出生前診断のこと/仏教女子ブームのこと
数日前、インターネットのニュースで、
新しい出生前診断についての記事を読んだ。

妊婦の血液検査で、胎児がダウン症であるかどうかを
99%の精度で調べられるというものだった。

今回検索して見つけたものを1つリンク。↓
http://mainichi.jp/select/news/
20120901k0000m040126000c.html


上記のページによると、
検査可能なのはダウン症だけではないらしいが、
ダウン症については99%の精度ということであるらしい。

そういう時代がきたんだな・・・と思った。

血液検査なので(>補足)、
リスクはほとんどないのだろう。
そして、99%という高い数値。

私は、妊娠時に、トリプルマーカー検査という
出生前診断を受けた。

そのことについては、このブログでも書いたし、
人生と確率(1)/出生前診断のこと
別のブログではもっと詳しいことを書いている。
(上記記事中にリンクあり)

検査の結果の受けとめ方について、
担当医師はダウン症ではなく、
別の病名をあげて説明した。

生存率が低い病気なのだと思う。

だけど、その病名で検索をかけると、
その病気をもちながら暮らしている子どもの
成長日記、育児日記が読めるのだ。

あれから10年以上たち、
インターネットによる個人の情報発信も
当時より盛んになってきたから、
読める日記なのかもしれない。

また、医療も進歩しているのだと思う。



ところで、私自身はツイッターはやっていないのだが、
気になる人のツイートは検索して読んでいて、
やはりこの出生前診断のことは話題になっていた。

しかし、もうひとつ
話題になるのではないかと思っていたニュースは、
会話に出てきていなかった。
(読み落としたか?)

それは日本生態系協会の会長の発言。

確か直後には否定していた記憶があるのだが、
結局、認めたらしい。
http://www.minpo.jp/news/detail/201208303361



子どもを産み育てるということ、
産み育てたいと願うこと、
わが子に幸せになってほしいと願うことは、
いったいどういうことなんだろうか。



先日、書店で
池上彰と考える、仏教って何ですか?』
という本を見かけて、
へぇ・・・なんて思っていたのだが、
きょうは近所のスーパーの雑誌売り場にあった
『婦人画報』の表紙に目がとまった。

最初は、宮沢りえの表情にひきよせられた。
他の雑誌の表紙の女性にはない、独特の美しさ。

そして視線をずらせば、
“女の「仏教」ことはじめ”という文字。
http://www.hearst.co.jp/product/fujingaho

仏教ブームと言われる状況はきのうきょうの話ではなく、
数年前から言われていることのようだが、
もしかして・・・と検索したら、やっぱり・・・という記事を発見。↓
仏教女子ブームか!座禅や写経、宿坊など
修業体験に若い女性殺到」
http://www.j-cast.com/tv/2012/08/21143411.html

実は、この記事を書くにあたり、リンクしようと思って
『婦人画報』の該当ページをさがしているときに、
まちがって『婦人公論』で検索をかけてしまったのだ。
そうしたら最新号の表紙は瀬戸内寂聴で、
特集は、「仏教は女の人生と相性がいい」とのこと。
http://www.fujinkoron.jp/newest_issue/index.html



今年の6月くらいから、
玄侑宗久さんが関わる本をちょろちょろ手にしている。

また、枡野俊明さんの
禅が教えてくれる 美しい人をつくる「所作」の基本』も、
時々立ち読みしている。

しかし、あいかわらず私のなかでちっとも進展しないのは、
「子煩悩」という言葉に対する疑問。

ちなみに小池龍之介『考えない練習』にも
子育てへのアドバイスが書いてあり、
これはこれで「なるほど」と思う。

だが、

 わが子が幸せであってほしい

 わが子が元気であってほしい

 わが子が健康であってほしい

 わが子がほしい・・・

という人間の気持ち、
もしかしたらそこから発しているかもしれない
苦悩に対して
仏教はどんな手立てを示すか、
まったくわからないでいる。

とうぶん進展のなさそうな、
私の疑問なのであった。
 2012.09.02 Sunday 18:29 仏教 permalink  
「子煩悩」という言葉
いつかじっくり考えたいと思っている言葉に、
「子煩悩」という言葉がある。

一般的には、「子煩悩」という言葉は
わるい意味では使われないと思う。

しかし、何しろ煩悩。

煩悩に子がついているのだ。

「子煩悩」については、だいぶ前に、
検索によって、こちらのページを見つけていた。

毒書のススメ雑感:日本仏教の特殊性

実は、このサイトを訪れるのは初めてではなく、
宮元啓一『わかる仏教史』のことを知ったのも
このサイトのおかげなのだった。
(しかも、開設者のおおくぼさんには、
仏教とは全然違うジャンルで間接的に出会っている)

なぜ、子煩悩という言葉を考えたいかというと、
仏教は、子育てに対して、
どういう考え方を示すのか、興味があるからなのだ。

そもそも、ブッダからしてすごい。
ブッダは王子さまだったので、
「最低限の社会的義務」は、
子どもをもうけることだった。
で、その義務をはたすと、
おさらばとばかり出家したらしいのだ。

しかも、その子の名はラーフラというのだが、
ブッダはあえてその名を
不吉な意味になるように発音したのだという。
(宮元啓一『わかる仏教史』p.20より)

ただし、こういう説もある↓
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/
yowa/yowa19.html


ブッダが子どもに対して
どういう気持ちで名前をつけたかの真相はおいといても、
どうも子育てと出家、子育てと仏教はしっくりこない。

執着を捨て、欲を捨てることと、
子をつくること、子育てをすることは、
どうつながるのだろうか。
どう、つながらないのだろうか。
 2012.02.11 Saturday 10:16 仏教 permalink  
問いと、答え。
金子由紀子さん監修のシンプル生活手帳2012
“片づけ”ワークシートの表紙のページでは、

 この空間を、わたしはどう使いたいのか?
 ほんとうに好きな空間とはどんなものか?
 私がほんとうに欲しいものはなんだったのか?
 それに近づくためには、わたしはなにをすればいいのか?
 ぜひ、「間取り図」を用意して、
 何度も何度も書き込んでみてください。

というアドバイスが書かれてあり、
その文章は次の一文で締められている。 

答えはいつも、問題の中にあるものなのです。

こうなると、曹洞禅より臨済禅を思い出すのだった()。

もちろん、金子由紀子さんがここでいうところの
「問題」と「答え」は、禅問答ではないのだけれど。

ついでといってはなんだが、
『禅』(鈴木大拙著/工藤澄子訳)から、
問いを解くことについての一節を抜き出してみようと思う。

 問いを解くとは、それと一つになることである。この一つになることが、そのもっとも深い意味において行なわれる時、問う者が問題を解こうと努めなくとも、解決はこの一体性の中から、おのずから生まれてくる。その時、問いがみずからを解くのである。これが、「実在とは何か」という問いの解決についての仏教者の態度である。換言すれば、問う者が、問いの外にあることをやめる時、すなわち、両者が一となる時、それらがその本来の状態にかえる時、を言う。さらに言えば、それらが、まだ主体と客体の二つに分たれない原初の事態に立ち帰る時------分離が行なわれる以前、世界創造の以前------これが、論理的証明の形においてでなく、自己の現実の体験において、解決が可能となる時である。
  (p24〜25)
 2011.12.13 Tuesday 15:10 仏教 permalink  
臨済禅と曹洞禅の違い「頭で考えるか、体で考えるか」
禅、シンプル生活のすすめ』(枡野俊明) 
を読んでいる。

終盤で興味をもったのは、
「89 「方法」もひとつではない」という項目。

副題は「頭で考えるか、体で考えるか」、
本文の見出しは「たとえ同じ答えに行きつくとしても」
となっている。

何の話が書いてあるかというと、
臨済禅と曹洞禅の違いについて。

臨済禅は問答をくり返しながら悟りに行きつく。

曹洞禅は、ただ坐るのみ。(「只管打坐」)

臨済禅も曹洞禅も、どちらも
乱れない心、迷わない心をもって
本来の自己に出会うことを目的としており、
ただ、そこに行きつくまでの方法が違うだけ。

頭で考えつくすか、体で考えつくすか。
「あなたは、どちらのタイプですか。」と書いてあるが、
私は両方でいきたい。

思うに、禅問答って、
(曹洞禅からみると頭のウェイトは高いのだろうが)
頭で理解できるようなものでもないような気がする。

実は、仏教にこんなに興味をもつ前に、
『禅』(鈴木大拙著/工藤澄子訳)
という本を買っていた。
買った直後は最初の部分をぱらぱらめくっただけで、
「なんだかよくわかんないなー」で終わっていたのだけれど、
最近は以前より読みやすくなってきて、
買うべくして買った1冊だなぁ、と感じている。

問うとはどういうことか。
答えるとはどういうことか。

いつか、この本もゆっくり読みたい。

さて、それはそうとして曹洞禅。

以前、金子由紀子さんは曹洞宗と相性がよい
という話を書いたけれど、
道元が中国の宋にわたって
衝撃を受けたときのエピソードを読むと、
その理由がわかってくる気がする。

道元が、師といっしょに宋に渡ったとき、
その船は椎茸を積んでいた。
すると、禅の老僧が干し椎茸を買い付けにきた。
その僧は寺の料理番(典座:てんぞ)だった。

道元は、「あなたのような立派な老僧が、
なんで下働きのようなことをするのか」と質すと、
老僧は笑って、「日本からきたお若い人よ、
あなたは修行のなんたるかが
おわかりになっていない」と言った。

これをきっかけに、道元の求道心はいやが上にも高まり、
帰国後、『典座教訓』という書を著した・・・
(宮元啓一『わかる仏教史』より)
という話なのだが、
要は、「ただ坐っている」というより、
日常生活のすべての行動が修行になりうる、
という意味での「体で考える」感覚が、
金子由紀子さんのシンプルライフ哲学なのだと思う。

実際、『わたし時間のつくり方』において、
道元の名前を出したうえで、
次のように書いておられる。(p168〜169/ルビ省略)

 道元は、日常の行住坐臥のすべてを修行ととらえ、料理することも、食事をいただくこともすべてが修行であり、一定のルールとマナーにのっとり、心をこめて行わなければならないとしました。(中略)
 一挙手一投足が修行になるのなら、この一瞬一秒のすべてが、なりたい自分のためのエクササイズの時間です。
 何とムダがないのでしょう!

なお、
『貧乏入門』から、幸せになるための具体的な方法
でも少し書いたが、
金子由紀子さんの上記引用部分が含まれる一節は、
家事が「シャドウ・ワーク」と言われるという話から
始まっている。

これを『買わない習慣』とあわせて考えていくと、
話が立体的になって面白いと思う。
 2011.11.25 Friday 09:04 仏教 permalink  
「主人公」という言葉はもとは禅語であるらしい

禅、シンプル生活のすすめ』(枡野俊明) 
を読んでいる。

日常生活に取り入れられる実践の本として、
この1冊を手にしているのだけれど、
知識の上でも意外な収穫があった。

それは、「31 「もうひとりの自分」にきづく」の中にある、
主人公という言葉はもとは禅語だったという話。

へえ、そうなんだ〜〜 ちょっと意外。

ある高名な僧侶が、自分を「主人公」と呼んで「はい」と答え、
「目を覚ましているか」と尋ねて「はい」と答える、
という問いかけをひたすらくり返したのだそう。

だれだそれは?ということで、検索。

瑞巌という人らしい。
参考ページ↓
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2005/02.htm

「本来の面目」、本来の自己、真実の自己、
本来備わる「仏性(ぶっしょう)」のことなんだとか。

上記のような話をきくと、禅は、
「本来の自己」の存在を
あっさり認めているように聞こえてくる。

そこでもう1つ参考ページを。
http://www.asahi-net.or.jp/~zu5k-okd/house.14/mumonkan/gate.6.htm

禅っていうのはほんとうに・・・
なんといいましょうか・・・

なお、瑞巌という人は日本の禅僧ではなく、
中国の唐の時代の人であるらしい。

で、枡野俊明さんは何が言いたいのかというと、
禅では、最も自由に、最もラクに生きていくためには、
「自分はこういう人である」と決めつけないことが大事
と説く、という話。

たとえば、こんなふうに考えてみたらどうか。
自分の中にもうひとり自分がいる。
その自分はいつもの自分より自由で、
可能性に満ちている、
その人こそ実は本来の自分。

サラリーマンであるとかおかあさんであるとか、
社会のなかでいろいろな役割をもっている
その自分も自分だけれど、
もうひとり自分がいる、
その自分の目を覚まさせよう、
と提案しているのだった。

そのこと自体に特に異論はないけれど
(いまはまだ深く納得もできないけれど)
禅ってそんな考え方をするものなのかな?
という素朴な疑問もわくのだった。

このあたりについては、
いずれまたゆっくり考えよう。

 2011.11.20 Sunday 10:14 仏教 permalink  
本当の自分、「思考の癖」
小池龍之介『考えない練習』の第3章は、
池谷裕二との対談の記録になっているのだが、
そこに載っていた次の話が面白かった。


 イタリアのある地方で
 米軍基地を拡大するという話があったとき、
 住民投票をすることになり、
 そのとき、心理学者が現地で実際に調べたら
 面白いことがわかったという話。

 1週間前に、賛成か反対かのアンケートをとると、
 まだ決めていないとか、
 わからないとかいう人がいるけれど、
 その人たちが1週間後に
 反対票を入れるのか賛成票を入れるのか、
 その時点でもう高い確率でわかってしまうという。

 いろいろ方法はあるけれど、
 もっともわかりやすいものとして
 自由連想を例にあげている。
 ある単語を聞いて、何を思い浮かべるか、
 それは反射であり、どう反射するかを調べると、
 その人の「思考癖」がわかる。

 だから、投票1週間前の
 その人の反射パターンを調べていくと、
 1週間後のその人の投票がわかる。
 面白いのは、投票した後に
 なぜ賛成したのかアンケートをとると、
 みな、もっともらしいことを言う。
 こういう理由だから、賛成である、と。
 でも、誰一人として「ただの反射です」と
 思っている人はいない。
 本当は反射なのに。

 その反射パターンは
 その人がどういう人生経験を積んできたか
 どういう「来歴」か、で決まる。
 経験をすることで来歴が書き換わるから、
 反射のパターンが変わる。


なるほど、自分が出した結論に
もっともらしい理由を捻出するということは
ない話じゃないような気がする。

一方、中村元・田辺祥二『ブッダの人と思想』には、
次のようなことが書いてある。(p107)

利己的自己を挫けば自己のアイデンティティー(独自性)がなくなると思うかもしれませんが、全くその反対です。利己という名のカラにはもともと独自性などありません。人間的な癖があるのみです。

アイデンティティーという言葉をきくと
「存在意義」というニュアンスを感じる私なのだが、
思えばこの言葉にはそもそも
「同一性」という意味があったかと思う。

ということは、アイデンティティーって、
そもそもないものなのかもしれない。

そういえばかつて
どの時点での私の意思が、私の意思なのか。
という記事で

そんなふうに考えていくと、
本当の自分って、
ないのかもしれないと思えてくる。

って自分で書いてた。

でも私は、「わたし」はいると頑なに思っている。



ブッダは、自己そのものは否定していない。
ブッダが否定しているのは、
自己の所有、常住不変の実体、
常住不変の自己の本質といったものであるらしい。
(『ブッダの人と思想』p96より)
 2011.11.14 Monday 11:20 仏教 permalink  
人間の構成要素はどれも我ではない/「五蘊非我説」
ブッダは、身体と精神を分析して5つの構成要素を立て、
その因縁和合したものを「五蘊」と名づけ、
個人存在としたらしい。

そして、自己とはあくまで仮構されたものであり、
仮構されたものには実体はなく、
その構成要素にも実体があるとはいえない、
つまりすべて「非我」である、と考えたらしい。

その構成要素とは、次の5つ。

  色(物質的なもの、肉体)
  受(感受作用)
  想(表象作用)
  行(形成作用)
  識(識別作用) 

(以上、中村元・田辺祥二『ブッダの人と思想』p101より)

これらがどれも我ではないという意味について、
宮元啓一『わかる仏教史』では、
次のように説明してある。(P42)

 つまり、五蘊のいずれかが我であるならば、人はその部分において永遠に生きます。すると、人生の無常などなく、悲しみも苦しみも生じないはずです。しかし、事実はまったくそうではありません。ですから、五蘊のどれも我ではない、というのです。
この説明は、
「永遠に生きるものが我である」
という前提に立ったものに読める。

単純に考えると、
永遠に生きない「我」というものがあるのではないか?
という素朴な疑問がわくが、
問題は、「我とは何か」という抽象的な問いではなく、
人間が生きていくうえでの「苦」をどう捉えるか、
ということからくる非我観なので、
そこをおさえておいたほうがいいのだと思う。

また、中村元・田辺祥二『ブッダの人と思想』では、
この5つの要素は執着を起こす素材でもあり、
これらが我われを束縛するもとになる、
とも書いてある。

非我(無我)を体得することによって、死の恐怖は薄れる。
なぜならば、死すべき自己がいないのだから。
仮の自己を撃ち砕けば、
死すべき自己はいない、生死はない。

『ブッダの人と思想』では、
もっともっと詳しく書かれてあるのだが、
「苦」とセットにして考える「我」という意味では、
私は非我観の要点を上記のように捉えた。

結局、非我観(無我観)というものは、
基本的に、「生きる私のこの苦しさをどうしたものか・・・」
という動機から発しているのではなかろうか。
で、「そもそも私ってないんだよ。
だから、苦もないんだよ。」
という結論を出したものなのではないのだろうか。

で、その境地にいくのが、なかなか難しい、と。

ここまで単純化してしまうと身も蓋もないかもしれないが、
少なくとも非我観(無我観)って、
世直しのためにあるものではないし、
立派な人が高尚な境地を目指すといった類のものでもなく、
この世に生を受けた1人の人間の苦を問題にしている、
ということは言えそうな気がする。

そういうふうに考えると、
小池龍之介の本の主旨が、よくわかってくる。
 2011.11.09 Wednesday 10:55 仏教 permalink  
ブッダは「自己」の存在を否定してはいないらしい

仏教は「自己」をどう考えているのだろうか。

「無我」とはなんであるか?

宮元啓一『わかる仏教史』によると、
最初期の仏教においては、
「無我説」というより「非我説」であるらしい。

当時のインドでは、
われわれには、生死を越えて常住不変な
自己の本体(アートマン、我)がある
という思想が広く行なわれていたが、
ブッダは、真実の自己に目覚めることなく
安易に我なるものを自己のうちに認めることが
無常という事実をわかりにくくさせ、
そのため、いつまでも人を苦しめることになると考え、
簡単に我なるものなどあると思ってはならない、
と諭したらしいのだ。(p.41〜42から一部要約)

また、中村元・田辺祥二『ブッダの人と思想』には、

 ブッダは、人間存在は非我(無我)であるからといって、自己の存在を否定したわけではありません。むしろ倫理的行為の主体として、自己の存在を積極的に肯定していました。

と書いてある。(p.104)

その後の仏教がどうであったかは
いまはまだわからないけれど、
少なくともブッダ、初期の仏教は
自己の存在を否定していないということに、
なんだか安心した。
「なにがなんでも自己はない」だと、
とりつくしまがないので。

どうやら、仏教における「我」を考えるときには、
「無常」「苦」とセットに考えるとよさそう。

そして、どう捉えるかというときには、
ブッダが形而上学的議論にかかわらなかったこと
(これを「無記」とか「捨置答」とかいうらしい)
を念頭においておくとよさそう。

仏教って、方法なのだなぁ。

 2011.11.08 Tuesday 08:58 仏教 permalink  
『ブッダの人と思想』(中村元・田辺祥二/大村次郷 写真)

『ブッダの人と思想』(NHKブックス)を読んだ。

前半はただふつうに読んでいたのだが、
途中で「これは付箋をたてたほうがいいな」と感じ、
立て始めたら、後半は付箋林立状態。
こうなると逆に付箋の意味がないかもしれない。
やっぱり流れで読んだほうがいいのだろうな。

やわらかいわかりやすい文章で、
ブッダがどう生きて、何をして、何を語り、
どう老いて、どんなふうに亡くなったのかが
綴られている。

中村元さんいわく
「ブッダのことばをこころの内面からとき明かすように
試みております」とのこと、
まさにそんな1冊になっている。

読み終えたとき、
ブッダも「人間」だったのだなぁ、と思った。
なんだか身近に思えてきた。

2500年も前の、
しかもインドという日本から遠く離れた地で生まれた
ブッダの人生でありながら、
「人間」ってそんなに変わってないのかもなぁ、
なんてことを思ってしまったのだ。
もちろん、そういうふうに語られている、
という面はあるのかもしれないが。

諸行無常であるということはよくよく納得するところであり、
1人の人生もすべての事柄も、
変わらないものは何もないと私も思うのだけれど、
そういう“変わらなさ”の“なさ”とは別の
“変わらなさ”のようなものを感じた。
皮肉な話だ。あるいは、皮肉な話でもないのかもしれない。

そういう“変わらなさ”がなければ、
2010年---ここでこの西暦表記ってどうよ?---
も過ぎた日本で、
小池龍之介の本が売れるということもないのだろう。

そして、宮元啓一『わかる仏教史』で概観したように、
仏教そのものは「地」や「人」に出会って
変化していったのだと思う。
変化していったが、やはりそれは仏教なのだろう。

このあたりのことは本には書いていなくて、
自分で勝手に思ったこと。

ところで、インド人は論理的だというけれど、
ブッダの思想は確かに論理的だと感じる。
と同時に微妙に矛盾を感じるところもあり、
しかし、丁寧に考えていけば矛盾ではないのかもしれない、
とも思える矛盾だったりする。

ブッダは、わからないことには答えなかった、
というのが、なるほど納得だった。
形而上学的問いには関心がなかったらしい。
たとえば「人間は死後も存在するか?」
といった質問には答えなかったらしいのだ。
ブッタに対してこういう評価↓もおこがましいが、
「賢明だなぁ〜」と思う。

 2011.11.05 Saturday 09:13 仏教 permalink  
小さな訂正

1つ前の記事の、娘の幼稚園について。

何より交通の便がよかったことがその理由だが、

自分で書いたのに自分でびっくりしちゃった。

幼稚園なので電車やバスを乗り継ぐはずもなく(^^;
(通園バスはあるとしても)
住まいからの距離の問題です、はい。(訂正済)

 2011.11.03 Thursday 22:07 仏教 permalink