「いい人」のようにふるまうと、「いい人」になる。
先日、佐々木俊尚さんが
自分の10代の思い出を語る(語らされる!?)
次インタビュー動画を観た。

【大人だって】
作家・ジャーナリスト 佐々木俊尚さん 秘密の10代

http://buff.ly/1hLs9RI

     *     *     *  

 ネタバレというのもあれですが、
 最初から最後まで先入観なしで聴きたい方は、
 まず全部通して聴いてくださいね!

     *     *     *

いろいろ興味深かったのだけれど、
特に印象に残ったのは、
後編の3分15秒後くらいの話と、
それをふまえたラストの話。

佐々木さんは大学に入った頃、
村上春樹のデビュー作を読んで、
「ほんとに強い人間なんていないなんだ。
 自分が強いというふりをしている人間だけが
 強くなれるんだ。」
というような台詞を読み、感動して、
そうしようと思ったのだそう。

7分10秒後くらいにもう一度その話になり、
佐々木さんが
「最近、自分はいい人になろうと思っている。
 もともといい人じゃないんだけど、
 自分はいい人だと思い込んでいるうちに、
 いい人になれるんじゃないかな…」
という話をされている。

これは、つい先日読んだ森田療法の本の
「外相整えば内相おのずから熟す」―――形から入る
につながる話だと思う。

思いやりのある人間になろうとすることは、
思いやりのある人間になってから、
思いやりのある行動をとろうとすることであり、
そうではなくて、
実際に思いやりのある行動をとれば、
思いやりのある人間になるということ。

どんなに心のなかや頭のなかで
善意をこねくりまわしても、
善意のある行動をとらなければ、
そこに善意はない。

逆に、心のなかで「本当は立ちたくないなぁ」
と思っていても、実際に席をゆずれば、
それは思いやりのある人間のとる行動。

つまり、そのように装えば、
そのようになる、ということ。

自分は強いのか、自分はいい人なのか、
と考えて結論を出すのではなく、
強くなろう、いい人になろうと目指すのではなく、
自分がそうなりたいという状態に
実際に自分がなっているように振舞う。

思い込むうちに、そうなっていく。

おそらく、最初は「思い込み」でも、
そこから生じる自分の言動が、
フィードバックされていって、
自分が作られていき、
実際にそうなるのではないかと感じている。

逆のことも言えるんだと思う。

攻撃的な言動を繰り返すうちに、
攻撃的な人になる。

自分はくだらない人間だと自分で思い込むと、
くだらない人間になってしまう。

人間ってたぶん、とまっていないし、
固まっていないんだと思う。

ずっと、つくられていくんだと思う。
 2014.05.19 Monday 15:03 気持ちの元気 permalink  
ブルームーンというのですか

どうやら私が見た満月は、
満月という名以上に、
ブルームーンという名ももっているらしい。

ただ、ウィキペディアによると、
月に2回ある満月の2回目をブルームーンと呼ぶのは、
雑誌の誤解から始まったという説アリ>

だとしても、そうとう古い話だし、
定着したんだったら、
それがもうりっぱなブルームーンだろう。

とはいえ、周期とカレンダーのズレであり、
たまたまという気がしないでもない、無粋な私(^^;
(ちなみにその件については細かく考えていないので、
もしかしたらわかってないかも・・・)

たとえていうなら、
うちの地域は不燃ごみの収集が
第1と第3の金曜日だから、
4回しか金曜日がない月の場合、
第4週の次の週は、
翌月の第1金曜日で収集アリ、
第5金曜日がある月は収集ナシとなり、
第3から同じ「2週間後」なのに、
収集がないという、
あれに似ている気がする・・・。
って、全然ちがうか(^^;
(そもそも、この収集日の認識は正しいのか??)

それにしても、
季節で4回満月がある場合のブルームーンも、
どうして4回目ではなく3回目を
ブルームーンとよぶのだろう・・・?

こんなページも見つけたよん↓
http://mirahouse.jp/begin/blue_moon.html

 2012.09.02 Sunday 00:11 気持ちの元気 permalink  
月がきれい
最近、月がきれいなのは、
季節のせいだろうか、
私の気持ちのせいだろうか。

日が落ちるのがはやくなってきて、
私の夕食を作る気力は乏しくなる一方で(^^;
買い物に出るときに、もう、あたりが暗い。

なので帰り道、
顔を上げて少し首を振れば、
きれいな月が見える。

数日前、4分の1ほどが欠けた
(半円より少し膨らんだ形の)月をみて、
いいなぁ・・・と思った。

満月でもなく、三日月でもない、名のない月。
なんとなくアサガオの種を思い出す。

味わい深いねぇ。

しかし。

きのう、まんまるのお月様を見て、
「やっぱまんまるはきれいだ〜〜!」
としみじみ思ったしだい。

ごめんよ、3日前の月。(ん? おなじあなた?) 

まんまるであることのみならず、
境目がくっきりしている。
きっぱりしている。

さすがの存在感。

さすがの十全感。

そういえば今年の5月に
娘と金環日食を観察したときに、
思ったんだよね。

確かに感動的だったけれど、
普段から観察していないと、
イマイチその感動を味わいきれないなぁ、と。

確かに変化はわかるんだけれど、
ふだんそんなことはないのか、
めったなことで欠けたりわっかになったりしないのか、
実はわからないわけであり。

その点、なんにも準備しなくても、
ただ顔を見上げさえすれば、
毎日変化がわかるのよね、お月様って。

いや、お月様が変化しているわけじゃ
ないんだろうけれど・・・

不思議だね、位置関係で見え方がかわるなんて。
見えるのは、光があるから。
そして影があるから。

だけど、太陽も月も、
少しずつ変化はしているんだろうね。
それを見る私も変化している。

昼と夜の入れ替わり、めぐる季節、
その繰り返しのなかで、
また朝はくるし、また夏はくるけれど、
ひとつとして同じ朝はなく、同じ夏はない。



8月下旬は時の流れが不思議なことになると、
ここ数年思う。

今年も、残暑のなかの蝉の声にほっとするのと同時に、
時間が止まったような感覚になることがある。

娘が小学生になってからなので、
子どもの夏休みの長さにふら〜っとなるのが
おもな原因だと思われるが・・・(^^;

いや、立ちくらみはしていない。
夏が好きな私、体調はわるくないのだ。

でも、娘に伝えた。

ママは夏が大好きだけど、
常夏の島で暮らしていたら、
夏を好きじゃなかったかもしれない、って。



ある人が、「時間とは変化である」って、
本に書いていた()。

そして、「生命とは時間の別称である」とも()。

ってことは・・・

生命とは、変化なんだな。

さらには、こんなことも言っていた。

「わたしには現在しか許されない。」(

否定形なのに、なんだかポジティブ。


               >ブルームーンというのですか
 2012.09.01 Saturday 16:06 気持ちの元気 permalink  
タイミングが応援してくれる
なかなかこのブログの更新が安定しないところをみると、
まだ春の日々の名残は残っているらしい。

その後PTA活動がいったん落ち着いて、
自分の仕事の納品をひとつ終えて、
ゴールデンウィークはそれなりに遊んで、
小さな仕事を1つ見送って、
またPTA活動がいそがしくなってきた。

特殊な事情があり、
委員長+グループリーダーの仕事をしているので、
ほんと、お給料もらっていいくらい働いている。
まあそれでも、役員さんたちや他の委員長さんを思えば、
私の仕事量は大したことないのかもしれない。
(この比較が曲者かもしれないが)

で、今回その特殊な事情により、
一時的に相当まいってしまっていたのだが、
そのなかでも思うことがあった。

それは、「タイミングが味方をしてくれている」
ということ。

味方というと、敵がいるみたいだから、
「タイミングが応援をしてくれている」
といったほうがいいかな。

たとえば、校長先生に用事があるけれど、
いまお忙しい時期だと思うからつかまるかな・・・と思っていたら、
私が帰ろうとするとき正面玄関で校長先生にばったり会って、
先生はちょうど何かを待っていて出かけるところで、
その数十秒の空白時間に確認したいことを確認できたり。

また、日程についての変更点を、
たまたま階段のところでばったり会った先生に
きくことができたり。

先生のみならず、同じ委員会の委員さんや、
委員会とは全然関係ないママ友に、
意外なところで意外な情報をもらえたり。

あと十数秒、もしかすると数秒ちがっただけで、
すれ違えない人とすれ違えて、
確認できなかったかもしれないことを確認できて、
知りえなかったかもしれないことを知ることができて、
その結果、負担が減ったり、
あらたな負担がふえたりしないことが
たびたびあった。

あるいは、お天気に左右される業務で、
お天気が味方してくれたり。

最初の1、2回は、「ラッキー♪」と思うくらいだったが、
途中から、「あ、タイミングが応援してくれている・・・」
と感じるようになった。

そのタイミングをもたらしてくれるのは、
父なのかおばあちゃんなのか、はたまた神様なのか、
よくはわからないけれど、
「だいじょうぶ、がんばってることわかってるから」
と言われているような気がして、気持ちが軽くなる。

そうやって落ち着いて考えてみれば、
いっしょに仕事をしている仲間も、
タンポポも、お天気も、そしてタイミングも、
みんな一緒にいてくれて、
なんだ、けっこう恵まれてるじゃん、と思えてくるのだった。

あとは、「特殊な事情」が生じた原因に、
とらわれないようにすること。

今年の2月に、「不機嫌は何も生まない」という言葉を
スケジュール帳に書き加えたが
(>「いま効く言葉」に加えた言葉 )、
不機嫌のみならず、マイナスの感情は何も生まない。
あえていえば、マイナスのものを生む。

でも、消す必要はないと思う。
いやなものをいやと思う気持ちは大事だし、
腹立つ相手に、腹立てることも大事。

だから、不快な気持ちは自覚して、アリにして、
あとはそれにとらわれないことだと思う。

桜もタンポポも、それからタイミングも、
そのことを教えてくれた。

もとより、桜もタンポポもタイミングも、
ただそこに咲いているだけ有るだけで、
私に何かを教えようという意志はさらさらなく、
私が勝手に学びとり、
いいように解釈しているだけかもしれないけれど。
 2012.05.12 Saturday 10:30 気持ちの元気 permalink  
「いま効く言葉」に加えた言葉

私はシンプル生活手帳2012の、
「わたしが人生でやりたいこと」の欄を、
「いま効く言葉」の欄にして使っている。
シンプル生活手帳2012の準備(3)/
プランニングシートを大胆にカスタマイズ

 
で、ここ最近思っていたことを、
新たにきょう書き加えた。

「不機嫌は何も生まない」


 いや、PTA活動のことではなく・・・(^^;


「生」という言葉を動詞として使うときには、
「生まれる」という形で使うのがしっくりくる私。
「うむ」場合は、やはり「産む」を使いたい。
でも、出産以外で「産」を使うのは
やっぱりちょっと、違和感がある。
考えてみれば、「産業」や「生産」のなかにも、
「産」が使われているのだけれど。

「生」という文字は、
草木ののびる様子を表した象形文字とのこと。
http://mtanabe1.at.webry.info/201101/article_2.html


なるほど。

 2012.02.09 Thursday 11:29 気持ちの元気 permalink  
「力を捨てる勇気」
昨年11月、
川端裕人『PTA再活用論』という本を買った。

経緯はこちら↓
こどものちかくPTA活動に疲れたり、
よくわからなくなったときに読むといいかもしれない本


現役のPTA会員---小学生や中学生の保護者---
の方々が読むと、「よくぞ書いてくれた!」
と思いたくなる本ではないかと思う。
(もちろん、地域や学校によって、
 PTAの在り様はさまざまだろうが。)

この本の最後に、
「あとがきにかえて-----今、力を捨てる勇気を」
という文章が書かれてある。

私、最近、この「力を捨てる」という言葉を
よく思い出す。

実際には、「力を抜く」というフレーズで
思い出すことが多いのだけれど。

手を抜くのではなく、力を抜く。

川端さんは、どういう意味合いで「力を捨てる」
と言っているかというと、
PTAが持ってしまった「力」を、
勇気をもって捨てるべきなのではないだろか、
という意味で使っている。

そして、これから先のPTA活動について、
具体的な提案もしている。

この本については、
いずれ詳しくレビューしたいと思っているのだけれど、
“考えながらシンプルライフ”のTATA−STYLEとしては、
次の一文を抜き出したい。

「みんな一緒」は放棄して、身の丈にあった活動をすればいいじゃないか。

ここだけ抜き出すと、
意味がわからないかもしれないけれど・・・



私は、どういう意味で「力を抜く」という言葉を
思い出すのかというと、
なんだかんだ言いながら、自分で勝手に、
自分にとってのPTA活動を重くしているのではないか?
と最近思うようになったからだ。

というか、「やっと気づきましたか・・・」と、
もう1人の自分が言っている気がする。

委員長を務めることで、
接するPTA会員の範囲が広がり、
いろんな人がいることがわかったし、
人の組み合わせによって
チームの雰囲気がこうも違うのかということに驚く日々。

そのような日々を経て、なんというのか、
おおらかになってきた気がするきょうこのごろ。

たとえば、返信してほしいメールに
返事が返ってこなくても、やきもきしなくなったとか(笑)。
公平さをあまり気にしなくなったとか。
自分でやったほうが早いことはもうやってしまうとか。

みなさん忙しいのだから、
とりまとめ役の私が、軽やかに、柔軟にならないとね。

ある意味、目的本位になったのだろうな。

というか、いまやっているお仕事の内容が、
これまでのお仕事とはニュアンスが違うので、
実務的になってきているのだと思う。

具体的に書かないとわかりにくい話なのに、
なぜかPTA活動については、
具体的に書くことに抵抗があるなぁ・・・(苦笑)
 2012.02.07 Tuesday 15:46 気持ちの元気 permalink  
「考えない」ってこういうことかな?
小池龍之介いうところの「考えない練習」について、
実践するともなくしているきょうこのごろ。

いや、実践しているとしても、
1日のうちのほんの十数秒なのだけれど。

でも、十数秒だけでもやってみると気づくことがある。

確かに、何かをしていると、
実にまあ、いろんなことを考えている、
ということに気づく。

いまやっていることとは直接関係ないことを、
あれやらこれやら考えている。
そして、考えは移ろっていく。
考えていないようでいて、考えている。

そして、何かを考えるとき、
その考えていることは、
過去か未来かのどちらかに関わることになる。

あるいは、どちらにも。

過去のことを反芻したり、
未来について思案したり。

それは過去か未来なのだから、必然的に、
現在やっていることについての思考ではない。

たったいまのことだけ考える、
というのはなかなか難しい。

何かを考えようとすると、
ある程度、時間の幅を要し、
その時間の幅は、
やっていることのサイズと一致しない。
タイミングも一致しない。

現在やっていることと同じ幅とタイミングで
何かを考えようとすると、
それは考えることではなく、
感じることになる。

だから、現在に集中しようとすると、
おのずとそれは感覚に集中することになる。
いま現在の情報に集中することになる。

もしかしたら、それさえシャットアウトすることも
絶対にできないことではないのかもしれない。
ずっとは無理でも、短い間であれば。

もちろん、そうなると、
やっていることがおざなりになるのだけれど。

では、だまって座っているだけだったら?

もしかすると、『考えない練習』の
「五感に能動的になる」ってのは、
本当の意味での能動的ではなくて、
考えないための手っ取り早い方法なのだろうか。

五感に鋭敏になれば、考えないですむから。

考えることよりも、感じることのほうが、
自我にあたえる影響が少ないから。

もしかしたら、考えないために、感じるってこと?

ならば、感じなくても考えなくてすむ人は、
感じる必要もないということだろうか?

何かをしているならばいざしらず、
だまってただ座っているだけだったら。

あるいは、あえてその時間をもつとしたら。

気がつけば、そんなことを「考えている」私。
そうなると、もう感じてはいない。
やっていることと頭がずれていることが、
自分でわかる。

正確にいうと、直後に、わかる。
考えと考えの節目で、現在にもどったときに、
自覚する。
 2011.11.11 Friday 12:04 気持ちの元気 permalink  
食器洗いで考える、「計画」と「集中」と「習慣」の関係
わが家から歩いていける距離に
TSUTAYAが2件あるのだけれど、
きのうそのうちの1件に行ったら、
小池龍之介が前面に押し出されていた。
まるでフェアのよう。
すごいなぁ。売れているんだなぁ。
売ろうとしているんだなぁ。

なお、ときめく片づけもいまだ健在。
レジの近くに、これでもか・・・というくらい積んであった。

さて、もう少し小池龍之介の本をのぞいてみることにする。

『考えない習慣』の第2章では、
それぞれの項目の最後にコラムがついているのだが、
そのなかに「計画する」というコラムがあって、
面白かった。

 何かを続けるために大切なことは、
 計画することである。
 しかし、計画するというと頭を使うことになるので、
 「考えない」ことを説いているこの本の主旨と
 逆じゃないか、と思われるかもしれないが、
 最初に計画を立てることによって、
 その計画通りにことを進めれば、
 あれこれ考えねばならない時間が少なくなるため、
 結果的に心身に良い影響を及ぼす。

という話。
「計画を立てれば考えないですむ」
というところにいたく納得した。

そのためには、最初に計画をじっくり立てること、
それを貫徹しないと、あとで嫌な思いをすることを
あらかじめ自覚しておくこと、
それを邪魔するようなものは見ない訓練をすること、
などが必要になる。

で、この話とは別に・・・というかそれ以前に、
シンプル生活手帳を使うあいだに
考えるようになったことがあるのだ。
それは、時間の使い方と習慣の関係のこと。

何かの習慣をつけるということは、
それを生活サイクルのどこかに
時間として組み込むということではないか、
と思うようになったのだ。
というか、今頃気づきましたか私、という感じなのだが。

「毎日○○する」という習慣をつけたかったら、
どの時間帯にそれをやるかを決める。
週1回なら、何曜日にやるかを決める。

逆に、生活に時間的に組み込めないものは、
習慣づけが難しいような気がしている。

時間的に組み込めなくても、
「○○の前に」とか「○○のあとで」
というタイミングでもいいのかもしれない。

で、それはある意味「計画する」ことなのだろう。

たとえば、まだ完成(!?)されてはいないが、
最近、食器洗いの苦が少しへってきた気がするのだ。
以前は、夕食後に食器をいつ洗うかを決めていなかった。
その結果、
食器洗い回想・・・・・・「自由とは何か!?」
みたいなことになっていた。

で、わが家の場合、お風呂を入れている間は
台所のお湯の出がわるいので、
夕食後にお風呂を入れながら食器洗いできない。

というわけで、
お風呂からあがったらすぐ洗うように
習慣づけようと試みたこともあったのだが、
どうにも定着しない。
たぶん、お風呂からあがってすぐの立ち仕事を、
私の怠慢な身体は受け入れないらしい。

そこで、お風呂からあがって、
ドライヤーで自分の髪の毛を乾かしてから、
洗うようにしたら、いい感じで習慣づいてきたのだ。

ついでに、他のことも含め、
お風呂から就寝までの流れを
あれこれ検討しているところ。

食器を洗っている間に、
洗濯機が洗いからすすぎにうつるのだけれど、
台所にいるとその音も聞き取りやすいので、
バケツのお湯汲みのタイミングもつかみやすい。
(注:風呂水用ポンプの修理失敗のこと

そう、あのころだって気づいていたのだ。

流し台にたまった食器の山が視界に入って
やだな〜〜めんどくさいな〜〜
と思っている数秒間のほうが、
実際に洗っている数分間よりも、
時間感覚としては重いのではなかろうか。
ね。>私

この、「やだな〜〜めんどくさいな〜〜」
という時間を作らないことがミソなんだよ、たぶん。
あと、次に何をしよう、何をやらなくちゃいけないんだろう、
と考えることが、とても負担になるのだ、たぶん。

(ちなみに、実際、皿洗いについての例は、
『考えない習慣』第1章で出てくる。
私の話とはニュアンスが違うけれども。)

で、ふと思うこと。

習慣づいてしまうと、逆に、それをやっている間に
他のことを考えてしまうようになるのではないか?
ということ。

習慣づけるということは、ある意味、
無意識化するということではないのだろうか?

そうなると、結局、五感に能動的にならず、
「考えてしまう」ことになるのではないだろうか?

これについては、現在も検討中。

ただ、強迫神経症気質の私の場合、
すすいだかどうかが気になって、
何度もすすいでしまうことがあり、
そういうときって、けっこう、心ここに在らず、
のときなんじゃないかと感じている。
実はあれこれ考えているのだ。

なので、“回想”をやめて、
指先でお皿や茶碗のぬるぬるがないことをしっかり感じ、
全体に水をかける様子をしっかりと見ておけば、
「すすいだのにすすいでない感じ」
がなくなるような気もしている。

こちらもまだ未完成。

しばらく試してみようと思っているところ。
 2011.10.31 Monday 14:21 気持ちの元気 permalink  
『考えない練習』から、「書く」こと&コミュニケーション

小池龍之介『考えない練習』第二章を、
受信機能・発信機能という観点から
あえて構成を変えて読んでいる。

次は発信機能のうちの「書く」についてみていきたい。

なお、「書く」は「読む」とセットになっている。 

「書く」という行為にもいろいろあろうかと思うが、
ここはおもに、インターネットや電子メールでの
書くことによるコミュニケーションに焦点をあてて述べてある。
最初の3行はこんな感じ。

 インターネットや電子メールの出現によって、ここ二〇年ほどでコミュニケーション方法は劇的に変わりました。人とつながっていたい、人に受け入れられたい、という欲求が、巨大な市場を形成して、そこで巨額のお金が動いているのです。

(「市場」には「マーケット」というルビあり)

で、仏道の十善戒のなかにある
「不綺語」(無駄話をしない)が取り上げられている。

社交のために無駄話が役に立つこともあるけれど、
無駄話ばかりだと、有意義な話や
生産的な会話をする暇がなくなってしまうので、
ゼロにするのは無理としても、いまより30%ぐらい
減らしてみる努力をしても良いのではないか、
というのが小池龍之介の提案。

そして、ウェブログや、
ミクシィなどのSNSなどについても言及してある。
なお、ツイッターについては
別のところで言及してあった記憶があるが、
どこだったか忘れてしまった。

ちなみに、先に自分のことを書いておくと、
私もブログを書き続けているわけだけれど、
小池氏のいうようなコミュニケーションからは、
もうはなれているので、
小池氏の指摘がとりあえずあてはまらない。

比較的よく更新しているし、
コメント欄やトラックバック欄ははずしているし、
ミクシィは必要に応じて
ピンポイントで「読む」ために会員になっている。
なので、リアクションに一喜一憂することもないし、
友達の日記にコメントを返さなくては・・・
という交換条件を感じることもないし、
「いつも良いコンテンツを更新し続けて
皆に評価されねばならない」
というプレッシャーもない。

(逆にいえば、間違いを指摘してもらったり、
補足してもらえる可能性が格段に減ると思うので、
そこは自分でやるか、諦めないといけない。)

ツイッターもやっていない。

そんな私ではあるけれども、それでも確かに
「人とつながっていたい」「受け入れられたい」
と思いながら、ブログを書いている。

しかし、本当につながっているのか、
だれにどのくらい受け入れてもらっているのか、
実のところ、わからないのだ。
というか、わかりようがないのだ。
コメント欄やトラックバック欄を設けても、
程度の差こそあれ、根本的に
「わからない」ことに変わりないような気がする。

一応、アクセス解析は見ているが、
もともとブログについているアクセス解析とは
別のアクセス解析を入れてみたところ、
出される結果が(数としては)まったく違うことがわかった。
私の導入の仕方に問題があるのかもしれないが、
あまりにも数値が違うことから、
「アクセス解析ってもともと幻想かもしれない」
なんてことも思ってしまったのだ。

また、アクセス数が何によって増減するのか、
わからないことも多い。

でも、メールアドレスは載せているので、
ごくたまにメールをくださる方はいる。
わざわざプロフィール欄を探してくださって、
画像として載せられているアドレスを書き写してくれて、
メールをくださっているのだと思うと、
とてもありがたいと感じる。
また、その作業をしてでも、伝えたいことがあり、
伝えたいという気持ちがあるのだと思う。

そのような応答をとてもありがたいと思いつつも、
基本的に私は、考えるためにブログを書き、
だれかの文章をよく読むためにブログを書いている。

それだけのことならば、
ノートや、自分のパソコン上でできそうなものだが、
それではダメなのだ。
私ではないだれかが読んでくれる可能性がある、
web上でないとだめなのだ。

このあたりのことは、
仏道というよりは哲学にヒントがあるかもしれないので、
機会があったらゆっくり考えたいと思う。

さて、自分のことはこれくらいにして本にもどると、
小池龍之介いわく、無駄話の背景には
「人に受け入れられたい」「人に嫌われたくない」
という「慢」の欲がある、と。
特に最近は、この「人に受け入れられたい」欲求が、
お金を産むものに大きく結びついている、と。

景気がよくなってけっこうじゃないか、
産業が発展してけっこうじゃないか、
という話になるだろうか。なるかもしれない。

なお、その例としては、
携帯電話や電子メール、
インターネット上のウェブログや
コミュニティーサイトがあげられている。
何がどうお金を産んでいるのか、
もう一歩踏み込んできいてみたいが、
それは小池龍之介にきくことでもないだろう。

で、「受け入れられたい」「人に嫌われたくない」
という言葉よりは、「人とつながリあっていたい」
という言葉で考えたほうが個人的にはわかりやすいので、
そっち方向で考えてみると、私のような人間の場合、
スマートフォンに移行しないことを、
さんざん迷って決心しなくてはいけなかったように、
ツイッターを使わないことをあえて検討して決心する、
といった妙な状況が生じている。
ミクシィに対しても、同じことを感じたことがある。

もっと軽やかにミクシィを楽しみ、
ツイッターを楽しむ人もいれば、
あたりまえのこととして、
それらのツールを使わない人もいるだろうし、
軽やかに選択している人もいるだろう。
なのになんで自分はこんなにめんどくさいのだ?と
思うわけなのだ。
(結局また自分の話にもどってしまうのだけれど)

たぶん、それらのツールを使って
何かをするということ以前に、
それらを使うことそのものが、
自分はだれかとつながっていることにつながる
(いま、世の中はそういう流れになっている)
という感覚があって、逆にいうと、
使わないことを決心することで、
つながることを“あえて”拒否することになるという、
そんな感覚があるのかもしれない。
つくづく自分がめんどくさい(笑)。
二重にめんどくさい。

そんな私にとってはブログというものが、
ちょうどよいツールだったのだということを
ここ数年しみじみ感じている。

かくいう小池龍之介も
長年にわたりウェブサイトを運営しているわけだが、
便利なインターネットを使いながら
煩悩に飲み込まれないようにするために、
次のようなアドバイスをしている。

・記事を書くときには、ネットに接続しない状態で、
 手書きで下原稿を書く。
 (高速の思考に支配されないため)

・書きたいことが10個出てきたとしても、
 取捨選択して、3つか4つにとどめておくと良い。
 素材が余分にできる分、
 他人に有用でないものは削って
 本当に良いものだけが残る。

・「ムカついている」ことを取り上げて、
 あれが気に入らない、これが気に入らないと
 書くことは避ける。書くことによって、
 嫌なものを世の中から減らしたいと
 思っているのかもしれないが、
 結局は自分の心に怒りのエネルギーを焼き増しさせ、
 ストレスを増やし、心身ともに悪影響を与えるだけ。 
 自分が好ましいと思っていることだけ書いて、
 ネガティブなことは絶対に書かない。

・コメントやレスポンスに一喜一憂しない。
 アクセス数が増えても、お褒めのメールが来ても
 いちいち舞い上がらない。
 アクセス数が減っても、否定的なメールが来ても
 いちいち嘆かない。

・インターネットは、単に自分の心が疲れるか
 疲れないかを判断基準にしながら、
 距離をおいてつき合う。

このあとは、
匿名掲示板は無慚の心を増幅させることや
メールでもお互いの自我を刺激しないことのほか、
人に見せるためのものではない(本来の)日記を勧め、
たまの手紙のやりとりは新鮮で気持ちの良いものだ、
と語ったあと、この項目を終えている。

折りしも、
他のブログでよく話題に出させていただいている
メタメタさんが、
SNS版「こんな人はいやだ!」という記事を
書いておられるので、
実際にSNSに参加しておられる方の意見
(というか感覚)として、
参考までにリンクさせていただきます。

とにもかくにも、人ってやっぱり基本的に、
どうしようもなくつながりたい生き物なのだと思う()。

それからもうひとつ思うことは、
コミュニケーションを有意義にするかどうかは、
受け手に負うところが大きいのではなかろうか、
ということ()。

他人に有意義であれ・・・と思って書いたコメントも、
ある人にとってはさほど有意義でないかもしれず、
どうでもよさそうな話に、
意外なめっけものをする人もいるかもしれない。
程度や割合の問題でもないと思う。

(つづく)

 2011.10.12 Wednesday 11:25 気持ちの元気 permalink  
『考えない練習』から、「話す」ことと、もうひとつの話
小池龍之介『考えない練習』第二章を、
“受信機能”という観点から
あえて構成の順序をかえて読んできたが、
今度は、“発信機能”としての、
「話す」こと、「書く」ことについてみていきたい。

まず、「話す」について。

私たちはふだん、
自由に考え、自由に話をしているつもりでも、
そこにあるのは「刺激によるインプット」と、
「思考が自動的に反応するアウトプット」だけだと
小池龍之介は言う。
結果、「話している」のではなく、
「話させられている」という状態になる、と。

では、どうしたらいいか?

まずは自分の声音の観察をする。

ここでもポイントは、
「ゆっくり話さなきゃ」とか、
「穏やかに話さなきゃ」と“考えて”、
自分を追い詰めないことであるらしい。
単に自分の声色に集中する意識ができてさえいれば良い。

自分の声を観察すると、
他人が早口で大声で話しているときに
嫌な気持ちを感じるのと同様に、
自分の声や話し方にも違和感があるはずで、
そこに気がつけば、自然に抜け落ちて、
穏やかな話し方になっていく、ということらしいのだ。

で、「話す」については、
このあとも事細かに説明が続く。

ムッとしてしまったり、
口答えをしたくなった時の対処の仕方、
謝罪の仕方、言い訳、悪口、嘘、無駄話、感謝について。

ポイントをすごく簡単にまとめると、
次の2点になると思った。
1つは、自分の感情を見つめること。
もう1つは、相手の苦を除くことに気持ちを向けること。

「見る」のところで、対人で会話をするときには
相手の表情に目を向けるという、という話が出てきたが、
ということは、自分の声も聞きながら、
相手の表情も見ながら会話をすることになるわけで、
確かにこれじゃ考えているヒマなどなくなるかもしれない。

なお、このヒマのなさについて考えていたら、
川口有美子『逝かない身体―ALS的日常を生きる』
帯に、「ああ、生きるのにいそがしい・・・・・・。」
という言葉が書いてあったのを思い出した。

このフレーズを借りるのであれば、
「ああ、観察するのにいそがしい・・・
したがって、考えているヒマがない。」
ということになるかも。
実際、著者がこの本のどこかで
そういうことを書いていた気がする。

で、少し先走った話を書いてしまうと、
確かに、観察に徹して自我を刺激せずにいれば、
余計なことを考えずに思考が暴走せずにすむかもしれないが、
かといって外界をシャットアウトしようとするものではなく、
むしろ脳内ひきこもり状態から脱することが
目的だと思うわけであり、
そうやって、見て、聞いて、触れて、食べて、意識して、
自分を含めて一生懸命観察している自分はだれ?
と思ってしまうのだ。

そこに、「私」が、いる、と。

ニュートラルなものを能動的に感知している私。
他人の苦をのぞいてあげようとしている私。

キーボードに触れているのも私、
触れている感触を意識しているのも私。
知覚の主体は、いったいなんなのか、どこにいるのか。

いてもかまわないのか?

むしろそれが目的か?

というようなことに意識が向いてしまう私は、
小池龍之介『「自分」を浄化する坐禅入門』
Amazonのレビューのうちの、
これは禅ではありません」というタイトルの文章に
とても興味をもった。

「30分で無我を悟った」というのであれば、それは「30分で無我を悟ったと認識する我が新たに上書きされただけのこと」です。

という一文に、いたく納得したのだ。

なお、レビューを書いたご本人も言っているように、
単に禅ではないことを伝えようとするもので、
小池龍之介の方法を批判したものではない。

実際、小池龍之介の本に救われるほとんどの人は、
悟りたいわけではなく、
いまよりも少しラクになりたいだけかもしれず
(あるいはそれを悟りと呼んでもいいのかもしれない)
それで全然オッケーなのだと思う。

ただ思うことは、自我にフィードバックさせないことにより、
かえって、「感じている私」という「私」が浮き彫りになり、
「余計なことを考えている私」と「感じている私」は違うのか、
感じる自分と自我は何が違うのか、
ということに対する興味が、ますます深まっていくのだった。

そんな私は、たぶん、これからも、
余計なことをうだうだ考えながら、
生きていくような気がする。

(つづく)
 2011.10.10 Monday 15:09 気持ちの元気 permalink