大内さんの一周忌のあと、妻から医師に届いた手紙

『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録―』(新潮文庫)
の最後の部分、大内さんが亡くなったあとのところを
読み直している。

大内さんの死から1年が過ぎたころ、
治療を担当した医師のもとに、
大内さんの妻から手紙が届いた。

無事一周忌の法要をすませたことや、
大内さんの実家を出て息子さんと二人で
暮らすようになったことなどを報告したあと、
手紙にはこう綴られていたという。
(ルビ省略)

「事故以来、ずっと思うことは、自分勝手と言われるかもしれませんが、例え、あの事故を教訓に、二度と同じような不幸な事故が起きない安全な日々が訪れたとしても、逝ってしまった人達は戻って来ることはありません。逝ってしまった人達に“今度”はありません。
 とても悲観的な考えなのかも知れませんが、原子力というものに、どうしても拘わらなければならない環境にある以上、また同じような事故は起きるのではないでしょうか。所詮、人間のする事だから・・・・・・という不信感は消えません。
 それならば、原子力に携わる人達が自分達自身を守ることができないのならば、むしろ、主人達が命を削りながら教えていった医療の分野でこそ、同じような不幸な犠牲者を今度こそ救ってあげられるよう、祈ってやみません」
 2011.09.20 Tuesday 12:46 地震関連の保存記事 permalink  
東海村臨海事故で亡くなった大内さんの遺体から、司法解剖を担当した医師がきいた声
久しぶりに、NHK「東海村臨界事故」取材班による
『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録―』(新潮文庫)
を開いている。

東海村臨界事故による被曝で亡くなった大内さんの遺体は、
検察官の指揮下で司法解剖がおこなわれた。

担当した医師は、
これまで3000体余りの遺体を解剖してきたが、
大内さんの遺体を見たとき、
驚きを隠すことができなかったという。

正面から一見すると真っ赤に火傷をしたような状態だったが、
全身が真っ黒になった焼死体とは違っていて、
放射線が当たったと思われる体の全面だけが
ひどい火傷のような状態になっていた。
皮膚の表面が全部失われ、血がにじんでいた。
背面はあくまでも白く、正常な皮膚のように見えた。
放射線が当たったところと、
そうでないところの境界がくっきりと分かれていた。
このような遺体を見たのは初めてだったという。

臓器の変化もいままでに見たことのないものだった。
腸はふくらんで大蛇がのたうちまわっているように見えた。
胃には2040g、腸には2680gの血液がたまっていた。
また、体の粘膜という粘膜が失われ、
腸などの消化管粘膜のみならず気管の粘膜もなくなっていた。
骨髄にあるはずの造血幹細胞もほとんど見あたらなかった。

担当医師がもっとも驚いたのが、筋肉の細胞だった。
通常、筋肉の細胞は、
放射線の影響をもっとも受けにくいとされているが、
大内さんの細胞は繊維がほとんど失われ、
細胞膜しか残っていなかった。

そのなかで一つだけ、筋肉細胞が鮮やかに赤く、
きれいに残っていた臓器があった。

心臓。

心臓の筋肉だけは、放射線に破壊されていなかった。

担当医師は、後にこのことを振り返って、
次のように語っているという。
(かなり長くなりますが、そのまま引用します。
 ルビ省略→匂(にお)い)

「どうして心臓だけが、しっかりとした筋肉を保ちつづけ、他の筋肉細胞は破壊されたのか、文献を調べても臨床医たちと議論しても、その理由はわからなかったんです。放射線の影響なのか、それとも被曝治療に使われた薬剤の影響なのか。結論はいまだに出ていません。
 ただ、私には、大内さんが自己主張をしているような気がしました。
 大内さんにかぎったことでなく、亡くなった方はいつも、自分の意思に反して解剖されます。だれも解剖されることはおろか、亡くなることさえ望んでいなかった、予想もしていなかったはずなんです。それを、いわば国家権力によって解剖するのが、自分の仕事である司法解剖だと私は常々思っています。
 だからこそ、ご遺体が何を言いたいのか、その声を聞き取らなければならない。それは自分たち解剖医にしかできないことなんです。集中力をもって観察し、記録することで、その人の声に必死で耳を傾けるのが私たちの仕事だと思っています。
 大内さんの痛々しい臓器の状態から、ああ、大内さんは一生懸命生きてきたんだな、本当にがんばってきたんだな、と感じました。
 そのなかで、一つ鮮やかに残っていた心臓からは「生きつづけたい」という大内さんのメッセージを聞いた気がしました。心臓は、大内さんの「生きたい」という意志のおかげで、放射線による変化を受けずに動きつづけてこられたのではないかという気さえしました。
 もう一つ、大内さんが訴えていたような気がしたことがあります。
 それは放射線が目に見えない、匂いもない、普段、多くの人が危険だとは実感していないということです。そういうもののために、自分はこんなになっちゃったよ、なんでこんなに変わらなければならないの、若いのになぜ死んでいかなければならないの、みんなに考えてほしいよ。
 心臓を見ながら、大内さんがそう訴えているとしか思えませんでした」
 鑑定人として、通常は解剖の詳細を語ることはできない。しかし、三澤は自分が大内の遺体から聞き取った声を、可能なかぎり社会に伝えなければならないと思った。
 2011.09.19 Monday 12:42 地震関連の保存記事 permalink  
スーパーマーケット状況と食材についての思案

きのうは、スーパーマーケット前の行列を見た段階で、
買い物をあきらめて、うちに帰ってきた。
微熱で学校を休んでいた娘を家に1人おいてきたので、
買い物中に大きな余震がくることをおそれて。

きょうは平熱にもどって登校しているので、
開店時間早々、買い出しへ。

人が多くて、レジの列もすごかったが、
入場制限はなかったし、思っていたよりは物があって、
買いたかったものは全部買えて、ほっとした。
もちろん、普段に比べるとかなり品物は少ないのだが、
すべての商品の入荷がゼロということではないのだと思う。

しみじみ、今回、幸運だと思ったのは、
お米がそこそこあったこと。5kgの袋の半分弱。
いつもギリギリにならないと次の袋を買わないので、
ヘタをするとあぶなかった。

姉はきのう4件スーパーめぐりをしたそうだけれど入手できず、
パスタをいっぱい買ったとのこと。

レンジで温めるタイプのごはん、
アルファ米とスパゲティーも少しあるので、
1週間はなんとかなると思う。

これを食べきるころに、
まだ物流が回復していないのであれば、
生活を根本的に考えなおさなくてはいけないだろう。

というわけで、主食がある程度、確保できているので、
カップラーメンの類ではなく(個数制限付で売られていた)、
おかずの食材を中心に買ってきた。

昨年の新型インフルエンザ流行のときに
非常食についてあれこれ考えて、ガス・水道がOKならば、
できるだけ普段の食事に近い食事をしたほうがいい、
という結論が出たので、
結果的に、いつもと変わらぬお買い物になった。

逆に言うと、いつもと変わらぬお買い物ができるような
品物はあった。
大根、にんじん、ピーマン、ほうれん草、なす、
豆腐、ブリの切り身、焼肉用牛肉、牛豚ひき肉、
トマト缶、チーズ、ヨーグルト、ジュース。
牛乳も買えてよかった(1人1パック)。
卵も、数は少なかったけれど、買うことができた。

そういえば、学校給食ってどうなるんだろうか?

なお、計画停電はきのうもきょうも、
私が住んでいる地域では行われなかった。
あした以降どうなるかはわからない。

とりあえず、保冷剤がわりに、
500ミリリットルの牛乳パックで氷を作っておいた。

 2011.03.15 Tuesday 14:50 地震関連の保存記事 permalink  
地震のときの状況をメモしておく
きのうは娘が5時間授業の日だった。
いつもより少し早目に、2時40分くらいに帰宅。
さあ、おやつを食べようと準備していたら、
「ママ、揺れてる・・・」と娘。

ほどなく激しい横揺れが始まり、
ただごとではないと察する。

娘と2人、テーブルの下にもぐって、ひたすら耐える。

こわい。

あまりの長い揺れに、動悸がしてくる。
「お願い、もう止まって!」と心の中で念じる。

こわがる娘と身を寄せて、
とにかくテーブルの下で揺れが終わるのを待つ。

室内灯もエアコンも作動しているから、
停電は起きていない。

おさまってきたころ、テレビをつけて状況を確認。
そして、家の中の状況を確認。

冷蔵庫が、その上の電子レンジとともに、
20〜30cm移動していた。
たぶん、ストッパーを緩めていたのだろう、
そのままスライドしてくれたのが、
逆に幸いだったのだろうか。

電子レンジの上にのせてあった、
台やカゴなどは下に落ちている。

水槽の水が派手にこぼれて、
棚や玄関まわりがびしょびしょ。
水槽が落ちて割れずによかった。

倒れたものは、スタンド式の大きな鏡、
(割れてはいない)
あとは、メタルラックの上のアルバムや本、
本棚の上に置いてあった、
ファイルボックスがいくつか床に落ちている。
それから、調味料など。

割れたものがまったくなかったのが幸い。
テーブルの上の、
シリアルと牛乳が入っていた磁器のお皿も
無事だった。
テーブルごとスライドしたのか、
何が幸いしたのかはよくわからない。

しばらくは様子を見て、
落ちたものは下に置いたままある程度まとめ、
水槽の水もざっとだけふき掃除。

余震がくると、娘とテーブルの下にもぐる。
少し疲れてくる。
わが家に1冊だけある防災の本を、
今頃めくったり。

揺れがおさまってきたころ、部屋の中の復旧作業。
本やアルバムをもとの位置にもどし、
水槽まわりの掃除。

徐々に普通の生活にもどりつつあったが、
なんとなく自分の体調がわるいような気がする。
精神的なものかもしれない。
いかんいかん、こんなときに体調をくずしてはいかん。
と、気を張る。

5時半くらいに娘と買い物に出ると、
近所のスーパーも、
いつもと変わらない状況だった。

あとは、ほぼ普段と同じ生活。
自動的に止まっていたガスも、
指示通りメーターのボタンを押すと復活した。
体調ももどってくる。

わが家でいちばんこわいのは、
メタルラック2棟が倒れることだが、
8本のつっぱりボールががんばってくれた。
それから、本棚は、
積み重ねてもつかえる2個組のものを、
横に並べて置いておいたので、
もともとの高さがないうえ、
転倒防止の板を下にかませていたおかげか、
倒れなかった。

あんなに激しい揺れだったのに、
このくらいですんだことが、
いま思い返すと逆に不思議なくらい。
倒れるか倒れないか、
落ちるか落ちないかには、
いろいろな条件があるのだろう。

また、座卓からダイニングテーブルに
切り替えたのも正解だったと思う。

前のワンルームだったら、
隠れるところがなかった。
どんなことになっていただろうか・・・

なんといっても、その瞬間、
娘といっしょに自宅にいられたのが、
本当に幸運だったと思う。
学校に迎えに行った保護者も相当数いたそうだし、
勤務中の保護者もたくさんいたと思う。

でも、電話がなかなかつながらない
状況だったようなので、
学校からの緊急メールは、
発信されてだいぶ時間がたってから受信したし、
担任の先生から確認の連絡があったのも、
夜9時を過ぎてからだった。
親戚も、電話がつながらなくて心配していたらしい。

今回思ったことは、地震が起きた瞬間にできることって、
かなり限られているのだろうな、ということ。
いつくるかわからないし、揺れていて動けないし、
なんといっても精神的に動揺して、
頭がはたらかなくなる。
 2011.03.12 Saturday 10:32 地震関連の保存記事 permalink