タイミングが応援してくれる

なかなかこのブログの更新が安定しないところをみると、
まだ春の日々の名残は残っているらしい。

その後PTA活動がいったん落ち着いて、
自分の仕事の納品をひとつ終えて、
ゴールデンウィークはそれなりに遊んで、
小さな仕事を1つ見送って、
またPTA活動がいそがしくなってきた。

特殊な事情があり、
委員長+グループリーダーの仕事をしているので、
ほんと、お給料もらっていいくらい働いている。
まあそれでも、役員さんたちや他の委員長さんを思えば、
私の仕事量は大したことないのかもしれない。
(この比較が曲者かもしれないが)

で、今回その特殊な事情により、
一時的に相当まいってしまっていたのだが、
そのなかでも思うことがあった。

それは、「タイミングが味方をしてくれている」
ということ。

味方というと、敵がいるみたいだから、
「タイミングが応援をしてくれている」
といったほうがいいかな。

たとえば、校長先生に用事があるけれど、
いまお忙しい時期だと思うからつかまるかな・・・と思っていたら、
私が帰ろうとするとき正面玄関で校長先生にばったり会って、
先生はちょうど何かを待っていて出かけるところで、
その数十秒の空白時間に確認したいことを確認できたり。

また、日程についての変更点を、
たまたま階段のところでばったり会った先生に
きくことができたり。

先生のみならず、同じ委員会の委員さんや、
委員会とは全然関係ないママ友に、
意外なところで意外な情報をもらえたり。

あと十数秒、もしかすると数秒ちがっただけで、
すれ違えない人とすれ違えて、
確認できなかったかもしれないことを確認できて、
知りえなかったかもしれないことを知ることができて、
その結果、負担が減ったり、
あらたな負担がふえたりしないことが
たびたびあった。

あるいは、お天気に左右される業務で、
お天気が味方してくれたり。

最初の1、2回は、「ラッキー♪」と思うくらいだったが、
途中から、「あ、タイミングが応援してくれている・・・」
と感じるようになった。

そのタイミングをもたらしてくれるのは、
父なのかおばあちゃんなのか、はたまた神様なのか、
よくはわからないけれど、
「だいじょうぶ、がんばってることわかってるから」
と言われているような気がして、気持ちが軽くなる。

そうやって落ち着いて考えてみれば、
いっしょに仕事をしている仲間も、
タンポポも、お天気も、そしてタイミングも、
みんな一緒にいてくれて、
なんだ、けっこう恵まれてるじゃん、と思えてくるのだった。

あとは、「特殊な事情」が生じた原因に、
とらわれないようにすること。

今年の2月に、「不機嫌は何も生まない」という言葉を
スケジュール帳に書き加えたが
(>「いま効く言葉」に加えた言葉 )、
不機嫌のみならず、マイナスの感情は何も生まない。
あえていえば、マイナスのものを生む。

でも、消す必要はないと思う。
いやなものをいやと思う気持ちは大事だし、
腹立つ相手に、腹立てることも大事(笑)。

だから、不快な気持ちは自覚して、アリにして、
あとはそれにとらわれないことだと思う。

桜もタンポポも、それからタイミングも、
そのことを教えてくれた。

もとより、桜もタンポポもタイミングも、
ただそこに咲いているだけ有るだけで、
私に何かを教えようという意志はさらさらなく、
私が勝手に学びとり、
いいように解釈しているだけかもしれないけれど。

 2012.05.12 Saturday 10:30 気持ちの元気 permalink
同じではないし、異なってもいない/不一不異

時間があいてしまったけれども、
もう少し中村元『龍樹』を読んでみることにする。

ナーガールジュナ(龍樹)の主要論敵は
説一切有部であったが、
説一切有部は“たんなる”実在論ではなく、
「ありかた」が「有る」という考え方をした>。 

たんなる実在論では、1人の人が有り、
その人が歩むからその人を<去る主体>といい、
歩む作用を抽象して<去るはたらき>という。

しかし、法有の立場(説一切有部)は、
1人の人が有るかどうかということを問題にせず、
その「ありかた」が有るとみなすので、
1人の人が歩む場合に「去る」という「ありかた」と、
「去る主体」という「ありかた」を区別して考え、
それぞれに実体視しなければならないことになる。

ナーガールジュナはここを突いたらしい。

「去る主体」と「去る」という「ありかた」を区別して考えると、
果たしてこれらは一つのものか、異なるものか、
という問題が生じてくる。

もし、去るはたらきなるものと去る主体が同じものならば、
作る主体と作るはたらきとが一体であるということになり、
作る主体と作用とは同一なので、これは作用であり、
作る主体であるという区別はない。
しかるに切断作用と切断者が同一であるということはありえない。
それ故に去るはたらきが去る主体であるということは正しくない。

また、去る主体が去るはたらきと異なっているとすれば、
去る主体がなくても去るはたらきがあり、
去るはたらきがなくても去る主体があるということになり、
去る主体と去るはたらきは無関係ということになってしまう。
しかし、去るはたらきは去る主体とは別に成立しているとは
認められない。

したがって、一体としても別体としても成立しないところの
去る主体と去るはたらきは、成立しない。

ということらしい。

ちょっとわかるような、全然わからないような・・・

とにもかくにも、ナーガールジュナ(龍樹)は
概念を否定したのではなく、概念の矛盾を指摘したのでもなく、
概念に形而上学的実在性を附与することを否定したらしいのだ。

で、これをもう少しわかりやすく、
中村元さんが解釈してくれている。

相関関係にある甲と乙との2つの「ありかた」が、
全く別なものであるならば、
両者の間には何らの関係もなく、
したがって“はたらき”も起こらない。

さらに甲であり乙であるということも不可能となる。

甲であり乙であるといいうるのは、
両者が内面において連絡しているからである。

故に甲と乙とが全然別異であるということはありえない。

また、甲と乙が全然同一であったならば、
両者によって“はたらき”の起こることもなく、
また甲であり乙であるという区別もなくなってしまうであろう。

故に両者は全然同一ではありえない。


うーん・・・やっぱり、わかるようなわからないような・・・
なんか「はたらき」というものを
別々の次元で考えているような気がして、
話が微妙に混乱しているような・・・

でも確かにこうなると、
単なる実在論のほうがすっきりするなぁ、
という気にはなってくる。

何しろ法有の立場は自然的存在を問題とせず、
「去る」という「ありかた」と、
「去る主体」という「ありかた」とを区別するから、
それぞれを実体視せねばならなくなり、
こういうめんどくさいことになるのかもしれない。

というところを、ナーガールジュナは突いたのだろう。


(きょう読んだのは、p.132〜136のあたりです)

 2012.04.27 Friday 12:39 「空」の思想 permalink
桜から、タンポポへ

今年のタンポポは、
大きくて丈夫でくっきりしているような気がする・・・
と思ったあと、去年のいまごろやおととしのいまごろ、
タンポポに目を向けた時間があっただろうか?
と思い直した。

タンポポに目が向くのは、
「あら、こんな季節にこんなところで・・・」
という感じで咲いているものを
見つけたときだけだったような気がする。

たぶんセイヨウタンポポだと思うけれど、
今度もう少しよく観察してみよう。

春の日々は少しずつ落ち着きをみせてきている。

各種提出物もだいたい一段落してきたし、
PTAも新しい活動が始まりつつある。

先日、委員長の引継ぎもして、少し身軽になった。
5月いっぱい仕事は続くけれども。
その仕事のほうも、
最大の(精神的)難関は過ぎたと思われ、
あとはひたすら実務をこなしていくのみ。

サッカーママをやっている友人が
「お給料もらっていいと思うくらい働いている」
と言っていたけれど、同感なり。


 そういえば金子由紀子さんも
 昨年度はサッカーチームの役員を務められていたようで、
 折りにふれ、その話題にブログで触れておられた。
 (>a day in the life

 そんなこんなで、保護者っていそがしい。
 この忙しさは子育ての本質的なものなのだろうか?
 と思うことがよくある。


最大の難関は過ぎた(であってほしい)としても、
やはりうつむいて歩いていたらしく、
タンポポの花でそれに気づかされた。

でも、タンポポの黄色の強さにハっとして、
たまにはうつむいて歩くのも悪くないかも・・・と思った。

わが家は学校から近くて本当にありがたいのだけれど、
3分ほどの道のりの間に、目を向ければいろいろなものがあり、
それらが変化していく。

毎日同じことをするから、変化がわかる。
のことを思い出した。

この道を、娘は何を思いながら学校に向かい、
何を思いながら家に向かうのだろう。

大事な時間、大事な道なのかもしれない。

 2012.04.26 Thursday 09:24 その他 permalink
春の日々

仏教、特に空の思想について考えようとしていた
あの冬の日々がもはや懐かしい。 

その後、別のブログで集中して書きたい記事があったので、
そちらに集中し、子どもの春休みが終わって新学期に突入、
それ以来怒涛の日々を過ごしている。

といってもさすがに子どもも5年生になり、
恒例の春の慌しさにはある程度慣れてきていると思う。

何が大変かといえば、PTA。
昨年度担当の委員長のお仕事が5月いっぱい続く予定で、
特にこの時期は忙しく、毎日のように学校に行っている。
午後から保護者会という日も、午前中はPTAでひと仕事。

時間をとられるのはこの際かまわないし、
なんらかの作業があるのもよしとする。
大変なのは、委員さんたちのとりまとめ。予想外に大変。
基本的に横組織であって、私は別に上司ではないのだが、
責任者ではあり、今回の仕事は外部との関わりもあるので、
いやはや、大変。私、ただの「小学生の保護者」なんですけど・・・

でも、このあいだ学校からの帰り道、
うつむき加減に歩いていて、ふと顔をあげたときに、
散り始めた満開の桜の木の姿が「ふわっ」と目に入り、
少しだけ心が軽くなるのを感じた。春の力。

新年度って慌しいのだけれど、
これって、“春”だから乗り切れるよなぁ・・・と思うことがある。
苦手な冬の中でこれと同じ状況に陥ったら、
私、寝込んでしまうかも。

いつしかこの桜の木を、特に予定もない春の日々のなかで、
「あの頃大変だったけど、それなりに面白かったなぁ・・・」
と見上げる時がくるのだろうか。
(この桜の木ではないかもしれないが)

そういえば、幼稚園で役員をやったとき、とある小さな会合で、
教育委員会の指導主事(?)の先生が、
「みなさん、いま、忙しい、忙しい、
 と毎日を送られていると思いますが、
 いまがいちばんキラキラしている時だと思いますよ」
というようなことを話していたっけ。

そのときに私は、「うっそー!?!?」と思ったものだった。
キラキラ!? これが!?

毎日髪ふりみだして(そうでなくても乱れているが^^;)、
これから何が起こるかもわからない状態で
プレッシャーと戦いながら、
出るべき会合に出て、やるべき作業をやって、
「PTA役員って究極の不払い労働だわ〜〜」
と思っていたあの日々に「キラキラ」という擬態語があてられて、
「きょとん」としたあと「うっそー」となったのだ。

でも、その先生は小学校の校長先生を務めたのちに
指導主事になられたという話をきいた記憶があるので、
その年齢の方からみれば、
幼稚園児の子をもち、PTAでわいわいやっている私たちの姿は、
キラキラに映ったのかもしれない。

そして実際、そうなのかもしれない。

ちなみに、今年度も委員になったが、
委員長になる可能性が絶対にない委員会で、
リーダーになる可能性も低いところ。

委員にならずにすむ道もあったが、
最悪の事態を避けるため、早目に手を打った。

役決めのある保護者会の出席率、100%でございました。
そう、この日でこの1年が決まるといっても過言ではないから、
お仕事ある方もこの日だけはお休みとって参加することだろう。

で、結果、けっこうスムーズに決まった。
5年生ともなると、みなさん対策を立てて心を決めて、
場にのぞむのかもしれない。

それにしても、子どもが2人、3人、・・・といたら、
春の慌しさはハンパじゃないだろうと思う。

 2012.04.14 Saturday 08:00 その他 permalink
ナーガールジュナ(龍樹)の「運動の否定の論理」

中村元『龍樹』を読んでいる。 

そんなこんなでナーガールジュナ(龍樹)は
いろいろなものを縦横自在に批判し、
いろいろなものを「ない、ない」と言ったらしいのだが、
何をどのように「ない、ない」言ったのか、
もう少し具体的にみていこうと思う。

まず、「運動の否定」について。

ナーガールジュナ(龍樹)は、

  すでに去ったものは去らない。
  まだ去らないものは去らない。
  現在去りつつあるものも去らない。

というようなことを言っているらしい。

厳密にいうと、

 已(すで)に去られた<時間のみち>(世路)は去られない。
 未だ去られない<時間のみち>も去られない。
 現在去られつつある<時間のみち>も去られない。

ということになるらしい。

このうち、「すでに去ったものは去らない」はわかりやすい。
去っちゃったものに、もう去る作用はないだろうから。

2番目の「まだ去らないものは去らない」は、
「ん?」と一瞬首を傾げてしまう。
まだ去らないけれど、
これから去るかもしれないじゃない、と。
だけど、いまはまだ去らない。
なるほど、じゃあ、ここにも去る作用はないか。

しかし、3番目はどうだろうか。
現在去りつつあるものは、
まさに去ろうとしているわけで、
そこには去る作用があるのでは?
という疑問がわく。

で、『中論』の理解にあたっては、
チャンドラキールティ(月称)の注釈が重要らしいのだが、
チャンドラキールティ(月称)は、
「現在去りつつあるものは、すでに去ったものと、
まだ去らないものとを離れてはありえず、
そのいずれかに含められてしまう」ということを強調しているらしい。

ほんでもって、
ナーガールジュナ(龍樹)は、
「現在去りつつあるものは去るんじゃない?」という、
先の疑問にこう切り返す。

「<去りつつあるもの>が去る」っておかしいでしょ、と。

去りつつあるものは、すでに去る作用を有している。
「○○○が去る」と言えるのは、
○○○が去る作用を有していないときだけ。
だから、<去りつつあるもの>が去る、というのは不合理。

もし、<去りつつあるもの>がすでに有している「去る」と、
新たに述語として付加される「去る」の
2種類の「去る」を認めるとすると、
さらに誤謬が付随する。

「去る作用」というものは、「去る主体」があってこそのもの。
去る主体を離れて去るはたらきはありえない。
去る主体と去るはたらきは互いに相い依って成立している。

だから、「去る作用」が2つあるならば、
「去る主体」も2つあるはず。
これはおかしいでしょ?

ということらしい。

なんだその屁理屈は・・・と言いたくもなるが、
確かに「去りつつあるものは去るでしょ?」と書いたときに、
ほんのにかすかに違和感があったことは否めない。

なお、この「運動の否定の論理」は、
『中論』の第二章に述べられてあるらしいのだが、
ナーガールジュナ(龍樹)はこの論法を重視していて、
あとの章では、第二章のこの証明を
すでに確立された自明のものとみなしているらしい。

(きょう読んだのは、p.117〜121あたりです)

 2012.03.16 Friday 12:18 「空」の思想 permalink
『中論』の用いる論理は帰謬論法、自説は主張しない。

中村元『龍樹』を読んでいる。

説一切有部の言い分をきいていると、
なんだか、
「ない」ものをちゃんと「ない」ものたらしめるために
あるものをあらしめているような気がしてくる。

一方、ナーガールジュナ(龍樹)のほうは、
「ない」を徹底していて面白い。

たとえば、
『中論』が用いている論理は、
プラサンガと言われるようなのだが、
これは帰謬論法であるらしいのだ。

「謬(びゅう)」とは誤りのことで、
つまりは「誤りに帰する」論法ってことなのかな。

すなわち、論敵にとって願わしからざる結論を
導き出したらしいのだ。
そしてそのことは、
論敵と反対の主張を承認するという意味ではない。

中観派は、けっして自らの主張を立てることはしない。

 もし、自分に何らかの主張があるならば、
 まさにそれゆえに、
 自分には理論的欠陥が存在することになるだろう。
 しかるに自分には主張は存在しないので、
 まさにそれゆえに、
 自分には理論的欠陥が存在しない。

というようなことを、
ナーガールジュナ(龍樹)は言っているらしい。

すんごくひらたくいえば、
「そういうこと言うと、こういうことになって、
おかしいよね。それはないよね。」
とだけ言い続けていたってことなのか。

なんだか、「やなやつ〜」と思うが、面白い。

というわけで、中観派の哲学者たちは、
自分たちの立場が論駁されることはありえないことを
確信していたらしい。

主張はない。
したがって、理論的欠陥はない。
したがって、論駁されない。


(きょう読んだのは、p.128〜131あたりです)


 2012.03.13 Tuesday 10:57 「空」の思想 permalink
諸行は無常だけれども、「諸行は無常である」という命題は変わらない。

中村元『龍樹』を読んでいる。

ナーガールジュナ(龍樹)が何を否定したのかを
詳しく見ていくまえに、
主要論敵である「説一切有部」の考え方を
のぞいているところ。

説一切有部は、
「ありかた」としての法を“有り”としたらしいのだが、
この「ありかた」とは、今日のことばでいえば、
「ほぼ概念の中に含まれるところのものである」
と中村元さんは書いている。
(この「概念」という言葉は、
 論理学の用語として考えるといいのかもしれない。)

ところが、説一切有部は、
概念のみならず、命題がそれ自身実在することを
主張したらしいのだ。

  つくられたものども(諸行)は無常である。
  しかし、「諸行は無常である」という命題自身は 
  変易しない。
  もし、その命題自身が変易するならば、
  つくられたものどもは無常である、とはいえなくなる。

なるほど〜
説一切有部の主張はわかりやすいなぁ。

ほんでもって、中村元『龍樹』のp.96〜97に
「五位七十五法」なる一覧が示されていて、
どどどどどっと何か書いてあるのだが、
これが全部「法」ということらしい。たぶん。

ちなみに命題は「句」ということで、
「心不相応行法」(心に伴わないもの)の中に
含まれている。
なお、一覧の中では「句身」(文章の集まり)と書いてある。

数えてみたら74個しかなくて、
あと1つはなんだ?と思っていたら、
「心法」(心)を見落としていた。

というのも、最初の分類は
「無為法」(生滅変化を超えた常在絶対なもの)と
「有為法」(原因・条件によって生滅する事物)の2つで、
「有為法」は4つに別れ、
その4つがまたいくつかにわかれ・・・と分類されている中で、
「心法」は「有為法」の1つとしてぽつねんとあり、
分岐していないのだ。
なので、目立たず、見落としてしまった。

そうか、心はそれ以上、分類できないのね・・・

 2012.03.12 Monday 14:54 「空」の思想 permalink
「法有」の立場/「・・・である」から「・・・がある」へ

「たまねぎである」と「たまねぎがある」
の違いを考えてみる。

「これはたまねぎである」という場合、
目の前にある物体がたまねぎだということのほか、
たまねぎというものが存在する、
ということも言えるだろう。
つまり、「である」は、「がある」に推移することができる。

一方、「たまねぎがある」については
2種類の「・・・がある」が考えられる。

たとえば夕食を作ろうとして、
野菜の在庫を確認したとき、
「あ、たまねぎがある・・・」というときの「がある」は、
いま、そこに、たまねぎがあるということであり、
これは哲学の問題として考えるようなものではなさそう。

これに対して、いま、そこに、かどうかを問題とせず、
時間的空間的規定を超越している普遍的概念として
“たまねぎ”が存在するかどうかを考えるときの
「がある」もあり、こっちは哲学の問題として取り扱われる。

こういうことを考えようとする哲学者はいっぱいて、
いろんなひとが、この「ありかた」を基礎づけようとした。

ほんでもって、「法有」の立場も、
この線に沿って理解すべきなのではないか、
ということらしいのだ。

すなわち、初期仏教における
「・・・であるありかた」としての法が、
有部によって
「・・・であるありかたが有る」と
書き換えられた。

つまり、おおまかにいえば、
「である」から「がある」へ論理的に移っていったのが、
法有の立場の成立する理論的根拠であるらしい。
 
(参考文献:中村元『龍樹』p.88〜89/
 「たまねぎ」は私が勝手に作った例です)

 ちなみに、個人的には、
 「である」には「=(等号)」のイメージがあり、
 「がある」には「∃(存在記号)」のイメージがある。


 2012.03.09 Friday 10:40 「空」の思想 permalink
説一切有部の言い分/無常を無常ならしめている原理

ナーガールジュナ(龍樹)が批判した、
説一切有部の言い分(中村元さんの推察)を
きいてみることにする。

で、きいてみると、なるほどこれはこれで一理ある。

というか、かなり納得した私。

まず最初におさえておきたいのは、
説一切有部が「縁起」を軽視したこと。
(「縁起」については
いずれゆっくり考えることとして)

つまり、縁起によって法の体系を基礎づける立場を捨て、
法を「有り」とみなすことで基礎づけようとしたらしいのだ。

ゴータマ・ブッダは、
もろもろの存在が生滅変遷するのを見て、
「諸行無常」を説いた。

しかし、諸行無常を主張するためには、
なんらかの無常ならざるものを必要とする。

だって、全く無常ならざるものがないならば、
「無常である」という主張も成立しないから。

もちろん仏教である以上、無常に対して常住なる存在を主張することは許されないし、またその必要もないであろうが、無常なる存在を無常ならしめている、より高次の原理があるはずではないか、という疑問が起こる。

  (中村元『龍樹』p.87)

なるほど〜〜

そして、
「一般に自然的存在の生滅変遷を強調する哲学は
必ずその反面において不変化の原理を想定するのが
常である」として、古代ギリシアのエレア派と、
反対派のヘーラクレイトスの名前が出されている。
このあたりもいつか考えてみたい。
ちなみに、エレア派にはゼノンがいる。

とにもかくにも、
ゴータマ・ブッダが有・無の2つの極端説を
否定したにもかかわらず、
説一切有部は「有」を主張した。

特に、法の「有ること」を。

なぜか。

ということを理解するには、
「・・・である」と「・・・がある」の違いについて、
考えるといいみたい。


(つづく)


 2012.03.08 Thursday 09:35 「空」の思想 permalink
仏教がいうところの「法」とは何ぞや

「法」ときくと、法律のことを思い出す。
すなわち、決まり、規則、ルール。

また、方法の「法」とか、消去法の「法」を思うと、
「やりかた」という意味も思い浮かぶ。

では、仏教がいうところの「法」ってなんだろう?

これがなかなかややこしい。

中村元『龍樹』によると、
「法(dharma)」の語源には「たもつ」という意味があり、
法とは「きまり」「軌範」「理法」というのが原義であるらしい。 

ところが、後世、伝統的に「もの」と解釈されるようになった。

なんで?ということになる。

また、立川武蔵『空の思想史』では、
のっけからダルマとダルミンの話になっているのだが、
ダルマが「法」、ダルミンが「有法」という説明がされている。

「紙」から色や形や重さをとりのぞくと、何が残るか。
で出した「基体」と「属性」の関係でいえば、
「属性」のほうが「法(ダルマ)」、
「基体」のほうが「有法(ダルミン)」。

「法」が「もの」ならば、基体のほうがダルマなんじゃないの?
と思いたくなるのだが、そうではないらしい。

つまり、「法=もの」と考えるのではなく、
「法=もののありかた」と考えるのがミソらしいのだ。

そして、説一切有部は「法有」を主張した。

それを攻撃したのが、ナーガールジュナ(龍樹)だった。

 2012.03.07 Wednesday 08:50 「空」の思想 permalink