土の問題は、
もうあえて書くのが憚れるほど、
大きな政治的問題。

北方領土や竹島、尖閣諸島は
この際おいておこう。

たとえば沖ノ鳥島。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E3%83%8E%E9%B3%A5%E5%B3%B6

消波ブロックが好きな私は、かつて、
鉄製のテトラポッドに囲まれているということで
この島に興味をもったことがある。

累計1000億円以上かけても惜しくないのは、
この「島」があるおかげで、
日本国土をうわまわる「排他的経済水域」が
失われずにすむからなのだろう。
“排他的”という名称がすでに象徴的だと思う。

それは「島」であるか。
「満潮時」に「水面上」に出ている部分があるか。

ここにもイヤというほど定義があり、
「境い目」がある。
「境い目」を決めるための「境い目」。



鳥インフルエンザのニュースをみると、
数年前の新型インフルエンザのことを思い出し、
木村盛世さんのことを思い出す。
(古いほうのサイトをリンク↓
http://www.kimuramoriyo.com/

たとえばこんな記事がある。
いっそ鎖国したらどうでしょうか?

また、この話から派生して、
その「1」の意味/放射性物質は国境を知らない
も思い出す。

渡り鳥や放射性物質は封じ込められないが、
渡航者は、一般的には
国の境い目にあけられた隙間=入り口を
通過するはずだから、
ある程度「管理」可能ということになるだろうか。



鈴木健『なめらかな社会とその敵』()の
「はじめに」は、「ベルリンの壁」の話から始まっている。

著者は1975年生まれで、
14歳のころ西ドイツにいたそう。

デュッセルドルフ日本人学校に通っていて、
1989年5月に、修学旅行で
べルリンの壁を越えたときのことが綴られている。

当時、多くの東ドイツ市民が
東ベルリンから西ベルリンへ
壁を乗り越えようと試みていた。

一部の挑戦者は壁越えに成功していたが、
東ドイツ兵に見つかって
背中から狙い撃ちされる犠牲者は跡を絶たない。

そうした事例は
英雄と悲劇の物語として展示されており、
西ベルリンの壁際の記念碑には、
2週間前に壁越えに失敗した
数名の犠牲者の名前が刻まれていた。

その5ヶ月後、
ベルリンの壁は突如として崩壊した。

あの犠牲者も、あと半年待てば
正面から歩いて壁を越えられたと思うと、
居たたまれない気持ちになったのを覚えていると
著者は書いている。

この世界に境界が引かれていることを
強烈な形で実感することになった鈴木さんは、
(皮肉にもそれは、境界が消されたときに
より実感できるものになったのだろう)
そのことに対するナイーブな違和感を
失わなかった。

少年時代のそうした原体験が
この本の根底を支えている。

「境界自体を消し去り、
なめらかな社会をつくることは
できないのだろうか?」

そのための
「現実的かつ具体的な一案」を、
著者は本気で提案している。


(つづく)
 2013.04.29 Monday 15:27 鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・ permalink  
いろいろな「境い目」(2)/「死」のポイント
人間は、だんだんと死ぬ。

そのことを初めて意識したのは、
テレビで九相図を観たときだったと想う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E7%9B%B8%E5%9B%B3

養老孟司が講座か何かで
紹介していたものだったと記憶している。



玄侑宗久『まわりみち極楽論』に、
「「死」について」という章があり、
そのなかに「死とはどのポイントなのか?」
という一節がある。

平安時代の貴族や皇族は、
死か近づいたと認識すると
黒い衣装に着替えて
「涅槃堂」と呼ばれる建物に入る。
陪席するのは僧侶。

そして、阿弥陀如来の指に結ばれた
五色の意図を握りしめて、
その時を待つ。

亡くなると、僧侶は帰ってしまうらしい。
(お経はあげるのだろうけれど)

そしてその後は、
葬送人といわれる人たちに任される。

つまり、当時、
亡くなったという判断をくだしたのは
僧侶だった。

最近では、死亡の瞬間は
お医者さんが決める。

いっぺんに全身が
死ぬんじゃないかもしれないわけだけれど、
一応このポイントにしておけば
不可逆な死だろうというので
初めは心臓死だった。

心臓の停止、呼吸の停止、瞳孔の拡散という
死の三兆候で見ておけば
まず間違いはなかろう、と。

しかし、死の定義は変わった。
「脳死」という概念が出現したから。

つまり、死というのは、
人為的な決定だということ。



『まわりみち極楽論』(初版2006年)では
脳死のことにこれ以上深く立ち入ってはいないが、
脳死の問題は、臓器移植の問題につながっていく()。

玄侑宗久さんがいう
「しかし最近、死の定義が変わりましたよね」
という“最近”は、臓器移植法の施行である
1997年以降をさしているのだろうか。

その後、この法律は2009年に改正された。
http://www.mhlw.go.jp/seisaku/2010/01/01.html

ある意味で境い目をなくし、
ある意味で境い目の位置をかえる改正だったと
個人的に感じている。

15歳未満の人からの臓器提供が
可能になったということは、
15歳という境い目をなくしたということ。

そして、本人の意思が確認できなくても、
家族の書面による承諾で移植が可能になったこと、
また、親族への優先提供を認めるということは、
境い目が「個人」から、「家族・親族」へ
ひとまわり大きくなったということではなかろうか。

さらに、死の定義は国によって異なる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E6%AD%BB

国も、境い目のひとつ。

そして何よりも、臓器移植をしたあとは、
免疫のコントロールが必須になるだろうということは
素人にも想像がつく。

拒絶反応が起きないように免疫力を弱める。
それは自と他の区別を弱めるということであり、
そうなると今度は感染症のリスクが増す。

そこをどう乗り切るかが、
臓器移植成功の重要な課題なのだろう。



以上の話のなかに、
いったいどれだけの「境い目」が
関わっていることだろう。

生物としての境い目もあれば、
社会的な境い目、
人為的な境い目もある。

私たちは、
夥しい数の境い目のなかで、
生物として生き、
社会生活を送っている。

生と死という、
もっとも「生き物」らしい現象のなかにも
(だからこそ?)
社会的な境い目がふんだんに盛り込まれている。


(つづく)
 2013.04.26 Friday 12:13 鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読みながら・・・ permalink