同じではないし、異なってもいない/不一不異
時間があいてしまったけれども、
もう少し中村元『龍樹』を読んでみることにする。

ナーガールジュナ(龍樹)の主要論敵は
説一切有部であったが、
説一切有部は“たんなる”実在論ではなく、
「ありかた」が「有る」という考え方をした>。 

たんなる実在論では、1人の人が有り、
その人が歩むからその人を<去る主体>といい、
歩む作用を抽象して<去るはたらき>という。

しかし、法有の立場(説一切有部)は、
1人の人が有るかどうかということを問題にせず、
その「ありかた」が有るとみなすので、
1人の人が歩む場合に「去る」という「ありかた」と、
「去る主体」という「ありかた」を区別して考え、
それぞれに実体視しなければならないことになる。

ナーガールジュナはここを突いたらしい。

「去る主体」と「去る」という「ありかた」を区別して考えると、
果たしてこれらは一つのものか、異なるものか、
という問題が生じてくる。

もし、去るはたらきなるものと去る主体が同じものならば、
作る主体と作るはたらきとが一体であるということになり、
作る主体と作用とは同一なので、これは作用であり、
作る主体であるという区別はない。
しかるに切断作用と切断者が同一であるということはありえない。
それ故に去るはたらきが去る主体であるということは正しくない。

また、去る主体が去るはたらきと異なっているとすれば、
去る主体がなくても去るはたらきがあり、
去るはたらきがなくても去る主体があるということになり、
去る主体と去るはたらきは無関係ということになってしまう。
しかし、去るはたらきは去る主体とは別に成立しているとは
認められない。

したがって、一体としても別体としても成立しないところの
去る主体と去るはたらきは、成立しない。

ということらしい。

ちょっとわかるような、全然わからないような・・・

とにもかくにも、ナーガールジュナ(龍樹)は
概念を否定したのではなく、概念の矛盾を指摘したのでもなく、
概念に形而上学的実在性を附与することを否定したらしいのだ。

で、これをもう少しわかりやすく、
中村元さんが解釈してくれている。

相関関係にある甲と乙との2つの「ありかた」が、
全く別なものであるならば、
両者の間には何らの関係もなく、
したがって“はたらき”も起こらない。

さらに甲であり乙であるということも不可能となる。

甲であり乙であるといいうるのは、
両者が内面において連絡しているからである。

故に甲と乙とが全然別異であるということはありえない。

また、甲と乙が全然同一であったならば、
両者によって“はたらき”の起こることもなく、
また甲であり乙であるという区別もなくなってしまうであろう。

故に両者は全然同一ではありえない。


うーん・・・やっぱり、わかるようなわからないような・・・
なんか「はたらき」というものを
別々の次元で考えているような気がして、
話が微妙に混乱しているような・・・

でも確かにこうなると、
単なる実在論のほうがすっきりするなぁ、
という気にはなってくる。

何しろ法有の立場は自然的存在を問題とせず、
「去る」という「ありかた」と、
「去る主体」という「ありかた」とを区別するから、
それぞれを実体視せねばならなくなり、
こういうめんどくさいことになるのかもしれない。

というところを、ナーガールジュナは突いたのだろう。


(きょう読んだのは、p.132〜136のあたりです)
 2012.04.27 Friday 12:39 「空」の思想 permalink  
ナーガールジュナ(龍樹)の「運動の否定の論理」
中村元『龍樹』を読んでいる。 

そんなこんなでナーガールジュナ(龍樹)は
いろいろなものを縦横自在に批判し、
いろいろなものを「ない、ない」と言ったらしいのだが、
何をどのように「ない、ない」言ったのか、
もう少し具体的にみていこうと思う。

まず、「運動の否定」について。

ナーガールジュナ(龍樹)は、

  すでに去ったものは去らない。
  まだ去らないものは去らない。
  現在去りつつあるものも去らない。

というようなことを言っているらしい。

厳密にいうと、

 已(すで)に去られた<時間のみち>(世路)は去られない。
 未だ去られない<時間のみち>も去られない。
 現在去られつつある<時間のみち>も去られない。

ということになるらしい。

このうち、「すでに去ったものは去らない」はわかりやすい。
去っちゃったものに、もう去る作用はないだろうから。

2番目の「まだ去らないものは去らない」は、
「ん?」と一瞬首を傾げてしまう。
まだ去らないけれど、
これから去るかもしれないじゃない、と。
だけど、いまはまだ去らない。
なるほど、じゃあ、ここにも去る作用はないか。

しかし、3番目はどうだろうか。
現在去りつつあるものは、
まさに去ろうとしているわけで、
そこには去る作用があるのでは?
という疑問がわく。

で、『中論』の理解にあたっては、
チャンドラキールティ(月称)の注釈が重要らしいのだが、
チャンドラキールティ(月称)は、
「現在去りつつあるものは、すでに去ったものと、
まだ去らないものとを離れてはありえず、
そのいずれかに含められてしまう」ということを強調しているらしい。

ほんでもって、
ナーガールジュナ(龍樹)は、
「現在去りつつあるものは去るんじゃない?」という、
先の疑問にこう切り返す。

「<去りつつあるもの>が去る」っておかしいでしょ、と。

去りつつあるものは、すでに去る作用を有している。
「○○○が去る」と言えるのは、
○○○が去る作用を有していないときだけ。
だから、<去りつつあるもの>が去る、というのは不合理。

もし、<去りつつあるもの>がすでに有している「去る」と、
新たに述語として付加される「去る」の
2種類の「去る」を認めるとすると、
さらに誤謬が付随する。

「去る作用」というものは、「去る主体」があってこそのもの。
去る主体を離れて去るはたらきはありえない。
去る主体と去るはたらきは互いに相い依って成立している。

だから、「去る作用」が2つあるならば、
「去る主体」も2つあるはず。
これはおかしいでしょ?

ということらしい。

なんだその屁理屈は・・・と言いたくもなるが、
確かに「去りつつあるものは去るでしょ?」と書いたときに、
ほんのにかすかに違和感があったことは否めない。

なお、この「運動の否定の論理」は、
『中論』の第二章に述べられてあるらしいのだが、
ナーガールジュナ(龍樹)はこの論法を重視していて、
あとの章では、第二章のこの証明を
すでに確立された自明のものとみなしているらしい。

(きょう読んだのは、p.117〜121あたりです)
 2012.03.16 Friday 12:18 「空」の思想 permalink  
『中論』の用いる論理は帰謬論法、自説は主張しない。

中村元『龍樹』を読んでいる。

説一切有部の言い分をきいていると、
なんだか、
「ない」ものをちゃんと「ない」ものたらしめるために
あるものをあらしめているような気がしてくる。

一方、ナーガールジュナ(龍樹)のほうは、
「ない」を徹底していて面白い。

たとえば、
『中論』が用いている論理は、
プラサンガと言われるようなのだが、
これは帰謬論法であるらしいのだ。

「謬(びゅう)」とは誤りのことで、
つまりは「誤りに帰する」論法ってことなのかな。

すなわち、論敵にとって願わしからざる結論を
導き出したらしいのだ。
そしてそのことは、
論敵と反対の主張を承認するという意味ではない。

中観派は、けっして自らの主張を立てることはしない。

 もし、自分に何らかの主張があるならば、
 まさにそれゆえに、
 自分には理論的欠陥が存在することになるだろう。
 しかるに自分には主張は存在しないので、
 まさにそれゆえに、
 自分には理論的欠陥が存在しない。

というようなことを、
ナーガールジュナ(龍樹)は言っているらしい。

すんごくひらたくいえば、
「そういうこと言うと、こういうことになって、
おかしいよね。それはないよね。」
とだけ言い続けていたってことなのか。

なんだか、「やなやつ〜」と思うが、面白い。

というわけで、中観派の哲学者たちは、
自分たちの立場が論駁されることはありえないことを
確信していたらしい。

主張はない。
したがって、理論的欠陥はない。
したがって、論駁されない。


(きょう読んだのは、p.128〜131あたりです)

 2012.03.13 Tuesday 10:57 「空」の思想 permalink  
諸行は無常だけれども、「諸行は無常である」という命題は変わらない。
中村元『龍樹』を読んでいる。

ナーガールジュナ(龍樹)が何を否定したのかを
詳しく見ていくまえに、
主要論敵である「説一切有部」の考え方を
のぞいているところ。

説一切有部は、
「ありかた」としての法を“有り”としたらしいのだが、
この「ありかた」とは、今日のことばでいえば、
「ほぼ概念の中に含まれるところのものである」
と中村元さんは書いている。
(この「概念」という言葉は、
 論理学の用語として考えるといいのかもしれない。)

ところが、説一切有部は、
概念のみならず、命題がそれ自身実在することを
主張したらしいのだ。

  つくられたものども(諸行)は無常である。
  しかし、「諸行は無常である」という命題自身は 
  変易しない。
  もし、その命題自身が変易するならば、
  つくられたものどもは無常である、とはいえなくなる。

なるほど〜
説一切有部の主張はわかりやすいなぁ。

ほんでもって、中村元『龍樹』のp.96〜97に
「五位七十五法」なる一覧が示されていて、
どどどどどっと何か書いてあるのだが、
これが全部「法」ということらしい。たぶん。

ちなみに命題は「句」ということで、
「心不相応行法」(心に伴わないもの)の中に
含まれている。
なお、一覧の中では「句身」(文章の集まり)と書いてある。

数えてみたら74個しかなくて、
あと1つはなんだ?と思っていたら、
「心法」(心)を見落としていた。

というのも、最初の分類は
「無為法」(生滅変化を超えた常在絶対なもの)と
「有為法」(原因・条件によって生滅する事物)の2つで、
「有為法」は4つに別れ、
その4つがまたいくつかにわかれ・・・と分類されている中で、
「心法」は「有為法」の1つとしてぽつねんとあり、
分岐していないのだ。
なので、目立たず、見落としてしまった。

そうか、心はそれ以上、分類できないのね・・・
 2012.03.12 Monday 14:54 「空」の思想 permalink  
「法有」の立場/「・・・である」から「・・・がある」へ

「たまねぎである」と「たまねぎがある」
の違いを考えてみる。

「これはたまねぎである」という場合、
目の前にある物体がたまねぎだということのほか、
たまねぎというものが存在する、
ということも言えるだろう。
つまり、「である」は、「がある」に推移することができる。

一方、「たまねぎがある」については
2種類の「・・・がある」が考えられる。

たとえば夕食を作ろうとして、
野菜の在庫を確認したとき、
「あ、たまねぎがある・・・」というときの「がある」は、
いま、そこに、たまねぎがあるということであり、
これは哲学の問題として考えるようなものではなさそう。

これに対して、いま、そこに、かどうかを問題とせず、
時間的空間的規定を超越している普遍的概念として
“たまねぎ”が存在するかどうかを考えるときの
「がある」もあり、こっちは哲学の問題として取り扱われる。

こういうことを考えようとする哲学者はいっぱいて、
いろんなひとが、この「ありかた」を基礎づけようとした。

ほんでもって、「法有」の立場も、
この線に沿って理解すべきなのではないか、
ということらしいのだ。

すなわち、初期仏教における
「・・・であるありかた」としての法が、
有部によって
「・・・であるありかたが有る」と
書き換えられた。

つまり、おおまかにいえば、
「である」から「がある」へ論理的に移っていったのが、
法有の立場の成立する理論的根拠であるらしい。
 
(参考文献:中村元『龍樹』p.88〜89/
 「たまねぎ」は私が勝手に作った例です)

 ちなみに、個人的には、
 「である」には「=(等号)」のイメージがあり、
 「がある」には「∃(存在記号)」のイメージがある。

 2012.03.09 Friday 10:40 「空」の思想 permalink  
説一切有部の言い分/無常を無常ならしめている原理

ナーガールジュナ(龍樹)が批判した、
説一切有部の言い分(中村元さんの推察)を
きいてみることにする。

で、きいてみると、なるほどこれはこれで一理ある。

というか、かなり納得した私。

まず最初におさえておきたいのは、
説一切有部が「縁起」を軽視したこと。
(「縁起」については
いずれゆっくり考えることとして)

つまり、縁起によって法の体系を基礎づける立場を捨て、
法を「有り」とみなすことで基礎づけようとしたらしいのだ。

ゴータマ・ブッダは、
もろもろの存在が生滅変遷するのを見て、
「諸行無常」を説いた。

しかし、諸行無常を主張するためには、
なんらかの無常ならざるものを必要とする。

だって、全く無常ならざるものがないならば、
「無常である」という主張も成立しないから。

もちろん仏教である以上、無常に対して常住なる存在を主張することは許されないし、またその必要もないであろうが、無常なる存在を無常ならしめている、より高次の原理があるはずではないか、という疑問が起こる。

  (中村元『龍樹』p.87)

なるほど〜〜

そして、
「一般に自然的存在の生滅変遷を強調する哲学は
必ずその反面において不変化の原理を想定するのが
常である」として、古代ギリシアのエレア派と、
反対派のヘーラクレイトスの名前が出されている。
このあたりもいつか考えてみたい。
ちなみに、エレア派にはゼノンがいる。

とにもかくにも、
ゴータマ・ブッダが有・無の2つの極端説を
否定したにもかかわらず、
説一切有部は「有」を主張した。

特に、法の「有ること」を。

なぜか。

ということを理解するには、
「・・・である」と「・・・がある」の違いについて、
考えるといいみたい。


(つづく)

 2012.03.08 Thursday 09:35 「空」の思想 permalink  
仏教がいうところの「法」とは何ぞや
「法」ときくと、法律のことを思い出す。
すなわち、決まり、規則、ルール。

また、方法の「法」とか、消去法の「法」を思うと、
「やりかた」という意味も思い浮かぶ。

では、仏教がいうところの「法」ってなんだろう?

これがなかなかややこしい。

中村元『龍樹』によると、
「法(dharma)」の語源には「たもつ」という意味があり、
法とは「きまり」「軌範」「理法」というのが原義であるらしい。 

ところが、後世、伝統的に「もの」と解釈されるようになった。

なんで?ということになる。

また、立川武蔵『空の思想史』では、
のっけからダルマとダルミンの話になっているのだが、
ダルマが「法」、ダルミンが「有法」という説明がされている。

「紙」から色や形や重さをとりのぞくと、何が残るか。
で出した「基体」と「属性」の関係でいえば、
「属性」のほうが「法(ダルマ)」、
「基体」のほうが「有法(ダルミン)」。

「法」が「もの」ならば、基体のほうがダルマなんじゃないの?
と思いたくなるのだが、そうではないらしい。

つまり、「法=もの」と考えるのではなく、
「法=もののありかた」と考えるのがミソらしいのだ。

そして、説一切有部は「法有」を主張した。

それを攻撃したのが、ナーガールジュナ(龍樹)だった。
 2012.03.07 Wednesday 08:50 「空」の思想 permalink  
『中論』は論争の書、では論敵は・・・?

中村元『龍樹』によると、
ナーガールジュナ(龍樹)の書いた『中論』は、
批判・論争の書であるらしい。

論争の相手についてはいろいろ議論があるようだが、
主要論敵は「説一切有部」と考えてよさそう。

ここらでひとつ、仏教の歴史(の関連ある部分)を
ざっとながめてみることにする。
(参考文献:宮元啓一『わかる仏教史』)

ゴータマ・ブッダが入滅して100年くらいの間は、
仏教教団(サンガ)は一枚岩の組織を保っていた。
この間の仏教のことを「初期仏教(原始仏教)」というらしい。

しかし100年くらいたったときに、仏教の内部で、
とくに戒律をめぐって大きな対立が生じ、
なんだかんだあって、
サンガは厳格な長老たちと改革派に分裂し、
前者は上座部、後者は大衆(だいしゅ)部を形成した。

この根本分裂のあと、
それぞれがいわゆる枝末分裂をくりかえし、細分されて、
部派仏教と言われるものになった。
説一切有部は、上座部のほうの一派で、
部派仏教の代表的な哲学派であったらしい。

なお、この部派仏教は、のちに大乗仏教からは
小乗とけなされることになる。
(部派仏教---というか伝統的保守的仏教の諸派---側は、
大乗仏教を無視)

ちなみに大乗仏教とは何かというと、
紀元前2世紀の後半あたりから、
新しい仏教を提唱する、
おそらく自然発生的な大衆運動が展開され、
この運動の担い手たちがみずからの仏教を
「大乗仏教」と呼んだらしい。
ちなみに、大乗仏教の起源については、
いまだはっきりとした定説はないもよう。

で、ナーガールジュナ(龍樹)が開祖である「中観派」は、
大乗仏教の最初の学派だった。

そのナーガールジュナ(龍樹)が、
説一切有部を批判した、ということらしいのだ。

 2012.03.06 Tuesday 08:45 「空」の思想 permalink  
長いひもと短いひも/相互依存
「長いひもある?」ときかれたとき、
どのくらいの長さのひもを持っていたら、
「あるよ〜」と答えるだろうか。

「ダンボールをくくりたいんだけど・・・」とか
「なわとびしたいんだけど・・・」とか、
用途を言ってもらうと助かるんだけど。

とりあえず、5〜6mくらいでどうかしらん?

逆に、「ここに短いひもがあるとします」と言われたら、
何cmくらいを想像するかな。25cmくらいかな。

そもそも、「長い−短い」というのは、
比べたときの長さの話であり、
そのひも1本では成立しない。
つまり、長短は相対的なものだ。

そんなふうに、長いということと、短いということは、
お互いの相互依存のもとに成り立っている。

たぶん、ナーガールジュナ(龍樹)が書いた
『中論』が主張する「相依性(そうえしょう)」って、
そういうことなんだろうな、と推測している。
 2012.03.05 Monday 12:02 「空」の思想 permalink  
ナーガールジュナ(龍樹)は空の思想を理論的に考えた

立川武蔵『空の思想史』を読んでいるところだが、
ナーガールジュナ(龍樹)については、
中村元『龍樹』、宮元啓一『わかる仏教史』
も並行して読んでいこうと思う。

そもそも「龍樹」というのは漢訳であり、
「ナーガ」というのが「龍」という意味、
「アルジュナ」というのは昔の英雄の名で、
音写して「樹」と表記するようになったらしい。

なお、立川武蔵『空の思想史』では「竜樹」になっているが、
今後はナーガールジュナ(龍樹)で統一しようと思う。

そのナーガールジュナ(龍樹)は何をした人かといえば、
ひとことでいえば、「空の思想」を理論的に基礎づけた人、
ということになろうかと思う。

 なお、「空」自体は般若経典にすでにあるものだったが、
 それが理詰めに論議されるようなことはなかった。

南インドのバラモンのカーストの出身、
150〜250年頃の人だと推定されているもよう。

ナーガールジュナ(龍樹)が何を考えたかについて概観するには、
やはり宮元啓一『わかる仏教史』が便利。
241ページの歴史の中の122ページめあたりなので、
だいたい真ん中くらいということになるかな。

3ページちょいでコンパクトにまとめてあり、
ナーガールジュナ(龍樹)が、
どんな理屈で何を否定したかについて、
わかりやすく書いてある。

たとえば「見ること」は、
「見られるもの」の成立をまたなければならず、
「見られるもの」は、
「見ること」の成立をまたねば成立しないので、
「見ること」も「見るもの」も成立しない、と言ってみたり。

たとえば、「行く(去る)もの」は、
すでに行っているのであり、
ゼロから出発してこれからあらためて「行く」ことはない、
したがって「行くものは行かない」と言ってみたり。

あるいは、過去というのは現在よりも以前にあり、
未来というのは現在よりも以後にあり、
時間領域を現在という幅のない線で分断すると
それは過去の時間領域と未来の時間領域との
ふたつになるので、現在の時間領域はどこにもなく、
したがって、現在と相互依存関係にある過去も未来も成立しない、
と言ってみたり。

そんなに「ない、ない」言ってどうするんだ、
という気がしてくるが、
ナーガールジュナ(龍樹)が目指したものは、
否定のその先にある新しい世界、
肯定的、積極的な何ものかであった。

ちなみに宮元啓一さんは、次のようにまとめておられる。(ルビ略)

 世俗諦に立ってことばと概念を崩壊させたところで、その瓦礫の山を跳躍台として、第一義諦へと跳べ、というのが、龍樹の空の哲学の根本主張です。

  (宮元啓一『わかる仏教史』p.124〜125)

なお、第一義諦というのは真実のことであり、
世俗諦は、そうした真実を説明するために用いられる
ことばと概念のレベルの真実のことらしい。

 2012.03.03 Saturday 23:31 「空」の思想 permalink