母を送る夏(気持ち篇)
母を送る夏(概要篇)



母の訃報をきいて空港に向かう間、
自分のなかに妙な感情が生じていた。

悔しさと言うと大げさだが、
ある種の″ヤラレタ感″。

それは、母がベストなタイミングで
逝ったことに対して。

姉の仕事が忙しくない時期だったこと。

娘がまだ夏休み中だったこと。

そして、8月上旬に私と娘は母に会えている。

私の仕事も一段落していた。

これがたとえば娘の高校入試の直前だったりしたら、
大変だっただろう。

私の勝手な妄想のなかで
「tataちゃんどうよ?」という
母のドヤ顔が浮かんでくるような気がした。

それが今度はそのまま
自分へのプレッシャーとなる。

私はこんなふうに、
ベストのタイミングで逝けるだろうか?



病院の霊安室で眠る母に会ってから
お葬式のすべてが終わるまで
私が泣いたのは4回くらいだったと記憶している。
(時折、鼻くらいはすすっただろうが)

母との別れを惜しんでというより、
母との別れを惜しむ人のこみあげる悲しみに
感応しての涙だった。

うち2回は、母とつきあいの深かった
教師仲間の方々の悲しみ。

1回は、参列してくださった
老人ホームのスタッフの方の悲しみ。

そして告別式のあとの姉の挨拶中には、
さすがに涙の筋が頬を伝った。

しかし、母の顔を見ても、遺影を見ても、
直接的な悲しみはこみあげてこない。

なぜなのか。

まず、祖母・父のときと違って、
亡くなるまでの数ヶ月を
ともに過ごしていない、
そのことがとても大きいと思った。

それに加えて言えることは、
私は時間をかけて少しずつ、
母とお別れをしてきたということ。

8月上旬に会ったとき、
ずいぶん衰えてきたなとは感じていたものの、
これが最後になるとは思っていなかったので、
急といえば急なことだったのだが、
それでもやはり私は5年ほどかけて、
母とゆっくりお別れをしていったように思う。

晩年、母と私の間では、
いろいろなことがありすぎた。

遺影の母はもういないということを、
私はだいぶ前から知っていた。

さらにもうひとつ、
祖母・父のときと違う事情がある。

それは、私の年齢。

祖母・父のときには、
まだまだこれから生きていくものとして
近しい人との別れを悲しんでいたと思うが、
今回はそんな若さはない。

ぼちぼち自分のことも考えていかないとなぁ…
そんなことを時折思ったのだった。

母に最後にかけたことばは
「ありがとう」だったと思うが、
そのひとつまえ、お棺に花を入れているときに
「いろいろあったけど、まあ引き継いでいくよ」
という言葉が、口をついて出たように記憶している。

なお、私は母に似ているらしく、
何人かの方からそう声をかけられた。

もしかすると棺のなかの母の顔より、
今の私の顔のほうが、
参列した方々が接していた頃の母の面影を
濃く宿していたかもしれない。

何をどう受け継ぐのか自分でもよくわからないが、
すでに受け継ぐともなく受け継いでいるような、
いやおうなく意識せず受け継いでいるような、
そんな気がしている。
 2014.08.30 Saturday 09:04 生と死について考える permalink  
母を送る夏(概要篇)
8月22日深夜、携帯電話の呼び出し音が鳴る。
発信者は母がお世話になっている老人ホーム。

時間帯から考えてただごとではないとわかるが、
ただごとのなさにもいろいろあるわけであり。

約1時間後、最大級のただごとのなさだと確定。

姉と連絡をとりあいながら帰省の準備。
遺影にできそうな写真を選び、
荷物をまとめる。

朝、娘を起こし、空港で姉と合流。

病院で親戚と合流。

霊安室で眠っている母に会えたのは
お昼前後だった。

 なお、このときの病院の対応が、
 その後も、姉と私のなかであとをひくことになる。

実家はもうないので、斎場内にて仮通夜。

葬儀社の対応は完璧。
迅速かつ滞りがなく、説明もわかりやすい。
細やかな気遣いとあたたかさ。



翌日の午前中、
母がお世話になった老人ホームに行き、
いそいで荷物の整理をする。
お葬式のあとでもかまわないとのことだったが、
相談の結果、この日の午前中に行くことにした。

午後、斎場にて「湯灌の儀」。

身体を洗い清めていただき、装束を着て、
口元を整え、お化粧をしていただく。

納棺。

通夜、葬儀・告別式。

葬儀は父のときと同様、神式にて。
 
 というわけで、
 お坊さんではなく宮司さん、
 木魚や磬子ではなく太鼓、
 お経ではなく祭詞、
 焼香ではなく玉串奉奠。
(ちなみにどれも正式名称はよくわからず)

仏式に慣れた方にとっては
少し不思議な雰囲気かもしれない。

そして最後のお別れ。

出棺。

火葬場へ。

祖母のとき、ボタンを押したのは私。
今回、母のボタンを押したのは娘。

いちど式場にもどり、
不浄払いと繰り上げ十日祭。

火葬場にもどり、拾骨。

葬儀場にもどり、お葬式はおわる。



翌日と翌々日は、
市役所での各種手続きのほか、
あれこれ相談。

東京へ。



「気持ち篇」を別に書こうと思っているので
淡々とした書き方になったが、
実際、終わってみれば、
あっというまの4泊5日だった。

一睡もせずに故郷入りして迎えた仮通夜では、
これから先、各種行事を乗り切れるだろうかと
体力的に少し不安だったが、
結局、夜は十分に眠ることができたし、
体調をくずすことなく、
務めを果たせてよかった。
 2014.08.28 Thursday 22:06 生と死について考える permalink  
どの時点での私の意思が、私の意思なのか。

たとえば延命治療拒否願いを
しっかりと書面でつくっておいたけれども、
いざそのときになったら、
やっぱり延命治療をしてほしいと思うことって、
ないだろうか。

その逆も。

しかし、事前に意思表示をしたのは
その段階で十分な意思表示ができない可能性が
高いからであり、
意思表示ができない段になって意思を変えても、
その変更を人に伝えることはできないということになる。

そう考えると、(受け取る側から見た)私の意思は、
すでに表示しているもの、
現在にもっとも近い過去の私の意思ということに
なるのだろうか。

延命治療拒否というような深刻な問題ではなくても、
日常的にこういうことってよくあるような気がする。

「あのときは気が動転していたので、判断力が落ちていた」
とふりかえってみたり、
「いざそのときになって、ようやく自分の本心がわかったよ」
と思ってみたり。

本当の自分の気持ちってなんだろう?



たとえば、いったん安楽死に賛成の意見を出した人が、
しばらくして反対の意見に変えた場合、
どちらがその人の意見になるのだろうか?
いまは反対ならば、それがその人の意見だろう。
では、その人がまた賛成に転じたら?

あんまり短期間に頻繁に2転、3転させると、
その人はもう信用してもらえないかもしれない。
いまはこう言っているけれど、
またすぐ意見が変わるにちがいない、というふうに。

では、意見を変えない人は、
変えないということだけで信用されうるか?

変わらないものだけが、本物であるか?

もし、変わらない意見だけが信用されるとしたら、
意見の交換や話し合い、
議論の意味はなくなってしまうと思う。

人が意見を変えるのは、
新しいことを知ったり、経験したり、
これまでよりも深く納得できる筋道に
出会ったりしたときだと思うけれども、
それを知らなかったり、経験していない自分は、
まだ本当の自分ではないのか?

意見を変えるということは、
自分の考えすべてが変わるということではなく、
自分の中にある確固たる“変わらない”大事なものに、
より近づく作業であるか?

安楽死に賛成でも反対でも、
その大事なものは変わっていないのか?

本当の自分の意見ってなんだろう?



そんなふうに考えていくと、
本当の自分って、
ないのかもしれないと思えてくる。

 2011.09.17 Saturday 07:12 生と死について考える permalink  
発信する身体、受信する身体。
川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
のあとがきに、小泉義之さんという方のお名前が出てくる。
私は以前、まったく別のことで、
ちょっとだけこの方の文章に触れる機会があったので、
「え?」と思ったのだけれど、大きなくくりで見れば、
まったく別のことでもないのかもしれない。

『逝かない身体―ALS的日常を生きる』は、
あるイベントの資料集に収録されている
川口さんの文章がきっかけとなって
企画されたものであるらしいのだが、
川口さんはその文章を、
次の一文に触発されて書いたという。

「病人の闘病の経験、病人における病んだ肉体の経験、
これを心理化することなく、的確に記述する理論と倫理
を獲得する必要がある」
(小泉義之「受肉の善用のための知識―生命倫理批判
序説」より/『現代思想』2003年11月号)

なお、上記の論文名で検索してみると、
おそらく同じ文章からの引用と思われるものが
いくつか書かれてあるページにたどりつくことができる。
果たしてそれは川口有美子さんの抜粋だ。

p85からは、次の部分が抜き出されている。
いまや苦笑をもってしか受け止められない陳腐な言い方になるが、現在の生命科学技術と医療の水準は過去の病人たちの闘病の成果である。そして、現在の病人は、自己の肉体のためだけでなく、将来の病人の肉体のためにも闘病している。病人は、受肉の次元においては、自己のためにではなく、他者のために生きているし、そうならざるをえない。そのような病人たちの肉体の絆を肯定すること、それに見合う仕方で、肉体についての知識探求を始めること、これが生命倫理にとっては「超倫理的」であらざるをえない、受肉の善用のための知識の探求の方向である。

“病人”に限らず、
自己の生の意味を他者と結びつける記述は、多い。

その「他者」とは、
いまをともに生きる他者の場合もあるだろうし、
将来の他者である場合もあるのだろう。

また、特定のだれかである場合もあり、
不特定多数のだれかである場合もあるのだろう。

上記の“善用”という言葉の意味するところは
それなりに幅があるとは思うけれども、
平たくいえば、「役に立つ」と言い換えることが
できるのではなかろうか。
もっといえば、「無意味ではない、無駄ではない」と。

川口有美子さんは、
『逝かない身体―ALS的に地上を生きる』のp182において、

病人のなかには、自分では生きる意味も見出せず、呼吸する動機さえ乏しくなっていく者もいる。しかし、生きる意味は「他者」によって見出されるものでもあろう。
と書いている。

この場合、ある人の生きる意味を見出すのは、
ある人自身ではなく、他者ということになるのだろうか。
つまり、自分の生きる意味は、
他者に見出してもらわなければならない、
ということになるのだろうか。

逆にいえば、ある人が見出せる生きる意味は、
他者の生きる意味なのだろうか。

あるいは、私の生きる意味を
他者が見出してくれていると実感できることが、
私の生きる意味の見出しであるだろうか。

さらにp194においては、
 母の体験も私の苦労も無駄ではなく、誰かの役に立つかもしれない。それなら母もきっと喜んでくれるだろう。
と書いている。
真夜中に友人たちと語りあった
ハイテンションな状況でのこととはいえ、
このような発想は確かに川口さんの中に
生じただろうと思う。
そうして実際、精力的に活動されているように思う。

先日、本からの抜粋を前半後半に分けて示したが、
私のバイアスが思いきりかかっているとはいえ、
やはり前半と後半ではずいぶんと雰囲気が違う。

川口さんが、おかあさんの病気に
---刻々と進行する病状の“変化”そのものに---
慣れていったということもあるだろうけれど、
有美子さんとおかあさんのコミュニケーションは、
有美子さん側の受信の姿勢に
完全に委ねられるようになってからのほうが、
良好になっているように私には思える。

そして、その頃には
---有美子さんが温室で蘭を育てるように
おかあさんを大切にする頃には---
発信と受信の能動性と受動性が逆転している。

母親が娘に細かい注文を出すことは能動的な発信であるが、
有美子さんが母親の身体の声を直接きこうとするとき、
それは能動的な受信であり、
そこに受動的な発信が成立する。

なお、この本についての野崎泰伸さんのレビューの中に、
患者本人は世界を受信することは可能だ。発信こそ困難ではある――最近ではさまざまな工夫、機械と身体との接合によってそれも徐々に可能になりつつある――が、この世界を感受し、重力に身をゆだねながら生きることもそう悪いことではない。

と書いてあるが、
『逝かない身体』の終盤で、
この記述に対応する箇所がある。
(おかあさんがなくなったあと、
有美子さんはおかあさんが寝ていたベッドに寝て、
そこから何が見えるか、何を感じられるかを
追体験している)

しかし、意思疎通のできなくなった
有美子さんのおかあさんが、
本当は何を感じ、何を思って生きていたのか、
それはだれにもわからないと私は思う。

確かなことは、
有美子さんがおかあさんの身体から
直接きいた声があるということ。

つまり私はこの本を、
川口有美子さんのおかあさんの物語としてではなく、
川口有美子さん自身の受信の物語として
読んだように思う。

有美子さんの研ぎ澄まされた感受性、
そして懸命な受信により、
有美子さんのおかあさんの身体からの発信が、
成立したのだと思う。

さらには、その感受性に見合うだけの
表現力をもっていた有美子さんが、
今度は書き言葉を使って自らの体験を
迫力のある1冊の本として発信し、
それを読者である私が受信したのだと思う。



ところで、受信、発信について考えはじめたころ、
受肉という言葉のことは意識していなかったのだけれど、
あらためて考えてみると、
受肉という言葉にも、「受」という文字が含まれている。

さて、では受肉というとき、私たちは、
どこから肉体を受け取ったのだろう。

肉体を受け取る私は、どういう存在なのだろう。
 2011.09.14 Wednesday 08:19 生と死について考える permalink  
人生を人生に刻む、2つの方向。

この記事は、
大津秀一『「死学」 安らかな終末を、緩和医療のすすめ』
を読み終わった頃に書きかけて、
結局書き終われずに未投稿になっていたのだけれど、
やはりいったんこの記事を書いてしまわないと、
先に進めない気がしてきた。

というわけで、話はいったんもどります。



大津秀一さんはこの本の締めの部分で、
「人はその生き方を他者に刻むために生きている」、
私はそう思う、と書いておられた。

きっとそうなんだろうと思う。

もっといえば、“・・・ために生きている”というより、
そこに救いがあり、
生きる意味の拠り所があるのかもしれない。

しかし、そう思ったあとに、
次のような疑念が浮かぶ。

果たして人は、
自分が刻みたかったように、
他者にその人生を刻んでいるのだろうか?と。

あるいはそもそも、刻まれているのだろうか?と。

もしかすると、
刻んでいると自分で思い込んでいるだけかもしれない。

あるいは、
自分が望まない形で刻まれているかもしれない。



そこで今度は、
その「他者」に自分を置いてみる。
つまり、他者の他者である自分について考えてみる。

そして、自分は他者の人生を自分に刻んでいるか?
と自問してみる。

この問いにはYESと答えられそうな気がする。

少なくとも、「刻む」ことよりは「刻まれる」ことのほうが、
確かなものとして感じられる。

ということはやはり、
人はその生き方を他者に刻むことが可能なのだと思えてくる。

だって私は、自分に他者の人生を刻んでいるのだもの。
ならば、私も他者に自分の人生を刻むことは
できるんじゃないかしら・・・ そう思えてくる。

ただし、「どう刻まれているか」は、
あいかわらず確かめることはできない。

人生を人生にどう刻むかの管轄区域は、
刻むほうではなく刻まれるほうに、
かなり突き出しているように思う。

 2011.09.10 Saturday 11:15 生と死について考える permalink  
『日本人の死に時』に出てくるALS患者
久坂部羊『日本人の死に時』にも、
ALS患者が出てくる。
安楽死をめぐっての一節において。

恵子さん(仮名)は、62歳。
発病してから5年。
すでに寝たきりの状態で、
胃ろうから栄養剤を注入していた。

呼吸筋も弱ってきており、
マスクによる補助呼吸器をつけていた。

そんな状態だったので、
病気としてすでに末期の段階であったが、
前向きな気持ちを失わず、懸命に療養していた。

著者が診察をはじめたころは、
10分くらいマスクをはずしていることができていたが、
やがてマスクの補助機能が限界になってくる。

そこで医者(著者)は、気管切開を勧める。
しかし、恵子さんは拒否。

恵子さん夫妻に子どもはおらず、
楽しみは二人で語り合うことだけなので、
気管切開で話ができなくなるのなら、
そこまでして生きたくないというのが、
夫妻の考えだった。

他にもいろいろな意思伝達装置があることを
医者は説明したが、それはすでに知っていて、
十分わかったうえでの決断だった。

気管切開をすれば、
寿命は1年は延びると思われたが、
少しでも長く生きたいという望みを捨てて、
夫婦の会話を楽しめる時間を選んだその決断は
最大限に尊重されるべきものとして、
医者は、工夫をしながら
マスクの補助呼吸で行けるところまで行くことにした。

しかし、病気が進行してきたとき、
もう一度、気管切開を勧めることになる。

だがやはり、恵子さんは拒否。
痰の吸引やむせ込みで、夫の手を煩わせたくないから。

ヘルパーもいるし、
夜中でも世話をしてくれる人はいると医者は説明したが、
恵子さんは黙って首をかすかに振るだけだった。

そのうち呼吸困難に続き、腰痛と関節の痛みが出てくる。
身体をまったく動かせないので、
耐え難いだるさと痛みに襲われる。
モルヒネで痛みを抑えるが、
身の置きどころのないようなだるさは消えず、
寝返りをするにも関節が拘縮してリラックスできない。
マッサージも無効、
モルヒネの副作用で吐き気にも襲われ、
便秘や口内炎も起こる。

そして12月のある日、最後の力が尽きたように、
恵子さんは医者に安楽死を頼む。
(なお、安楽死という言葉は使っていない)

「自分では、なかなか、死ねない」という
恵子さんの手首には、深いリストカットの傷跡。

有効な治療は何一つしていない無力感、
申し訳なさ、目の前で苦しんでいる恵子さんの現実、
想像するだけで身も縮むような肉体的苦痛・・・

しかし、医者は決断できなかった。

「先生なら、やってくれると、思うたんやけど」
という言葉が、医者を動揺させ、誘惑する。

そして、モルヒネで痛みを抑えるとともに、
強い睡眠薬を加えることを提案し、
呼吸抑制が起こって最悪の場合は
それで命を落とす危険もあると説明すると、
それでもいいからと夫妻は承諾した。

強い睡眠剤により、恵子さんの意識をなくすことができ、
しばらく穏やかな日々が続く。

年末年始をへて1週間ぶりの診察にいくと、
恵子さんは意外なほど明るい声で、
「お正月は、睡眠薬、なしで、主人と、ゆっくり、話ができた」
と語った。

明るいリビングで、夫と最高の時間を過ごしたようだった。

このとき医者は、あのとき安楽死を実行しなくて
ほんとうによかったと強く思う。


ドラマや新聞記事ならここで話は終わるだろう。


しかし、現実は終わらない。


恵子さんが亡くなったのは、
それから三ヵ月後だった。

三ヵ月間の、苦しみ、懊悩、筆舌に尽くしがたい悲惨。

睡眠薬が効かなくなり、痛みが増大し、
意識があるともないともつかない朦朧状態で、
吐き気とだるさに苛まれる。

医者は懸命に緩和医療に努めながら、
安楽死の誘惑と戦う。

なんとかがんばれば、もう一度、
あの正月のようないい時間が得られるのではないか、
その空しい希望だけが安楽死を止めていた。

結果、恵子さんは朦朧状態のまま、息を引き取る。

すべてが終わってから、
疲れ果てた頭で医者はぼんやりと思う。

最後のつらく長い苦しみは、
正月三が日の喜びに見合うものだったのだろうか、と。

こんな残酷な苦しみしか残っていなかったのなら、
いっそ12月のあのときに、
安楽死を実行したほうがよかったのではないか、と。

答えは今もわからないと、
著者は語っている。
 2011.09.07 Wednesday 16:39 生と死について考える permalink  
補足

川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』において、

自力で歩けなくなり、寝返りがうてなくなり、
呼吸筋も衰え、やがてまぶたや眼球も動かせなくなる。

と書きましたが、
ウィキペディアの筋萎縮性側索硬化症の説明には、

ただし、人工呼吸器による延命でさらに病態が進むと、眼球運動障害などが現れることもある。

とあります。

ということは、人工呼吸器で延命をした場合に限って、
眼球を動かせなくなることがある、
ということなのかもしれません。

呼吸筋が衰える前に眼球運動障害は起きず、
人工呼吸器を使わない患者さんが、
眼球運動障害を経験するということは
ほとんどないということなのかな・・・?
(もしかすると、まったく?)

逆に言えば、
眼球を動かせなくなったALS患者は、
かなりよくケアをされている、
ということも言えるのかもしれません。

なお、川口有美子さんのおかあさんの病状は、
進行がはやかったようです。

 2011.09.06 Tuesday 15:08 生と死について考える permalink  
『逝かない身体―ALS的日常を生きる』からの抜粋(後半)

川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
の後半から。

(p136)
 誰もそばにおらず数分ほど時間が経過してから母の顔を覗き込んでみると、いく筋も涙を流した形跡があったりする。この涙が心理的なもので何かを訴えているのか、それとも生理的な欲求なのか、身体のどこかが痛かったり痒かったり動かしてもらいたかったりすることの訴えなのかは、親しい介護者でなければわからない。患者のすべては受け取り側の感受性に委ねられているのである。

(p182)
 病人のなかには、自分では生きる意味も見出せず、呼吸する動機さえ乏しくなっていく者もいる。しかし、生きる意味は「他者」によって見出されるものでもあろう。

(p194)
 学園祭の企画をしているみたいに三人とも元気になり、深夜のせいなのかハイになっていた。母の体験も私の苦労も無駄ではなく、誰かの役に立つかもしれない。それなら母もきっと喜んでくれるだろう。
 こうして真夜中のデニーズでの作戦会議は、娘の私が母の代わりに社会的なアクションを起こせば?という結論に至ったのであった。
(tata注:著者が友人たちと会ったときの話)

(p221)
 家族が患者を看るのではなくて、患者が家族を支えているというのである。最近の橋本さんは、「生きる義務」という言葉を多用するようになってきた。
(tata注:橋本さんというのは、自由気ままな療養生活をしているALS患者として世界的に有名な人であるらしい。)

(p222)
 初代都立神経病院院長であった故椿忠雄先生は、次のような文章を残しておられる。

患者さんの書かれたものに「過去に比べるといつでも今が最悪ですから、おそらく将来に対しては、いつでも今が最善ということですが、つまり現在は最悪と最善の接点ということになります」という言葉があります。この考え方は、なかなか私たちには出てこない。だんだん悪くなり、昨日より今日が悪い、今日より明日が悪い、だから今日の方が明日より幸福だと。毎日毎日が幸福の、つまり先と比べれば、幸福の連続にある。こういった風な考え方は、やはり健康な者にはわからないということをつくづく感じるわけです。[大宮溥『きょうを生きる言葉一日一篇』より]

(p228)
 自分の介護を、家族、特にわが娘にさせたくないという女性患者が多いのは、介護は娘の、特に所得のない未婚の娘の仕事であるとされてしまうことが多いからだ。社会が、というよりもむしろ狭い家族という親密な間柄で、無償の仕事は自動的にもっとも弱い立場の女性に分担されてしまう。

(tata注:私が付箋を立てたのは上記引用部分なのだけれど、ちなみにこのあと次のような一節が続く。)

 しかしまた、そのように案じる母親患者の想いの外で、娘たちは病んだ母親を守護神のように思っていたりする。たとえどんなに弱々しい存在になってしまったとしても、母親の生存の事実だけがとても大切なのだ。

(引用終わり)

 2011.09.05 Monday 09:39 生と死について考える permalink  
『逝かない身体―ALS的日常を生きる』からの抜粋(前半)
川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
を読むときに、めずらしく付箋を立てながら読んだ。
読み終わったとき、付箋林立状態。
自分はこの「物語」の何にハっとしたのか、順に抜き出してみる。

(p35)
「命がいちばん大事」と何度も念を押されて育てられたのに。ALSに罹ったとたん「自分は別」では矛盾が生じてしまうではないか。

(p47)
 こうして思い返してみると、母は口では死にたいと言い、ALSを患った心身のつらさはわかってほしかったのだが、死んでいくことには同意してほしくはなかったのである。

(p56)
 私はその瞼の皮膚から、アルミニウムの小片とピンセンサーをそっとはがして、電気コードと一緒に丸めてベッド脇のタンスの引き出しにしまった。完全な敗北感で満たされ、私は母のベッドにうつぶせになり声をあげて泣いた。母の閉じた瞼のあいだからも、幾重にも涙の筋が流れ落ちていた。
(tata注:意思伝達装置の装着についての一場面。このとき著者の母親は瞼を1ミリも動かせなくなっていた。しかし母親は、涙を幾重にも流すという感情表現ができていると私は思った。)

(p59)
母の細かい注文に対応するのに忙しい私は近くの商店街での短い買い物さえも許されず、たとえ息子がインフルエンザにかかり高熱に苦しんでいようと、母を置いて小児科医に連れて行くことさえできなかった。
 家族に対するこのような極度の依存性は、母の人格が崩壊したかのように感じられ、あの気丈な母とこの病人が同一人物などとは信じられないほどであった。そして、いつの間にか晃と母とは私を奪い合っているような状況になったが、いつも母が優先されたので、この子はいつかおばあちゃんに間接的に殺されるだろうと覚悟を決めたのである。

(p60)
 重度障害者としての生き方を母は学びはじめていた。私たちになされるままになることに徹底的に抵抗を示すことで、ケアの主体の在り処を教えてくれていたのである。これも今だからこそ本当によく理解できるのだが、あのときは自分勝手ばかりいう母が許せなかったし、母のわがままとしか思えなかった。

(p64)
 そんなときに、高元先生から神谷美恵子の本をいただいたのである。私は読書によって癒され、貴重な言葉をどのページにも発見した。
「自分のほんとうにしたいこと、ほんとうにしなければならないと思うことだけすればいい」
 そんな一節があった。そう言われれば、私には介護を始める前にも、自分がしたいことなど見つかっていなかったことに気がついた。

(p65)
 長生きのALS患者は、自己愛と存在の絶対的肯定によって支えられていた。

(p66)
 もっとも重要な変化は、私が病人に期待しなくなったことだ。治ればよいがこのまま治らなくても長く居てくれればよいと思えるようになり、そのころから病身の母に私こそが「見守られている」という感覚が生まれ、それは日に日に重要な意味をもちだしていた。

(p78)
[テレパシーの訓練]
(tata注:著者たちは、母親がどこもまったく動かせなくなる最終的な局面に備えて、テレパシーの訓練をしたこともあった。)

(p80)
 このころの母は、少しでも気に入らないことがあると烈火のごとく怒り出した。心穏やかに療養するのが心身にとって良いことだから誰も恨んではいけないと宣教師も主治医も諭したが、母はいつでも特定できる誰かを敵視していた。身動きできないジレンマからか、過去の人間関係のいざこざを思い出しては、自分が病気になったのもそのときのストレスが主因であるかのように特定していた。

(p98)
「自分で呼吸器つけないって決めなかったのだから自業自得なのよ」と。
 それを聞いた母は目を瞑ったまま涙を流していたが、今さらそんなことを言っている私に対して、ひどく憤慨しているようにも見えた。
 またあるとき、母の枕辺で懺悔するように「ごめんなさい」と言ったのは、母を励まして呼吸器の装着を勧めた中村先生だった。

(p113)
 それでも長い時間をかけて彼らの身体に集中し、微細な動きと対話を繰り返すうちに、すぐさま調整できるようになる。心はいつも彼らの言葉を聞き、いつ何時もその顔を見ながら、身体から学びながらおこなう。以心伝心のケアである。
 身体介護は皮膚に直接接触するから、計測した数値の分析などよりもはるかに情報量が多い。それに、個々の身体は異なった情報に満ちている。

(p128)
ALSの人はみずからの身体をどうしたら健康で安全に維持できるかを学び直し、主体的に介護者を使いこなして初めて地域で暮らせるようになるが、障害者運動の活動家たちはこのようなことをこそ「自立」と呼んできたのである。なんでも自分一人でできることを「自立」と呼ぶ健常者の定義とは一八〇度異なる解釈だ。

(つづく)
 2011.09.03 Saturday 09:02 生と死について考える permalink  
川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
を読んだ。

柳澤桂子『いのちと放射能』に対する
批判的なレビューをきっかけとして知った本()。

なお、「反原発の論理に潜む優生思想」と題した
この批判的なレビューは、
野崎泰伸さんという方が書かれているのだが、
この方は、障害学研究を専門とする、
立命館大学非常勤講師の方だとわかった。
(同姓同名でないのならば)

ALSというのは、
筋萎縮性側索硬化症の略称であり、
これは筋力がしだいに衰えていく病気であるという。
自力で歩けなくなり、寝返りがうてなくなり、
呼吸筋も衰え、やがてまぶたや眼球も動かせなくなる。
(>補足

最近読む本によく出てくるので、
珍しい病気という感覚がなくなっていたのだけれど、
ウィキペディアによると、発症率は、
1年間に人口10万人当たり1〜2人程度とのこと。
個人的には、好発年齢が40〜60代というところが、
考え込みどころになっている。

川口さんの本を読みながら最初に感じたのは、
家族関係についてのやるせなさだった。
特に、著者の世帯(夫、子ども)について。

途中からは、夫や子どもの話はほとんど出てこなくなり、
介護の日々の詳細な記録に入っていく。
私はただ本を読んでいるだけなのに、
なんだかへとへとになった。

そうして後半は、「身体」ってなんだろう?という、
根源的な問いに立ち戻っていく思いがした。

ここのところ生きることを、
「私の生き方」といったような、
“意思”と不可分で考えていた自分にとって、
この根源的な問いは新鮮だった。

心身二元論とか、そういった哲学の問題も超えて、
あるいは哲学の問題以前に、
著者の目の前に確かに生きている身体があり、
私も著者を通してその身体に接した。

こういう「生」の在り方もあるのか、としみじみ思った。

私がこの本を知るきっかけをつくってくださった方、
つまり柳澤桂子『いのちと放射能』に
批判的なレビューを書いている野崎泰伸さんの主張を
ひとことで言うならば、
「生の無条件の肯定」ということになるかと思う。

その後、また別の本も読みながら思うことは、
人間の生き死には、
当人だけの問題ではない、
もっといえば、当人の問題ではないかもしれない、
ということだ。

自分の意思に沿うような形で
人生を終わらせることに関心を持っていた私は、
途方に暮れてしまうというか、
ある種の無力感のようなものさえ感じている。

どんな痛みも、苦しみも、絶望感も、
こういうふうに人生を閉じたいという希望も、
死を肯定する理由にはならず、
生を否定する理由にはならない。
そもそも、生きる意味を自分では定義できない。

いかなる状況であろうとも、年齢であろうとも、
人は、可能な限り生き続けなければならないのだろうか。

いついかなるときも、「命がいちばん大事」であるか。

自殺を考えている10代の若者に対して思うことと、
延命治療拒否を考えている80代の老人に対して思うことが、
異なっているのは、矛盾しているのだろうか。

いろいろと考え込んでいる。
 2011.09.02 Friday 11:53 生と死について考える permalink