では、自分はどうなのか。/ここでひと区切り
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読む私の
ごくうっすらとした不安感がなんなのか、
とりあえず書いてみた。

そのなかで、
平岡公彦の読書日記
消費をどう見るか-----宇野常寛/國分功一郎
「個人と世界をつなぐもの」を読む2
から、
余計なことかもしれないが、こうした思考に陥らないようにする秘訣は、「自分はそうではないけれども、ほかの連中はきっとそうにちがいない」という考え方をやめることである。
の部分を引用させていただいたけれども、
では、自分はどうなのか、と自問してみる。

私の場合、
右を見れば(いや左でもいいのだけれど)、
「ああ、私はそうじゃないなぁ・・・」と思うし、
左を見れば、
「ああ、私もそうなりたいなぁ・・・」と思う。

なので、右を見たときには、
「自分はそうではないけれども、
ほかの連中はきっとそうにちがいない」
という考えになっていると思う。

右・左には別の意味がついてしまいそうなので、
方向Aと方向Bにしておくと、
方向Aを見たときには、
楽天のキャンペーンで「買いまわり」する人や、
桔梗信玄餅の「詰め放題」に参加する人や、
チラシを比較して1円でも安く買おうとする人(
の姿が見える。
そして、なんといっても、実家。

方向Bを見れば、
それこそ金子由紀子さんや、
友人の尊敬する部分、
そして、こうありたいけどなかなかそうなれない、
いまだ存在していない自分の姿が見える。

その姿は、意外なところで発見される。
どこかというと、娘の宿題のなかで。

たとえば小学校3年生のときには、
「家庭のゴミ調べ」という宿題が出た。
確か家庭から出されるゴミを
1週間調べてくるというものだったと思うけれど、
私はそれを書きながら、少し恥ずかしかった。

また、つい先日(現在小学校5年生)は、
「買い物調べ」という宿題が出た。
買い物をするときに、
どんなことを意識しながら買うか、ということを
保護者にきいてくるという宿題。

何を書けばいいのか、
その意図がわからなかったので娘に聞くものの、
娘も把握しておらず、社会の教科書をのぞいて、
このあたりの話かな・・・と見当はついたものの、
(産地や輸入に関わる話なのだろうと思う)
結局、思いつくままありのまま書くことになり、
やっぱり部分的に恥ずかしかった。

なんだかんだ言いながら、
日々の買い物は安易なのだ。

こういう宿題が出ると、「正直に書くべきか、
教育的配慮に基づいて書くべきか・・・!?」
なんて情けないことも思ってしまうわけなのだが、
当然、前者で書くしか道はないわけであり。

そういえば、
電化製品の使用頻度調べのような
宿題が出たこともあった。

そんなこんなで、方向Bを見ると、
「このくらいの量と内容のゴミを出している自分」や、
「こんなふうに買い物をしている自分」や
「こんなふうに電力を使っている自分」が
垣間見えるわけなのだ。

そして、なぜそういう自分になりたいのか、
なぜなれないのか、考え込んでしまう。

平岡さんは、
生産者は、消費者の欲しがりそうなものを先取りして供給しなければならないのだ。それは生産者が潜在する消費者のニーズに対応するための努力である。
と書いておられるが、
たぶんきっと、そうなんだろうと思う。

また一方で、生産者と消費者をつなぐ
流通業界、特に小売業においては、
「お客さまのため」という視点は、
つねにもたれていると思う。

つまり、生産者や流通業界は、
「消費者ってこんなもの」
ひいては「人間ってこんなもの」
ということを前提にして商品を作って売り、
それで実際に売れるのならば、
やっぱり「消費者ってそんなもの」であり、
「人間ってそんなもの」なのかもしれない。

じゃあ、「そんなもの」の中身って
なんなのだろう?と、
わが身をふりかえって思うに、
すぐに思いつくのは、
「ラクをしたい」という気持ち。

あるいは、「不安と欲」。

まとめれば、「怠惰と不安と欲」。

それが人間の本質なのだろうか・・・?

ここで心に留めておきたいのは、
「ラク」は決して「悪」ではないということ。
食器洗い回想・・・・・・「自由とは何か!?」

でも、求められていたラクではなく、
作られたラク、なきゃないですんだのに、
あるのならのっかっちゃえ、
というラクもあるように思うのだ。

たとえば、
ももせいづみさんの記事の何にハっとし、
私はどう捉えたか。

で気づかされた、ハンドドライヤーのこと。

あるいは、
自販機の「消灯」ではなく「撤去」の動きは生じるか?
のなかでリンクした
JR東日本ウォータービジネスの
自販機イノベーション宣言」(acure:2009/9/10)
なるもの。

単一メーカーブランド機から
ブランドミックス機への切り替えを行うことにより、
供給者起点から顧客起点へと
飲料自販機流通を再構築し、
Suicaに徹底して対応させることにより、
「財布を出す必要がない」「小銭が増えない」
こと等から利便性が向上し、
さらに、「バッグから財布を出す手間が省ける」
ことから、女性の利用を促す副次効果も見られた、
という話。

このようなことがビジネスにおける
“イノベーション”たりえるのも、
実際に効果があればこそだろう。

そして「人間ってこんなもの」の“人間”のなかに、
もちろん私も入っている。

だけど、「なんかちがう」という気持ちも
確かにあるのだ。

自分は主体的に生きている、
能動的に生きているつもりでいても、
実はそんなことはないのかもしれない、
という気持ちがいつもある。

なぜ、自分のことなのに、
主体的、能動的になれないのだろう、
なれたと思えないのだろう?

平岡公彦さんは、上記リンク先の記事で、
國分に限らす、ボードリヤールを典型とするステレオタイプの消費社会批判は、例外なく消費者の主体性や能動性を無視するか過小評価することによって成立している。
と書いているが、
私もどちらかというと、
消費者の主体性や能動性を
過小評価しがちなほうだと思う。

それは、「消費者ってものは愚かだ」
と思っているのではなくて、
むしろ、消費社会の力を、
(よくない意味で)過大評価しているのだと思う。

思うに、大事なことは、
「こうなりたい」という自分になるときに、
「そうあるべき」という道徳観のようなものを
拠り所にするのではなく、
あるいは「みんなのため」「環境のため」
といったような視点をメインの拠り所にするものでもなく、
「こうなりたいと思った自分になれたときに、
本当の意味で“わたし”の欲望が満たされると感じる」、
その感触が得られるきっかけに、
どうしたら出会えるのか、
ということなのではないかと
いまは感じている。

こんなところで「本当の意味」と書くと、
國分さんが『暇と退屈の倫理学』で
ページ数を割いて排除しようとしていた
「本来性」のことを思い出すわけだが、
この点については、
平岡公彦のボードレール翻訳日記のなかの

■本来性論への疑問――國分功一郎
『暇と退屈の倫理学』についての疑問2
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/
hiraokakimihiko/view/20111218


が興味深い。

なお、本来性と疎外については、
このブログでもわりと書いてきたが、
平岡さんと國分さんが質疑応答している
ハイデッガーの「決断」については、
何も書かないままになっている。
今回はいいかな・・・と思ってしまった私。

話はズレるけれども、
「平岡公彦のボードレール翻訳日記」の
タイトルの下に、
書くことは抵抗すること。書くことは生成すること。書くことは地図を作ること。
(ジル・ドゥルーズ『フーコー』宇野邦一訳,河出文庫,2007年,p.87)
と書いてあるのが印象的だった。

この言葉のことはまったく知らずに、
私はかつて、こんなことを書いたことがあった。
(>書き言葉のパワーはあなどれない!?

書くことは、考えること。

書くことは、知ること。

書くことは、決心すること。
書くということはもはや、
「自分を読む」ということと
同義語になってきた気がするきょうこのごろ。



以上、
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』について
長いこと書いてきた。

カテゴリーも新設して、記事数も30を越え、
1ヶ月あまり書いてきたことになる。

巻末註にまだ全部目を通していないし、
100%堪能したとは言えないのだけれど、
(そもそも100%ってありえないかもしれないが)
ずいぶん楽しませてもらったと思う。

間をあけて、いずれ機会がきたら、
また読んでいきたい。

そうそう、
上記の「書くことに」関する文章のなかで、
「決心」という言葉を使っているので
「決断」という言葉も絡めて思い出したのだけれど、
いつだったか、こんなことを思ったことがある。

詳細は覚えていないが、
「決める」ってことをしないほうがいいのかも・・・
ということを意識したことがあり、そのときに、
「ああ、いま私は、決めないということを、
決めたのかもしれない」
なんて思ったのだ。

そんなことつらつら考えながら、
ぼやーっとしている私は、
「暇」が大好きだ。
 2012.11.09 Friday 10:39 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 permalink  
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読みながら、宮台真司『日本の難点』を思い出したのはなぜか。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読んでいるときに、
宮台真司『日本の難点』を思い出したそのわけを、
もうしばらく考えてみようと思う。

まず、単純に言えば、
『暇と退屈の倫理学』を書いた國分功一郎って、
哲学者というより社会学者みたいだな・・・
と思ったというのはあるだろう。

そのこと自体は、全然わるいことじゃないと思う。
哲学を深く研究することで得られたものが、
具体的な社会現象につなげられていくこと自体は、
すばらしいことだと思う。

しかし、そこで思い出したのが、
宮台真司『日本の難点』だったというのは
いかがなものか・・・と自分で思うわけなのだ。

宮台真司『日本の難点』については、
別ブログで少し書いている。
宮台真司 『日本の難点』 (幻冬舎新書)

この本を読んでいるときに時々感じた、
うっすらとした不快感はなんなのか?
(こちらは不安感ではなく不快感)
と考えた結果、社会学と哲学、イタさと痛み
という記事を書くことになったのだった。

とどのつまり、
それこそ贅沢なことを言ってしまえば、
『暇と退屈の倫理学』には、
「痛み」が足りないのだと思う。
(「まえがき」にはあると思う)

しかし、「イタさ」のようなものもまったくない。
ので、読んでいても不快ではない。
実際、とても面白かったわけだし。

ただ、心の奥深くまで染みとおったかというと、
なんともいえない。

結局、私の場合、
自分の深部に入ってくる言葉というのは、
ある種の“痛み”を伴った文章なのだと思う。

たとえば、柳澤桂子『いのちと放射能』。
(参照)
私は原子力発電所に反対してこなかったという事実
柳澤桂子『いのちと放射能』の
Amazonレビューに考え込む (4)/続き


あるいは堤清二『消費社会批判』。
(参照/別ブログ内)
自己批判
マルクス主義、構造主義、エコロジー (2)

それから、このあいだ引用した、
近藤和敬『カヴァイエス研究』のあとがき。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を意識しながら、
携帯電話とスマートフォンについて考える

さらに突っ込んだ話であるところの、
「ものを言う」ということそのものに関連しては、
松野孝一郎『内部観測とは何か』のあとがき。
(参照/別ブログ)
「担体」という言葉/郡司さん&松野さんのあとがきから

このあとがきは1971年頃のメモ書きとのことなので、
著者が31歳くらいに書いたものということになる。
(すごいなぁ)

ちなみに、近藤和敬さんも、
同じくらいの年齢ときに『カヴァイエス研究』の
あとがきを書いていると思う。
 
「痛み」とはなんぞや、といえば、
たぶん、問題の内部に身を置いている人の、
「引き受けている痛み」なのだろうと思う。

さらには、もしかすると、
問題の内部に身を置くということは、
自分の外側に出ていく、
という意味を含んでいるのかもしれない。

一方、「環境問題のウソ」を暴く本や言説が
ブームであることに対して
“爆笑”できる宮台真司は()、
問題の外に身を置いており、
したがって自分のなかにいる。

そこにあるのは、
「愚かなみんなと、ちゃんとわかっている僕」
という構図だ。
たとえポーズやスタイルだとしても。
(だとしたらなおさら?)

もちろん、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』に
そのようなあからさまな構図は見られないが、
「暇と退屈」と経済の関係について、
もう一度考えてみる (2)

で書いたような、
ほんのり微かに“えらそう”な空気が
皆無でもないと思う。

たぶん、哲学研究書には出てこないような
國分さんの兄貴的カラーが、
こういう一般向け書籍の場合は
表に出てくるのだろう、と
ツイッターを並行して読むうちに
感じるようになった。

でも、こういう本は、
10年後、20年後には書けないと思うから、
いましか書けない國分功一郎らしい本という意味では、
やっぱりこれでよかったのかもしれない、とも思う。

って、そんなこと言う私が、
すでにえらそうですが・・・(苦笑)

さらにもう一歩話を進めると、
『暇と退屈の倫理学』の主要テーマとして
消費社会というものがあると思うのだが、
消費社会に対して、なんというのだろう、
國分さんは、別になめてかかっているわけでは
全然ないのだが、
ある種、微妙に“無防備”なところがないだろうか・・・
なんておこがましいことも思ってしまった私。
(無防備と言ってしまうと言葉が強いのだが)

こういうことを考えていると、
『暇と退屈の倫理学』p.356で引用されている、
ドゥルーズの言葉がリアルにせまってくる。

「私たちは、自分の時代と恥ずべき妥協をし続けている。この恥辱の感情は、哲学の最も強力な動機のひとつである」

ドゥルーズいうところの「恥辱の感情」を、
私は“痛み”として受け取っているのだと思う。

それを受け取れる文章に出会ったときに。

 2012.11.08 Thursday 08:38 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 permalink  
『暇と退屈の倫理学』を読む私の場合の、ごくうっすらとした不安感 (2)
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を読む私の
ごくうっすらとした不安感がなんなのか、
とりあえず書き始めてみることにした。

まず、すぐに思いつくことは、
もし、『スピノザの方法』を書いた
國分功一郎の本として読んでいなかったら、
やはり例の「ダメ出し」の口調に
私は若干引いてしまっていただろう、ということ。

また、先駆者の議論の読み方が、
ちょっと短絡的すぎるのではなかろうか?
ということも思ったかもしれない。

こういう「もし」にはあまり意味がないけれど、
スピノザ経由で國分功一郎を知ったからこそ
『暇と退屈の倫理学』から受け取れるものがあった、
ということは確かだと思う。

それから、これはごくごく些細な話なのだが、
國分功一郎さんのツイッターの自己紹介欄に、
新著『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社) http://p.tl/iAMY が好評発売中です
と書いてあるなかの
「好評」という文字がひっかかった。
http://mobile.twitter.com/lethal_notion?p=s

「自慢してる〜」と感じて
鼻についたという面もないわけではなかろうが、
それだけではなくて、「好評」という語をきくと、
國分さんがどこの立ち位置にたっているのか
わからなくなるのだ。

ちなみに、この本が売れてほしい、
と思うことはもちろん、
それを公言することはちっともかまわないし、
しごく当然のことだ。
でも、「好評」と言われると、「?」となる。

たとえば、橋下徹が朝日新聞出版と朝日出版社を
間違えて朝日出版社が迷惑をこうむった一件に関連して、
「朝日出版社は『暇と退屈の倫理学』という本も出しています。
けっこう面白いという噂です。」
http://mobile.twitter.com/lethal_notion?
max_id=261086016998350849

とツイートするそのシャレ心には、ニマッとするし、

「自分の文章を読んでちょっとじーんと来た」
http://mobile.twitter.com/lethal_notion/
status/261860438898274304?p=v

というようなツイートに対しては、
バカだなんて思わないし、むしろ自意識を感じない。

それに対して「好評」という言葉は、
“多”としての読者の立場、
あるいは“数字”を知っている出版者の立場に
立ったものであり、
その語を著者が使うということに
違和感を感じたのだと思う。
(好評“発売”中だから、
やはり出版社側に立ったものなのだろう)

私としては、「たくさんの人に読んでほしい」
とストレートに言ってもらったほうが、違和感がない。

でもまあ、これは好みの問題かもしれないし、
流していいかな・・・と思って
『暇と退屈の倫理学』を読み始めたわけなのだが、
やはりどうしても、何かうっすらとした不安感がある。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を意識しながら、
携帯電話とスマートフォンについて考える

は、その不安感の具体的な一例だと自分で思う。

「好評」の話からはズレてしまうが、
上記リンク先の記事の感覚でもってして、
きのうリンクさせていただいた
平岡公彦の読書日記」のうちの別の記事
■消費をどう見るか-----宇野常寛/國分功一郎
 個人と世界をつなぐもの」を読む2
http://d.hatena.ne.jp/kimihikohiraoka/
20120212/p1

を読むと、話がつながってくる。
余計なことかもしれないが、こうした思考に陥らないようにする秘訣は、「自分はそうではないけれども、ほかの連中はきっとそうにちがいない」という考え方をやめることである。
実は、私の場合、
『暇と退屈の倫理学』を読みながら、
なんとなく、宮台真司『日本の難点』のことを
思い出していたのだ。
似ているわけではないのだけれど、
何か相通ずるものがあるような気がして。

それで、「國分功一郎 宮台真司」で
検索をかけてみたら、このツイートにたどりついた。
http://mobile.twitter.com/lethal_notion/
status/110757282291265536
?

『ゼロ想』は宮台真司の推薦文がすばらしい。「単なる「好きなもの擁護」を超えた、時代を切り拓く、サブカルチャー批評」。そう、「好きなもの擁護」じゃないってところがすごかった。宇野さんも自分で論じている対象が好きなんだろうけど、「好きなもの擁護」=「僕を認めて」ってんじゃなかった。
『ゼロ想』というのは、
宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』
のことを指していると思うのだけれど、
これを読んだあと「平岡公彦の読書日記」を読んで、
宇野常寛と話がつながった。

さらに、私はこの発言を読むよりも前に、
『ゼロ年代の想像力』の著者の発言とは
まったく意識せずに、
次のツイートが気になっていたのだ。
http://mobile.twitter.com/wakusei2nd/
status/250486427543015425?p=v


これを國分さん自身がリツイートしていることにも
なんとなく「?」という気持ちを抱いていたのだが、
そうか、これが宇野常寛だったのかと知って、
意味もわからず納得したしだい。

長くなるけれども、ついでに余談をば。

この少しあとの時期に、國分さんのツイッターで、
保育論をめぐってやりとりが行われたことがあった。
http://mobile.twitter.com/lethal_notion?
max_id=259516714037948416


 ちなみに、私は当然、
 金子由紀子さんとももせいづみさんのツイートも
 時折チェックしていて、
 私の記憶が正しければ、ごくたまぁに、
 猪熊弘子さんと交わることがあり、
 たぶん All About つながりなのだろうな、
 と思っていたのだが、
 最近は國分さんのツイートによく登場していて、
 なんだか面白い。

話題になっていたのは小倉千加子の文章。
小倉千加子はもう、
國分さんの世代には認識もされていないし、
私と1歳違い(たぶん)の保育論のプロである
猪熊弘子さんにも、フェミニストであることを
忘れられてしまう存在なのだなぁ、
と思うことであった。
(いや、私も、名前を知っているだけで、
この方がフェミニストとして何を発言したのかは
まったく把握していないのだけれど・・・)

しかしいま問題にしたいのは
小倉千加子ではなく、あのときのやりとり。

國分さんに、この一件に関連して、
「そんな口調で発言するあなたは
大学教員の資格がない」といったようなことを
言った人がいて、その人に対して國分さんが

「書いてあることしか読まないなら、
そんなのは読みじゃないんだよ。」

と指摘したのに対し、その人が、

「わかりますけどね。ここはあなたの講義室
じゃないんですよ。(後略)」

と返して、そうなると國分さんは、

「じゃあ俺のツイート読むなよ(笑)。」

となり、それに対してかえってきたのが

「なんだか流れて来るんですよね。今日のツイート
以外はとてもわかりやすくて面白いのに。」

という返事だったこと。
(私がツイートの追い方を間違っていなければ)

このやりとりが、なんだか興味深かったのだ。

「書いてあることしか読まないなら、
そんなのは読みじゃない」ということ。

なんだか流れて来るから読んじゃうということ。


話がだいぶズレてしまった。


もどろう。


(つづく) 
 2012.11.07 Wednesday 08:38 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 permalink  
『暇と退屈の倫理学』を読む私の場合の、ごくうっすらとした不安感 (1)
1つ前の記事で、
『スピノザの方法』を読んだ人は、
『暇と退屈の倫理学』に対して、
なんらかの違和感・疑問をもつものなのかもしれない、
ということを書いた。

例にあげたのはたった2人だとしても。

もちろん、
『スピノザの方法』は博士論文を改稿したものであり、
一般向けに書かれた『暇と退屈の倫理学』と、
そのまま直接比べるわけにはいかないのだが、
違和感・疑問をもつ人は、
それを十分にふまえたうえで、
「一般向けに書かれたものだから」という理由で
終わらせられない(終わらせたくない)
違和感・疑問をもつものなのだろう、と感じている。

そしてそれは、この本にとって、
歓迎すべきことだと思う。

一方私はといえば、
何しろ「ヤバイ・・・」という感情から
『暇と退屈の倫理学』の読書体験を
始めてしまったわけなのだ()。

読みもしないうちに余計なこと書くんじゃなかった、
という後悔はそのままに、
あれを書いたとき気持ちを呼び起こしてみると、
博士論文と一般向け書籍ということ以外に、
『スピノザの方法』が、
スピノザという大いなる先駆者を通して
読み込みの作業を行っているのに対して、
『暇と退屈の倫理学』は、
“國分功一郎自身の哲学”を示したものだろうから、
後者が前者より面白いということがあったら、
それはものすごいことだろう、
そして、そんなものすごいことは、
めったに起こらないだろう、
と思ってのことだった。

読み終えたいま、
やっぱり、そんなものすごいことは
起こっていないと思うわけなのだが、
だとしても、國分功一郎が、
(『暇と退屈の倫理学』のあとがきに書いているように)
「自分のフィロソフィー」を作って、
それを発信していこうとする姿勢は
とても尊敬するものであるし、
頼もしく、ありがたいものだと感じている。

そう感じつつも、私は私で、
『暇と退屈の倫理学』を読みながら、
否、この本と國分さんのツイートを並行して読みながら、
自分でもはっきりとわからない、
漠然とした不安感・違和感のようなものを
感じていることは否めない。
(ちなみに、ツイッターが読者感覚を変えるかも
しれないことについては、こちらで書きました)

それはごくごくうっすらとしたもので、
流してしまってもいいようなものにも思えたのだけど、
書き始めてみれば何か見えてくるかもしれないし、
このごくうっすらとした不安には意味があり、
その先があるかもしれないので(ないかもしれないが)
ちょっと書いてみることにした。

(つづく)
 2012.11.06 Tuesday 08:28 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 permalink  
國分功一郎の著作に関する興味深い論評2つ
私自身はどういう流れで
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
にたどりついたかというと、
近藤和敬『カヴァイエス研究』
という本を読んでいたときに、
「スピノザに触れておく必要がある」
と感じたのがきっかけだった。

そして、ちょうどそのころ、友人のブログで
國分功一郎『スピノザの方法』のことを知り、
國分功一郎という人に興味をもち、
著者本人のツイッターの自己紹介欄で、
『暇と退屈の倫理学』を知ったのだった。

なお、『スピノザの方法』は
一応図書館で借りてみたものの、
とても読み込むところまではいけず、
ごく一部を覗いただけで返却となった。
それでも十分に刺激的だった。

そして私をスピノザに直接いざなってくれたのは、
より一般向けの入門書であるところの
上野修『スピノザの世界』であり、
それですっかりスピノザにはまってしまったしだい。

1つ前の記事で、
「答え」を用意しないで本を読むことについて
書いたけれど、よい本というのは、
脇にいったんおいたつもりのおのれの「欲望」、
あるいは用意していたつもりのない「答え」にも
影響を及ぼすのだなぁ、ということを
『スピノザの世界』を読んで
再確認したように思う。

ちなみに、この本には、
押し付けがましいところはない。
なにしろ当のスピノザ本人が、
説教や説得からは遠いところにいる人。
そのことがなおさら面白い。
いや、だからこそ面白いのだと思う。
「北風と太陽」みたいだ。

いいものに出会ったとき、
人はショックを受けるものであり、
それはまさにドゥルーズいうところの
「不法侵入」なのかもしれない()。

そんなこんなで、
スピノザ経由で『暇と退屈の倫理学』に
たどりついたわけなのだけれど、
同じような人が、
けっこういるのではないかと
推測している。

実は、國分功一郎の著作について、
web上で読める興味深い感想を
2つ見つけていた。



ひとつは、HowardHoaxさんの
The Res Diptychより。
http://d.hatena.ne.jp/HowardHoax/
20111216


こちらについては、別ブログの記事で触れている。
國分功一郎『スピノザの方法』のあとがきと、
『暇と退屈の倫理学』に対する論評




もうひとつは、平岡公彦の読書日記より。
『暇と退屈の倫理学』についても書かれてあるけれど、
「ドゥルーズの哲学原理(1)」のほうをリンク。
http://d.hatena.ne.jp/kimihikohiraoka/
20120115/p1




この2つを読んで思うことは、
私も含め、國分功一郎のことを、
『スピノザの方法』を書いた人として
信用している(あるいは期待している)人は
けっこう多いかもしれないな、ということ。

さらに、『スピノザの方法』を読んだ人は、
『暇と退屈の倫理学』に対して、
若干の違和感や疑問をもつものらしい、
ということも興味深い。

もちろん、上記2人の方の意見を見つけただけで、
そういう人が多い、と言うわけには
いかないのだけれど。

上野修さん紹介するところのスピノザは、
人間的な語り方をしようとはしなかった()。
だからこそ主著『エチカ』は、
ユークリッド幾何学をお手本に書いてある。

しかし、何かの著作に興味をもった人は、
往々にして、その著作そのもの“だけ”への
興味で終わることはできず、
著者自身に興味が向かうものだと思う。

だから、『エチカ』はやっぱり、
本人がそれを望んでいなくとも、
スピノザという人物とともに
読まれていくものなのだと思う。
『エチカ』に興味をもてばもつほど。

著者自身は言いすぎだとしても、
同じ著者の他の著作といっしょに
読み合わせていくということは、
当然のことだろう。

ということは結局、読者は、
著作を通して著者を読んでいくことに
なるのかもしれない。

たとえば、
ハイデッガーとアレント、そして國分功一郎で、
松岡正剛さんのお名前を出したが、
千夜千冊では、1つの著作を通して
その著者を読んでいくこともあれば、
著者を読むことで、
その著作を読み込んでいく、
ということもよく行われていると思う。

さらには、複数の著作を読み、
複数の著者を読むことで、
なんらかの概念を読み込んでいく、
ということにもなるのだろう。

その「過程」は人によって異なり、
つまりはそれが、
その人なりに読んでいくということであり、
結局のところ、読者は突きつめれば
自分自身を読み込んでいるのかもしれない。

(つづく)
 2012.11.05 Monday 10:26 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 permalink  
「暇と退屈」のダメ出しと分析・結論・欲望、そして「自分なりの読み方」について

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』には
たくさんの学者・研究者が出てきていて、
何人もの人たちが“ダメ出し”されていることが
私にとっては印象的だったので、
そのおおまかな内容をこれまで書いてきた。

パスカル、ラッセルスヴェンセン
ヴェブレンラファルグ、ガルブレイス
パッペンハイムアレントコジェーヴ

これらの“ダメ出し”には大きく2つのパターンがあり、
1つは、分析の意義を認めつつも、
「結論」には従えないとされている場合、
もう1つは「分析」のしかたそのものに
ダメ出しされている場合があると思う。

さらに後者については、ほとんどの場合、
「自分の欲望を投影して分析している」点に、
國分さんはダメ出ししている。

ヴェブレンは、
「人間に製作者本能をもっていてもらいたい」
という欲望をもってして、
有関階級の理論を組み立てた。

パッペンハイムは、
「本来性に回帰したい」
という欲望をもってして、疎外を論じた。
他の疎外論者しかり。

アレントは、
労働廃棄を読み取りたいという欲望の目で、
マルクスを読んだ。

抜き出してみると意外と少ないが、
私は『暇と退屈の倫理学』を読むなかで、
「欲望を投影」という言葉に
何度も出会ったような気がしたのだ。

この批判のしかたは、
スヴェンセンに対する指摘と同様に、
口にしたとたん、
我が身にも向く可能性がある
指摘のしかただと思う。

つまり、國分功一郎は、
おのれの欲望を一切投影することなく、
先駆者の議論を読んでいるか?
というふうに。

もしその点を指摘したいのならば、
國分さんがやっているように、
これこれこういう理由により、
國分功一郎はおのれの欲望を投影した
分析を行っているという、
論拠を示さなくてはいけないだろう。

ちなみに、
私はそんなことがやりたいわけではない。

私が興味があるのは、自分についてのこと、
つまり、まったく同じことが、
この本を読む私にもいえるのではないか、
ということなのだ。

私は、私自身の欲望を一切投影することなく、
この本を読んできたのか?と。

國分さんは、「過程」が大事だと言った。
「暇と退屈の倫理学」についての道を、
読者がそれぞれの仕方で切り開いていくこと、
それが結論である、と。

読者がそれぞれの仕方で切り開いていくとき、
読者自身、つまり自分をはずすわけにはいかない。
何しろ読むのは読者自身、つまり自分なので。

ある本なりある状況なりを、
完全に客観的な視点で捉えることなど
できないと思う。
仮にできたとしても、面白くないだろう。
「読んでいるのはだれ?」ということになるから。

ならばどうしても、
「読む」という行為のなかに、
おのれの欲望が含まれてしまうのではないか。
あるいは何らかの先入観が
含まれてしまうのではないか。
そう思えてくる。

しかし、「自分」というものをはずさないでおいて、
おのれの欲望を脇においておく、
ということは可能だとも思う。

それは、「答え」をもったうえで、
読まないということなのかもしれない。
すでに用意している「答え」のための
根拠や後ろ盾を求めるために
本を読むことをしない。

また、「答え」をもってしまっていると、
その答えにそぐわない内容だと感じたときに、
ついついイチャモンをつけたくなってしまい、
あとは粗探しになってしまうかもしれない。

いずれの場合にも、
そんなふうに読んでいくと、
その本から受け取れるはずの何かを
受け取れなくなるような気がする。

そして、欲望を投影しないでおいて、
「答え」を持たない状態で、
なおかつ、その人なりの読み方で
その本を読むということは可能だと思う。

どんな流れでその本にたどりついたのか、
これまで何に興味をもってきたのか、
いまどのような疑問をもっているのかによって、
読み方は変わってくるだろう。
そうすると、同じものを読んでいても、
受け取り方が変わってくると思うのだ。

(つづく)

 2012.11.04 Sunday 10:27 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 permalink  
なぜ結論だけ読んでも意味がないのか

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』の結論は、
3つに分けて書いてある。

そのうちの最後の結論を、前回の
『暇と退屈の倫理学』の結論、「受け取ること」について
で簡単にまとめたのだが、
ここであらためて、1番目の結論にもどってみる

何しろこの本のタイトルは、
「・・・の倫理学」という形をしているので、
結論は「何をなすべきか」という形になるはず。

しかし1つめの結論は、
この本を通読して結論に達している読者は、
「これから何をなすべきか」
と考える段階にあるのではなく、
すでに何事かをなしていることになる、
もう実践のただなかにいる、
というものになっている。

なぜかというと、
この本を通読して結論まで読んだことで、
読者は新しい認識を得、
読者の何かが変わったはずだから。

そのことについて、
また、残りの結論への橋渡しとして、
スピノザの「分かる」ということについての
話が出てくる。

私たちが何かを理解したとき、
その対象のことを理解するのみならず、
自分にとって分かるとはどういうことかを理解する。

同じことを同じように説明しても
みんなが同じように理解するわけではない。

人はそれぞれ、自分なりの理解の仕方で
何かを理解していく。

その自分なりの理解の仕方は
実際に何かを理解する経験を繰り返すことで、
発見することができる。

「分かった」という実感が、
自分にとって分かるとはどういうことなのかを
その人に教えていく。

だから、
「分かった!」という経験ができないままだと、
自分なりに理解する過程というものが
なかなか得られない。

そうして、ただ言われたことを
言われたようにすることしか
できなくなってしまう。

これは人間が生きる「自由」につながる話であり、
スピノザに関する巻末註が、
それを端的に示している。

スピノザは、『倫理学』という書物を著し、
人間が自由に生きるためには
どうすればよいかを示したが、
それに従えば自由に生きられるという類の
規則を描いたわけではなかった。

なぜなら、従っているのであれば
それは自由ではないから。

同じ意味で、
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』も、
結論だけ読んでも意味がないということになる。

そこにあげられている結論は、
それに従えば退屈は何とかなる、
という類のものではない。
従おうとする時点で、
すでに従っていないことになるような、
そんな結論だから。

私たち読者はまず、
『暇と退屈の倫理学』という書物から、
存分に何かを受け取ることができるのだと思う。

それはもちろん、
この本に書いていることすべてに
同意・共感するということではないし、
賛成・反対のどちらかの立場に立って
読んでいくということでもないと思う。

ここから、いったい何をもらえるか、
ということだと思う。

自分なりの読み方で読んでいく、ということ。

それはけして、
「自分勝手に」読んでいく、
ということではなく。

(つづく)

 2012.11.03 Saturday 09:21 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 permalink  
訂正>「食べること」についての、國分さん側のより深い記述
1つ前の記事において、
『暇と退屈の倫理学』では、
食べることの「受け取り方」の記述として、
「美味しいものが何で出来ていて、
どうすれば美味しくできるのか」
の部分を取り上げましたが、
さすがにここを取り出すのは不適切でした。

それより前の部分で、
「食べること」についての、
より深い記述があります。
 食を例にとろう。食を楽しむためには明らかに訓練が必要である。複雑な味わいを口のなかで選り分け、それをさまざまな感覚や部位(口、舌はもちろん、喉、鼻、更には目や耳、場合によっては手など全身)で受け取ることは、訓練を経てはじめてできるようになることだ。こうした訓練を経ていなければ、人は特定の成分にしかうまみを感じなくなる。
  (p.344)

こうなると小池龍之介にかなり近くなりますね。
 2012.11.02 Friday 13:36 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 permalink  
『暇と退屈の倫理学』の結論、「受け取ること」について

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
第七章を読んできたが、
そろそろ「結論」に入っていく。

前回、退屈することを運命づけられた
“人間らしさ”から逃れる可能性としての
<動物であること>について読んでいった。

そのことをふまえて、
もう一度ハイデッガーの退屈の
3つの形式にもどってみる。

第三形式=第一形式、
すなわち、「なんとなく退屈だ」という
最も深い退屈の声を聞かないように
何かの奴隷になっている状態においては、
ものを受け取るということができない。

もちろん、先に見てきたように、
人間にとって習慣は必要であり、
考えることのきっかけをすべて受け取っていたら、
生きてはいけないのだけれど、
第三形式=第一形式のように
何かの奴隷になってしまうと、
受け取れる可能性のある対象も
受け取れなくなってしまう。

それに比べると、
退屈の第二形式には、
考えることの契機となる何かを
受け取る余裕がある。

楽しむということは、思考することにつながる。
どちらも「受け取る」ことだから。
人は楽しみを知っているとき、
思考に対して開かれている。

そして、楽しむためには訓練が必要であり、
その訓練は物を受け取る能力を拡張する。

したがって、<動物になること>は、
<人間であること>を楽しむことを
その前提としている。

というのが國分さんの考え。

ここでまた小池龍之介との違いを意識しておくと、
國分さんは、退屈の第二形式において
「思考を強制するもの」を受け取る、
というふうに書いている。

一方、私が理解するところの
小池龍之介の『考えない練習』は、
思考を強制しないものを受け取り、
そして思考しない、ということになろうかと思う。

たとえば、ふたりとも
「食べること」の例をあげているが、
その受け取り方には違いがあり、
「情報」のレベルは異なっていると感じる。

國分さんの側は、
文中で軽く示されている一例でいえば、
「美味しいものが何で出来ていて、
どうすれば美味しくできるのか」
というような受け取り方だし
小池龍之介の場合はこんな具合になる。
訂正>「食べること」についての、
國分さん側のより深い記述


ただし、國分さんは、
「受け取る」ということと「訓練」を結びつけると
いわゆるハイカルチャーのようなものが
イメージされるかもしれないが、
「受け取る」ということはもっと日常的にできる、
ということを書いておられて、
そういうふうに考えていくと、
小池龍之介のいうところの「受け取り」に近くなる。

ちなみに、『考えない練習』でも、
第1章の2〜3行目に、動物の話が出てくる。

「人間は動物と違って考える。だから偉い」と思っている方は多いでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。

というふうに。

話を『暇と退屈の倫理学』にもどすと、
結論でも再びドゥルーズの名があげられている。

ドゥルーズは映画や絵画が好きだったそうだが
「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、
映画館に行ったりするのか? 
その努力はいったいどこからきているのか?」
という質問に対して、
「私は待ち構えているのだ」と
答えたことがあるのだそう。

待ち構える(être aux aguets)という表現は、
動物が獲物を待ち構えるという意味をもつらしい。

「受信・発信」と、「能動的・受動的」については、
私もずっと興味を持ち続けているのだけれど
(>発信する身体、受信する身体。
このことにつながりそうな話として、
國分さんが関係している興味深い研究発表がある。
(といっても、web上で知ることができるのは
大筋だけなのだけれど)↓
■「ドゥルーズの逆説的保守主義」
http://repre.org/repre/vol9/
conference04/panel05.html


  コメンテイターとして小泉義之氏の名もあり、
  川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
  ともつながってくる。

國分さんは、
ドゥルーズの「思考の受動性」、
見るという行為がもたらす奇妙な主体性、
「見ることを学ぶ」必要性、
「積極的に傍観者たることを求める」思想、
ということについて論じているもよう。

このあたりについても、
いつかまたゆっくり考えてみたい。

ちなみにツイッター情報によると、
『思想』で連載されている國分功一郎さんの
「ドゥルーズの哲学原理」も、
そのうち1冊の本として刊行される予定であるらしい。
(ついでにいうと、保育論の本も同時に出るそう)
http://mobile.twitter.com/
lethal_notion?max_id=259521121244831744

 2012.11.02 Friday 09:24 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 permalink  
楽しかったパーティーが、実は退屈だったわけ(ハイデッガー「退屈の第二形式」)
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
第七章を読んでいるところだが、
いったん第五章にもどり、
ハイデッガーの退屈論をのぞいてみる。

ハイデッガーはまず、退屈を2種類に分けた。
そのうちの1つ(第一形式)は、
「何かによって退屈させられること」。
例として、小さなローカル線の駅舎で
4時間後にくる列車を待っている様子が
示されている。

もう1つ(第二形式)は、
「何かに際して退屈すること」。
これは第一形式よりも深い退屈であるとされ、
具体例としてパーティーがあげられている。

パーティーに招待され、
食事をして、音楽を聴き、談笑する。
食事はおいしいくて趣味もいいし、
おしゃべりは楽しく愉快だし、
何も退屈のもとはなかった。

がしかし、
帰宅して仕事の残りなどをすませたあと、
「私は今晩、この招待に際し、
本当は退屈していたのだ」
と気がつく。

楽しかったのに、退屈だった。

なんなのだ、この退屈は?

ということが詳細に検討されていくのだが、
結論はとてもわかりやすい。

つまり、第一形式は、
列車を待っている主体が、
列車を待つために、
明確な「暇つぶし」を行っているのに対し、
第二形式は、
パーティーという、
主体の際している状況そのものが、
そもそも「暇つぶし」であるということ。

列車を待って退屈している人は、
周囲のものが
自分が期待するものを提供してくれなくて、
空虚になる。

しかし、パーティーを楽しみながら
退屈している人は、自分自身が空虚になる。

退屈の第一形式が
「暇があって、退屈している」状態ならば、
退屈の第二形式は
「暇がなくて、退屈している」状態。

何しろこれは、気晴らしと区別のできない退屈。
退屈を払いのけるためのものが
退屈になってしまっている。

この退屈の第二形式こそが、
私たちがもっともよく経験する
退屈なのではないかと思えてくる、
と國分さんは書いている。

なお、さらに深い
退屈の第三形式というものも論じられており、
ここから第一形式と第二形式が生まれる、
とされている。

第三形式は、「なんとなく退屈だ」という退屈。
こうまとめるとあまりにもあっけないが、
でも、そういう退屈。

この退屈には、
もはや気晴らしというものあり得ない。
気晴らしは許されない。
ということもわかっている状態。
それは、退屈に耳を傾けることを
強制されている状態。

そしてこの「なんとなく退屈だ」という声を
聞き続けることほど、怖ろしいことはない。

その深い退屈からのがれるために、
私たちは日常の仕事の奴隷になり、
その結果、第一形式の退屈を感じることになる。

また、第二形式については、
「なぜあのパーティーは行われたのか?」
という問いを設定すれば、もう合点がいく。

第一形式も、第二形式も、
第三形式の深い退屈の声を聞かないことを
目指しているために生じる退屈、
という点では共通している。

しかし、明らかな違いもある。
第一形式が「奴隷」になっているのに対し、
第二形式には「余裕」があるのだ。

ここまで読んで、
第七章にもどって(進んで)みる。

(つづく)
 2012.10.31 Wednesday 08:24 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』 permalink