これから考えたいこと/いのちの自由、生きることの意味

柳澤桂子『いのちと放射能』に対する
Amazonのレビューのうち、
「反原発の論理に潜む優生思想」
というタイトルがついた評価について考え込みながら、
「(つづく)」で終わる記事を書いてきたが、
考えたいことの核心に近づけないまま、
不用意に書けないという気持ちのまま、
テーマの重さだけをひしひしと感じている。

なお、『いのちと放射能』と並行して、
久坂部羊『日本人の死に時』を読みなおしたり、
柳澤桂子『いのちの始まりと終わりに』を手にしてみたり。

また、Amazonのあのレビューを書いた方が、
ほかにどんな本を読み、
どんな感想をもったのかを知りたくてのぞくうち、
川口有美子『逝かない身体---ALS的日常を生きる』
という本を知った。

     *     *     *

おそらく、
上記のレビューを書いた方と柳澤桂子さんとでは、
生命倫理に対する考え方が
基本の部分で異なっているのだろう。

私自身は、
柳澤桂子さんからとてもたくさんのことを教わると同時に、
本を読んでいると、
時々「ん?」と微かな疑問符がわくときが、
まったくないわけではないので、
先のレビューを書いた方に、
「柳澤桂子さんを批判したかったら、もっと別の、
より的確なアプローチがあるのではないか」
と言ってみたい気持ちにかられるときがある。

それは優生思想というよりは、
まさにDNAを手ががりとした
アプローチになるのではなかろうか。

ただし、生命倫理観については、
レビューを書いた方と私とではかなりの距離があり、
それについては「個人と社会」および「自己」について、
もっと深めて考えてからでないと、
言葉にできそうにない。

     *     *     *

私たちは、なんのために生きるのだろう。

私たちは、自分の意思のあずかり知らぬところ
---まだ自己のない状態---でひとつの命として生を受け、
それは自由を追い求め続ける肉袋()としての
生のスタートでありながら、
その瞬間から自由を手にしている。

そして、岩井寛が言うように
最期まで自由であるか?

     *     *     *

金子由紀子さんが、
『わたし時間のつくり方』(アスペクト)の最終章、
4節め「老いと死をどう考えるか」で、
こんなことを書かれている。

最初の子どもを産んだそのとき、私が思ったのは、
「あ〜、これで死ぬのが怖くなくなった」
でした。


そしてこの一節を、次のように締めくくっておられる。

 人間の一生は、たかだか五十年か百年。人類の歴史から考えれば、一瞬に等しい短さです。私たちは、自分の時間を誰かに手渡すことで初めて、老いと死の恐怖から解放され、永遠の若さと生命を得るのです。

自分の時間の手渡し方にはいろいろな方法があり、
子どもがあるなしに関わらないということが、
その前の部分に書いてある。

また、続く5節めのタイトルは
「逆算できない未来」になっており、
最後の1行に私はいたく感動したのだった。
(>余命六ヶ月と仮定したらという記事で抜粋してあります)

     *     *     *

以前、残すもの、残るものという記事を書いたけれど、
いまを生きる大人世代の人間が後世に残す、
「残してはいけなかったもの」の1つが
原子力発電所であることだけは、確かだと思う。

 2011.08.03 Wednesday 11:54 放射線関連 permalink  
柳澤桂子『いのちと放射能』が、サリドマイド事件の話から始まる意味
柳澤桂子『いのちと放射能』の「はじめに」は、
次のように始まる。

 原子力発電に対する反対運動が盛り上がりを見せていることをたいへんうれしく思います。いろいろなものを読んでみますと、私たちは何も知らされていなかった、だまされていたのだという感をぬぐいきれません。
 けれども、もし、私が経済産業省のお役人だったら、あるいは電力会社の幹部だったらこの問題を阻止できたかどうかと考え込んでしまいました。
そして話は、サリドマイド事件へと移る。

サリドマイドは1957年に西ドイツで発売された薬で、
日本では1958〜1962年に販売されている。
妊婦さんが飲むと重症の奇形児が生まれることがあり、
大きな社会問題になった。

私はサリドマイド訴訟の和解のニュースを
テレビで見た記憶があるのだけれど、
今回調べてみたら1974年とのこと。
もう少し大きくなってからだと思っていたが、
10才の頃だったらしい。

柳澤桂子さんがサリドマイド事件の話を出したのは、
アメリカの「ケルシー女史」の話をしたかったからだと思う。

ケルシー女史というのは、
アメリカのFDA(食品医薬品局)の審査官、
フランシス・ケルシーのこと。
FDAは日本で言えば厚生労働省にあたるような機関らしい。

1960年に、アメリカでも、
薬の販売会社がサリドマイドの販売許可を国に求めたが、
ケルシーはドイツで発表されていた論文を読み、
「この薬はおかしい」と直感して、
「あやしいものは許可しない」という信念をつらぬいたそう。

ウィキペディアによると、ケルシーの判断に対しては、
サリドマイド製造業者からの圧力があったらしい。
しかしケルシーは屈しなかった。

当時、まだサリドマイドと奇形との関連性はよくわかっておらず、
ヨーロッパとアフリカの20カ国で認可されていたそうだが
(そして日本でもすでに販売されていた)
にもかかわらずケルシーはこの薬物の認可を保留して、
さらなる治験を求めた。

そのおかげで、アメリカでは被害者がひとりも出なかったという。
(ただしウィキペディアによると、
 治験段階で数名の被害者が出たとある)

柳澤さんは、ケルシーの正義感の強さと勇敢さを伝えたくて、
この話を冒頭にもってきたのだと私は思う。
 誰もがケルシー女史のように正義感強く、勇敢になれるとよいのですが、私自身、まったく自信がありません。(中略)
 原子力問題においても、この人間の弱さがいちばん問題なのではないでしょうか。大きな組織に組み込まれると、個人の意志とは関係なく、不本意な動きをさせられてしまうことがあります。
そうしてこのあと、
「原子力問題でいちばんの悪者はいったい誰なのでしょう。」
という、例のフレーズ()が続くのだった。

ケルシーは、勇敢であるだけでなく、勉強家でもあった。
だから、外国の文献をきちんと読み、
正しい勘を働かせることができた。
(ということが、上記引用部分“中略”のところに書いてある)

ケルシーはまず何よりも、自分を信じたのではなかろうか。

まだ因果関係ははっきりとわかってはいなくても、
ケルシーの専門知識をもってして外国の文献を読めば、
その「あやしさ」をつかみとることができたのだろう。

他国で許可・販売されているという事実ではなく、
「この薬はあやしい」という自分の勘を信じたことが、
国の機関でひとつの役割を務める一専門家としての、
勇敢な判断・行動につながったのだと思う。

(つづく)
 2011.07.23 Saturday 08:29 放射線関連 permalink  
柳澤桂子『いのちと放射能』のAmazonレビューに考え込む (4)/続き

柳澤桂子『いのちと放射能』に対する
Amazonのレビューのうち、
「反原発の論理に潜む優生思想」
というタイトルがついた評価について考え込んでいる。

1つ前の記事の最後で、
「生のありようを変えられてしまうのはだれなのか。」
と書いたが、その答えはすでにレビューの中にある。

「すべてのいのちの自由を原発は奪い去る」と。

つまり原発は、私たちの社会の利便性という都合によって、
私をふくむすべてのいのちの自由を奪い去るもの、
ということになる。

「すべて」が言いすぎだとしたら、
次のように言い換えてもいいのかもしれない。

放射能は、空間的にも時間的にも、
他に類をみないスケールで、
いのちの自由を奪い去るものである、と。

まさにそのことを、
柳澤桂子さんは伝えようとしているのではなかろうか。
DNAを拠り所にして。
そして、特に時間的スケールの深刻さを
訴えておられるように思う。
もちろん、時間的スケールは、
空間的スケールとも連動する。

つまり、私たちは、すべてのいのちのありようを、
否応なしに“変えて”しまう、そのことをこそ、
自己批判しなければならないのではなかろうか。

自分たちの利便性(という名の無駄)が原因で、
若年層の発ガン率があがったり、流産率があがったり、
子どもに障害が出る率があがったりしたとき、
たとえその因果関係が証明できないとしても、
「それも運命。病気や障害はマイナスではないよ。
その身体を生き抜こう」と、私は言えない。
(レビューを書いた人がそう言っているということでは
ありません)
問題は数(率)ではないとしても()。

もう一度、柳澤桂子さんの、あの言葉をかみしめてみる。
 

 原子力問題でいちばんの悪者はいったい誰なのでしょう。
 原子力を発見した科学者でしょうか。
 原子力発電を考案した人でしょうか。
 それを使おうとした電力会社でしょうか。
 それを許可した国でしょうか。
 そのおそろしさに気づかなかっった国民でしょうか。
 そのように考えてきて、私はふと、私がいちばん悪かったのではないかと気がつき、りつ然としました。
 私は放射線が人体にどのような影響をおよぼすかをよく知っていました。
 放射能廃棄物の捨て場が問題になっていることも知っていました。
 けれども、原子力発電のおそろしさについては私はあまりにも無知でした。
 たしかに各国の政府は原子力発電が安全なものであると宣伝しました。けれども私もこの歳まで生きて、政治というものがどういうものか知らなかったとはいえません。
(中略)
 本当はもう遅いのかもしれません。でも過去の過ちを悔いていてもしかたがありません。いま私がすべきであると思うことにすべてをかけてみるしかありません。
「いまからでも、おそくない」と信じて。


(つづく)
 2011.07.21 Thursday 09:56 放射線関連 permalink  
柳澤桂子『いのちと放射能』のAmazonレビューに考え込む (3)/PPKはファシズムか?
柳澤桂子『いのちの放射能』に対する
Amazonのレビューのうち、
「反原発の論理に潜む優生思想」
というタイトルがついた評価について考え込んでいる。

前回は、出生診断のこと、
つまり出生時のことについて考えたが、
今度はPPK(ピンピンコロリ)、
つまり老い方、人生の終わり方に関連させて考えてみたい。

PPK(ピンピンコロリ)というのは、
ピンピンと元気に老いて、寝つかずにコロリと死ぬという、
理想の老い方・死に方を表すキャッチフレーズであり、
平均寿命が長くて老人の医療費が全国でいちばん低い
長野県で生まれた言葉とのこと。
1990年代後半頃から全国的にひろまったそう。

このPPK運動に対して、
社会学者の上野千鶴子は、
「ファシズムだ」という発言をしている。

上野千鶴子は、PPK運動ときくと、ある婦人会が
「障害児を生まないように、丈夫で元気な子どもを産みましょう」
と唱和していたというエピソードを思い出すそう。
 (以前書いた自分の記事からそのまま引用したのだけれど、
  漢字の使い方や文章がヘンだから、
  写しまちがいかもしれないな・・・。確認しなくちゃ。)

上野千鶴子は、『おひとりさまの老後』(法研)にこう書いている。
少しでも社会のお荷物になりそうなもの、規格はずれの異物を排除しようというこの「人間の品質管理」の思想が、ファシズムでなくてなんだっ、と感じたのだ。それ以来、わたしはことあるごとにPPK撲滅をうったえているのだが、いっこうにPPK主義者はなくなりそうもない。
これについては以前、
PPK(ピンピンコロリ)はファシズムであるか? (1)
PPK(ピンピンコロリ)はファシズムであるか? (2)
という記事を書いた。

老人の医療費をおさえるために、
PPKを普及させたり促進したりするのであれば、
確かにそれはファシズムといってもいいのかもしれない。

婦人会の唱和も、
ひとりの妊婦さんが「妊娠中だから風邪薬飲むのやめとこう」
と思う場合とは違い、それが運動であるならば、
やはりファシズムかもしれない。

しかし、自分はPPKで終わりたいと思っている個人も、
その時点でファシストなのだろうか?

あるいは、エゴイストなのだろうか?

上野千鶴子の言う
「社会のお荷物、規格はずれの異物」という言葉は、
Amazonのレビューにある
「マイナスの価値を社会から与えられてしまう」
の「マイナスの価値」とは少し意味が違うようだけれど、
だとしても、
どちらにも「社会」という言葉が含まれている点では、
共通している。

こういうときの「社会」って、一体なんだろう。

その「社会」の中に、上野千鶴子や、
レビューを書いた方は入っているだろうか?

私は入っているだろうか?

当然、みんな入っているだろう。

だれも「社会」からのがれることはできない。

「反原発の論理に潜む優生思想」
というレビューを書いた方は、
次のように主張している。

私は、原発反対である。その根拠は、すべてのいのちの自由を原発は奪い去るからである。また、私たちの社会の利便性という都合によって、「障害者にさせられてしまう」こと、つまり、「生のありようが否応なしに変えられてしまう」ことをこそ批判しなければならない。それは、論理的には障害がマイナスの価値だということを意味しない。

この文章の中の2番目の一文には、
社会に“私たちの”という言葉がそえられたあと、
「させられてしまう」「変えられてしまう」
という受動態のフレーズが続く。

そうさせられてしまうのはだれなのか。
生のありようを変えられてしまうのはだれなのか。

(つづく)
 2011.07.17 Sunday 08:22 放射線関連 permalink  
柳澤桂子『いのちと放射能』のAmazonレビューに考え込む (3)/PPKはファシズムか?
柳澤桂子『いのちの放射能』に対するAmazonのレビューのうち、
「反原発の論理に潜む優生思想」
というタイトルがついた評価について考え込んでいる。

前回は、出生診断のこと、つまり出生時のことについて考えたが、
今度はPPK(ピンピンコロリ)、
つまり人生の最期と関連させて考えてみたい。

PPK(ピンピンコロリ)というのは、
ピンピンと元気に老いて、寝つかずにコロリと死ぬという、
理想の老い方・死に方を表すキャッチフレーズであり、
平均寿命が長くて、老人の医療費が全国でいちばん低い
長野県で生まれた言葉であるらしい。
1990年代後半頃から全国的にひろまったそう。

このPPK運動に対して、
社会学者の上野千鶴子は「ファシズムだ」という発言をしている。

確かに、PPKを社会的な運動、
特に医療費問題とからめて考えると、
ファシズム的要素があるかもしれない。

では、個人的にPPKを目指している人も、
ファシストなのだろうか?

上野千鶴子は、PPK運動ときくと、ある婦人会が
「障害児を生まないように、丈夫で元気な子どもを産みましょう」
と唱和していたというエピソードを思い出すそうで、
少しでも社会のお荷物になりそうなもの、規格はずれの異物を排除しようというこの「人間の品質管理」の思想が、ファシズムでなくてなんだっ、と感じたのだ。それ以来、わたしはことあるごとにPPK撲滅をうったえているのだが、いっこうにPPK主義者はなくなりそうもない。
と、『おひとりさまの老後』(法研)に書いている。
このことに対して、以前、
PPK(ピンピンコロリ)はファシズムであるか? (1)
PPK(ピンピンコロリ)はファシズムであるか? (2)
という記事を書いたのだけれど、
あのときには「社会的な死」と「からだの死」という対比で捉えた。

まず私は、PPKと婦人会の唱和を、
同じ土俵で考えていいのだろうか?という素朴な疑問がある。
どちらも組織的な運動だとみなすと、
確かにそれはファシズムかもしれない。

でも、個人レベルで考えるとどうなのか?

個人レベルで考えた場合、
出生時と人生の最期とでは、
「生」の持ち主が違う。
運動の主体と生きる主体が違う。

障害がない子どもを産もうとするのはその子の両親、
実際に障害のあるなしの主体は子ども。

それに対してPPK主義者の場合、
運動の主体と生きる主体=死ぬ主体は一致している。

そしてもうひとつの違いとして、
「すでに起こっていること」
「まだ起こっていないこと」
という点があげられると思う。

出生前診断で、羊水検査をしてわかるのは、
「現段階の胎児に先天的な障害・病気があるか?」
ということであり、それはすでに起こっていることだ。
しかも、染色体・遺伝子レベルのことであり、



障害児を
 2011.07.15 Friday 08:32 放射線関連 permalink  
柳澤桂子『いのちと放射能』のAmazonレビューに考え込む (2)/出生前診断と優生思想
柳澤桂子『いのちの放射能』に対する
Amazonのレビューのうち、
「反原発の論理に潜む優生思想」
というタイトルがついた評価について、考え込んでいる。
実際に柳澤桂子さんがどのような書き方をしているかは、
あとでみていこうと思う。

私が「優生思想」という言葉をきいてまず思い出すのは、
出生前診断のことだ。

以前も書いたように、私は妊娠初期に、
トリプルマーカー検査という、確率による出生前診断を受けた。

胎児がダウン症や18トリソミー、神経管奇形などの
病気をもっているかどうかの確率を、
血液をもとに調べるもの。

経緯については、別ブログに詳しく書いている。

   TETRA'S MATH
   >確率による出生前診断・12345

そんな検査を受ける私は、
優生思想の持ち主なのだろうか。

優生思想を
社会的なものではなく個人レベルで考えようとすると、
どう考えていいものか難しいものはあるが、
少なくとも私は「わが子に障害や病気があってほしくない」
と願っていたのは確かだ。

確率が高くても羊水検査は受けないという、
例外的な受け方をしたとはいえ、
わが子に障害があるかもしれないことを
意識しない、苦にしないのであれば、
そんな検査は受けなかっただろう。

あのとき、2つめの産婦人科(実際に出産した病院)で、
「羊水検査で病気があるとわかった場合
人工妊娠中絶する人もいるのかどうか」をきいたとき、
医師は「18トリソミー」の例をあげたと記憶している。

18トリソミーは生存率が低く、
生後まもない時期にほとんど死亡してしまうので、
それだとあまりも負担が大きいということで、
人工妊娠中絶される方もいる、
というようなお話だった。
どういうふうに負担が大きいのかは詳しくきかなかったが、
いろいろな意味での負担をさしているのだろう。

トリプルマーカー検査について悩んでいたこのときと、
それから数年後に2人目の子どもがほしくて
あれこれ調べていたときに、
関連サイトや妊娠関連の掲示板を読み、
いろいろな女性の声を知った。

障害があるとわかった上で出産すると決めた夫婦もいたし、
病気があるとわかったので
人工妊娠中絶をするときめた夫婦もいた。

障害についてのいろいろな意見をきくなかで、
とても強烈なフレーズがあったのを記憶している。
反優生思想の極論に対する反論のようなもので、
正確な表現は覚えていないのだけれど、
障害が不幸ではないということを強調するあまり、
まるで一家庭にひとりはダウン症の子どもがいたほうがいい、
といわんばかりの極論になっている人がいないか、
ということを指摘した内容だった。

こういう問題を考えていると、
「線引き」・「選択の自由」・「社会と個人」
という言葉が頭に浮かぶ。

たとえば、羊水検査を受けるのは優生思想だと言う人はいても、
妊娠がわかったので
飲み薬に気をつけるようになった女性に対して、
「それは優生思想だ」という人は、あまりいないと思うのだ。

あるいは、タバコをやめた、
転ばないようにヒールのある靴を履かないようになった、
というふうに、
おなかの赤ちゃんのためによくないと思われることをやめ、
よいと思われることをしようとする態度に対して、
「それは優生思想だ」という人がいるだろうか?

もちろん、先天的であるか否か、責任があるか否かという
大きな問題はあるけれど、
「わが子が健康な状態で無事に生まれてきてほしい」
という気持ちの根は、同じではなかろうか。
その気持ちは、根本的に優生思想につながるものなのか?

(つづく)
 2011.07.13 Wednesday 09:52 放射線関連 permalink  
訂正
きのうの記事のタイトルを

柳澤桂子『いのちと放射能』のAmazonレビューに考え込む(1)/反原発の論理は優生思想か?
(07/12) 
 
としていましたが(訂正済)、
「反原発の論理は優生思想か?」
という問いかけは不適切だとあとで気づきました。

Amazonであのレビューを書いた評価者の方は、
すべての反原発の論理が優生思想につながる、
と言いたいわけではなく、
(実際、評価者の方も原発に反対しているのであり)
柳澤桂子『いのちと放射能』にある反原発の論理に、
優生思想を感じた、ということなのだと思います。
 2011.07.13 Wednesday 08:57 放射線関連 permalink  
柳澤桂子『いのちと放射能』のAmazonレビューに考え込む(1)/反原発の論理と優生思想
柳澤桂子『いのちの放射能』に対して、
Amazonで星2つの評価をつけておられる方がいる。
タイトルは、「反原発の論理に潜む優生思想」。

Amazonで気になる本に低い評価がつけられていると、
ついつい読みたくなるものだけれど、
久々に考えさせられるレビューに出会った。
とても貴重なレビューだと思う。

原発や放射能の怖さを
「奇形児や障害児が生まれる怖さ」と折り重ねて語る語りは
一見わかりやすいけれども、
その論理は障害者差別ではないのか?
と問題提起されている。

  奇形児や障害児が生まれてきたらかわいそうだから、
  原発に反対しようという論理は、
  一見良心的に見えるが、
  ここには「奇形」の身体を生き抜くいのちの視点が
  すっぽりと抜け落ちている。
  「こうなったらダメ」であるところの
  「奇形」の身体を生きる者や障害者のいのちは、
  すでにその時点でマイナスの価値を社会から
  与えられてしまうことになる。

と、評価者は書いておられる(要約)。

さらに続けて、自分が原発に反対する理由を、
次のようにまとめておられる。

私は、原発反対である。その根拠は、すべてのいのちの自由を原発は奪い去るからである。また、私たちの社会の利便性という都合によって、「障害者にさせられてしまう」こと、つまり、「生のありようが否応なしに変えられてしまう」ことをこそ批判しなければならない。それは、論理的には障害がマイナスの価値だということを意味しない。

このレビューを読んで思い出したことが2つある。

1つは、出生前診断のこと。

そしてもう1つは、上野千鶴子の
「PPK(ピンピンコロリ)はファシズムだ」という発言のこと。

(つづく)
 2011.07.12 Tuesday 09:04 放射線関連 permalink  
「消費電力の問題ではありません」

きょうはじめて、蝉の声をきいた。
時刻は夕方。アブラゼミかな。

夏は来てくれた。>祈りと念と、蝉の声 (03/18)  

昼間は買い物に出かけていたのだが、
たまに行く商業ビルの中のトイレで、
ハンドドライヤーが使用中止になっていた。
「節電のため・・・」という貼紙がついて。

     *       *       *

柳澤桂子さんは、『いのちと放射能』の後半で、
たくさんの問いを投げかけている。

なぜ食べ物にいろいろな添加物をいれなければならないのでしょうか。
なぜ作物に農薬をまき散らさなければならないのでしょうか。
なぜ放射能を照射したジャガイモを食べなければならないのでしょうか。
なぜクリスマスにみごとなイチゴを食べなければならないのでしょうか。
食べ物の旬はどこへいってしまったのでしょうか。
私たちは、なぜいながらにして、世界中のおいしいものを食べなければならないのでしょうか。
なぜ「ぬかみそ」をモーターでかきまぜなければならないのでしょうか。

そしてこう続ける。

消費電力の問題ではありません。こころの問題です。
 2011.07.09 Saturday 21:07 放射線関連 permalink  
人間はタンパク質の構成物なんだろうか?

DNAのことを勉強していると、
なんだか不思議な気分になってくる。

人間って、単なるタンパク質の構成物なのだろうか、と。

単なると言ってはいけないのかもしれない。
そこにはものすごい数の分子があり、
ものすごい数の組み合わせがあり、
精巧な仕組みがあり、けして単純ではない。

でもタンパク質はアミノ酸が連なってできていて、
そのアミノ酸の種類はたった20種類だという。
並び順を考えると膨大な数になるから、
「たった」と言ってはいけないのかもしれないが、
でもやっぱり20種類でこれだけのことができているというのは、
ある意味スゴイと思う。かなり能率的ではなかろうか。

DNAは総司令部となってタンパク質を制御する。

DNAは親から子へと正確に伝えられる。

なのに、なんで人間はこんなに多様なのだろう。
なぜ、私は両親とは違い、娘は私とは違うのだろう。
そして、なぜ「私の意志」をもちうるのだろう。

アミノ酸の構成物が、
なぜ、己の中でも起こっていることがらを、
こんなふうに解明することができるのだろう。

なぜ、大切な総司令部を破壊し得る物質を使って、
不合理なことをやろうとするのだろう。

すべての思考を、あるいは志向、嗜好を、
タンパク質が制御しているのかな?

欲望も?

不思議だ。

 2011.07.03 Sunday 13:55 放射線関連 permalink