ノマドという言葉の変遷について…

きっとだれかが論じてくれているだろう、
検索すればすぐに見つかるだろう、
と思っていたのだけれど、
意外と見つからない。

ちなみに変遷というのは、
「現代思想」の時期から、
いま現在にいたるまでの、
20〜30年の変遷のこと。

で、ドゥルーズ=ガタリの「ノマド」と
ノマドワーカーを直結させているページを見つけて、
あら、もしかして佐々木俊尚さん本人がつなげてる?
とようやく気づいた。

ほんでもって
『仕事するのにオフィスはいらない』の
Amazonの「なか見!検索」()をのぞいてみたら…
目次にありましたーー

なんだ、最初から話をつなげてあるのですね。

となると・・・

仲正昌樹『集中講義! 日本の現代思想』(2006)の
分析とのつながりは、どうなってくるのだろう?

後半で、「現代思想」衰退の
外的要因について分析してあるのだが、そのなかに、
バブル期はノマド的な生き方がしやすかったが、
バブル崩壊後に不況が長引く中で消費文化が衰退し、
企業が新規採用を抑えるようになったため、
むしろフリーターにならざるを得ない若者、
フリーターであり続けることに
不安を覚える若者が増えてきて、
自分の居場所を定めない存在に対する
社会的評価が著しく低くなった、
という話が書いてある。

そうなると、一ヶ所に定着して
安定した職業生活を送る
パラノ人間に対する評価が再上昇してくる、と。

でも、もしかするといまは、
もはやパラノ生活の安定性が否定されて、
30年前とは別の意味で、
ノマド的生き方が再評価されている、
ということなのだろうか?
(佐々木俊尚さんの先の本の目次を読むと、
そんな雰囲気ですね…)

そういえば國分功一郎さんが、
非正規雇用の問題点の話を書いていたが(
宇野常寛さんとの対談で、
宇野常寛さんが、正規雇用を増やすことよりも、
非正規雇用でも食べていける社会作りの
重要性を語っていたような記憶がある。
(きわめてうろおぼえ)

たぶん、現在のノマドワーカーって、
フリーターということではなく、
むしろ、自分で自分の会社作るくらいの人、
そのくらいの生き方のことを
さしているのかもしれないな。

あるいは逆に、組織に属した状態、
比較的安定したお付き合いがある状態で、
出社せずにカフェで端末機器扱っていれば、
それがノマドってことなのかもしれない。

 2013.01.28 Monday 12:40 「現代思想」 permalink  
少し前に気になっていたことについて

『集中講義!日本の現代思想
―ポストモダンとは何だったのか―』
(NHKブックス/仲正昌樹著/2006)
を読んでいるところだけれど、
ちょっと寄り道。

いまはもう、だいぶ気持ちが落ち着いてきたのだが、
数週間前くらいに、
ある3つのことについて考え込んでいた。

それはおもに、
私なりのツイッターライフを通しての気になりごとだった。
(ツイッターだけではなく、ネットライフ全体を
通してのことだと思うけれども)

うち2つについてはまだ考え中なので
あまり突っ込まないことにして、
もう1つのことについて、
ちょっと言葉にしてみようと思う。

考え中の2つのことをAとBとおくと、
AとBは全然別のテーマに属することなのだが、
何か共通していることがあるような気がして、
それがもう1つの気になりごとCだった。

というわけで、Cは言ってみれば、
メタな気になりごとということになる。

AもBも、ジャンルはまったく違うが、
社会のとある問題点を指摘するもの。

問題点なので、それを問題とする人からは
不快な出来事だということになる。

で、思ったわけなのだ。
人はどうしてこうも、
自分を不快にすることを見つけるのが
上手なのか、と。

まるで自分を不快にする出来事を、
日々がんばって探し求めているみたい。

もちろん、それをその人は「問題」としており、
つまりそれは自分が大切にしているもの、
大切にしたいものを壊すものなので、
そういう問題を探して指摘することは
あたりまえのことであり、
そのためには巷にあふれる
たくさんの実例を拾い上げてくることが
まずは不可欠となろうかと思う。

そして、もし、それらの問題点が
書籍なりネット上の記事にまとめられるならば、
事例が整理され、
その人の論点が前面に出されるので、
もはや違和感や不快感は昇華されると思うのだが、
ツイッターレベルだと抽出作業に終わり、
不快感が解消されないまま、
リツイートで拡散されていくのかもしれない。

がしかし。

はたと気づいたのだ。

そういう発言に違和感・不快感を感じる私だって、
自分が違和感・不快感を感じる言葉を、
日々せっせと探し出してきているじゃないか、と。



何かひっかかることがあるとき、
道は2つあると思う。

1つは、そこに何か自分が大事にしているものが
関わっていると判断して、
何に違和感・不快感を感じているのか、
それをどうしたいのかを突っ込んで考えてみること。

もう1つは、そのときに感じていることは
単なる不快感であると判断して、
自分が不快と感じるものに
接触しないように努力すること。

AとBが、それのどちらなのか
いまはまだわからないけれど、
もし、そこに「何か」があるのなら、
いま考えたくて考えていることと
いつかどこかでつながってくるのではないか、
と期待している。

Aに対しても、Bに対しても、
「この人(たち)、なんか二項対立に陥っていないかな…」
と感じるその私が、
すでに二項対立に陥っているのだと思う。

あるいは、「内」と「外」を分けている。

たとえていうなら、
「あの人たちって、人の悪口ばっかり言ってるよねぇ」
と言う人は、
悪口を言う人たちの悪口を言っている。

あるいは、
「自己批判の視点をもたなくちゃだめだよ」
と言う人は、その意見自体を
自己批判の視点で考えていないかもしれない。

さらに、
「あの人たちって、悪口を言う人たちの
悪口言ってるよねぇ」という悪口が成り立ち、
「彼は自己批判をもつべきだという自分の意見に
対する自己批判をしていないよね」
という批判が成り立つ。

どこまでもいってもキリがなく、
何をどうしても外に出ることができない。

ということを頭に入れた上で、
いつかAとBへの自分への取り組み方が
見つかるといいなぁ、と思っているところ。

 2013.01.21 Monday 10:04 「現代思想」 permalink  
「うれしいね、サッちゃん。」

『集中講義!日本の現代思想
―ポストモダンとは何だったのか―』
(NHKブックス/仲正昌樹著/2006)

を読んでいる。



私は大学1年生のころ(1983〜1984年)、
同郷の女友だち3人で住んでいた。
故郷は離れていたが、まだ東京ではなく、
とある地方都市。

当時はお風呂付きマンションだなんて
夢のような話だったが、3人で住めば、
そういう住環境も可能になるので。

なお、2年生以降は別々に暮らした。

いっしょに暮らしていたうちの1人は、
集英社の『non-no』という雑誌が好きだった。

というわけで、
それまで何の興味もなかった
『non-no』を時々読むようになったのだが、
考えてみれば中学生か高校生のときには
週刊マーガレットを読んでいたのだから、
集英社つながりではある。

ちなみに『non-no』の刊行は1971年。
その1年前にマガジンハウス(当時、平凡出版)から
『an・an』が発刊されており、
1975年には光文社の『JJ』が発行とあいなる。

その前後で
渋谷ではどういうことが起こっていたかというと、
まず、戦前に東急百貨店を出していた東急グループが、
店名を東急百貨店に変更して、
その本店を道玄坂上に開設したのが1967年。

そして1968年には、
池袋を拠点にしていた西武百貨店が
渋谷に進出する。

さらに1973年には、
西武グループが出資するパルコが
公園通りに出店、
1979年には東急系の「109」が
駅前の交差点付近に建設されることになる。

ちなみに渋谷西武は、
後にDCブランドと呼ばれるようになる、
ファッション商品を主として扱う、
当時としてはかなり先進的な戦略を取った。

こうして、若者向けのファッションを中心に、
さまざまな流行品を
セットで消費されるように誘導する
「消費文化」が形成されていく。

で、上記のようなファッション雑誌も発行され
(『Popeye』のような男性雑誌も↑)
雑誌と百貨店・ファッション専門店の
コンビネーションによって、
“自分らしさ=個性”を求める
(だけの経済的余裕のある)若者のために、
「差異」を演出する流行が何度も仕掛けられる、
という状況になる。

こういう話になると、
(仲正昌樹の本には書かれていないが)
やはり堤清二のことを思い出す。

そんな堤清二が
『消費社会批判』なんて本を書くってどういうこと??
という印象もあるだろうが、
DCブランド展開とほぼ時を同じくして
(あるいは、あまり間をあけることなく)
無印良品を始めているのがすごいと思う。

ウィキペディア:堤清二の説明によると、
どちらも「脱大衆文化」ということであるらしい。
ふむふむ。

そして、糸井重里のコピーが有名になり、
コピーライター・ブームが起こる。
 
個人的には、
「うれしいね、サッちゃん。」が
いちばん印象に残っている。

ちなみに西武百貨店のコピーに関しては
別ブログでこんな記事を書いてます→収縮する「わたし」

仲正昌樹の本にもどると、
こうした渋谷の消費文化の発展は
日本経済全体の動向とも無関係ではないとして、
オイルショックの話が出てくる。

ウィキペディアによると、
オイルショックは1973年と1979年に始まり、
1980年がピークだったようなのだが、
パルコが公園通りに進出したのは1973年で、
その翌年にオイルショックの影響で
GNPがマイナス成長に転じて不況が始まり、
高度成長が終わった、と言われるようになった。

大企業はそれに対応するために
省エネ化と人員整理・配置転換を開始。

日本経済全体として
重厚長大産業(重工業)から
軽薄短小の情報・ハイテク産業へと
急速にシフト。

商業・流通の分野でも、
新たな購買意欲を掘り出すべく、
それまでの「家庭」中心に売り込む戦略を変更して、
最初に団塊世代のシングル女性を、
ついで、男女学生、高校生、
そして子どもをターゲットにした「流行」を
人為的に作り出す戦略をとるようになる。

つまり、同一品種の大量生産・消費から、
消費者の嗜好による「差異」が際立ちやすい、
多品種の少量生産・消費への変化が進行する。

そうした構造転換を通して、
日本経済が70年代後半から、
実際に立ち直ってくると、
マルクス主義が再活性化する余地はもはやない、
と仲正昌樹さんは書いている。

そっか、オイルショックからの流れは
そういうことになるのか〜

 2013.01.20 Sunday 10:42 「現代思想」 permalink  
なんとなく、クリスタル
『集中講義!日本の現代思想
―ポストモダンとは何だったのか―』
(NHKブックス/仲正昌樹著/2006)
を読んでいる。

そんなこんなで、
「大衆社会」の本格的な到来により、
マルクス主義は説得力を失っていった。

で、「大衆社会」というのは、
経済的、社会学的に見れば、
「大量消費社会」でもある、
ということになる。

したがって、
「大量消費社会においては
古典的マルクス主義は挫折を余儀なくされる」
ということになり、
これが第三講の主題になっている。

本では、マルクス主義をからめた
「労働」と「資本」、
そして「生産」と「消費」の話から始まり、
疎外論へのシフトの話を経て、
ベンヤミンの『パサージュ論』、
そしてボードリヤールへと進んでいく。

このあたりについても
けっこう詳しく書いてあるのだけれど、
がっさり割愛して先に進むと、
日本における“やや例外的な存在”として
柄谷行人の名前が出てくる。
 
68年革命前後のフランスでは
構造主義、およびその後に続いたポスト構造主義は、
マルクス主義を含む近代哲学・思想の大前提に
挑戦する思想として勢いを増したのに対し、
日本では、70年代にそうした“政治的含意”を抜いた形で、
仏文科や文化人類学などの方法論としての
「構造主義」が知られるようになり、そこから、
構造主義やポスト構造主義は、非政治的で高尚な
“おフランス”の思想というイメージが生まれてきた、と。

そのなかで、「構造主義」を
はっきりと政治思想的な文脈で援用することを試みた、
やや例外的な存在として柄谷行人がいる、
という話の流れになっている。

そしてさらに読み進めると、
田中康夫の『なんとなく、クリスタル』が出てくるのだ。

この本を読んでいると、
「あったあった、そういうこと〜!」と
懐かしさに浸ることたびたびなのだが、
あの本の著者が長野県知事を経て
いまや政治団体の代表となり、
映画化されたときの主演女優の元夫が
宮崎県知事を経て衆議院議員になろうとは
あのころいったい誰が予想しただろう・・・
って、前者は予想できたかな!?

 ちなみに、この4年前に書かれたのが
 村上龍『限りなく透明に近いブルー』なのです。

本の内容の説明については
ウィキペディア:なんとなく、クリスタル
まかせることにして
ここで描かれているような消費社会化による
日本の若者文化の変容が、
古典的マルクス主義が挫折を余儀なくされた
大きなひとつの要因・影響だったんだろう、
という話になっていく。

すなわち、
マルクス主義が挫折した理由は2つあって、
1つは、史的唯物論にもとづく未来予測と
革命戦略が大きく外れて
理論としての信用をなくしたことなんだけれど、
現実的にはもう1つの要因のほう、つまり、
マルクス主義予備軍である
学生を中心とする若者層の生活実態が大きく変化して、
リクルートが困難になったことのほうが
影響がはるかに大きく、かつ速やかに広がった、
と見るべきだろう、と仲正昌樹は書いている。
 
要は、もはやエリートであるという意識
(前衛意識)をもたない大学生たちは、
現代資本主義によって生み出された
大量消費社会に “満足”する傾向が強くなった、
ということになり、そうして
「シラケ世代」という言葉が生まれたということなのだろう。

折りしも、きのうの夜、
「たけしのニッポンのミカタ」という番組で
21世紀の幸福論」というのをやっていた。
結局のところ、「時代への適応」というところに
話は集約されるのかもしれない。

ゲストのひとりである安藤美冬さんのことは、
以前、「ノマド」という言葉が気になったときに
検索して知ったのだけれど、
これを浅田彰の「スキゾ・キッズ」とあわせて考えていけば、
何が変わり、何が変わらないのかが
立体的に見えてくるような気がしている。

安藤さんって、集英社にいたのですね。
(あらためて検索して知った)
 
(つづく)
 2013.01.19 Saturday 13:01 「現代思想」 permalink  
「大衆」はどこにいる?

「全共闘」の話までは完全にヒトゴトであり、
私にとっては「自分より前の時代の人たちの話」だったが、
『集中講義!日本の現代思想
―ポストモダンとは何だったのか―』
(NHKブックス/仲正昌樹著/2006)
で「アングラ演劇」という文字をみたときには、
「おーー」と心のなかでオタケビをあげてしまった。

実際には、「アングラ演劇」が
いちばん熱かった時期ではなく、
その次の流れと接触があった
ということになるのだと思う。

黒テントを初めて観たのは高校生のときだった。
テントを張る会場が高校に近かったので、
学校帰りに制服で観にいった覚えがある。

いまや黒テントは
なんだかポップなサイトをつくっているし、
斎藤晴彦はクインテットのスコアさんをやってるし、
唐十郎は大学の先生もはじめて久しいし、
辞退したとはいえ紫綬褒章の内示もあったりして、
隔世の感。

なお、個人的に、
いちばん政治色がストレートだと感じた
「風の旅団」はその後どうなっているのか検索したら、
桜井大造のインタビューが
YOU TUBE で観られたりなんかして。
桜井大造はあんまり変わってないですねぇ。

ちなみに仲正さんは、漫画の世界において
隔世の感を抱いているらしい。
(『ガロ』に連載された白土三平『カムイ』伝
→小林よしのり『ゴーマニズム宣言』)

アングラ演劇については
その言葉だけ出てきているのだけれど、
どういう流れでてきたかといえば、
「全共闘」それ自体は
あまりポジティヴな影響を残したとは言えないが、
カウンター・カルチャー(対抗文化)的なものを
生み出すうえでは一定の役割を果した、
という話において。
(アングラ演劇、映画、詩、フォークソング、
ジャズ、ロックなどの領域で・・・というふうに)

しかし、フランスのポスト構造主義や
英米のカルチュラル・スタディーが
新左翼的なカウンター・カルチャーとの
つながりが強いのに比べ、
日本の新左翼的な文化論・美学は、
マルクス主義的な革命の言語の呪縛から
なかなか解き放たれなかった、と話は続く。
つまり、日本の新左翼は、
マルクス主義的な文脈で理解された
“体制破壊の美学”に飲み込まれてしまった、と。

 全共闘の活動家たちは、バリケードで封鎖したキャンパスの中に、自分たちの文化的想像力を解放してくれる「空間」を作り出そうとしていたわけだが、バリケード化された閉鎖空間というのは、言ってみれば、彼らが破壊しようとした「象牙(ぞうげ)の塔」の裏返しであり、「外」に対して広がっていきようがなく、早晩、国家権力によって解除されることは最初からわかり切っていた。わかっていながら、資本主義的な“現実”からの瞬間的な切断=解放を求めて、ラディカルな暴力闘争に打って出たのは、まさに前衛芸術的な破壊の美学の発想である。しかし、そうした美意識を追求しすぎた結果、かえって連帯すべき外部、「大衆」との接点を失うことになった。資本主義的な日常の中で“真の自己”の姿を見失っている「大衆」を解放するために、“美的なもの”に接近したはずだったのだが、いつのまにか転倒して、旧左翼以上に「大衆」から遊離することになってしまった。

 (p.62〜63)

考えてみれば、東大の学生って
基本的に「エリート」だという感覚が
いまでもある。

それは日本語としての
日本的なエリートだとしても、
やっぱりエリートなわけで。

で、昔は、東大のみならず、
全共闘運動が起こったような大学の学生は
きっとバリバリにエリートだったのだろうと思う。

しかし、1960年代後半にもなると、
もはやエリートではなく“一般大衆”の
一部になりつつあったらしい。

それゆえ、カウンター・カルチャー的な戦略によって
“大衆”に政治的に浸透できるという
幻想が広がりやすかったと言えるけれど、
学外にいる圧倒的多数の無色透明の大衆は、
大学の中から発せられる
マルクス主義的なメッセージには
なかなか反応せず、
キャンパス外の“大衆文化”では
新左翼が期待したような
“革命へのポテンシャル”は
それほど高くなかったのである、
と仲正昌樹は書いている。

全共闘の革命の美学は、大衆社会の中で二項対立的な世界観にもとづく革命論を貫徹しようとすることの困難を証明することになった。

 (p.63)

 2013.01.18 Friday 13:51 「現代思想」 permalink  
廣松渉の半ポストモダン性

丸山眞男、吉本隆明ときて、次は廣松渉について、
『集中講義!日本の現代思想
―ポストモダンとは何だったのか―』
(NHKブックス/仲正昌樹著/2006)
を読んでいこうと思う。

廣松渉についてもいろいろ書いてあるのだが、
ひとことでまとめれば、
マルクス理解において、
「疎外論」よりも、
「物象化論」を重視すべきだとの
独自の見解を示した人、
ということになろうかと思う。

疎外といえば、去年の秋に読んだ
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』に出てきた。

第四章がまさに、
「暇と退屈の疎外論―贅沢とは何か?」
というタイトルになっている。>

國分功一郎さんは、
疎外論は一時盛んに論じられていたが、
あるときから積極的に遠ざけられるようになった
と書いていた。>

それがいつごろなのか、
危険性をほのめかしたのが誰なのかについては
書かれておらず、
廣松渉が関わる話かどうかはわからない。

で、仲正昌樹さんは、
「疎外」と「物象化」という用語について
簡単な解説をしてくれていて、
「疎外」については、
次の一節を読んでやっぱりな…と思った私。

具体的には、労働の結果が資本家という他者によって搾取されるということだ。それによって、労働者は自己の類似本質である「労働」から「疎外」されることになるし、労働者を使用して「商品」を手に入れている資本家も、自ら「労働」していないという意味で、やはり類的本質から疎外されている、と言える。結局、資本主義的生産体制が続く限り、すべての人が類的本質から疎外されることになる。

 (p.72)

ここに出てくる動詞の「疎外」は、
全部、「疎外される」になっている>
「疎外」って、するもんじゃなくて、
されるもんなんだな…と
あらためて思うことであった。

一方、「物象化」というのは、
商品にはそれ自体に“交換価値”なるものが
実態的な属性として含まれているわけではないが、
それを属性と取り違え、“物”である商品が、
あたかも超感覚的な力を発揮して、
人間を支配しているかのように見える現象のことらしい。

どちらの言葉も、正統マルクス主義では
あまり重視されていなかったらしいのだが、
ルカーチ(ハンガリーのマルクス主義哲学者)
によって、浮上してきた概念であるもよう。

ルカーチは、
資本主義体制のもとにある労働者が
労働から「疎外」され、
“物”によって支配されている
「物象化」された状況にあることを
強調したらしいのだが、
これは、人間の主体=主観性に
焦点をあてるものであり、
ソ連共産党指導部から、
ヘーゲル主義的な観念論への後退であると
厳しく非難されて、
自己批判を余儀なくされたとのこと。

ルカーチは、「疎外」と「物象化」は、
同じ現象の両側面のようなものとして
記述しているような感じがあるけれど、
廣松渉は、「疎外」と「物象化」を
同じものとして捉えるのは誤りである、
と指摘したらしい。

そして、新左翼の革命論の軸を、
「疎外」から「物象化」へとシフトさせるべきだと
問題提起したらしい。

このあたりのことについても詳しく書いてあるが、
端折ってまとめると、
「疎外」は個々の主体の意識の「内部」での問題だが、
「物象化」は個々の主体を結び付けている、
社会的関係全般を規定している、というような話。

そして廣松渉は、「物象化」を
現象学者フッサールの後期の概念である
「共同主観性(間主観性)」と結びつけたり、
「物的(ものてき)世界観」から
「事的(ことてき)世界観」へと
転換をはかったりした。

こうなると、ポストモダンまでもう一歩
という感じがする。
というか、そちらの方向に
パラダイム転換を起こしたというか。

しかし、本人はマルクス主義者としての
アイデンティティにこだわっていたようで、
疎外論的な見方を捨てきることはできず、
フランス系のポストモダン思想に対しては距離を取り、
1980年代の「現代思想」ブームに
全面的に乗ることはなかった、
と仲正昌樹は書いている。

 2013.01.17 Thursday 12:20 「現代思想」 permalink  
そして吉本隆明へ・2/仲正昌樹の巻
橋爪大三郎『冒険としての社会科学』(1989)と
仲正昌樹『集中講義! 日本の現代思想』 (2006)を
並行して読んでいる。

次は仲正昌樹の本から、
吉本隆明について書いてあるところをのぞいてみる。

丸山眞男のことについてで引用した部分は
「第一講 現実離れの戦後マルクス主義」の
最後の部分からの引用なのだけれど、その次に
「第二講 大衆社会のサヨク思想」という章があり、
まず最初に脱マルクス主義化への動き、
全共闘の話から始まって、
新左翼的な美学の限界の話を経て、
吉本隆明の丸山批判の話になっていく。

なお、ここでは吉本隆明は
全共闘に参加した新左翼、特にブント系に
強い影響を与えた文芸批評家として
まず紹介されている。

全共闘(全学共闘会議)というのは
1968年から1969年にかけて盛り上がった
学生運動を起こした人々、
いろんなセクトやノンセクトの
学生たちが集まった連合体のことで、
ブントというのは共産主義者同盟のこと。

1955年に六全協(日本共産党第6回全国協議会)
というのがあって、それ以降、
共産党から離れていったグループがあり、
その後、革共同や共産同(ブント)が結成された。

これらのグループは
1960年安保闘争で大きな役割を果したのち、
1960年代半ばに一時的に停滞、
1960年代後半にヴェトナム反戦運動などで
徐々に新左翼全体が勢力を盛り返すとともに、
セクトの数も増し、
学生の間に浸透して競合するようになる。

そうして各大学で(ノンセクトの学生も含めて)
「全共闘」が結成され、
当局に対する抗議活動を拡大していき、
キャンパスを占拠したわけなのだった。

なお、私の大学生時代(1980年代前半)にも
全盛期ではなかったと思うが、
引き続きいくつかのセクトが活動していたと思う。
(目立っていたのは1つか2つだったが)
っていうか、いまもやってるんじゃなかろうか。
(どうなんだろう?)

さて、吉本隆明に話をもどすと、
吉本隆明は、早い時期から
マルクス主義の言語によって
「大衆」をつかむことの困難を指摘していた。

そして、共産党員であり
『新日本文学』の編集長でもあった
花田清輝との間で、
文学者の戦争責任をめぐって論争したことにより、
新左翼を代表する文学理論家として
知られるようになる。

吉本隆明は、論文「擬制の終焉」(1960年)で、
日本社会に実体として根付いていない
「民主主義」や「市民社会」などといった
擬制(フィクション)を無理やり大衆に押し付け、
導こうとする共産党流の前衛思想の独善性を
厳しく批判した。

従来のマルクス主義の
硬直化した公式主義を批判している点では
吉本隆明は丸山眞男と
共同歩調を取っているようにも見えるが、
『丸山眞男論』(1963年)で、
丸山の現実離れした理性中心主義的な発想を
かなり辛辣に批判しているらしい。

吉本に言わせれば、
エリート学者である丸山は、
ブルジョワ民主主義によって、
“大衆”の抱えている課題が
解決するかのような語り方をしており、
現実に生きている「大衆」それ自体を
みようとしていない、と。
丸山は、戦前における天皇制を中心とした超国家主義的な論理の膨張を、西欧的な意味での「近代国家」形成過程で起こった過渡的な現象としてしか捉えていないが、吉本は、天皇イデオロギーを理解するには、「大衆の存在様式の民族的な部分」に注目する必要があると指摘する。
 (『集中講義! 日本の現代思想』p.64)

丸山眞男が問題にしているような
西欧近代的な意味での「国家」は、
「擬制」にすぎないが、
その根底には、大衆が希求している
「幻想の共同性」がある、という話。

まだまだ話は続くのだが、割愛して先に進むと、
そんなこんなで吉本隆明は、1970年代以降、
マルクス主義の性急な革命を戒める
“大衆に寄り添う”知識人の役割を
演じるようになり、そのことと同時に、
理性中心主義の解体を目指す
「ポストモダン思想」への橋渡し的な
役割をも担うようになった、
ということになる。

しかし、新左翼の教祖というイメージが
かなり後まで持続したおかげで、
彼がマルクス主義の大枠から離れていったことは
少なくともマルクス主義的左派や市民派の間では
なかなか認識されなかった、
と仲正昌樹は分析している。
 2013.01.16 Wednesday 11:50 「現代思想」 permalink  
そして吉本隆明へ・1/橋爪大三郎の巻
ひきつづき、
橋爪大三郎『冒険としての社会科学』(1989)と
仲正昌樹『集中講義! 日本の現代思想』 (2006)を
並行して読んでいく。

橋爪代三郎『冒険としての社会科学』では、
吉本隆明が「そう、吉本ばななのおとうさん」です
と紹介されているのが、これまた時代を感じさせる。
ちなみに、現在は「よしもとばなな」という表記になるらしい。

いま調べてみて、ちょっとびっくり。
私って、よしもとばななさんと
同じ日に生まれているらしい。
(誕生日が同じなのではなく、まったく同じ日に)

よしもとばななは、自分にとっては、
大学卒業のすこしあとで話題になった人、
というイメージがあるが、
『キッチン』が1988年とのことで、
確かにそういうことになる。

橋爪大三郎は、吉本隆明のことを、
時代の変化を乗り越えて
ずっと発言を続けている思想家としているが、
そのことを「ピカソと同じ」と書いている。

あきれるほど多産であり、
自分もどんどん変化しながら、
しかも一貫性がある。
時代に流されるのではない。
変化する時代の底流を、敏感にとらえ、
言葉で表現していく、と。

というフレーズをきくと、私はまたまた、
遠山啓という数学者のことを
森毅を通して思い出すのだった。

 別ブログ>
 ■森毅が「遠山啓の深さ」を語る、その深さに圧倒される。

 ちなみにこんな記事も書いています↓
 ■吉本隆明、遠山啓、量子論、滝山コミューン。
 ■吉本隆明が受けた遠山啓の講義

 (これは同じ吉本隆明なのだろうかという
 例の不安がまた・・・>

橋爪大三郎『冒険としての社会科学』は
そのタイトルからわかるように、
「社会科学」について書かれてある本であり、
まずは社会科学としてのマルクス主義を
おさえておく必要があるのだけれど、
そこをとりあえずとばして先に進むと、
結局のところマルクス主義が
日本にとって社会科学とならなかったのは、
個々の市民が社会に立ち向かうことなくして
何が「科学的真理」か教えてもらおうとしたから、
ということになりそう。

吉本隆明は、いまとなっては
いろいろな肩書きを持つ人に
なっているのかもしれないが、
基本は「文学者・文芸批評家」。

60年安保のころに、もう名の知れた文学者だったが
社会科学者がやらないのなら、
文学者の自分がやるしかないとばかりに
たて続けに著作を発表し、
権力論や社会の原理論にも手を広げ、
社会のモデルをつくった。
ちなみに『共同幻想論』が1968年。

橋爪大三郎いわく、マルクス主義は、
科学と宗教を抱き合わせにしたもので、
日本共産党はその教会であり、
日本人はこの教会に入ることで
社会科学というものを知ったのだけれど、
その社会科学をほんとうにわがものとしたいのなら、
この教会をさることであり、
そのよいお手本になったのが、吉本隆明だ、と。

その吉本隆明は、“教会”の権威を否定し、
そういう権威をカサに着る知識人を攻撃し、
ひとりひとりの知識人が
ものを考えることの“権威”を第一に置いた。

だから逆に、一部の人びとから
“教祖”のような信頼を集めることになった。

党派に加わっていないが、
その理由をうまく正当化できない人、
党派から落ちこぼれてしまった人、
党派の論理に反対したいが、
自分では批判できない人は
どうしても吉本隆明を読むことになる。

というわけで、吉本隆明は
無教会派の大祭司なのである、
と橋爪大三郎は書いている。
(以上、p.151〜154のあたり)

このあたりまで読んで、
仲正昌樹に移ってみる。

(つづく)
 2013.01.15 Tuesday 09:32 「現代思想」 permalink  
丸山眞男のことについて
日本の場合という記事において、 橋爪大三郎が
日本人に必要なのはポストモダンじゃなくて、
むしろ自前のモダニズムだと思うと
1988年の段階で言っていることをふまえ、
仲正昌樹に言わせると、
このような言い回しをするのはたいてい、
かつての丸山眞男ファンであるらしい。
『集中講義!日本の現代思想
―ポストモダンとは何だったのか―』
のp.53)
と書いたけれど、このことについて、
もう少し考えていこうと思う。

ちなみに実際には、全共闘の学生が
ゲバ棒もって東大の研究室におしかけ、
丸山眞男教授を追い出したとき、
追い出した側に橋爪大三郎もいたらしい。
現場にいたのかどうかはわからないけれど。
(橋爪大三郎『冒険としての社会科学』p.17)

だから、橋爪大三郎が
丸山眞男ファンということはないと思うが、
それは仲正昌樹の言うことが
はずれという話ではなくて、
もうちょっと丁寧に考えていかなくちゃ
その意味はわからない、ということだろう。

ちなみに、実際の言い回しはこんな感じ↓
「我々は取りあえず、真の意味で近代化し、自由な主体にならなければならない」という丸山式の思考法は、左右を問わず日本の知識人の間にかなり浸透しているように思われる。現在でも、ポストモダンの思想をどのように受けとめるべきかという議論があると、必ずといっていいほど、「ポストモダンというのは、確立された近代を解体しようとする議論でしょう。日本はその前にまずちゃんと近代化しなければ、何も解体するものがないじゃないですか」と言いたがる年配の“物わかりのい人”が出てくる。そういうことを言う人は、たいてい、かつての丸山ファンである。
(仲正昌樹『集中講義! 日本の現代思想』p.53〜54)

まずは橋爪大三郎『冒険としての社会科学』(1989)
を参考に、丸山眞男についてざっとみていく。

丸山眞男というのは政治学者であり、
「戦後知識人」の最大のスター。
(調べてみたら、敗戦のとき30歳そこそこ、
東大紛争のときには50代前半だったことになる)

戦後知識人は大抵がマルクス主義シンパであり、
マルクス主義は資本主義を批判していたので、
戦後知識人も戦後日本社会を批判するようになったが、
彼らは口で批判するばかりで何もしない。

大学の先生なんかに収まって、
行動をおこそうとしない。

いったい革命をやる気があるのか、
インチキじゃないか。

左翼のまじめな学生たちはそんなふうに考え、
革命が起こらないのはお前ら戦後知識人のせい、
みたいに逆恨みするのもいた。

60年安保のときには
尊敬されていた戦後知識人も、
60年代の末に起こった大学闘争のときには
いよいよ攻撃目標になったらしい。

というのが橋爪大三郎の説明。

わかりやすい反面、ざっくりした説明なので、
仲正昌樹『集中講義! 日本の現代思想』に移って、
もう少し詳しい流れをみてみる。

こちらでは、「講座派」と「労農派」、
拡大するマルクス主義の話を経て、
「市民派」(もしくは進歩派)の話が出てきて、
そのなかで丸山眞男が出てくる。

「市民派」というのは、
ブルジョワ(市民)革命の次の段階としての
社会主義革命を目指す
マルクス=レーニン主義と違って、
市民運動などを活性化しながら
現存の「市民社会」の中での改革を目指す
非マルクス主義的な左派の総称。
別にまとまったイデオロギーを
もっていたわけではない、とのこと。
(なお、丸山眞男を「講座派」系と
呼ぶ人たちもいるそう)

で、丸山眞男は、「西欧近代」を
ある程度批判的に見る視点を提示した。
50年代、60年代に
影響力を発揮した左派知識人の中で、
そういうことをした人をあえて一人挙げるとすれば、
丸山眞男になる、ということらしい。
日本はまず、西欧の市民社会をモデルとした近代化を徹底すべきだという立場を取ったことで知られる丸山ではあるが、彼は西欧近代が、機械的に画一化された合理化を進めすぎたため、社会全体の秩序・効率性と個々の人間の感性や身体性の間に齟齬(そご)が生じているという疎外論的な問題にも関心をもっており、それを克服しようとしたマルクス主義がかえって問題を大きくしているふしがあることも認識していた。
 ただ、彼の問題意識は主として、西欧近代それ自体に内在している矛盾よりも、(マルクス主義を含む)西欧近代という理念と、それを受け入れる土壌としての日本文化の間の齟齬に向けられていた。彼の著作のいくつかには、西欧近代の突き当たった「限界」を示唆しながら、日本人に対しては、とりあえずその西欧近代に適応すべきだと説くという屈折が見うけられる。
 (仲正昌樹『集中講義! 日本の現代思想』p.50〜51)

そしてまた橋爪大三郎『はじめての構造主義』
にもどってみると、本の最後の締めのところで
こんなことが書いてある。
 日本はこれまで、外国との関係でなんとかやってきた。しかし日本は、あまりにも巨大になった。これからは、自前で、世界に通用する秩序と制度を創造していかなければならない時代である。
 ヨーロッパ世界が生み出した近代主義は、それなりの世界性をそなえていた。だから、日本もそれを移入できたわけである。けれども彼らの近代主義は、傲慢な体制で、ヨーロッパ中心に世界を解釈し、組織してしまった。日本の天皇制は、そうした傲慢な部分まで、ちゃっかり真似したわけである。
 そうではなく、日本に育った市民階級が、自分たちの社会と文化のあり方を自覚し、理解し、世界中の多くの人びとと共有できる形式に改め、洗練すること。そしてそれを、ひとつの思想に高めること。しかもそれに安住することなく、世界中のさまざまな思想と、対話をくりかえしていくこと。こういう努力が、日本の自前のモダニズム(制度と責任の思想)のはずである。そのためにも、構造主義-----自文化を相対化し、異文化を深く理解する方法論-----は、きっと大いに役立ってくれるにちがいない。
こう読んでいくと、橋爪大三郎の主張は、
“自前の・・・”というところに
より大きな意味があるのかもしれない、
と思えてくる。

まあ、実際に、
橋爪大三郎含む当時の東大の学生たちが、
丸山眞男を批判したときには、
仲正昌樹解説の「屈折」に対してというより、
「大学の先生におさまって、
口ばっかりで行動を起こさないーっ」
ということに対してだったのかもしれないが、
仲正昌樹いわく、丸山眞男が
“日本的な近代思想”の矛盾をある意味具現している
“日本のマルクス主義”に対して投げかけた疑問を、
主流派のマルクス主義たちは
本当の意味で真摯に受けとめなかった、と。

そして、それが後々、ポストモダン的な思考の
スムーズな受容を妨げる要因の一つになった、
と仲正昌樹は分析している。 
 2013.01.14 Monday 16:56 「現代思想」 permalink