大内さんの被曝治療を通して考えた、免疫力のこと
『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録―』(新潮文庫)
に綴られている、
大内さんの被曝した身体の状態の記述で
最も衝撃的だったのは、
ばらばらに破壊されて同定できない染色体の写真だった。

染色体がばらばらに破壊されたということは、
今後新しい細胞は作られないことを意味する。

たった零コンマ何秒かの瞬間に、
すべての臓器が運命づけられる。

放射線被曝というのはそういうものなのだと、
しみじみ感じた。
[補足] もちろん一言で放射線被曝といっても
    いろいろなレベルがあるかと思う。
    大内さんの場合、
    20シーベルト前後の放射線を浴びたと
    推定されているよう。
   (ミリシーベルトではなく、シーベルト)
    ものすごい量。

染色体が破壊されたことによって
大内さんの体に最初に異常が現われたのは、
血液の細胞だった。

なかでも白血球への影響は深刻で、
白血球のなかで重要な働きをするリンパ球は、
被曝数日後にはまったくなくなったという。
白血球全体も急激に減少していた。

したがって、大内さんは体の抵抗力(免疫力)を、
ほとんどなくした状態になってしまっており、
健康な人であれば問題のない
ウィルスや細菌などが異常に増える
「日和見感染」を起こしやすい、
きわめて危険な状態に陥っていた。

大内さんを感染症から守るためには、
一刻も早く体に入り込んだ細菌やウィルス、
真菌(カビ)を見つけて、
体の中で増えないうちに薬を投与する必要がある。

しかし、大内さんの体にはリンパ球がないので、
「抗体検査」ができない。

もう1つ、PCR(「核酸増幅検査」)という方法があり、
これはウィルスの核酸を特殊な装置で増やす検査だが、
結果が出るのに数日かかるので、
感染が見つかっても手遅れになる恐れがある。

そこで導入されたのが、1ヶ月あまり前に完成された
「リアルタイムPCR」という機器だった。
原理的にはPCRと同じ仕組みだけれども、
DNAが増えていく様子を
リアルタイムで追跡することができる。

また、検出用の「プライマー」
(検出したいウィルスやカビなどのDNAと結合する塩基)
も工夫した。

そんなふうにして無菌治療部の担当チームは、
5種類のウィルスと2種類のカビを監視することにした。

私がこれらの記述を読んで感じたことは、
大内さんの体に大変なことが起こっている、
ということと同時に、
人間の体って、もともとなんてすごいんだろう、
ということだった。
さらには、私たちが生きている環境には、
なんと敵が多いのだろう、ということ。

人工呼吸器や胃ろうのことを考えるときは、
生命維持のために必要な事として、
呼吸や栄養補給のことに気持ちが向かうのだが、
それは、生き物が生きていくために、
必要なものを取り入れるという発想だ。
しかし、生きていくためにはそれだけではなくて、
敵から身をまもらなければならない。

生きていくというのは、なんというすごい作業なのだろう。

実は、ついこのあいだ映画「ライフ」を観に行って、
本編は面白かったのだが、
最後のまとめにちょっと残念なものを感じてしまった私。
こうまとめるしかないのだろうなぁ・・・とは思ったが、
そこにある「ライフ」に、
人間の“ライフ”は含まれていないのではなかろうか、
という気がした。
そして、含まれていないこそのこと自体よりも、
そこを意識できているかどうかが気になった。
(まあ、それを求める映画でもないとは思うが、
人生変わるかな?という気持ちをもって観にいった私は、
ついつい贅沢になってしまったのだった)

でも、上記のような免疫の話をきくと、
人間の体だって、生きようとしている、
生き抜こうとしているじゃないか、と思えてくる。

必要なものを取り入れようとし、
自分の身に害を及ぼすおそれのある敵と戦いつつ、
その緊張感のもとで命をつないでいる。

その営みに、私の「意思」は関与できているか?

自己と他者、医療の発展と過剰医療、
老いと寿命、病気、障害、
安楽死と延命治療拒否の問題などについて考えていると、
「自然ってなんだろう?」ということと、
「いろいろなものの線引きはどこにあるのだろう?」
というところに考えはいきついて、袋小路にはまる。

そうして思う。

生きていくのには覚悟がいる、と。

その覚悟を、どんなふうにもてばいいのか?

以前、別のブログの、
姜 尚中 『悩む力』---「老い」について
という記事において、こんなことを書いたことがある。
 最近、思うんですよね。「老い」をなめちゃいかんのじゃなかろうかって。食習慣や医療や文化が変わっても、人間の身体そのものの生物的な耐性は、それに見合うほどは変わらないのではないのだろうかって。その結果、かなり身体に無理をさせて、私たちは老いを生きることになるのではなかろうかって。
ALS患者の生き方や、
大内さんの被曝治療の話をきくと、
人間は、身体そのものの生物的な耐性は
変化させることはできないが、
その耐性を、身体の外部にもつことはできるのかもしれない、
と思えてくる。
 2011.09.22 Thursday 11:26 放射線関連 permalink  
大内さんの一周忌のあと、妻から医師に届いた手紙

『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録―』(新潮文庫)
の最後の部分、大内さんが亡くなったあとのところを
読み直している。

大内さんの死から1年が過ぎたころ、
治療を担当した医師のもとに、
大内さんの妻から手紙が届いた。

無事一周忌の法要をすませたことや、
大内さんの実家を出て息子さんと二人で
暮らすようになったことなどを報告したあと、
手紙にはこう綴られていたという。
(ルビ省略)

「事故以来、ずっと思うことは、自分勝手と言われるかもしれませんが、例え、あの事故を教訓に、二度と同じような不幸な事故が起きない安全な日々が訪れたとしても、逝ってしまった人達は戻って来ることはありません。逝ってしまった人達に“今度”はありません。
 とても悲観的な考えなのかも知れませんが、原子力というものに、どうしても拘わらなければならない環境にある以上、また同じような事故は起きるのではないでしょうか。所詮、人間のする事だから・・・・・・という不信感は消えません。
 それならば、原子力に携わる人達が自分達自身を守ることができないのならば、むしろ、主人達が命を削りながら教えていった医療の分野でこそ、同じような不幸な犠牲者を今度こそ救ってあげられるよう、祈ってやみません」
 2011.09.20 Tuesday 12:46 放射線関連 permalink  
東海村臨海事故で亡くなった大内さんの遺体から、司法解剖を担当した医師がきいた声
久しぶりに、NHK「東海村臨界事故」取材班による
『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録―』(新潮文庫)
を開いている。

東海村臨界事故による被曝で亡くなった大内さんの遺体は、
検察官の指揮下で司法解剖がおこなわれた。

担当した医師は、
これまで3000体余りの遺体を解剖してきたが、
大内さんの遺体を見たとき、
驚きを隠すことができなかったという。

正面から一見すると真っ赤に火傷をしたような状態だったが、
全身が真っ黒になった焼死体とは違っていて、
放射線が当たったと思われる体の全面だけが
ひどい火傷のような状態になっていた。
皮膚の表面が全部失われ、血がにじんでいた。
背面はあくまでも白く、正常な皮膚のように見えた。
放射線が当たったところと、
そうでないところの境界がくっきりと分かれていた。
このような遺体を見たのは初めてだったという。

臓器の変化もいままでに見たことのないものだった。
腸はふくらんで大蛇がのたうちまわっているように見えた。
胃には2040g、腸には2680gの血液がたまっていた。
また、体の粘膜という粘膜が失われ、
腸などの消化管粘膜のみならず気管の粘膜もなくなっていた。
骨髄にあるはずの造血幹細胞もほとんど見あたらなかった。

担当医師がもっとも驚いたのが、筋肉の細胞だった。
通常、筋肉の細胞は、
放射線の影響をもっとも受けにくいとされているが、
大内さんの細胞は繊維がほとんど失われ、
細胞膜しか残っていなかった。

そのなかで一つだけ、筋肉細胞が鮮やかに赤く、
きれいに残っていた臓器があった。

心臓。

心臓の筋肉だけは、放射線に破壊されていなかった。

担当医師は、後にこのことを振り返って、
次のように語っているという。
(かなり長くなりますが、そのまま引用します。
 ルビ省略→匂(にお)い)

「どうして心臓だけが、しっかりとした筋肉を保ちつづけ、他の筋肉細胞は破壊されたのか、文献を調べても臨床医たちと議論しても、その理由はわからなかったんです。放射線の影響なのか、それとも被曝治療に使われた薬剤の影響なのか。結論はいまだに出ていません。
 ただ、私には、大内さんが自己主張をしているような気がしました。
 大内さんにかぎったことでなく、亡くなった方はいつも、自分の意思に反して解剖されます。だれも解剖されることはおろか、亡くなることさえ望んでいなかった、予想もしていなかったはずなんです。それを、いわば国家権力によって解剖するのが、自分の仕事である司法解剖だと私は常々思っています。
 だからこそ、ご遺体が何を言いたいのか、その声を聞き取らなければならない。それは自分たち解剖医にしかできないことなんです。集中力をもって観察し、記録することで、その人の声に必死で耳を傾けるのが私たちの仕事だと思っています。
 大内さんの痛々しい臓器の状態から、ああ、大内さんは一生懸命生きてきたんだな、本当にがんばってきたんだな、と感じました。
 そのなかで、一つ鮮やかに残っていた心臓からは「生きつづけたい」という大内さんのメッセージを聞いた気がしました。心臓は、大内さんの「生きたい」という意志のおかげで、放射線による変化を受けずに動きつづけてこられたのではないかという気さえしました。
 もう一つ、大内さんが訴えていたような気がしたことがあります。
 それは放射線が目に見えない、匂いもない、普段、多くの人が危険だとは実感していないということです。そういうもののために、自分はこんなになっちゃったよ、なんでこんなに変わらなければならないの、若いのになぜ死んでいかなければならないの、みんなに考えてほしいよ。
 心臓を見ながら、大内さんがそう訴えているとしか思えませんでした」
 鑑定人として、通常は解剖の詳細を語ることはできない。しかし、三澤は自分が大内の遺体から聞き取った声を、可能なかぎり社会に伝えなければならないと思った。
 2011.09.19 Monday 12:42 放射線関連 permalink  
柳澤桂子『いのちと放射能』が、サリドマイド事件の話から始まる意味
柳澤桂子『いのちと放射能』の「はじめに」は、
次のように始まる。

 原子力発電に対する反対運動が盛り上がりを見せていることをたいへんうれしく思います。いろいろなものを読んでみますと、私たちは何も知らされていなかった、だまされていたのだという感をぬぐいきれません。
 けれども、もし、私が経済産業省のお役人だったら、あるいは電力会社の幹部だったらこの問題を阻止できたかどうかと考え込んでしまいました。
そして話は、サリドマイド事件へと移る。

サリドマイドは1957年に西ドイツで発売された薬で、
日本では1958〜1962年に販売されている。
妊婦さんが飲むと重症の奇形児が生まれることがあり、
大きな社会問題になった。

私はサリドマイド訴訟の和解のニュースを
テレビで見た記憶があるのだけれど、
今回調べてみたら1974年とのこと。
もう少し大きくなってからだと思っていたが、
10才の頃だったらしい。

柳澤桂子さんがサリドマイド事件の話を出したのは、
アメリカの「ケルシー女史」の話をしたかったからだと思う。

ケルシー女史というのは、
アメリカのFDA(食品医薬品局)の審査官、
フランシス・ケルシーのこと。
FDAは日本で言えば厚生労働省にあたるような機関らしい。

1960年に、アメリカでも、
薬の販売会社がサリドマイドの販売許可を国に求めたが、
ケルシーはドイツで発表されていた論文を読み、
「この薬はおかしい」と直感して、
「あやしいものは許可しない」という信念をつらぬいたそう。

ウィキペディアによると、ケルシーの判断に対しては、
サリドマイド製造業者からの圧力があったらしい。
しかしケルシーは屈しなかった。

当時、まだサリドマイドと奇形との関連性はよくわかっておらず、
ヨーロッパとアフリカの20カ国で認可されていたそうだが
(そして日本でもすでに販売されていた)
にもかかわらずケルシーはこの薬物の認可を保留して、
さらなる治験を求めた。

そのおかげで、アメリカでは被害者がひとりも出なかったという。
(ただしウィキペディアによると、
 治験段階で数名の被害者が出たとある)

柳澤さんは、ケルシーの正義感の強さと勇敢さを伝えたくて、
この話を冒頭にもってきたのだと私は思う。
 誰もがケルシー女史のように正義感強く、勇敢になれるとよいのですが、私自身、まったく自信がありません。(中略)
 原子力問題においても、この人間の弱さがいちばん問題なのではないでしょうか。大きな組織に組み込まれると、個人の意志とは関係なく、不本意な動きをさせられてしまうことがあります。
そうしてこのあと、
「原子力問題でいちばんの悪者はいったい誰なのでしょう。」
という、例のフレーズ()が続くのだった。

ケルシーは、勇敢であるだけでなく、勉強家でもあった。
だから、外国の文献をきちんと読み、
正しい勘を働かせることができた。
(ということが、上記引用部分“中略”のところに書いてある)

ケルシーはまず何よりも、自分を信じたのではなかろうか。

まだ因果関係ははっきりとわかってはいなくても、
ケルシーの専門知識をもってして外国の文献を読めば、
その「あやしさ」をつかみとることができたのだろう。

他国で許可・販売されているという事実ではなく、
「この薬はあやしい」という自分の勘を信じたことが、
国の機関でひとつの役割を務める一専門家としての、
勇敢な判断・行動につながったのだと思う。

(つづく)
 2011.07.23 Saturday 08:29 放射線関連 permalink  
柳澤桂子『いのちと放射能』のAmazonレビューに考え込む (4)/いのちの自由

柳澤桂子『いのちと放射能』に対する
Amazonのレビューのうち、
「反原発の論理に潜む優生思想」
というタイトルがついた評価について考え込んでいる。

1つ前の記事の最後で、
「生のありようを変えられてしまうのはだれなのか。」
と書いたが、その答えはすでにレビューの中にある。

「すべてのいのちの自由を原発は奪い去る」と。

つまり原発は、私たちの社会の利便性という都合によって、
私をふくむすべてのいのちの自由を奪い去るもの、
ということになる。

「すべて」が言いすぎだとしたら、
次のように言い換えてもいいのかもしれない。

放射能は、空間的にも時間的にも、
他に類をみないスケールで、
いのちの自由を奪い去るものである、と。

まさにそのことを、
柳澤桂子さんは伝えようとしているのではなかろうか。
DNAを拠り所にして。
そして、特に時間的スケールの深刻さを
訴えておられるように思う。
もちろん、時間的スケールは、
空間的スケールとも連動する。

つまり、私たちは、すべてのいのちのありようを、
否応なしに“変えて”しまう、そのことをこそ、
自己批判しなければならないのではなかろうか。

自分たちの利便性(という名の無駄)が原因で、
若年層の発ガン率があがったり、流産率があがったり、
子どもに障害が出る率があがったりしたとき、
たとえその因果関係が証明できないとしても、
「それも運命。病気や障害はマイナスではないよ。
その身体を生き抜こう」と、私は言えない。
(レビューを書いた人がそう言っているということでは
ありません)
問題は数(率)ではないとしても()。

もう一度、柳澤桂子さんの、あの言葉をかみしめてみる。
 

 原子力問題でいちばんの悪者はいったい誰なのでしょう。
 原子力を発見した科学者でしょうか。
 原子力発電を考案した人でしょうか。
 それを使おうとした電力会社でしょうか。
 それを許可した国でしょうか。
 そのおそろしさに気づかなかっった国民でしょうか。
 そのように考えてきて、私はふと、私がいちばん悪かったのではないかと気がつき、りつ然としました。
 私は放射線が人体にどのような影響をおよぼすかをよく知っていました。
 放射能廃棄物の捨て場が問題になっていることも知っていました。
 けれども、原子力発電のおそろしさについては私はあまりにも無知でした。
 たしかに各国の政府は原子力発電が安全なものであると宣伝しました。けれども私もこの歳まで生きて、政治というものがどういうものか知らなかったとはいえません。
(中略)
 本当はもう遅いのかもしれません。でも過去の過ちを悔いていてもしかたがありません。いま私がすべきであると思うことにすべてをかけてみるしかありません。
「いまからでも、おそくない」と信じて。


(つづく)
 2011.07.21 Thursday 09:56 放射線関連 permalink  
柳澤桂子『いのちと放射能』のAmazonレビューに考え込む (3)/PPKはファシズムか?
柳澤桂子『いのちの放射能』に対する
Amazonのレビューのうち、
「反原発の論理に潜む優生思想」
というタイトルがついた評価について考え込んでいる。

前回は、出生診断のこと、
つまり出生時のことについて考えたが、
今度はPPK(ピンピンコロリ)、
つまり老い方、人生の終わり方に関連させて考えてみたい。

PPK(ピンピンコロリ)というのは、
ピンピンと元気に老いて、寝つかずにコロリと死ぬという、
理想の老い方・死に方を表すキャッチフレーズであり、
平均寿命が長くて老人の医療費が全国でいちばん低い
長野県で生まれた言葉とのこと。
1990年代後半頃から全国的にひろまったそう。

このPPK運動に対して、
社会学者の上野千鶴子は、
「ファシズムだ」という発言をしている。

上野千鶴子は、PPK運動ときくと、ある婦人会が
「障害児を生まないように、丈夫で元気な子どもを産みましょう」
と唱和していたというエピソードを思い出すそう。
 (以前書いた自分の記事からそのまま引用したのだけれど、
  漢字の使い方や文章がヘンだから、
  写しまちがいかもしれないな・・・。確認しなくちゃ。)

上野千鶴子は、『おひとりさまの老後』(法研)にこう書いている。
少しでも社会のお荷物になりそうなもの、規格はずれの異物を排除しようというこの「人間の品質管理」の思想が、ファシズムでなくてなんだっ、と感じたのだ。それ以来、わたしはことあるごとにPPK撲滅をうったえているのだが、いっこうにPPK主義者はなくなりそうもない。
これについては以前、
PPK(ピンピンコロリ)はファシズムであるか? (1)
PPK(ピンピンコロリ)はファシズムであるか? (2)
という記事を書いた。

老人の医療費をおさえるために、
PPKを普及させたり促進したりするのであれば、
確かにそれはファシズムといってもいいのかもしれない。

婦人会の唱和も、
ひとりの妊婦さんが「妊娠中だから風邪薬飲むのやめとこう」
と思う場合とは違い、それが運動であるならば、
やはりファシズムかもしれない。

しかし、自分はPPKで終わりたいと思っている個人も、
その時点でファシストなのだろうか?

あるいは、エゴイストなのだろうか?

上野千鶴子の言う
「社会のお荷物、規格はずれの異物」という言葉は、
Amazonのレビューにある
「マイナスの価値を社会から与えられてしまう」
の「マイナスの価値」とは少し意味が違うようだけれど、
だとしても、
どちらにも「社会」という言葉が含まれている点では、
共通している。

こういうときの「社会」って、一体なんだろう。

その「社会」の中に、上野千鶴子や、
レビューを書いた方は入っているだろうか?

私は入っているだろうか?

当然、みんな入っているだろう。

だれも「社会」からのがれることはできない。

「反原発の論理に潜む優生思想」
というレビューを書いた方は、
次のように主張している。

私は、原発反対である。その根拠は、すべてのいのちの自由を原発は奪い去るからである。また、私たちの社会の利便性という都合によって、「障害者にさせられてしまう」こと、つまり、「生のありようが否応なしに変えられてしまう」ことをこそ批判しなければならない。それは、論理的には障害がマイナスの価値だということを意味しない。

この文章の中の2番目の一文には、
社会に“私たちの”という言葉がそえられたあと、
「させられてしまう」「変えられてしまう」
という受動態のフレーズが続く。

そうさせられてしまうのはだれなのか。
生のありようを変えられてしまうのはだれなのか。

(つづく)
 2011.07.17 Sunday 08:22 放射線関連 permalink  
柳澤桂子『いのちと放射能』のAmazonレビューに考え込む (2)/出生前診断と優生思想
柳澤桂子『いのちの放射能』に対する
Amazonのレビューのうち、
「反原発の論理に潜む優生思想」
というタイトルがついた評価について、考え込んでいる。
実際に柳澤桂子さんがどのような書き方をしているかは、
あとでみていこうと思う。

私が「優生思想」という言葉をきいてまず思い出すのは、
出生前診断のことだ。

以前も書いたように、私は妊娠初期に、
トリプルマーカー検査という、確率による出生前診断を受けた。

胎児がダウン症や18トリソミー、神経管奇形などの
病気をもっているかどうかの確率を、
血液をもとに調べるもの。

経緯については、別ブログに詳しく書いている。

   TETRA'S MATH
   >確率による出生前診断・12345

そんな検査を受ける私は、
優生思想の持ち主なのだろうか。

優生思想を
社会的なものではなく個人レベルで考えようとすると、
どう考えていいものか難しいものはあるが、
少なくとも私は「わが子に障害や病気があってほしくない」
と願っていたのは確かだ。

確率が高くても羊水検査は受けないという、
例外的な受け方をしたとはいえ、
わが子に障害があるかもしれないことを
意識しない、苦にしないのであれば、
そんな検査は受けなかっただろう。

あのとき、2つめの産婦人科(実際に出産した病院)で、
「羊水検査で病気があるとわかった場合
人工妊娠中絶する人もいるのかどうか」をきいたとき、
医師は「18トリソミー」の例をあげたと記憶している。

18トリソミーは生存率が低く、
生後まもない時期にほとんど死亡してしまうので、
それだとあまりも負担が大きいということで、
人工妊娠中絶される方もいる、
というようなお話だった。
どういうふうに負担が大きいのかは詳しくきかなかったが、
いろいろな意味での負担をさしているのだろう。

トリプルマーカー検査について悩んでいたこのときと、
それから数年後に2人目の子どもがほしくて
あれこれ調べていたときに、
関連サイトや妊娠関連の掲示板を読み、
いろいろな女性の声を知った。

障害があるとわかった上で出産すると決めた夫婦もいたし、
病気があるとわかったので
人工妊娠中絶をするときめた夫婦もいた。

障害についてのいろいろな意見をきくなかで、
とても強烈なフレーズがあったのを記憶している。
反優生思想の極論に対する反論のようなもので、
正確な表現は覚えていないのだけれど、
障害が不幸ではないということを強調するあまり、
まるで一家庭にひとりはダウン症の子どもがいたほうがいい、
といわんばかりの極論になっている人がいないか、
ということを指摘した内容だった。

こういう問題を考えていると、
「線引き」・「選択の自由」・「社会と個人」
という言葉が頭に浮かぶ。

たとえば、羊水検査を受けるのは優生思想だと言う人はいても、
妊娠がわかったので
飲み薬に気をつけるようになった女性に対して、
「それは優生思想だ」という人は、あまりいないと思うのだ。

あるいは、タバコをやめた、
転ばないようにヒールのある靴を履かないようになった、
というふうに、
おなかの赤ちゃんのためによくないと思われることをやめ、
よいと思われることをしようとする態度に対して、
「それは優生思想だ」という人がいるだろうか?

もちろん、先天的であるか否か、責任があるか否かという
大きな問題はあるけれど、
「わが子が健康な状態で無事に生まれてきてほしい」
という気持ちの根は、同じではなかろうか。
その気持ちは、根本的に優生思想につながるものなのか?

(つづく)
 2011.07.13 Wednesday 09:52 放射線関連 permalink  
柳澤桂子『いのちと放射能』のAmazonレビューに考え込む(1)/反原発の論理と優生思想
柳澤桂子『いのちの放射能』に対して、
Amazonで星2つの評価をつけておられる方がいる。
タイトルは、「反原発の論理に潜む優生思想」。

Amazonで気になる本に低い評価がつけられていると、
ついつい読みたくなるものだけれど、
久々に考えさせられるレビューに出会った。
とても貴重なレビューだと思う。

原発や放射能の怖さを
「奇形児や障害児が生まれる怖さ」と折り重ねて語る語りは
一見わかりやすいけれども、
その論理は障害者差別ではないのか?
と問題提起されている。

  奇形児や障害児が生まれてきたらかわいそうだから、
  原発に反対しようという論理は、
  一見良心的に見えるが、
  ここには「奇形」の身体を生き抜くいのちの視点が
  すっぽりと抜け落ちている。
  「こうなったらダメ」であるところの
  「奇形」の身体を生きる者や障害者のいのちは、
  すでにその時点でマイナスの価値を社会から
  与えられてしまうことになる。

と、評価者は書いておられる(要約)。

さらに続けて、自分が原発に反対する理由を、
次のようにまとめておられる。

私は、原発反対である。その根拠は、すべてのいのちの自由を原発は奪い去るからである。また、私たちの社会の利便性という都合によって、「障害者にさせられてしまう」こと、つまり、「生のありようが否応なしに変えられてしまう」ことをこそ批判しなければならない。それは、論理的には障害がマイナスの価値だということを意味しない。

このレビューを読んで思い出したことが2つある。

1つは、出生前診断のこと。

そしてもう1つは、上野千鶴子の
「PPK(ピンピンコロリ)はファシズムだ」という発言のこと。

(つづく)
 2011.07.12 Tuesday 09:04 放射線関連 permalink  
「消費電力の問題ではありません」

きょうはじめて、蝉の声をきいた。
時刻は夕方。アブラゼミかな。

夏は来てくれた。>祈りと念と、蝉の声 (03/18)  

昼間は買い物に出かけていたのだが、
たまに行く商業ビルの中のトイレで、
ハンドドライヤーが使用中止になっていた。
「節電のため・・・」という貼紙がついて。

     *       *       *

柳澤桂子さんは、『いのちと放射能』の後半で、
たくさんの問いを投げかけている。

なぜ食べ物にいろいろな添加物をいれなければならないのでしょうか。
なぜ作物に農薬をまき散らさなければならないのでしょうか。
なぜ放射能を照射したジャガイモを食べなければならないのでしょうか。
なぜクリスマスにみごとなイチゴを食べなければならないのでしょうか。
食べ物の旬はどこへいってしまったのでしょうか。
私たちは、なぜいながらにして、世界中のおいしいものを食べなければならないのでしょうか。
なぜ「ぬかみそ」をモーターでかきまぜなければならないのでしょうか。

そしてこう続ける。

消費電力の問題ではありません。こころの問題です。
 2011.07.09 Saturday 21:07 放射線関連 permalink  
人間はタンパク質の構成物なんだろうか?

DNAのことを勉強していると、
なんだか不思議な気分になってくる。

人間って、単なるタンパク質の構成物なのだろうか、と。

単なると言ってはいけないのかもしれない。
そこにはものすごい数の分子があり、
ものすごい数の組み合わせがあり、
精巧な仕組みがあり、けして単純ではない。

でもタンパク質はアミノ酸が連なってできていて、
そのアミノ酸の種類はたった20種類だという。
並び順を考えると膨大な数になるから、
「たった」と言ってはいけないのかもしれないが、
でもやっぱり20種類でこれだけのことができているというのは、
ある意味スゴイと思う。かなり能率的ではなかろうか。

DNAは総司令部となってタンパク質を制御する。

DNAは親から子へと正確に伝えられる。

なのに、なんで人間はこんなに多様なのだろう。
なぜ、私は両親とは違い、娘は私とは違うのだろう。
そして、なぜ「私の意志」をもちうるのだろう。

アミノ酸の構成物が、
なぜ、己の中でも起こっていることがらを、
こんなふうに解明することができるのだろう。

なぜ、大切な総司令部を破壊し得る物質を使って、
不合理なことをやろうとするのだろう。

すべての思考を、あるいは志向、嗜好を、
タンパク質が制御しているのかな?

欲望も?

不思議だ。

 2011.07.03 Sunday 13:55 放射線関連 permalink