予定変更
魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』第八章について書いていましたが、
ぱったり更新がとまってサクっと約2ヶ月。

続きのテキストを書きかけていたものの、
書き上げられず現在にいたります。

ちょっとこれはいったん封をしますです。

ちなみに、少し前に、
『アップデートする仏教』(藤田一照、山下良道)
をKindle版にて購入しました。
 2016.04.24 Sunday 13:53 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』第八章について(1)/「大乗」の奇妙さ
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

きょうとりあげる第八章はこの本の最終章であり、
「余談」として書かれたものなのだけれど、
「気軽に目を通していただきたい」
と書いてあるにも関わらず、
がっつり取り組むことになった。

というのも、自分のテーマと並行して
考え始めてしまったので。

自分のテーマというのは、
例の「縁起」のこと

といっても、
『仏教思想のゼロポイント』の第八章に
縁起解釈の変遷の話は出てこない。

なので、先日までは、ここをひととおり読んだあと
別の文献で「縁起」について検討するつもりでいた。

しかし、ゴータマ・ブッダ入滅後の
仏教史を考える視点として、
何かヒントが含まれているのではないか…
含まれているといいな…
と思いながら読み始めたら、
「気軽に」読めなくなったしだい。

というわけで、第八章だけで
連続記事を書くことになりました。

◆◆◆

魚川さんは仏教の勉強をはじめた頃、
いわゆる「大乗」の徒が、
なぜ「仏教」を称する必要があるのかが
わからなかったとのこと。

入門書を読み、研究書を読み、
そして直接に大乗経典を読んでみると、
そこに説かれている教えは、
ゴータマ・ブッダの直説を最もよく伝えるとされる、
いわゆる「初期経典」の教えとは少なからず乖離しており、
場合によっては、それと矛盾しているようにすら思えたから。

例としてあげられているのは、
ゴータマ・ブッダの臨終のシーン、
『大パリニッバーナ経』。

比較されている大乗経典は『法華経』。

簡単にいうと、『法華経』においては、
ゴータマ・ブッダの入滅(般涅槃)は
方便に過ぎないとされているらしい。
(つまり、亡くなったのではなく、
 常にこの世に存在していて、
 説法を続けているのだということにされる)

魚川さんは、このような『法華経』の説が
「無価値」であるとか「間違っている」といった
判断を下したいわけではない。

「このようにアクロバティックな解釈を仏滅に施すくらいなら、
 『久遠実成(ルビ:くおんじつじょう)』の神なり教祖なりを
 別に立てる異宗教をはじめたほうがよさそうなのに、
 この人たちはなぜそうしなかったのか」

ということがわからなかった、ということなのだ。

そうなると読み比べたくなるのが
松岡正剛・千夜千冊の1300夜。

 梵漢和対照・現代語訳『法華経』上・下
 http://1000ya.isis.ne.jp/1300.html

先に縁起のことに触れておくと、
千夜千冊に出てくる「縁起」は、
どれもこれも「相互依存」の意味あいを帯びていて、
私はすっかり困ってしまっている。

何しろこれまで千夜千冊にはたびたびお世話になってきたし、
松岡正剛さんの文章も好きだし、信頼しているので。

たとえば上記リンク先ではこんな具合なのだ↓
ブッダが空じた「空」というものを、ブッダが示した世界との相互関係である「縁起」としてどのようにうけとめるか、それを法華経が登場させた菩薩行によって決着をつけなければならなかったからである、と

ブッダの段階から、
「縁起」は「世界との相互関係」
であったかのように読める。

実際、中村元『インド古代史』の段階から
そうなっているのだ。(と私には読める)

しかしそこは松岡正剛さん、何か筋道があるのだろう、
私がわかっていないことがあるのだろうと思いつつ、
他の文献もあわせながら考えているところ。

「縁起」のことをひとまずおいておくと、
千夜千冊の『法華経』の中盤で書いてあることは、
『仏教思想のゼロポイント』の第八章で書いてあることと、
内容として齟齬はない。

しかし、印象は正反対。

ちなみに、もともと正剛さんにも、
こんな疑問はあったようなのだ↓
なぜ悟りきった如来にならないで、あえて菩薩にとどまっているのか。そこにどうして「利他行」(りたぎょう)というものが発生するのか。そこがいまひとつ得心できていなかった。

しかし、そのあとの展開がまったく違う。
(追記:結論がまったく違うとはいえないかもしれないが、
 少なくともテンションは違う)

正剛さんは、法華経の構成の妙に
いたく感嘆されている。

それは、経典を読むときにおいても、
つねに「編集」という視点を携えている、
松岡正剛さんの読み方によるところが大きいのだろうか。

思うに、松岡正剛さんは、
『法華経』のアクロバットを
「面白がれた」のだと思う。

一方、魚川さんにとっては疑問の種になった。

ということは結局どっちにしろ、
『法華経』はなんらかの解釈(の努力)を必要とする、
ということなのではなかろうか。

『仏教思想のゼロポイント』第八章には
“「大乗」の奇妙さ” という項目があるのだが、
その奇妙さとは、簡単に言えばこういうことになる。

現世における苦からの解脱という
自利を追求する阿羅漢ではなく、
一切衆生を広く救済する
自利・利他の完成者としての
ブッダとなることを究極的な目標とし、
自らをその過程にある菩薩として
位置づけることをその本懐としていること。

なぜ「大乗」の徒は、
あくまで「仏教」の枠内において、
自己の立場を確立しようとしたのか。

ということを考えるためには
第七章をおさえておかねばならず、
今回ブログではほとんどとりあげていないので、
どうしたものかと迷っているのだが、
少なくとも魚川さんがいうところの
「物語の世界」という言葉の意味については
わかっておかなくてはならない。

そのうえで、第八章のタイトルにも使われている
「本来性」と「現実性」という言葉について
考えていこうと思う。

(つづく)

※ 引用部分以外は本の言葉を使いながらも私なりにまとめています。
※ 間違いに気づいたときにはそのつど訂正させていただきます。
※ 縁起についての現段階での要確認事項をnoteでまとめております↓

 「縁起」についてのメモ
 2016.02.26 Friday 10:59 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
「無我」と「自由」について
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆

 「無我」と「自由」

というのは第四章のなかの項目なのだが、
まずは第二章の「無我」から見ていくことにする。

無我(anattan)というのは、

 己の所有物ではなく、
 己自身ではなく、
 己の本体ではない

ということ。

そして「所有物でも本体でもない」
ということに含意されるのは、

 己の支配下にはなく、
 コントロールできない

ということ。

ただ、そうは言っても私たちは、
ふだん自分自身のことを
「自由な行為者」であると
何とはなしに感じていることが多い。

少なくとも自分の行為については
コントロールしているし、
ちゃんと思いどおりに振舞っているはずだ、と。

ここで魚川さんは、カントの
「(実践的)自由」と「傾向性」
の話を出しておられる。

感覚に依存した欲求に
そのまましたがって行為することは、
単に人間の「傾向性」に引きずられているだけの
他律的な状態に過ぎず、
「自由」とは呼べないという話。

例えば「カレーが食べたい」とか
「あの異性とデートをしたい」とか、
そういった欲求・衝動に
「思いどおり」にしたがうことを
私たちは「自由」であると思いなしがちだけれども、
それは「自由」とは呼べない。

心にふと浮かんできた欲望に、
抵抗できずに隷属してしまうことだから。
(※話の順序を変えて我流にまとめています)

仏教においても基本的には同様に考えるわけだけれども、
ここから第四章の“「無我」と「自由」”に移ると、
まず、「自由」というのは、
それを行使する「主体」が存在しなければ
意味を持たない概念ということの確認がなされる。

そして、マッカリ・ゴーサーラという
自由思想家の話が出てくる。
ゴータマ・ブッダの時代の人で、
仏教用語でいう「六師外道」の一人であるらしい。
(アージーヴィカ教の開祖)

マッカリ・ゴーサーラは、
衆生は定まった業の果報が尽きるまで輪廻を続け、
その浄化の過程が終われば苦の終極に至るという
決定論を説いたとされているとのこと。

仏教も「全ては無我であり縁生だ」とするのであれば、
上記の世界観と区別がつけにくくなる。

では、そのような決定論と仏教では何が違うのか、
ということを解釈するにあたり、
魚川さんいわく、
我(主体)の絶対的・実体的な意味での
存在については「無記」であった、
ゴーダマ・ブッダの態度が効いてくると思う、と。

「無記(avyākata)」というのは、
回答されないこと・明記されないこと。

具体的には四種類・十項目あるらしく(十無記)、

「世界は時間的に常在であるか」とか
「世界は空間的に有限であるか」とか
「霊魂と身体は同一であるか」とか
「如来は死後に存在するか」とか
「如来は死後に存在しかつ存在しないか」

といったような「形而上学的な」問いが並んでいる。

こうした問いは、世界(loka)の中で
縁生の現象をどれほど観察したところで
答えの出しようがない。

こういうことを
弟子や異教の徒(外道)から質問された時には、
ゴータマ・ブッダは回答を与えず、
代わりに苦の滅尽と涅槃に導く、
四諦の教えを説くのが常であったそう。

で、「無我」と「自由」の話にもどると、
「この現象の世界(loka)の中のどこを探しても、
実体我だと言えるものは見つかりませんよね」
というのがゴータマ・ブッダの言う
無我(anattan)の意味であり、
その現象の世界を超えたところ(lokuttara)に
我が存在するかどうかについては、
ゴータマ・ブッダは黙して語ることがなかった。

人間が自由であるかどうかという問題についても
「そうだ」と言うことは不可能だが、
「そうでない」と言い切ることも不可能。

つまり、「自由」という問題についても、
他の形而上学的な問題と同様に、
仏教者は「無記」の態度を保つしかない。
(ちなみにこれについての「註」で、
またカントが出てきている)
 マッカリ・ゴーサーラが「決定されている」と言い切った自由と必然の問題については「無記」を堅持し、敢えて悪く言えばそこを曖昧にしたままで、「そんなことより喫緊の課題である苦からの解脱のために精進しなさい」と言って、実践的な自由は実質的に認めてしまうというのが、ゴータマ・ブッダのこの問題に対する態度であった。
(p.105)


(つづく)

※ 間違いに気づいたときにはそのつど訂正させていただきます。
 2016.02.19 Friday 14:25 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
解脱の達成が瞬間的であることについて
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆
 
縁起についての疑問は膨らむ一方だが、
これについてさらに考えるためには
別の文献にうつったほうがよさそうなので、
ひとまず(メインテーマとしての)縁起はおいておいて
『仏教思想のゼロポイント』から
他のことについてもう少し見ていくことにする。

きょうとりあげるのは第六章、
解脱と涅槃について述べた中心の章のなかから、
ゴータマ・ブッダの仏教における「悟り」は
推論や思考の進行の結果として
徐々に到達される概念的分別知ではないという話。

それは瞬時に起こる決定的な実存のあり方の転換であり、
「直覚知」という言葉で表されている。

その傍証として、2人の仏弟子の伝が示される。

まずはアーナンダ。
詳しいことは省略してその瞬間だけを抜き出すと、
アーナンダが解脱したのは、
とある結集の前夜を過ごした早暁のことだった。

気づきの実践を行ってその一夜を過ごしたものの
解脱には至らなかったアーナンダは、
「横になろう」と身体を傾けたその瞬間、
「頭が枕に達せず、足が地を離れない」あいだに解脱した。

もうひとりはシーハー比丘尼。
出家したものの欲情に悩まされて
心の平静を得ることができず、
昼となく夜となく苦しみ続けたシーハー比丘。

それでも涅槃に至ることができないので
これ以上生きていても仕方がないと感じた彼女は、
縄を手にして林に入り、首を吊って死のうとした。

その覚悟をもって縄を首に投げかけた瞬間に
彼女の心は解脱した。

長年「理性」も「意志」も動員して、
必死で手に入れようとしてきたものが、
その努力を手放した瞬間に得られてしまう。

という話を聞くと、
私はまたまた数学者・岡潔の
『春宵十話』を思い出すのだった。
http://math.artet.net/?eid=1422184

たとえば数学のテスト中に、
答案を書き終ってからも間違ってないかどうか
十分に確かめた上に確かめて、
これでよいと思って出したのに、
出して一歩教室を出たとたんに
「しまった。あそこを間違えた」と気づき、
しおしおと家路につく。

たいていの人はそんな経験がおありでしょうと
岡潔は書いているが、
私にも(テストではないが)そのような経験があるし、
実際、多くの人が経験していることなのではないかと思う。

また、先ほどのアーナンダの話のところでは、
「 このように高度な緊張と絶望を経て、
それが緩んだ瞬間に決定的な経験をするというのは、
例えば禅の実践などを行ったことのある人には、
おなじみのことであると思う」
と魚川さんは書いておられる。

岡潔の表現で言えば、
私たちが純一無雑に努力した結果、
真情によく澄んだ一瞬ができ、
時を同じくしてそこに智力の光が射した、
ということになる。

もちろん、数学上の発見はそのまま「解脱」ではないが、
なにか通じるものがあるのではなかろうか。

実際、岡潔は別のところで、仏教用語を借用するとして
無差別智ということばを出してきている。
(『春宵十話』p.84)

(つづく)

※ 間違いに気づいたときには、そのつど訂正させていただきます。
 2016.02.17 Wednesday 11:34 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
訂正:時間軸→時間論
先ほど公開した

「何」が輪廻するのか、という問題の立て方 

において、末尾で引用した別の本の記述で一部間違いがありました。
「時間論」とすべきところを「時間軸」としている箇所がありました。
お詫びして、訂正させていただきます。(元記事は訂正済みです)
 2016.02.15 Monday 09:47 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
「何」が輪廻するのか、という問題の立て方
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆

 「何」が輪廻するのか

という問いは、
第四章のなかのひとつの項目なのだが、
それだけで何かはっとさせられるような、
何かわかってしまいそうになるような、
そんな問いだと私は感じた。

なお、先に書いてしまうと、厳密に言えば、
「何が輪廻しているのか」という問題の立て方は、
仏教の文脈からすれば、
そもそもカテゴリーエラーの問いである、
ということになるらしい。

もしかするとそのエラーによる "ずれ” が、
かえってハッとさせるのかもしれない。

“「何」が輪廻するのか” の前には、
“無我だからこそ輪廻する” という項目があり、
ここがとても面白かった。

明治生まれの仏教学者である木村泰賢の
図式を使った説明が書いてある。

本とまったく同じ表記ではないが、
その意味するところがわかるように再現してみると、
次のようになる。

A ― A’ ― A’’ ー A’’’ ― An … anB ― B’ ― B’’ ― B’’’ ― Bn …
bnC ― C’ ― C’’ ― C’’’ ― Cn … cnD …… dnE …

A、B、C、D、Eは、
木村泰賢の用語でいえば「五蘊所成の模型的生命」、
魚川さんの言葉で言えば、その少し前で解説してある
「認知のまとまり」もしくは「経験我」()に当たるもの。

例えば「太郎」という名前の人がいたとする。
太郎は誕生時から死没時まで常に変化を続けていて、
そこに固定的な実体は存在しないのだが、
いちおうその「変化する認知のまとまり」を、
仮に「太郎」と一貫して名付けておくということ。
(図式のAあるいはBなど)

A ― A’ ― A’’ ― A’’’ ― Anというのは、
Aの時系列にしたがった変化。
(本では、nはAの右肩に小さく示されている)

そのように変化し続けるAは、
ある時点(An)で死を迎える。
そこで起こるのが転生で、
図式の「…」はそれを示している。

anというのは、Aの「経験的積聚」、
即ちAの積み重ねてきた行為(業)の結果。

Aの転生でBという新しい五蘊の仮和合を得たとすると、
Bの形はAと大いに相違しているようではあるけれども、
anが潜勢力としてはたらいている。

そしてそのBという認知のまとまりが、
また刹那ごとの変化を続けていく。

以下同様に、B→C→D→E…と
輪廻転生の過程が続いていく。

木村泰賢は、この飛躍を挟んだ変化の過程を
「蚕の変化」に喩えているらしい。

こういう話になると、私は
郡司ペギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』
を思い出すのだった。
 
「小学生が中学生になる」の誤謬は、しかし、具体的な個体、たとえば「信夫」を持ち出すことで解消される。小学生だった信夫が中学生になる。こう考えれば、何かが消え、何かが現れるといった不連続性は解消される。小学生、中学生は様相となり、これらを被る「信夫」によって同一性は担保される。
(郡司ペギオ-幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』p.111)


この本はかなり読みにくくて難しい本なので
とてもオススメとは言えないのだが、
私自身は買ってよかったと思っているし、
いつかこの本が読み込めるようになりたいと思っている。

その面白さの“予感”をお伝えすべく、
(そして、この記事で、この本を紹介したくなった
 その気持ちの理由をお伝えしたく)
最終章の最後の文章を引用したいのだけれど、
なにしろ締めくくりの文章なので、迷った。

この手の本にネタバレというものはないかもしれないが、
(ネタがあるとしたら結末よりそこにいたるプロセスだろうから)
その人なりの読み方というものはあると思うのです

それを邪魔してしまうのはたいへん心苦しいのです。
ので、迷ったのですが・・・

この引用部分を読んだために
読む意味がなくなる本ではまったくないので、
(逆に、ここがすごく面白いと感じられても、
 本全体が面白いという保証も
 まったくされない本です、はい)
末尾で引用することにしました。


ちなみに私は、

 「わたし」には現在しか許されない。

という一文につかまって、この本を買いました。


どんな本かのぞいてみたい方は、
数学教育ブログで78もの関連記事を書いているので、
そちらをどうぞ〜
http://math.artet.net/?cid=60283

ここをのぞいて、面白そう!と思われた方は
末尾の引用部分は読まずに
まずは本を読んでくださいませ!!

「読む必要なし」と即断された方は、
末尾の引用部分をどうぞ。

もうひとつ書いておきますれば、
ここを引用したいと思ったのは、
一法庵の鼎談を聴いたことも影響しています。
http://www.onedhamma.com/?p=5136
関連資料:https://note.mu/neetbuddhist/n/nfa09cfd806ae

(つづく)

※ 間違いに気づいたときにはそのつど訂正させていただきます。

※ 引用はこの先です。

     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
     ↓
 
 もちろん、時間が「わたし」からもたらされるわけではない。時間の議論を通して、主観的時間を作り出す「わたし」やわたしの意志、自発性は、脱構築され、「わたし」は解体を内在した形でしかもはや認めることはできないからだ。わたしの意志の中に、世界性、外部を経由した公共性が浸潤する。我々は、「わたし」の開設を、時間(=時間論)を通して実感し、主観・客観の相対性と同時に区別の実行性を、時間(=時間論)を通して肉体的に理解することになる。
(郡司ペギオ幸夫『時間の正体 デジャブ・因果論・量子論』p.251)
 2016.02.15 Monday 09:33 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
勘違いした「縁起」も「無我」につながり、さらに非常にややこしいことになってきた
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆

前回、自分は縁起を勘違いしていたかもしれない、
あるいは何もわかっていなかったかもしれない、
ということについて書いた。

一方、だいぶ前に、
ブッダは「自己」の存在を否定してはいないらしい
という記事を書いている。

当時は縁起につなげてはいないが、
縁起を勘違いしたままでも、
あの話は納得できるものだといまでも思う。

それどころか、
『仏教思想のゼロポイント』の終盤で書いてあることでさえ、
縁起を勘違いしたまま解釈できる、
下手すればそちらのほうが都合がいいとさえ
感じられてくるので、
ますます「えらいこっちゃ」状態。

まずは『仏教思想のゼロポイント』にしたがって、
無我の話と、ブッダが「自己」を否定していない話が
縁起とどうつながるのかをみていくことにする。

(きわめておおまかに我流でまとめていきます。
 今後読み込むうちに誤読に気づいたり、
 考えが変わったりしたら、
 そのつど訂正させていただきます)

ゴータマ・ブッダの仏教において目指されていることは、
衆生を迷いの生存状態にある現象の世界から、
迷いから脱した風光へと移行させることであり、
その手段は、
縁起の法則によって形成された苦なる現状について、
その原因や条件を徹見し、
それを消滅させること。(p.48〜49より)

その「苦」の意味するところは何かというと、「不満足」。
より根源的には「不満足に終わりがないこと」。

縁起によって形成された諸現象は無常であり、
そうした現象に依存した欲望の追求は、
常に不満足に終わるしかない。(p.52より)

(ここに輪廻転生の世界観が関わってきますが、
 いまは触れずにおきます)

不満足というのは、言い換えれば
「思いどおりにはならない」ということであり、
そのように己の支配下になく、コントロールできず、
思いどおりにならないものは、
私の本体でも所有物でもない。(p.53より)

全ての現象は原因・条件によって生じた一時的なものであり、
そこに実体は存在しない。
だからこそ、それらは「無我」である。
ゆえに、「無我」というのも、無常や苦と同じく
縁起という現象の根源的な性質の、
別の表現の一つに過ぎない。(p.55より)

(このあと「業」の話に入っていきますが、
 いまは脇においておきます)

(「四諦」もいまは省略します。
 渇愛の滅尽の話が出てきます)

というのが第二章の続きであり、
続く第三章(仏教における善と悪について述べた章)をとばして、
第四章に入る。

第四章は「無我」と輪廻の話なのだが、
「無我」に的をしぼって読んでいく。

「無我」というときに、
否定されているのは「常一主宰」の「実体我」。

常住であり、単一であり、
主としてコントロールする権能を有する(主宰する)もの。
(p.81より)

(断見・常見、無記についても省略します。
 「無記」というのはつくづく大事なことだと
 あらためて思いました。)

そのような常一主宰の実体我は否定されるが、
ブッダは経験我については必ずしも否定していない。

その否定していない経験我、
「自己を頼れ」という場合の「自己」とは
いったいどのようなものなのか。

それは縁起の法則にしたがって生成消滅を繰り返す諸要素の
一時的な(仮の)和合によって形成され、
そこで感官からの情報が認知されることによって
経験が成立する、ある流動し続ける場のこと。
 
 仏教に対するよくある誤解の一つとして、「悟り」とは「無我」に目覚めることなのだから、それを達成した人には「私」がなくなって、世界と一つになってしまうのだ、というものがある。だが、実際にはそんなことは起こらない。
(p.90)


ここまで読んでみて思うことは、
やっぱり勘違いしたままの「縁起」でも、
以上の話は成立するし、
十分理解できてしまうなぁ、ということ。

前回、自分の縁起の誤解がどこからきたのかたどったとき、
そのもとはつかめなかったけれど、
検索するうちにインタービーイングという言葉を
意識するようになった。

たとえばこんなページがある↓
http://interbe.info/

ティク・ナット・ハンさんの文献そのものを読んでいないので
いつか直接確認しなければと思っているが、
少なくとも松岡正剛さんは、インタービーイングを
「古典的な仏教用語でいうところの縁起」
と同義に考えておられると私には読めた。

ティク・ナット・ハン『禅への鍵』
http://1000ya.isis.ne.jp/0275.html

実際、ティク・ナット・ハンさんの
「一枚の紙に雲を見る」の言葉を、

 すべてはつながりあっている、
 あれがあるからこれがある、
 これがあるからそれがある、
 その連鎖のなかに私たちはいる、
 私たちはともにいる

と解釈すれば、
とても「縁起」っぽくなりはしないだろうか。

それぞれが「縁りて起こること」だから。

そして、ここでいうところの「つながり」は、
つい先日まで私が誤解していた(かもしれない)ように、
肯定しても不思議はないものであり、
受容したくなるものであり、
“何かいいもの"とまではいかなくても、
世界はそうなっている、その世界に私はいる、
というイメージにつながるものだと思う。

で、前回、気を遣って書名を出すことを控えたが、
どちらが正しいとか正しくないとかいう話ではないので、
やはり書名を出して引用しておくことにすると、
1冊だけ私の誤解につながりやすい記述を見つけたというのは、
小池龍之介『考えない練習』第2章の次の部分だった。
 
 誰かとの会話の声にしろ、会議の声にしろ、鳥や風の音にしろ、「聞くこと」がその場面だけで独立し、完結していると考えることは賢明ではありません。仏道では、物ごとはすべて因縁によって時間の流れを通じて結び合っており、影響し合っているからこそ、寄り合って起こるのだと考えています。それが「縁起」というものです。
 ですから、恋人としっかりとコミュニケーションがとりたいのであれば、職場の方々の話にもしっかりと耳を傾けること。
(小池龍之介『考えない練習』p.76)

実は『仏教思想のゼロポイント』の前半を読みながら、
私がいちばん思い出したのはこの本だった。

小池龍之介さんは初期仏教の人という印象があったし、
生活のなかでの実践を語った本なので、
それもおかしくない話だと思っていた。

なのに、縁起が違う。
(前後を省いてここだけで判断するわけにもいかないが)

さらに記憶をたどるにつけ、
柳澤桂子『生きて死ぬ智慧』を読んだとき、
私はこんな記事を数学教育ブログに書いている。↓

ものを一元的にみるということ

また、鈴木健『なめらかな社会とその敵』を読んだとき、
そのラスト近くで
「本書が目指すところは,仏教哲学のひとつの実装形態と
いっても過言ではないのかもしれない」
と書いてあるのを読んでしっくりきたこともある。↓

鈴木健『なめらかな社会とその敵』を
教育関係者に読んでほしいと思う理由

ここに縁起の話は出てこないが、
私が誤解していた縁起のもとに理解することはできる。

このように縁起を"何かいいもの”と考えても、
「無我」の発想につながるし、
実体我を否定して経験我は必ずしも否定しない、
という考えにつなげられると思うのだ。

それどころか、さらに困った事態が待っていた。

『仏教思想のゼロポイント』のメインテーマである
解脱・涅槃とは何かについての第六章のあと、
ゴータマ・ブッダは「悟った」後、
なぜ死ななかったか、それがなぜ問題なのか、
というところから始まる第七章に入っていく。

そして、意味の判断も無意味の判断も失効したところから、
衆生への利他のはたらきかけを行おうとする人々の
心象はいかなるものであるのか、
について述べたところがある。

それを簡潔に表現するならば、
「遊び」と言うのが適切であると思う、と。

ここで「公共物」という言葉が出てくるのだ。
 無為の涅槃の覚知によって、渇愛から離れた眼で現象を眺めた時に、誰が教えるということもなく、ただ明瞭に自知されることが一つある。それは、いま・ここに存在している、「私」と呼ばれるこのまとまりが、他の全ての現象と同様に、一つの「公共物」であるということだ。
「公共物」という言い方が、正しいかどうかわからない。「私」と呼ばれる、継起する現象のまとまりは、「私のもの」ではないけれども、他の誰かのものでもないし、ましてや「みんなのもの」でもない。花が花のようにあるように、山が山のようにあるように、石が石のようにあるように、「私」はただそのように(tathā)ある。そこには意味も無意味もない。
(p.173/太字は傍点付き)

私は最初 tathā を tanhā と見間違えて
びっくりしてしまった。
「t」が「n」になるとタンハーつまり渇愛となり、
「どゆこと???」となってしまうからだ。

で、上記の「公共物」としての「私」、つまり、
いま・ここに存在している「私」と呼ばれるまとまりは、
先ほどの「経験我」といったい何がちがうのだろう??
という素朴な疑問がわいてしまうのだ。

もっといえば、この「公共物である私」を、
相互共存としての「縁起」で考えると、
とてもしっくりきてしまわないだろうか・・・
という大きな懸念が生じてしまう。

わたしはわたしだけで独立して存在してはおらず、
すべてはつながっている、
そんなわたしもあなたもすべては公共物、
という文脈で。


いったいここをどう考えればいいのだろう・・・


というわけで、ひきつづき大いに困っている。
困っているけど苦痛ではない。
むしろ久しぶりに楽しい、面白い。
(日常生活は苦の連続なのに!)

なお、「ただそのように」で私が思い出したのは、
岡潔『春宵十話』の「はしがき」だった。
私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。

(つづけざるを得ない)

※ もろもろ間違いに気づいたときにはそのつど訂正させていただきます。
 2016.02.11 Thursday 15:29 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
縁起とはなんであり、私は何をどう勘違いしていたのか、あるいは勘違いしていないのか。
『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)
を読んでいる。

◆◆◆

あらためて考えてみれば、
私は「縁起」について理解が十分でなかったどころか、
ほとんど何もわかっていなかった。

「縁起がいい」の「縁起」ではないとは思っていたが、
それ以外は「縁」と「起」からくる漠然としたイメージで
この言葉を使ってしまっていたと思う。

実際、『仏教思想のゼロポイント』によると、
「縁起」は「縁起」の字義どおりにとらえればいいらしい。

そうなると意味自体は間違っていないことになるが、
何かが決定的に違う。圧倒的に違う。

たとえばこのブログにおいて、
私は「縁起」という言葉を使って
こんな表現をしている↓
 
だけど、Twitterをだらだらと読んでいるときに、
なんというのか、いまはまだうまく表現できないのだが、
「縁起」を人為的に崩してはいないだろうか…
というような、かすかな不安を感じることがある。
http://sukkiri.artet.net/?eid=1407697

「縁起」というものを、
何か “いいもの” のように捉えている。
いいものが言いすぎだとしたら、
「肯定的で、受容している」
と言えばいいかもしれない。

もしかしたら、
「なくては困るもの」
とさえ考えているかもしれない。

先ほど書いたように、
『仏教思想のゼロポイント』によると、
縁起は「縁(よ)りて起こること」という字義どおり、
「原因(条件)があって生起すること」という、
基本的にはそれだけの意味であるらしい。(p.47より)

そのシンプルな縁起の説が
仏教においてはなぜこれほどまでに
重要視されるのかというと、
この縁起の法則が、私たち衆生の迷いの
生存状態・苦の現状を形成している法則であるから…
ということらしいのだ。

ゆえにそのはたらきをありのままに見て、
私たちを現状に至らしめている原因・条件(因縁)を
消滅させることができれば、
私たちは苦であるところの迷いの生存状態から
脱却する(解脱する)ことができるからである、と。(p.48より)

ではその「苦」とは何か・・・
と話は続いていくのだが、
ひとまずこの本を閉じて、
さらに「縁起」について考えることにする。

なぜ私は「縁起」を“何かいいもの”のように
捉えるようになったのだろう。

その手がかりが知りたくて、
家にある仏教関係の本をぱらぱらめくってみた。

そうしたところ、1冊だけ、
私の誤解につながりやすい記述を見つけたが、
それをまるまる飲み込んだ記憶はなく、
むしろ保留にした覚えがあるので、
この本の影響ということはなさそう。

それ以外の本では、
「縁起」を"いいもの”につなげられないし、
むしろ今回気づいた「縁起」に近い。

『ブッダの人と思想』(中村元・田辺祥二)では、
「縁起の観想」という項目があるし、
『わかる仏教史』(宮元啓一)でも、
縁起の順観と縁起の逆観が簡単に説明してある。

そこに「いいもの」のイメージはない。
いや、「大きな手がかり」という意味では
「いいもの」なのだが、
それそのものが「いいもの」とは感じられない。

なお、先に引用したこのブログの記事内で、
私は松岡正剛・千夜千冊から2つのページをリンクしている。

ティク・ナット・ハン『禅への鍵』
http://1000ya.isis.ne.jp/0275.html

立川武蔵『空の思想史』
http://1000ya.isis.ne.jp/0846.html

前者では相互依存的存在という言葉に関して縁起が出てきており、
こうなると「ちょっといいもの」の雰囲気を
私が感じてもおかしくはないという気がしてくる。

後者の記述からも同じことを感じる。

 ちなみに立川武蔵『空の思想史』は手元にあるが、
 いまださっぱり読み込めず。
 中村元『龍樹』しかり。

そして、自分の「縁起」のイメージにいちばん近いのが
玄侑宗久さんのインタビュー記事にある次の言葉だった。
http://genyu-sokyu.com/intervew/04_13.html
お釈迦様の説いた縁起は、因果律と共時性(偶然の一致)を、縦糸と横糸のように両方含んでいる。

しかしあらためて考えたら、
これも「縁起」を"いいもの"とする記述ではない。

私は何をどう勘違いしてしまったのだろう。

総合して考えるに、たぶん私のなかに
「縁起をこんなふうに考えたい」
という願いが先にあって、
その願いのもとにいろんな言葉を解釈したり、
聞く耳をもたずにこれまできてしまったのかもしれない。

また、仏教思想において「縁起」はとても重視されており、
それがいつしか「深遠なもの」として私のなかに蓄積し、
「深遠なもの=いいもの」になったのかもしれない。

とはいえ、相互依存、インタービーイングとからめて検索をかけると、
なんとなく、「縁起」をいいもののようにとらえている記述が
見当たらないわけではない。

ただし、私はティク・ナット・ハンの本は読んでいないし、
インタービーイングという言葉も
これまで意識したことはなかったので、
ここが出所ということもなさそう。

うむ・・・。

ちなみに『仏教思想のゼロポイント』では、
先の「縁りて起こること」の説明のあと、
 そして、とくにゴータマ・ブッダの仏教について考える際には、縁起を常にこの原義から把握しておくのが、おそらくはいちばん誤りが少ない。
(p.47〜48)

と書いてある。
 

(つづけざるを得ない)
 2016.02.09 Tuesday 17:53 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
えらいこっちゃ/魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』
(魚川祐司著/新潮社/2015年)

◆◆◆

読み始めていきなり引き込まれてしまった。
「面白い! 仏教ってわかっていいんじゃん!」
そう思った。

この時点で「わかった」わけではなく、
「わかっていいんだ!」と思えたそのことが
まず新鮮だった。

そしてひととおりざっと目を通した。

興奮がおさまってきて、
2回めにページをめくっている今、
えらいことなってしまった…と感じている。

自分がWeb上に書いたもので、
「縁起」という言葉をメインに使ったテキストに、
訂正の文章を入れなければならない。
「すみません、ものすごく勘違いしていました」と。

しかし訂正するには、
「では何をどう勘違いしていたか」
ということをある程度書くのが筋だと思う。

それができそうにないのだ。

言葉の意味を間違っていたのなら
間違ってましたと書けばいいのだけれど、
私が勘違いしていたのは、
そういうレベルのことではなさそう。

困った。

どうしよう。

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はじめに
前提と凡例

第一章 絶対にごまかしてはいけないこと―仏教の「方向」
第二章 仏教の基本構造―縁起と四諦
第三章 「脱善悪」の倫理―仏教における善と悪
第四章 「ある」とも「ない」とも言われないままに―「無我」と輪廻
第五章 「世界」の終わり―現法涅槃とそこへの道
第六章 仏教思想のゼロポイント―解脱・涅槃とは何か
第七章 智慧と慈悲―なぜ死ななかったのか
第八章 「本来性」と「現実性」の狭間で―その後の話

おわりに
あとがき

索引


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この本は、丁寧で細やかでありながら、
大きな柱を立てつつ、
仏教とはなんであるかをわかりやすく説明してくれる。

章タイトルからわかるように、
メインテーマは後半にあるが、
私にとってはまず前半がすごすぎて、
まだそこで気持ちがいっぱいいっぱい。

特に第二章と第四章は
自分のために書かれたのかと思うほど。

1回目に読んだとき、
私は「縁起」を難しく考えすぎていたと思った。

ちょうど数学教育ブログのほうで
『圏論の歩き方』という本を読んでいて、
そのなかで「縁起」の話が出ていることを
とりあげたばかりだった。
『圏論の歩き方』第12章/見える矢印、見えない矢印

あのときには、
「こういう話で出される縁起とはこんなものだろう」
くらいに思っていたのだが、
基本的にはこの通りなのだと思いなおした。

第一章については、過去に読んだ本のおかげで、
仏教の「方向」を大きく勘違いしてはいなかったし、
ごまかしてもいないと自分で思えた。

なのに、「縁起」がちがう。

さらには、先の「方向」と、
この本が説明してくれる縁起や無我は、
辻褄があう。納得がいく。わかりやすい。

ということは逆に、
これまでの自分の考えは
辻褄があわなかったということになる。

問題は、なぜそれで気持ちわるくなかったのか、ということ。

まるで2つの別のものを扱うように、
仏教をとらえていたのに。

私はそもそも仏教というものを、
そうそうわかることなどない、
深遠なものと考えていたのだと思う。
というより、そう考えたかったのだと思う。

もちろん仏教が深遠であることにかわりはなく、
1冊の本ですべてがわかるはずもなく、
何につけすべてがわかるということなどないのだが、
腑に落ちるということはある。

腑に落ちそうないま、
腑に落ちていないどころか、
腑に落としたいものさえなかった自分を知り、
いったいどういうつもりだったのか、
思い出すこともできない。

たとえば先ほどリンクした数学の本でいえば、
第12章はともかく、他の章については
「わかんねー、わかんねー、わかんねーよ、
 何の話してるんだこの人たち〜〜」
と悶々とするのに、
仏教に対する悶々はなかった。

なんというのか、ハナから、
仏教の「深遠さ」「わからなさ」に
依存していたような気がする。
 
だけど、どうやら仏教って、
ある程度はわかることができそうなのだ。

どうしよう。

困った。

◆◆◆

というところまで書いて何度か読みなおすうち、
前半の「困った」の解決方法は少し見出せてきた。

「縁起」という"深遠な"言葉を使うことなく、
「ご縁」と書けばよかっただけのことなのだ、きっと。

ただ、はやまって訂正すると、
また困ったことになりそうな気がするので、
ぐっとこらえて、もう少し考えなくては。


(つづけざるを得ない)
 2016.02.08 Monday 14:42 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』 permalink  
2つ前の記事の訂正
2つ前の記事で年数を間違えていましたので、
年数に関わるところを訂正しました。↓
 
 2016.02.02 Tuesday 21:56 願いごと手帖 permalink